第10話 『橙の女神、微笑む』
それは、ある日突然、現れた。
花壇の一角。まだ陽も登りきらぬ時間、白詰草が微睡むその隣で、何かが静かに揺れていた。
目を引いたのは色だった。橙。淡く、儚く、どこか人目を引くその発色は、冬の庭に似つかわしくない。
「……え?」
白詰草は思わず目を擦った。夢でも見ているのかと思った。しかし、そこには確かに、花が咲いていた。
小さく、可憐な花弁。細くしなやかな茎。けれど、その足元には——
「周囲、全部……空いてる?」
他の草が生えていたはずの一角に、誰もいない。抜かれたわけでも、枯れたわけでもない。ただ、誰も近づこうとしなかったかのように、そこだけぽっかりと空白ができていた。
「こんにちは、白詰草さん」
その花が、こちらを向いて微笑んだような気がした。
声など、もちろん聞こえない。ただ、脳裏に直接語りかけられるような圧……言葉にできない“何か”を感じた。
「わたくし、ここがとても気に入りましたの」
穏やかで、優雅で、それでいてどこか不気味だった。
まるで人の言葉を真似して喋っているような、ぎこちない優しさ。
「……あなた、誰?」
思わず問いかけていた。白詰草の根が震えている。自分よりもずっと浅く、ずっと新しい根のはずなのに、なぜか“深い”と感じた。
「ナガミヒナゲシ。そう呼ばれているみたい」
ナガミヒナゲシ——その名を聞いた瞬間、白詰草の葉がビクリと動いた。どこかで聞いたことがある。
駆除対象。爆発的繁殖力。どこにでも種を飛ばし、根絶が難しい。
「ねぇ、静かでしょ? この庭……気に入っちゃったの。みんな、のんびりしてるし、余計な音もしない。わたくし、こういう場所が……好き」
その言葉に、白詰草は確信した。
この者は、狂っている。優しさの仮面をかぶったまま、狂気のままに根を広げる存在だ。
「あなたは……何をしに来たの?」
恐る恐る問うと、ナガミヒナゲシは小さく微笑んだ。
「ただ、咲きたいだけ。わたくし、咲きたいの。もっと……たくさん。ねぇ、知らない? この庭の、端から端まで、どれくらいあるのかしら?」
その問いは、無邪気な子どものようだった。けれどその無邪気さは、かえって恐ろしかった。
「咲きたい」だけ。だから拡がる。だから奪う。だから、何もかもを塗り替える。
「もう……誰か、来てる?」
ナガミヒナゲシが、ふと首を傾げた。
「え?」
「緑の……這うような気配。なんだか嫌な感じ。でも大丈夫。わたくし、踏まれない。立っていられるわ。だから、ちゃんと咲いていられるの」
彼女はクラピアの存在を感じ取っていた。だが怯えてはいない。それどころか、興味すらなさそうに、花弁を太陽に向けた。
——クラピアとナガミヒナゲシ。
——地を這う者と、立ち咲く者。
——支配と侵食。
——静かな戦火が、今、灯ろうとしている。
白詰草は、ほんのわずかに花を震わせた。
「この庭……どうなるのかしらね?」
ナガミヒナゲシが笑った。
その声は、風に乗って、どこまでも軽やかに響いた。けれどその軽さが、まるで命を嘲笑うかのように思えた。
彼女はまだ、ひとつしか咲いていない。
けれど——風が吹くたびに、種は飛ぶ。無数の子どもたちが、空へと舞い上がり、どこかに根を下ろす日が来るだろう。
春は、もうすぐそこだ。
《第10話 橙の女神、微笑む》
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