黒いクジラは『嫉妬』を知る
「黒いクジラの白いしぶき亭」の厨房では、クッキーの焼き上がる匂いがした。
甘い匂い。
竈の覗き穴からエイミーが中を見ている。
「おじちゃん、焼けた?」
「いい色だ。」
「うん!」
エイミーの瞳がキラキラになる。
(センセイに似ている。)
クッキーの鉄板を竈から出して、調理台に拡げる。
冷まさないと持ち帰れない。
冷めるのを待っているエイミーが踏み台に乗ってクッキーを見下ろしている。
「センセイもいっしょだったらよかったのにね!」
「そうだな。
でも、センセイ、お仕事なんだ。」
今日の非番、養護院からエイミーを連れてきてクジラ亭にいた。一緒にクッキーを焼く約束をしていたからだ。
看護師のジュリさんを通してエリー先生にも声をかけたが、『当直だ』とあっさり断られてしまった。
エイミーの里親がなかなか見つからないので、ルーエは経済的援助だけする後見人のようなことをしている。
ルーエが妻帯すればエイミーとの養子縁組も簡単だが、その妻帯が出来ない…。
「さあ、エイミー、もう帰る時間だ。
お土産に包んであげるからな。」
「わーい!」
両手を上げてエイミーが喜んだ。
(送っていくついでに、センセイのとこにも差し入れるかな。)
◇◇◇
養護院の夕食に間に合うようにエイミーを送って、ルーエは『治療院』の通用門をくぐった。
彼の持つ『王立』の身分証で『治療院』には入れるが、提示は形だけで『治療院』ではもう顔だけで中に通してもらえるようになっている。
副院長を務めるグラハム法医のところに出入りするだけでなく、小児科のエリー・ケリー医師の知り合いで、看護師たちにお菓子を差し入れてくれる「お菓子の騎士様」だからだ。
エイミーとお菓子を作ると『治療院』にもおすそ分けしている。
詰所の看護師たちがルーエを見て顔をほころばせた。
「こんばんは! ルーエさん!」
「センセイですか? 今日は当直ですよ!」
「ええ、聞いています。だからね、差し入れ。皆さんもどうぞ。」
ルーエが詰所に大きなクッキーの袋を置いた。
看護師たちがクッキーの袋を取り囲んで覗き込んだ。
「ああ! いい匂い!」
「うーん! おいしそう!」
「休憩の時間にね!」
「はーい! いつもありがとうございまーす!」
看護師たちが喜んでいるのを後ろにルーエは『治療院』の廊下を進む。
建物の中庭に面した場所に小児科がある。エリーの診察室だ。当直と言っても小児科は救急外来に一番近い所だから、彼女はここで待機しているはずだ。
この前、ルーエはエリーに醜態を見せた。
彼女は何も言わないがなんとなく避けられている気がしていた。
ルーエ自身もどんな姿をさらしたのか、それすら覚えていない酔っ払いだった。合わせる顔がない、と『治療院』から足が遠のく。
今夜はエイミーのクッキーを口実に、やっと訪ねてきたのだ。
(とにかく、謝ろう。)
クッキーの包みを腕に抱えて、小児科の戸を叩いた。
「失礼します! 『王立』のルーエです!」
返事がない。
もう一度、戸を叩く。
「失礼します!」
(留守かな? これで返事がなければ置いてくか。)
ルーエが包みを下ろそうとしたところで、診察室の戸が開いた。
「急患ですか!」
ヘイゼルの大きな瞳がのぞいていた。少しばかり茶黒い髪が乱れている。
「あ、」
ルーエが困った顔をした。まさか、こんなにあっさり顔を合わせると思わなかった。
「あ、…ルーエさん?」
エリー医師が乱れた髪を撫でつけて恥ずかしそうにした。
「すみません、診察簿を整理していて、気が付かなくて。」
「い、いえ。
自分も断りもなく直接お伺いして。」
「な、なにか?」
「…今日、エイミーとクッキーを焼いたので、皆さんにもおすそ分けをって。
詰所にも届けさせてもらいました。
これはセンセイに。エイミーが作った分も入ってます。」
「…あ、ありがとうございます。」
エリーが包みを受け取った。
「え、えっと…」ルーエが口ごもる。
そんなルーエにエリーが微笑んだ。
「いつもありがとうございます。
ルーエさんが作ってくださるお菓子、おいしいって評判なんですよ。
私も大好きです。嬉しいです。」
ルーエのほうがはにかんだ顔をする。
(そうだ、謝らなきゃ。)
「あの、センセイ…」
「エリー先生! 急患です!」
廊下の先から声がした。騒がしく人が動いている。
エリーがクッキーの袋をルーエに預けた。
素早く部屋を出て行く。
翻った白衣の姿が勇ましい。
見送ったルーエにまた笑みが浮かぶ。
(センセイ、かっこよすぎます!)
ルーエは、クッキーの袋を抱えて診察室の中に入った。
机の上には診察簿や本が散らかっている。
「戦場みたいだな。」苦笑が浮かぶ。
ルーエは、机の上の本を少し整えて、クッキーの袋をのせた。
ただ、机の上も診察台もあまりにも無造作に物がのせられている。
診察台の白衣は着替えたのか、脱いだままの形でのせられている。
これでは、診察台が使えない。白衣を取ると二、三度振って軽く袖畳みする。
「センセイって、お片付け、下手なのかな?」
また笑みが浮かぶ。
(ま、お姫様だしな。
んー、あまり、いじってはダメだな。)
片付けたい衝動を抑えてルーエが診察室を出た。
エリーが向かった救急の処置室の前には人が集まっている。
(運ばれてきたのかな。)
エリーの声が聞こえた。
「患者さんは?」
「七歳、女児。
食事中に苦しみだして、口の周りが腫れあがっています!」
担架に付き添った看護師が答える。
王都では、『王立』第一団が教育、厚生、労働などの市民生活を支えている。
『治療院』の運営も『王立』第一団の役目である。
王都の急患は『王立』の詰所にある救護馬車で『治療院』に運ばれてくる。
今の急患も救護馬車で運ばれてきたらしい。
エリーだけでなく別の医師や看護師たちも処置室に入っていった。
扉が閉められ、その中の音は聞こえなくなった。
処置室の前には、ルーエより年上だと思われる夫婦が立っていた。
急患は子供と言われていたから、その両親だろうか。
着ているものから貴族らしいと見えた。
(じろじろ見るもんじゃないな。)
ルーエは、目線を下に向けて立ち去ろうとしたとき、また扉が開いた。
「お母様ですか?
中へお入りください。」
看護師だった。夫人が彼女に促されて部屋の中に入っていった。夫が残されている。とても心配そうな顔をしている。
(あれ? どこかで?)
職業柄、人の顔はよく覚えている。
廊下の向こうの人物にも微かな引っかかりがあった。
思わず、じっと見たものだから、気づかれたようだ。
廊下の向こうの男がこちらを見た。
薄暗がりだが、男の表情に驚きが浮かんだ。ルーエも足が止まった。
男が小さく会釈した。
ルーエも会釈を返す。
男は、また心配そうな顔をして処置室の扉を見た。
処置室の音は外には聞こえない。夜の廊下は静かだった。
男がまた少し、こちらを見た。
(あ、)
ルーエも男の顔を見た。そして、静かに男の方へ歩み寄った。
姿勢を正して、頭を下げる。
「ザクリ以来でございます、ガーネット男爵様。」
「やはり、ロダン殿でしたか。
暗い中でしたが、髪の色がそうかと。」
「目立ちますよね、この白髪。」
ルーエに苦笑が浮かんだ。が、すぐ真顔になる。
「先程のお子様は男爵様の?」
「ええ。
娘の具合が悪くなり、ここへ運んでいただきました。」
「『治療院』のお医者様は優秀です。きっと、大丈夫です。」
ルーエが安心させるように言う。
「それに、エリー先生が中にいらっしゃいます。
心強いお医者様です。」
ガーネットがルーエの言葉に頷く。でも、表情は固い。
扉の向こうの音はやはり聞こえない。
静かな分だけ、不安も積もる。
「閣下は、ザクリにおいでるのでは?
ご旅行でございましたか?」
控えめにルーエが声をかけた。
「…王都に異動になりました。」
「え、じゃ、ご栄転?」
ガーネットの表情が少し緊張する。
「『近衛』は、事務方のような地味な仕事をする者がいなくて。
手が足りなくなると地方の騎士が呼ばれることが多いのです。」
「はあ…」
(『近衛』って、貴族様の警護が仕事だったっけ。事務方仕事ってのもあるんだ。)
「私の兄が事務方だったのですが、病気で職を辞し、代わりに私が引き継ぐことになりました。」
「…。
やはり、ご栄転じゃないですか。王都勤務だと、『近衛』の本部、王宮ですね。」
ガーネットが苦笑を浮かべた。
「田舎者には大変なところです。」
「…自分も南部出身なんで、王都は大変です。」
ルーエも苦笑を浮かべる。
そして、また静かになった。
ルーエは立ち去りがたく、ガーネット卿の側にいてしまった。
「ロダン殿は、どうしてここに?」
ガーネットが不意にルーエに問いかけた。
「ああ、護衛騎士でしたか。」
「…護衛騎士の任は解かれています。
どうぞ、ルーエと呼び捨ててください。『ロダン殿』なんて呼ばれる身じゃないです。」
「…。」
「今夜は、エリー先生に差し入れをお持ちして…
センセイにお世話になっている『養護院』の子供がいて、その子といっしょに焼き菓子を作りました。
おすそ分けでお届けにと。」
「貴方が?」
少し照れくさそうにルーエが笑顔を見せる。
「センセイは、おいしいものをお食べになると、眼がキラキラするんです。
小さな子供みたいに幸せそうに笑ってくださるので。
それがなんだか、自分もつられて嬉しく思ってしまって…。
つい、お菓子を作ってしまうんです。」
ルーエが恥ずかしそうな嬉しいような顔をする。
「貴方に…。
笑顔を見せられるのですか…。」
「え?ええ。
あ、申し訳ありません! 男爵様のご婚約者様でした。
そう先生からお聞きしていました!」
「その話は…」
「あ、申し訳ありません!
ガーネット様、ご結婚されていらっしゃいました!
ヘンなことを、申し訳ありません!」
ルーエが頭を下げた。
ガーネットが少し驚いた顔をする。そして真顔に戻る。
「あの方に、最後にお会いしたのは助け出されて、すぐのことでした。
・・・怯えてしまわれて、話すこともかないませんでした。
ずっと昔の話です。」
「…。」
「…小さな手が、
小さな手を私に伸ばされたのですが、」
ガーネットの表情がまた暗くなる。
「えーっと…?」
「私はその手を取ることが出来ませんでした。」
「?」
「…それで、婚約の破棄が決まりました。もう、その話は無かったのと同じです。」
「あ、」
「私も一昨年、結婚いたしました。
今では、家族を持つ身です。」
「ん? 一昨年って? お嬢様、大きいですよね?」
「娘は、妻の連れ子です。
妻は再婚で、私が男爵家を残すために養子に入りました。」
ガーネットが微かに笑みを見せた。
「でも…あのとき…、
彼女の手を取っていたらどうなっていただろうと考えたことが無かったとはいえません。」
(この人も、傷ついていた…?
でも、何か嫌だな。センセイと『縁が切れる』って言ったくせに。)
ルーエが一つ咳払いした。
「自分は…、
ガーネット様に『あのとき、手を取って』いただかなくてよかったと思います!」
「ルーエ君?」
「ガーネット様が、手を取られていたら、自分はエリー先生とお知り合いになれませんでした。
センセイのキラキラを見ることはかないませんでした。」
「…。」
「だから、ガーネット様は『後悔』って思っていらっしゃるかもしれませんが、俺にとっては『幸運』なんです。」
ルーエが笑顔を見せた。
「『幸運』を下さって、ありがとうございます!」
「君は、エリー嬢を『大切』に思っているのですね。」
「え?」
ガーネットが微笑みを見せた。
ルーエが少しどきまぎする。
処置室の扉が開いた。
エリー医師が姿を現した。
「お父様ですか?」
そう言ったエリーは、ガーネットの顔を見て固まった。
「…娘は、大丈夫なのでしょうか?」
ガーネットが心配そうに尋ねた。
エリーが動けなくなっている。
ルーエが白衣の袖を引っ張った。エリーが我に返る。
「は、はい。無事に処置は終わりました。
今夜は病室に移っていただき、一晩、様子を見ます。」
「原因は?」
「食べ物の相性が悪かったようです。倒れる前に『そば粉』を使ったお料理を召し上がったということでしたので、その『そば粉』が原因かと思われます。
『そば粉』が原因で運ばれる子供も少なくありません。
子供のうちは、食べ物が身体に合わなくて、具合が悪くなることもあるのです。
状態がよくなったら食物の検査をしてみましょう。」
「『そば粉』… ガレットか…」ルーエが呟く。
「そうでしたか…。
『そば粉』の料理は初めてで、注意をしていませんでした。」
「…どなたもそうです。初めてなら誰にも分りません。
すぐに連れてきてくださってよかったです。
発疹もお口の周りだけで済みました。」
ガーネットがほっとした顔をする。
「エリーお嬢様、お礼申し上げます。」
ガーネットが頭を下げた。
「そんなことなさらないでください。」
エリーが慌ててガーネットの顔を上げさせる。
「私は自分の仕事をしただけです。
今夜は、お嬢様に付いていてあげてください。
奥様も心細い思いをされていました。
マクシミリアン様、お二人の側にいて差し上げてください。」
ガーネットがほっとした表情で頷いた。
「先生、」看護師がエリーを呼んだ。
車輪付きの寝台が処置室から出てきた。眠りこんだ子供がのせられて、そばには母親が付き添っている。
「先生、病室へ移動します。」
「わかりました。
ご両親もご案内してください。今晩は付き添っていただきますから、毛布も用意してさしあげてください。」
「はい。」
看護師に促されて、ガーネット夫妻も病室へ向かった。
エリーとルーエがその後姿を見送る。
姿が見えなくなって、エリーが大きく息を吐いた。
「センセイ?」
小さい声でルーエが呼びかける。
それにエリーが顔を向けた。
「あ、ルーエさん、まだいたのですか!」
「え?」
ルーエの顔が引きつる。
(その言い方は…)
「マクシミリアン様といてくださったのですね。ありがとうございました。」
「い、いえ、帰りそびれただけで…」
ルーエが頭を掻く。
「お子様が、具合が悪いって心配ですよね。
処置室にはお母様しかお入れできませんから、お父様は気が気ではありませんね。」
「そうですね…」
エリーがルーエに笑顔を向けた。
「もう、お帰りになっていいですよ。」
「センセイ、」
「ルーエさんも休まないといけませんよ。」
ルーエが頷いた。
「…そうします。
でも…。
センセイ、休憩取れますか?」
「は、はい?」
「診察室に戻っていてください。温かいお茶を入れてきます。
エイミーのお菓子でセンセイも少し休んでください。」
「はい。」
ルーエは、エリーを診察室に送ると勝手知ったる給湯室で紅茶を入れた。
小さな盆にのせると片手で持って、診察室に戻ってきた。
小さく扉を叩き、中に入る。
「センセイ、お茶を、」
ルーエが見たのは、食べかけのクッキーを手にして椅子で眠っているエリーの姿だった。
「…これじゃ、子供と同じじゃないか。」
苦笑を浮かべながら、ルーエがエリーの手からクッキーを取り、盆の上に置いた。
「今日も一日、お疲れ様です、センセイ。」
ルーエは、エリーの髪のすぐそばまで頬を寄せたが、すぐに離れて静かに部屋を出た。