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地獄で息をする  作者: 乙丸 乃愛
〈プロローグ〉
9/11

八章〈虚偽の優等生と望んだ劣等生〉

 平川未来


 文化祭が終わり、平凡な日常が戻ってきた。派手に飾り付けられた教室も、屋台の香りも、爆音の音楽も、目を瞑りたくなるような楽しそうな家族連れも、子どもの笑い声も聞こえない。僕の目の前では、生徒たちが楽しそうに会話を弾ませ、掃除をしている。

「ホームルームで配るプリントを職員室に取りに行くから、ここの掃除任せてもいい?」

「わかりました!」

 元気な生徒の返事に笑顔で「ありがとね」とお礼を言って教室を出た。

「来年、体育祭リーダーしたいな」

「そっか、次は体育祭か」

「そうだよ。今年の応援リーダーの先輩たちかっこよかったから私もあんな風になりたいの」

「先輩たちすっごくかっこよかったよね!いいじゃん、やりなよ!」

 通り際に、生徒たちの会話が耳に入ってきた。応援リーダーを羨ましそうに眺める千愛の横顔が浮かんだ。

 ――――体育祭ねぇ

 思い出が掠れていることに気づき、思考を断ち切った。


 職員室に着き、机に置いてあるプリントを手に取り教室に戻る。生徒たちにプリントを配布すると、それを見た生徒たちは、ざわつき始めた。

「え、連続殺人?」

「何これ、怖い」

「学校の近くじゃない?」

 自分の通学路に連続殺人犯がいるかもしれない。そう考えると、このざわつきも仕方がない。

「はい、皆さん静かに。学校の近くで連続殺人の被害者が出た。警察も登下校の時間は見回りを強化しているけど、帰りは十分に気をつけて、一人で登下校しないこと」

 ホームルームが終わると一人、また一人と生徒たちが教室から出る。先ほどのざわつきが嘘かのように、静まり返った教室。窓から入り込んだ冷たい空気が、僕の頬を撫でる。その冷めた風に、どこか懐かしさを覚える。

「千愛…」

 また冷たい風を感じる時期がやってきた。一年の中で特に過去が輪廻する時期だ。

「千愛、大丈夫…。大丈夫だよ。僕はまだ君を覚えてる」

 急に廊下から吹き抜けた温かい風に髪が揺れて、視界が悪くなる。

「いつになったら僕は君に堂々と会える資格が手に入る?教えてよ、千愛」


 藍沢深紅


 ボールが跳ねる音。

 荒い息遣い。

 盛り上がる歓声。

「深紅!」

 私を目掛けて一直線で飛んでくるボール。試合終了まで残り四秒。会場に緊張感が漂っている。

 これを決めれば勝てる。

 これを決めれば…。

「深紅、シュート!」

 キャッチするには少し強いボールを受け取った。その瞬間、右側から相手の手のひらが伸びてくる。

 冷静に、焦るな。絶対に決めろ。

 左側を見ると、キャプテンが呼んでいるが…。ダメだ、完全に狙われている。一人でなんとかしなくては…。周りに頼れる味方がいないことを察し、覚悟を決める。相手を一人、二人…交わして、チームの期待を背負ったシュートは、ゴールに吸い込まれ、パサっと音を立てて地面に落ちた。それと同時に体育館に鳴り響く試合終了のブザー。

「やったぁ!」

「深紅、ナイス!」

 チームメイトが私を囲む。

「ナイスパス!」

 体育館に鳴り響く予定のハイタッチは、それ以上大きい声の歓声にかき消された。

「藍沢、よくやったな」

「はい!」

 相手チームはその場に泣き崩れた。それでも互いに賞賛しながら笑い合っている。この光景を見たのは何度目だろう。私はいつから、相手を敗者にしてしまったことに罪悪感を感じなくなったのだろうか。勝者がいる世界には、必ず敗者が存在する。スポーツなんて、全国大会で優勝しなかったチーム以外は全て敗者なのに、勝者だけがキラキラと輝いて取り上げられる。その他は敗者になった瞬間から、光り方を忘れてしまった蛍のように存在を認識してもらえなくなるのだろうか。そんなことを考えていると、涙を啜る音が聞こえてきた。悔し涙を流す相手のキャプテンが「良い試合だった。ありがとう」と私に握手を求める。その手をぼんやりと眺めて、強く握り返した。

「こちらこそ、良い試合をありがとうございます」

「次の大会も、絶対勝ってね」

「任せてください。絶対勝つちます!」

 相手のキャプテンは涙を拭いて、笑顔を向ける。

「私たちの分も頑張って!」

「はい!」


 試合が終わってすぐ、大会の表彰式が始まった。優勝チームのキャプテンが一言話すようで私の前にいたキャプテンがマイクの前に行った。

「ここまで支え合ってきた指導者、チームメイトに感謝の気持ちを伝えるのはもちろんのこと、日頃支えてくださる保護者に感謝を伝えたいです――」表彰式の前にキャプテンが必死に考えていたスピーチが始まった。可もなく不可もなく、当たり障りのないスピーチを一緒に考えた。短い間で、ちゃんと暗記するキャプテンはすごいなと感心しながらスピーチを聞く。

「そして、最後に一言」

 私が考えた、ラストの言葉。キャプテンが「それがいい」と絶賛していた言葉。

「この恵まれた環境でバスケができていることが幸せです」

 キャプテンのスピーチが終わり、会場から拍手が巻き起こった。キャプテンは誇らしげそうに列に戻ってきた。

「深紅のおかげで上手くできたよ。ありがとね」

「いえいえ。良いスピーチでしたよ」

 そんな話をしていると「藍沢深紅選手」と名前を呼ばれた。

 急に呼ばれたことに驚きつつ、「はい」と返事をする。

 どうやら私は、この大会のMVPに選ばれたようで「おめでとうございます」と、盾を受け取った。振り返ると尊敬の目を向ける者、嫉妬する者、次は勝つと言いたげな者、さまざまな目線と感情に浴びる。そんな目線を背に、チームメイトの列に紛れ込んだ。


 平川未来


 車の鍵を開けて、荷物を助手席に放り投げる。車に残る女物の香水に眉を顰め、かき消すようにバッグの中から自分の香水をばら撒いた。ようやくよそ者の匂いが消えた車を発進させると、いつもと変わらない通勤経路の景色が流れる。ランドセルを黄色に彩って、小さな手を上げながら横断歩道を渡る子どもたち。そして、それを笑顔で見送る親と、地域のお年寄りたち。平和だな。なんて思えるはずもなく、あの笑顔が壊れるまで後何年だろうと予想し始めた。十年、いや、良くて数年後かな。

 長い赤信号が青に変わりアクセルを踏もうとした瞬間、後ろからクラクションを鳴らされる。

「そんなに慌ててどうしたよ」

 荒い運転で車を抜かしてくトラックに、事故ればいいのになんて呪いをかける。そんな呪いが現実になるはずもなく、トラックはすぐに視界から消えた。

 職場の駐車場に車を停めて、鏡で自分の顔を確認する。

「うん、大丈夫。笑えてる」

 その笑顔をキープしたまま、車を降りた。靴を履き替えて廊下に出ると、すぐさま生徒に話しかけられる。

「おはようございます」

「おはよう。今日も頑張ろうね」

「はい!」


 ホームルームをするために、眠たい目を擦りながら教室へ向かう。昨日は何時に寝たっけな。確か、二時に眠れなくてお酒を開けて…。あれ、覚えてないや。ボーとする頭をかきながら歩いていると、廊下まで生徒たちが盛り上がる声が漏れていた。

「今日はなんかあったっけ」

 忘れている予定があるのではないかと思い、慌てて予定表を確認してみるが、やはり何か特別な行事はない。なんで盛り上がっているのかを考えるのが面倒で思考を辞めた。まあ、しょうもない話で盛り上がってるだけか。そう納得させて、教室のドアを開ける。

「おはよう」

 いつもならおはようございますと返ってくるのだが、今日は違うようだ。クラスの真ん中に人が集まっている。何か問題でも起こしたか?と思い、近くの生徒に尋ねた。

「何かあったの?」

「またバスケ部が優勝したみたいで、盛り上がってるんです」

「それに、またあの子が活躍したみたいですよ」

 なんだ、そんなことか。クラスの注目の的になっているのは確かにバスケ部の生徒で、周囲の生徒は目をキラキラと輝かせて質問責めにしている。トラブルではないと知って、盛り上がっていることに関心がなくなる。

「そうなんだ」

「いつも活躍してすごいですよね」

「そうだね」

 時計を確認すると、ホームルームを始める時間になっていた。

「そろそろホームルーム始めるから席についてね」

 僕が少し大きな声で言うと、渋々席に座り始めた生徒たち。そして今日も、淡々と一日がスタートしようとしていた。


 いつも通りのホームルームを終えると、生徒たちはまた集まり始めた。そんなにすごい試合だっいたのかと不思議に感じる。

「今回の大会もMVP取ったんだよね!」

「やっぱりすごいね〜」ふと周りを見渡すと、いつの間にかクラスの視線がバスケ部の生徒に集まっていた。

「はは。そんなことないよ〜。チームのみんなのおかげだよ」そう笑顔で返すバスケ部の生徒が少し僕と重なった。胸が締め付けられるような痛みが走り、自分の世界に入るために作業を始めた。それなのに、頭の中は過去の自分が言われた言葉で埋め尽くされる。

「未来、試合に出れない人の分まで試合で活躍しろよ」

「俺の分まで頑張れよ」

 黙れ。自分の未熟さを他人に押し付けて『期待』なんて言葉に変換するな。

「今日の応援の数すごいね。あれ、みんな俺たちのために頑張ってくれたんだぜ。だから、その期待に応えなきゃな」

 黙れ。他人が勝手に頑張っただけだろ、僕に見返りを求めるな。

「あれ、未来。まだ帰らないの?」

「未来、まだ練習して帰るでしょ?俺ら、先に帰ってるから」

 そうだよ。僕は期待を押し付けてくる人間よりも何倍も練習している。だから諦めたような目で…羨ましそうな目でこっちをにみるな。期待を裏切らないように馬鹿みたいに自分の時間を削って努力してんだよ。え、努力している姿が必死こいてて醜いって?はは、そうだな。醜いよ。僕はあんたらが想像しているそうな才を持ち合わせていないぞ。なのにお前らは、そんな僕に期待するじゃん?

「いいよな、スポーツも勉強も出来て。何も持ってない人の気持ちがわからないだろ」

 その言葉にピクリと体が反応する。気づけば席を立っていて、言葉にならない感情が口を動かす。止まれ、私情を挟むな。そう言い聞かせているのに、反論したい気持ちが止まらない。

「ちょっと、そんな言い方しないでよ!謝ってよ!」

「大丈夫だよ。言い返してくれてありがとう」

 あー、くっそ。なんで受け入れるんだよ、バカ。あんたは何も悪くないだろ。


 藍沢深紅


「不快にさせてしまったならごめんね」

「なんだよ、いい人ぶるなよ」

 先ほどまでの雑音が消え、教室に私の心臓の音だけが鳴り響いている。

「藍沢さん、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど」

 そう言って音がある世界に引き戻してくれたのは、先ほどまでつまらなそうな顔をしていた担任だった。

「わかりました」

 私が返事をすると、いつの間にかクラスメイトたちは私から興味が無くなっていたようで、それぞれの会話に戻っていた。

「君の目に藍沢さんがなんでも持っているように見えるなら、それだけ藍沢さんが頑張ったんだよ」

 担任は暴言を吐いたクラスメイトの横にしゃがんで目線を合わせ、他の生徒に聞こえないように言った。

「でも…」

 ラスメイトは何かを言いかけ、下を向く。

「何もしなくて何かを成せる人なんていないでしょ?ちゃんと謝りなよ」いつももよに優しい口調だが、虎視眈々と怒っている。普段温厚な担任は別人のようにひどく冷たい目をしている。

 先生、こんな目もするんだ…。

 クラスメイトは顔を上げ「ごめんなさい」と弱々しく謝罪を述べた。

 私が小さく頷くと、担任は「ついてきて」足を進めたので後を追う。教室を出てすぐに、私は「平川先生、さっきはありがとうございます」とお礼を言った。

 担任は一瞬、困ったような顔をして「僕は何もしてなよ」と言ったかと思えば、瞬きをする間にいつも見る笑顔に戻っていた。

「平川先生、私はなんでも持っているように見えますか?」

「見えない。だって君は特別じゃないでしょ?」

 私は初めて言われた言葉たちに驚いて、「え、」と声が出た。担任に心を読まれたような気がして、一歩足を下げる。

「嘘だよ。でも、そう言って欲しそうだったから」

 そう言って優しく笑う担任はさっきの冷たい目をしていた人間とは思えない。

「完璧に見えるよ、表面上はね。君は周りが認める完璧な優等生だよ」

「じゃあ、どこがダメなんですか?」

「そういうとこだよ。少なからず、僕は完璧を求めたがる君は完璧になれないと思ってる。だってそうでしょ?今も自分の欠点を隠すことばかり考えてる」

 ああ、先生には考えてることが筒抜けのようだ。

「先生は優秀な生徒が嫌いなんですか?」

「ははは、嫌いか。そうだね、嫌いだよ」再び冷たい目をした担任の乾いた声。

「完璧な人間なんて魅力にかけるでしょ?そんな人間に誰が惹かれる物好きがどこにいるよ、人間らしさのかけらもない。人間なんて醜くて汚い生き物じゃん。惨めったらしく這いつくばって生きてる方がよっぽど人間味があって感情移入できるね。そうは思わない?」担任の笑顔の裏には、こんな狂気じみた表情が潜んでいたことに気づかなかった。

「せ、先生?」

「ああ、ごめん。君が残す成果の過程も背景も知らないから、勝手に語ることはできないけど…、まあ、僕が言いたいのは、君もいい子だね」

「君も?」

「うん、君も。僕はいい子が外せない人をよく知っているから」

「そうなんですね」

 担任は穏やかな口調で、優しい笑顔をこちらに向けていると言うのに、まるで目の前にいる私を見ていないようだった。

「あ、先生!こんにちは」

 担任は他のクラスも生徒に挨拶をされ「こんにちは」と笑顔で返す。誰にでも気兼ねなく話す担任は、校内で人気があるようでいつも誰かと話している。

「藍沢さん、そろそろ次の授業の準備をしないと間に合わないから戻っていいよ」

「え?手伝うことがあるんじゃないんですか?」

 私が不思議そうな顔をすると、担任は少し考えて口を開いた。

「じゃあ、明日の昼休みに今日配ったプリントをクラス分集めて職員室に持ってきて」

「わかりました」

「それじゃあ」

 そう言って担任は軽く手を振って、近くを通った生徒と楽しそうに話しながら去って行った。



 平川未来


 文化祭の光景を思い出せないほど、平凡な日常にのめり込んだと思っていたのに、新たな行事に追われていた。定期テストまで後二週間。この時期は、廊下を歩いていると提出物を遅れて出す生徒に話しかけられる。

「先生、提出遅くなってごめんなさい。次は――」

 心にもない反省点を述べて、謝罪する。あの頃の僕を観ているようだ。

「これ預かるね。次は早く出せるように、気をつけてね」

「はい、ありがとうございます」

 受け取った提出物を持って歩いていると、元気な笑い声が廊下に響いていた。

「平川先生だ。こんにちは〜」

「柊さんこんにちは」

「あ、そのプリント俺、出してないやつですよね?」

「そうだね。柊さんはこのプリントの他にも出してないのがあるよ」

「あれ、そんなに出してなかったですっけ、でも部活が忙しいし出す暇ないです」

 イラっとする言葉。出さない言い訳をつらつらと並べるな。そう一瞬、感情が揺らいだ。あぁ、ほんとにこの感覚が嫌いだ。記憶から消したはずの両親の仕草と言葉が脳内にチラつく。あんな奴らにはなりたくないと誓ったはずなのに、自分の中に両親の面影があることが嫌で、嫌でたまらない。両親の洗脳から解放されたいと思うたびに、過去が輪廻して両親に洗脳された思考はこびりついて離れそうにない。まるでお前はあいつらの子供なんだから、と言われているみたいだ。

「じゃあ、部活が休みの時に僕のところにおいで。一緒にプリント埋めよう」

「え、先生と一緒にするんですか?」

「そうだよ。ちょうど僕のクラスでプリントを提出してない生徒を集めて勉強してるから、おいでよ。提出物出してくれたらその分柊さんに点数あげられるし、テストの復習にもなるからね。テスト前に教師を使った方がいいよ」

「先生って変ですよね。そうやって自分から仕事を増やしていくの」

「ん?まぁ、そうだね。でも柊さんの役には立つでしょ?」

「そうですけど」

 この日からあまり居残りを好まない柊さんが僕のところに来て勉強するようになった。初めは乗る気でなかった彼は、今では楽しそうに勉強している。少しずつ理解していく問題に楽しさを感じているようだ。問題を解けた時に、わかりやすく表情に出るのが少し面白い。

「平川先生、ここにいましたか。少しいいですか?」

「はい。柊さん、ここの続き先に解いてて」

 教室のドアを閉め廊下に出ると、業務連絡の伝達をされた。

「伝達ありがとうございます。じゃあ、僕は戻ります」

「あの子、柊さんだっけ?」

「そうですけど」

「僕が教えていたお姉さんとは全然違うようですね」

「僕はあの子の成長が楽しみですよ」そう笑顔で答える。

 僕はあっけに取られている先生を置いて、再び教室に戻った。

「あ、先生ここまで一人で出来ましたよ」

「すごいね!」

 ほら、この子は僕なんかがいなくても自分の力で勝手に進んでいく。

「俺、ここまで誰かに勉強教えてもらったの初めてです」

「そうなんだ。みんなもったいないね。柊さんの勉強を見るのは結構楽しいのに」

「先生はたまに変なことを言いますね」

「そう?本心だよ」

 僕は、彼の目をまっすぐ見ていった。

「そう言ってくださるのは冗談でも嬉しいです」

 そう言う彼は、一瞬目を逸らしたように見えた。


 テスト返却日。一人一人の名前を読んでテストを手渡しする度に、生徒の表情が、感情が揺れる。騒がしくなった教室で、僕はある人物に話しかける。

「テストどうだった?」

 僕が尋ねると、柊さんは少し目を逸らして「難しかったです」と答える。

「そっか。でもこの前よりも点数上がったね」

「教えてもらったところ、あんまり解けなくて申し訳ないです」

「大丈夫だよ、次はもっとわかりやすく教えれるようにしておくよ」

「いや、先生の教え方はすごくわかりやすいんですよ。ほら」そう言ってテストで間違えたところを、ノートに説き直したものを見せてくれた。僕がテスト返却後に解説したことよりも丁寧にノートが取られてある。

「ノートのまとめかたうまいね」

「ありがとうございます」

 僕は柊さんの頭に手を乗せて「テストよく頑張ったね」と笑顔を向けると、柊さんは少し照れて、「先生のおかげですよ。ありがとうございます」と前髪を触った。

「僕は何もしてないよ。頑張ったのは柊さんだよ」

「違います。平川先生が一緒に頑張ってくれたからですよ」

 何を言っているんだ。変われたのは自分自身の力だろ。僕は感謝されるべきじゃない。

「そっか。ありがとう」

「先生は謙虚なんですね」

「謙虚か、そうなのかな」

「先生は感謝されると少し苦しそうですよね」

「え、」

「いや、なんでもないです」

 感謝されると苦しそう、か。確かに、そうかもな。

 僕の目をまっすぐ見た彼に、本心を見透かされたような気がした。


 柊優雨


 中庭を歩いていると突然後ろから話しかけられた。

「これがほんとに恵先輩の弟?」

 目の前にいる男達は、俺の顔を覗き込む。この学校では学年ごとにバッチの色が違う。黄色が一年生、赤が二年生、そして、目の前にいる緑のバッチをつけている男達は、どうやら三年生らしい。

「そうですけど」

 俺は面倒臭いと思いながらも、返事をした。

「お前、部活も勉強中途半端で、恵先輩がかわいそうだよ」

「恵先輩の弟だから期待してたのにさ、恵先輩に良いところ全て取られた?」

 なんだ、そんなことか。

「俺は恵のお荷物ですから」

「ははは、なんだよそれ」

 そう言って、三年生は腹を抱えて笑う。どうせこの人たちは完璧な恵に嫉妬して、卒業した姉さんの代わりに俺に当たっているだけだ。

「お前変だな。言い返さないのかよ」

「事実ですから、俺は恵に勝てるとは思っていません」

 三年生たちは互いに目を合わせ、口角を上げる。

「まあ、そうだよな。お前もお前の弟の恵先輩のお荷物だもんな」

 その言葉に、体が反応する。

「おい、棗を悪く言うな。あいつは俺とは違う」

「何が違うんだよ。同じお荷物だろ」

 俺の中で何かが切れて、気づけば目の前の男を殴っていた。

「くっそ」三年生達は、俺の腕を掴む。

 三年生相手に俺一人で勝てるはずがない…。それでも掴まれる手を必死で外そうと抵抗した。

「おい、三年生がによってたかって二年生何してんだよ」

 その声に三年生の力が緩んだ。目の前にはいつもの優しい笑顔ではなく、冷たい目をした先生が立っていた。

「げ、平川先生だ。逃げようぜ」

 その迫力に三年生の先輩達は逃げて行く。

「大丈夫だった?」

 先ほどの冷たい目と同一人物とは思えない優しい目をした先生と目が合う。

「はい、大丈夫です」

「よかった。さっきはどうして三年生に絡まれてたの?」

 俺は先生から目を逸らし、「弟のことを馬鹿にされたので、ムカついて殴りました」と小さな声で言った。

「そっか」先生はたった一言そう言って、俺の頭を撫でた。

「怒らないんですか?」

「そうだね。今回はあの三年生達に非がありそうだし…。でも、人を殴ったらダメだよ。柊さんが悪くなくてもたったそれだけで、お前が悪いって言われちゃうから」

 俺の担任なら面倒ごとを起こすなと頭ごなしに怒っているはずなのに、この先生は違う。なんで悪いことをした俺を叱らないんだ。

「じゃあ、僕はさっきの三年生を見つけてくるから」

「ありがとうございました」

 お礼を言うと、先生にくしゃくしゃと撫でられた。少し力強く撫でられる頭を上に向けると、少し寂しそうな横顔が見えた。


 その日の放課後、三年生達が謝罪しにきた。どうやら先生が三年生に指導をしたようだった。

「言いすぎた。ごめん」その言葉に他の三年生も「ごめん」と口を揃える。

「いえ、俺も殴ってごめんなさい」

 それ以上広がることのない会話。俺は、長い沈黙に耐え切れず「失礼します」とその場を去った。

 靴箱に向かう途中で平川先生が廊下にいる生徒達に「さようなら」と声をかけながら、こちらに歩いてくるのが見えた。

「平川先生!」俺が声をかけると、いつもの優しい笑顔を向けてくれる。

「あの、さっき三年生が誤りに来てくれました。ありがとうございます」

「そっか。三年生達反省してるといいんだけど。また来たら僕に言ってね」

「はい。ありがとうございます」

「あと、弟のために怒れる優しさは誰もが持ってるものじゃないから、それに気づけない人の言葉に耳を貸す必要ないよ」少し冷たい口調で淡々と放たれた言葉。かと思えば、いつもの笑顔でこう言った。「今のは気にしなくていいよ。それじゃあ、さようなら」

「さようなら」

 先生の後ろ姿は、すぐに下校する生徒達に隠れて消えていった。



 平川未来


 タバコに火をつける。タバコの先から溢れる灰が、自分の命を削っているようで、最高の一服だ。ベランダに肘をつけて外を覗くと、学ランを着た中学生が一人で歩いていた。

『大人になりたい』

「僕は、子どもに戻りたいよ」

 頭に入ってきた声に、反射的に答えてしまったが、学ランの中学生はベランダにいる僕に気づいている様子でもなく、真っ直ぐ道を歩いている。

『あんたは子どもが嫌いでしょ?』

「僕は、子どもが好きだよ。教師だからね」

『嘘つき。汚れのない子どもが目の前にあるものが全てだと勘違いして、浅い経験で理想を追いかける子どもが嫌いだろ?』

「そういう君は、大人が嫌いでしょ。経験から何も学ばずに経験した事実に酔いしれて、全てを知ったような口調で気持ちよくなってる大人が」

 誰と話しているのかよくわからないが、こいつの考えていることはよくわかる。

『ほら、あれを見なよ。あれを見ても子どもが好きだと言えるのか?』

 指を刺された場所に目をやると、ベッドに蹲って泣いている男の子がいた。

「どうしたの?」

『本当に分からないのか?いや、本当に捨て去ったと思ってるのか?』

「ああ、捨て去ったさ」

『そうか。じゃあ、何でこいつが泣いているか分かるか?』

「金も力も無くて、あの子は何もできない自分を責め続けて泣いてる。毎晩、毎晩、誰も知らない場所で、声を殺して泣いている」

『そうだ。もう、誰かわかったろ』

「うん。塗りつぶしたと思っていた過去だね。こどもを見ると、イライラするんだ。僕が手に入らなかったものを持っている子どもも僕と同じような子どもも嫌い。そういう君はあれを見て何も思わない?」

 ベッドで蹲って泣いている男の子の横を、知らない大人達が素通りしていく。誰も、男の子に目もくれず、通り過ぎていく。

『俺はあいつらに何も思ってない』

「本当に?」

『ああ』

「誰も気づいてくれないことに、誰も救いの手を差し伸べてくれないことに絶望したでしょ」

『さあな、そんな時もあったか。もうそんな希望を持っても誰も手を差し伸べないことを知ってる』

「嘘をつくのが下手だね」

『あんたもな』

「ところで、君は誰?」

『何言ってんだ。あんたが一番知ってるだろ、兄弟』

「ああ、そうだったね。ごめんね、まだ僕は君を受け入れられるぐらいの強さを持ち合わせてない」

 僕が一番嫌いな存在であり、彼も僕を一番嫌っている。そのくせ一つの身体を共有しているから、どちらか逃げ出すことができない、運命共同体。

『知ってる。あんたは弱いもんな』

「弱いよ。でも、僕は君を捨てないよ。あれから環境が変わって、少し普通になれた気がするけど、それがどこか自分じゃないみたいなんだ。苦しんでいた時の自分も大事にしたいから、僕は君を見捨てないよ」

 優しい口調で話しかけても、僕への警戒心を解かないどころか、敵意をむき出しに睨んでくる。

『あんたが、人助けをしたのは自分と重なったからか?それとも大好きな人間風情になりたいからか?』

「どっちもだよ。自分のために、彼らに私情を挟んだ。自分と似ている人間なら、人間が言う情というものが沸く気がするでしょ。それに、器用に感情を隠せない彼らに惹かれているのは君もでしょ?」

『結局利用でしてるだけ、いつまで経っても人間できそうにないな。今更あんたに、人助けなんて馬鹿らしい』

「そういう君も、人間らしくなんて考えてるでしょ」

『黙れ。俺はお前みたいに理想に縋ってない。両親を殺したいと思っていた化け物が、人間になれるはずないだろ』

「なれるよ。きっと」

『俺は、まだ理想を見て演じ続けてるあんたが嫌いだ』

「僕は、現実ばかりを見て、そうやって全てを諦める君が嫌いだよ」

『ああ、知ってる。だから分かり合えないんだ』

「うん。今はね。でも、僕たちはこんなに互いのことを理解している」

『それは、あんたが俺で。俺があんただからだろ』

「そうだね」

『だったら、あんたをいつも苦しめる犯人を知ってるだろ』

「知らないよ。僕は、あの頃みたいに傷つけられてない。もう、傷ついてないんだよ」

『嘘をつくな。いつも古傷を気にしてるくせに』

「でも、もう痛くないでしょ」

『そうだな、痛くはない。だけど、殴られた痛みも罵声を浴びる恐怖も、何一つとして忘れられてないだろ。だって、ほら、こんなに刻み込まれてるんだもんな』

「そう、だね。でも、もういいんだ。気にしてもこの傷は治らない」

『そうやっていつまでも目を逸らすのか?』

「そうだよ。だって、逸らしたくもなるだろ。いつまで経ってもあの頃の記憶が、思考が、恐怖が、痛みが、消えないんだよ…。ねえ、みんながいう愛ってやつでこの傷は癒せるの?」

『ははは、今更アイなんてものに縋ってんの?あんたはそれが何かも知らないくせに』

「そうだよ、愛が何か知らない。だから縋るんだ」

『現実を見ろ。妙に染みついた正義感のために自分の傷口を抉って、正しいまともな人間になろうとして、あんたが徳したことがあったか。もう諦めちまえよ』

「諦めないよ。僕は、人間になることも。君を受け入れることも」

『はあ、バカなやつ』

「そうだね」

『鏡でも見なよ。犯人が見つかるからさ。俺をそろそろ、見捨てて、楽になりなよ。あんたは、過去に囚われる柄でもないからできるだろ。そうすれば、古傷もアイなんてものに縋らずとも楽になるぞ』

「分かってるよ。全てわかってて、今の僕だよ。平川未来の人生における一番の被害者は僕達だよ。痛みと殺意を溜め込んで、あいつらの歪んだ思考を植え付けられた君と、君を隠して演じ続けた僕。助け合えるよ、きっと」

『無理だろ。だって、あんたが演じることで周りはあんたのことを平川未来だと思ってる。嘘をつき続けた俺たちのせいで、嘘が真実になってしまってる。きっとこれから先もそうだ』

「これから先は助け合うんだ。どれだけ時間がかかってもいい。そうでしょ?」

『仮に演じることをやめて嘘がバレたら、あんたの存在はどうなる』

「あれ、僕を心配してくれるの?」

『心配なんか…。俺はあんたがいてくれなかったら、うまく生きてこれなかった。だから、あんたがいなくなるのが怖い…』

「はは、大丈夫だよ。君は僕なんだよ」

『ああ、知ってる。争いを嫌う弱虫で泣き虫で弱音を吐く出来損ないの俺が無理やり作り出したのがあんただから』

「そう。僕は君が必要とする間は消えないよ。君は寂しがり屋だからね。一人にすると泣いちゃうでしょ。僕ぐらいはそばにいさせてよ」

 そういうと、先ほどまでの敵意は無くなり、小さな男の子が縮こまって泣いていた。

「少しずつ、少しずつでいいから、僕のことを受け入れてよ。僕も君を拒絶しないからさ」

『本当はパパとママに褒められたかった』

「僕は褒められたことがないからね」

『パパとママに「さすがうちの子だね」って言われたかった』

「道具を褒める人なんていないでしょ」

『パパとママに甘えたかった』

「甘え方なんて知らないでしょ」

『パパとママに、本当は、本当は、愛されたかった』

「僕は愛されてないからそんな言葉はもらえないよ」

『千愛に俺が受け入れられたことが嬉しかった。けど、その時はその存在のありがたみに気づけなかった。本当にバカだよね。もう、千愛みたいな物好きなんていないよね』

「ああ、君はバカだよ。そんな物好き、もう現れたりしないさ」

『みんなと同じように生きてみたいよ…。ねえ、寂しい。誰かに理解してほしい。抱きしめてほしい』

「普通に生きるのは難しいね。みんなが当たり前にできることを僕たちは一生懸命しないといけないからね。それに僕たちを抱きしめてくれる人間なんていないよ」

 さっきまで縮こまって泣いていた小さな男の子の姿が少年に変わった。少年は、涙を引き取り、僕の目を真っ直ぐと見る。どこか虚ろで、諦めたような表情の少年は口角をあげた。

『あんたもそんな顔するんだな』

 そう言われて自分の顔にある違和感に気づく。涙なんて…もう出ないと思ってたのに…。

『叶わない理想を語るって、怖いな』

「真っ暗な現実を見るって、苦しいね」

『ああ、どこを見渡しても真っ暗だ』

「そうだね」

『けど、欲望を言うのは、心が軽くなるな』

「そう、よかったね。僕は現実を見る方が性に合うのかもしれないと思ったよ。僕は夢を身すぎていることに目を逸らし続けていたからね」

『俺は、あんたがすごいと思った』

「そう。僕は君がすごいと思ったよ。それに、早く消えたいとも思った。こんな理想…、早く捨て去りたい」

『一人で演じ切ろうとするな。俺も平川未来だから』

「はは、そうだね…」

『俺、あんたにずっと言いたかったことがあるんだ』

「僕もだよ」

 あの時と同じ肌寒さと白い息。

 力を込めた拳が一回り大きくなっていることを僕たちは知らない。

 顔を上げると、少年も覚悟を決め、震える口を開く。

『なあ、救いようのない俺を殺して(助けて)』

「ねえ、偽りの僕を助けてよ(殺してよ)」


 藍沢深紅


 今日で今回のテスト返却が全て終わる。大会続きで疲弊した体に鞭を打って、隙間時間で勉強をしたが、やはり時間が足りなかったのか今回の平均点が低い。次返ってくるテストで九十七点以上じゃないと、平均点が九十点を下回ってしまう。そしたら、お母さんになんて言えばいいの。お母さんがテスト期間に体調を崩して一日中看病してたから、勉強できなかったって?そんなこと言ったらお母さんを傷つけてしまうじゃない。ダメよ、家族を支える良い子でいなきゃ。お母さんに迷惑をかけない。人様に心配をかけない。そう何度も言われているじゃない。

 いつの間にか教室に入ってきていた担任と目が合うが、すぐに目を逸らしてしまった。先生、点数を今からでも高くしてもらえませんか。そう強く願う。

「深紅、テスト返ってくるね」

「あ、うん」

「どうしたの?ぼーとして」

「なんでもないよ、佳澄」

 佳澄が不思議そうに私の顔を見るが、今はそれどころではない。テスト返却でこれほど心臓がうるさいのはいつぶりだろうか。落ち着かせるために他のことを考えてみようとするが、頭の中がテストのことで埋め尽くされる。

「藍沢さん」

「深紅の番だよ」

 ついに私の番がしてしまったようで、教えてくれた佳澄に「ありがとう」とお礼を言った。担任からテストを受け取ると、心臓の音が大きくなる。バクバクと動いていることを主張する心臓を落ち着かせるために軽く深呼吸をして、テストの点数を確認する。

「え、七十五点?」

 こんな点数を取ったのは初めてのことで、何度も点数を確認する。何度も、何度も、何度も。それでも点数に変化はなく、不安と焦りに襲われる。どうしよう。お母さんになんて報告すれば…。先生はどう思ったのだろう。呆れられた、かな。どうしよう。どうしよう。今からでもこの点数を挽回できないかな…。

「み…、み…、く。みく?ねえ、聞いてる?大丈夫?体調悪そうだよ?」

「ああ、大丈夫だよ」

「そうには見えないけど」

「ちょっと休憩する」

「保健室いく?」

「大丈夫。そこまではないから、ありがとう」

 佳澄が「体調崩さないように温かくしときなよ」とカイロを渡してくれた。それを受け取ってスカートのポケットにしまった。カイロの温かさがじんわりと伝わってくるが、別に寒いわけでもない。むしろ熱い。ん?熱い?おでこに手を当てて確認してみるが、やはり熱い。お母さんから風邪をもらったのだろうか。

「藍沢さん、大丈夫?ちょっと保健室に行こうか」いつの間にかテスト返しを終えた担任が私の隣にしゃがんでいた。

「大丈夫ですよ」

「いや、深紅。平川先生もこう言ってるんだから保健室行ってきなよ」

「え、でも」

「でもじゃない。行くの」佳澄の押しに負けて「わかった」と返事をした。席を立とうとすると、思った以上に体調が悪かったようで体がふらついた。

「おっと」平川先生に体を支えられて、転ばずに済んだ。

「あ、すみません」

「大丈夫?」

「はい」

「じゃあ。このまま一緒に保健室に行こうか」

「一人で大丈夫ですよ」

「何言ってんの。今ふらついてたでしょ」

 担任はクラスメイトに「藍沢さんが体調不良みたいだから、僕が返ってくるまでちょっと自習してて」と言い残した。廊下を出て、「掴まる?」と担任が腕を差し出してきたが、首を横に振った。すると担任は「そう」と、私の背中から少し離れた位置に手を添えて私がいつでも倒れていいように支える準備をしてくれたまま歩き出した。ふらついた足で廊下をまっすぐ歩けるはずもなく、何度も担任にぶつかる。

「ごめんなさい」

「大丈夫、無理しないでよ。ちゃんと支えるから、掴まりな?」

「でも…」

「大丈夫、誰も見てないからさ。こんな時ぐらい頼りなよ。僕に強がったって意味がないでしょ」

「そうですね」

 そっと担任の腕に手を伸ばすと「どうぞ」と支えになってくれた。担任に身を任せると、なんとも言えない安心感があった。気づけば保健室の前に来ていて、担任が「こんにちは」とドアを開けた。中から保健室の先生が出てきて、担任が事情を話す。すぐに熱を測ってもらうと、体温計には三十八度の文字。あーあ、風邪もらってるじゃん。

「藍沢さん、何度だった?」保健室の先生が記録用紙を持ってきた。

「三十八度です」体温計を見せると、「あら、早退の準備した方が良さそうわね」と呟き、担任の方へ向かった。しばらくすると、保健室の先生がそばにやってきた。

「奥のベッドで少し休んでから、今日は早退しようね」

「ありがとうございます」

「一人で帰るのが無理そうだったら親御さんに迎えにきてもらうから。今度はもっと早くきついって言うんだよ」

「はい」

「それじゃあ、平川先生。私は少し外さないといけないので少しの間、藍沢さんを見ていただけますか?」

「わかりました。ありがとうございます」

 担任は保健室の先生にお礼を言って、私を開いているベッドに案内した。

「しっかり休んでね。僕はしばらくここにいるから、寝てていいよ」そう言って担任はベッドの頭の部分だけカーテンを閉め、側にパイプ椅子を置いたかと思えば私とは反対方向を向いて保健室に置いてある本を開いた。それから特に会話すること無く、本を捲る音だけが保健室に響く。

「先生、ごめんなさい」

 誰かがいる空間で寝られるはずもなく、気まずい雰囲気を壊すために担任話しかけた。

「どうして謝るの?」担任は本をそっと閉じて、私に問う。

「迷惑をかけてしまったから…」

「僕は生徒の面倒を見る仕事をしてるんだよ。生徒が先生に迷惑かけないでどうするの?先生の仕事を奪うつもり?」担任は体をこちらに向けて、優しい笑顔を向ける。

「そんなつもりは」

「ははは、冗談だよ。迷惑だなんて思ってないから安心して」少し意地悪に笑う担任は少し子供っぽく見える。

「先生、今回の私のテスト…。見ました?」

「見たよ」

「その…、ごめんなさい」

「謝らないでよ。僕は責めたりしないから」

「でも。その、呆れましたよね?そんなものかって…」自分で聞いたのにも関わらず、その返事を聞くのが怖くて担任から目を逸らす。

「はは、完璧な人間なんて魅力にかけるって言ったでしょ?今の藍沢さんの方がよっぽど惹かれるよ。僕に弱さを見せてくれてありだとね」

「弱さなんて…」

「大丈夫。僕は弱さに漬け込まないから、安心して吐き出してよ。僕の前では強がらないでよ…。強がる君を見ると、すごく苦しい…」担任は苦しそうに笑う。

「他人にぶつけたい言葉も自分の中の弱さも全部ぶつけて。僕はそれを全て受け止めるから。だから、君のタイミングで全て僕の分まで曝け出してよ」

 私はその言葉の受け止め方を知らずに、目を逸らす。

「でも、今は罪悪感で押しつぶされそうな君の謝罪を受け止めておくよ」と優しい声で言った。

「ありがとうございます」

「ありがとうなんて言わないで、僕は君のために何もしてあげられないから」

「いえ、そんなことは…」

「僕が弱さを引き出せる人間だったらよかったんだけど…、ごめんね」

 猫っけの茶色い髪の毛が揺れて、苦しそうに笑う担任が消えてしまうんじゃないかと思ってそっと手を伸ばした。すると、担任の肩が跳ね上げ身を引いた。

「あ、ごめんなさい」

「ん、大丈夫。僕こそごめんね…」

 よく考えれば教師の頭を撫でるなんて、何をしようとしたんだと我に返る。担任は私が触ろうとした頭を自分で軽く撫でる姿が、やはり子どもみたいでいつものみんなに頼られている担任なのか疑いたくなる。

「昔、僕の頭を撫でてくれた子がいたんだ。すごくいい子で、強がりで、お母さん思いな優しい子だったんだ」

 担任はポツリ、ポツリ離し始めた。

「その子が僕のことを置いていってしまってね。僕はその子に会いたいんだけど、僕はまだその子に合う資格がないんだ」

「その子はどこにいるんですか?」

「誰にも邪魔されずに語れる場所」

「そうなんですね」

「うん」

「先生が前言っていたいい子が外せない人ってその人ですか?」

 担任は目を瞑ってゆっくりと首を横に振った。

「それは俺のこと」

「俺?」担任が自分のことを俺と言うのを初めて聞いた。

「うん、俺。周囲が期待する平川未来を昔も今も演じてるんだよ」

 私が驚いていると、「なんて言ったって俺の演技は誰にもバレたことがないからね」と担任はニッコリと笑った。

「先生も…ですか?」

「そうだよ。感情を殺して周囲の期待に応える操り人形が完成してしまったよ。でも、人間みたいでしょ?」

「先生は人間ですよ」

「まあ、そうだったね。まだ君は感情を表に出せるから、感情を押し殺すことを学ばないで。発散する場所がないなら、僕にぶつけて。そうじゃないと、感情が老化して何も感じなくなっちゃうから。綺麗なものを見ても綺麗と思わないし、誰かに感情移入もできない。できるのは自分を憐れむことだけだから…。こんな新鮮味がない人生なんて飽きちゃうでしょ?」

「なんでそこまでしてくれるんですか?」

「過去の俺のため」

「過去の先生ですか?」

「そう、過去の自分を救えなかったから、君に投影してるだけだよ。すごく暗い暗闇に独りにしてしまったから…、後悔してる」

「後悔ですか」

「そう、後悔」担任は悲しそうな顔で自分の胸元をそっと撫でる。

「先生がもし人に頼ってたら後悔してませんでした?」

「さぁ、どうだかね。少なからず、頼れる人間がいなかったからそんな想像したことないよ」

「先生の周りには先生を頼る人がたくさんいますからね」

「そうだね。人に優しくするのは人に見てほしいからだよ。俺の寂しさを埋めるための技だね」

「寂しいから人に優しくする…、なんとなくわかる気がします」

「たまに頼られるぎて独りになりたいけどね」

「ひとりになりたいと思えるぐらい、先生の周りには人がいるんですね」担任は少し驚いた顔をした。そして、「そうだね。俺は人に飢えていると思ってたよ。案外幸せな悩みを持ってたのかもね。気づかせてくれてありがとう」とふわりと笑った。


 平川未来


 ひとりになりたいと思えるぐらい、先生の周りには人がいるんですね。その言葉が頭の中でぐるぐるしている。社交的な両親は俺が十八年間積み上げてきた人間関係のほとんどに関わっていたから、両親と縁を切るために全て切り捨て。大学でできた繋がりは広く浅いもので、情を感じることもなく、大学を卒業すると縁が切れ。それでも一人になりたいと未だに思ってしまうのは、彼女が言っているように俺の周りには人がいるのだろうか。繋がっている人間…。うーん、誰の名前も思い浮かばない。やはり俺は一人なのか。けど、彼女の言葉に妙に納得したというか、腑に落ちた自分がいるのも確かだ。

 考えても答えが見つからずに、とりあえずベッドに沈む。ベッドは安心して入れる場所と認識できてから、以前よりも意識を失うのが早くなった。

「らい…。未来!ご飯できたよ」

「ん。ありがとう、愛來」

「最近、帰ってきたら寝てるけど、ちゃんと休んでる?」

「うん。多分」

「もう、ちゃんと休みなよ」

「うん」

 暖かい食卓を用意してくれる愛來。行きつけの飲み屋で出会った彼女は、恋人関係というわけではなく、ただの同居人。彼女から猛烈にアタックされて、「人を好きになるとかよくわからないけど、それでもいいなら一緒にいよう」という曖昧な答えを出した俺と一緒にいる物好きな人。

「美味しい?」

「うん。美味しいよ」

 彼女の前では無駄に明るいキャラを作ることなく、淡々と接している。一人でいる空間に彼女がほんの少し干渉している感覚。俺からしたら楽だけど、よくこんなつまら無い奴のそばに居るなと関心する。食事を終え一息着くと、二人分のコーヒーを持って彼女が俺の隣に座った。

「未来、また机の上の遺書と薬が増えた?」

 机の上を見ると、積み重なった遺書と机の下にまで散らかった薬。愛來に言われるまで気づかなかった。

「後で片付けておくよ」

「そうゆうことじゃないんだけどな」

 愛來が机の上に置いてある遺書の間に置いてある手紙を手に取った。

「千愛さんへの手紙?」

「そう。千愛に」

「見ていい?」

「いいよ」

 千愛への手紙を見る彼女は深くため息をつく。俺が未だに千愛に執着していることを知っていながらそばにいる愛來は何を思っているのだろうと、ふと思う。俺の中の特別な人間になりたいとか?そんなバカみたいな話があるわけないか。手紙を読み終えた愛來が不思議そうに首を傾げる。

「名誉の勇退?」

「そう。名誉の勇退。どれだけ仮面を被って生きていても、全てを演じているのは俺なのに、全然壊れないんだよ」

「そうだね」

「俺って案外タフなのかもって気づき始めてさ。そしたら、急に怖くなって。いつまでもこれが続くなんてゾッとするでしょ。だから、キャラが壊れるような無能な落伍者じゃなくて、それなら仕方がないねって思えるような名誉の勇退が欲しいんだよ。それがどんなに苦しいことであっても、立つことすら苦しくなった人間にとっては、美しく倒れるための理由は喉から手が出るほど欲しいものだからね。俺って傲慢なのかな」

「傲慢ではないと思うよ。未来が名誉の勇退を見つけるために、今生きているならそれでいいよ。今はね」

「怒らないの?」

「怒らないよ。長生きすることがいいこととは限らないでしょ?それに死なないでって言葉は一番未来を傷つける」

「そうだね」

「相変わらず、遺書は空白なんだね」

「うん。この世に思い残すことなんて何もないからね」

 愛來が俯いて「私が千愛さんだったらよかったのに」と呟いたが、聞こえない振りをした。

「未来、私を頼ってね」

 誰にも懐かない猫が自分に懐いたら、気にかけてしまう感覚だろうか。それとも、俺の家のことをほんの少し知っていて、他の人間よりも俺を知っている優越感に浸っているからだろうか。とりあえず、俺は愛來がしてくれることで救われたことなんて何一つないが、「ありがとう」と言葉をかけるだけで愛來は俺に依存する。愛來は俺にエゴをぶつけて、善人として優越感に浸って気持ちよくなる。俺は愛來のエゴを利用して、俺のことを見てくれる人間を繋ぎ止める。依存という関係とわかっていても、それでいい。俺は人との関係に信頼なんてものは無くていい。

「愛來、いつもそばにいてくれてありがとう」

「うん。未来好きだよ」

「ん」

 唇が触れ合う感覚に何も感情が動くことない。愛來の頬に手を伸ばすと、愛來は頬を赤らめた。なぜここまで頬を赤らめるのか理解できないが、愛來の気持ちなんて心底どうでもいい。

 何度もキスをされ、パーカーに愛來の手がかかる。それに抵抗せずに、大人しく脱がされる。上半身の古傷を見た愛來はいつも、それを優しく手でなぞる。そして、眉を顰め、俺に抱きつくまでがいつもの流れ。

「この傷、痛くない?」

「痛くないよ。古傷だからね」

「こんなに痛そうなのに?」

「うん。今の俺が新しい傷を作ってるわけじゃないでしょ」

「そうだけど」

「だから、もう傷ついてないんだよ。みんなと同じ、普通の身体」

「そう、だね」

「うん」

「ねえ、千愛さんじゃなくて私にしてよ。私の方が未来のことをわかってあげられるよ」

 そもそも愛來が俺を理解しているなんて思ったことはない。

「愛來は千愛じゃないでしょ?俺は愛來のことを愛來として見てるから安心してよ」

「未来」

 頬を赤らめて恥ずかしそうに俺に抱きつく愛來は、俺の言葉を良いように解釈したのだろう。だけど、俺も嘘はついていない。愛來が千愛の代わりになってたまるか。愛來の体を優しく離して、コーヒーに手を伸ばす。

「おいしい」

「よかった」

 口に含んだコーヒーが、冷めた身体を温める。地獄でもこんな美味しいコーヒーが飲めるなんて、それだけで十分幸せじゃないか。


 柊優雨


 リビングのソファでくつろいでいると、二階から足音が聞こえてきた。

「優雨ちゃん、おはよ」

「ん。おはよ」

 棗は眠たそうな目をこすりながら、隣に俺の隣に腰掛けた。リモコンに手を伸ばし、つまらないニュース番組からチャンネルを変えた。

「棗、また寝られなかった?」

 隣を見ると、棗が何かを言おうとしたがその口を閉じて頷いた。

「そっか、ごめんな。昨日のあいつら機嫌が悪くてさ」

「優雨ちゃんは何も悪くないのに…。あいつらが!」

「まあ、いつものことじゃん。気にしてもしたがないだろ」そう言って笑うと、棗が俯いた。棗はいつも何かを言おうとするが結局口籠る。その姿を見ると、いつも心が痛くなる。我慢させて、ごめんな。本当に、ごめん。

「優雨ちゃん、ゲームでもする?」気を遣ってか、棗がゲーム機を持ってきた。そのゲーム機を受け取り、電源を入れる。起動したのは、いつも二人でしている対戦ゲーム。

「棗に負けねーよ」

「僕もだよ」

 二人で無我夢中に対戦ゲームをする。そういえば、最後に一日中棗と遊んだのっていつだっけ。まあ、そんなことどうでもいいか。それから何個かカセットを入れ替えてゲームをし続け、気づけば日が落ちる時刻になっていた。

「やっぱり優雨ちゃんには勝てないや」

「一回勝ったろ」

「勝ったって言っても、相当ハンデがあったじゃん」

「おいおい、拗ねるなよ」

「拗ねてないよ。優雨ちゃんには何も勝てないから悔しいだけ」

「何言ってんだよ。俺は棗に負けてばかりだろ」

 ガチャ。

 玄関が開く音がして、ゲームの電源を慌てて切る。棗はソファから離れると時に何かをつぶやいたが、それに反応する余裕がなく、素早く二階の自分の部屋に足を進める。階段まであと数歩のところで、リビングのドアを開けた両親と目が合う。その瞬間、母さんの舌打ちがリビングに響いた。

「なんであんたがここにいるのよ。見苦しいから早くどっかに行ってよ」

 母さんは俺の目を見ることなく、言葉を吐き捨ててソファに腰をかけた。いつもこうだ、この家に俺の居場所はない。だからなんだって話だが、死ぬほど居心地が悪い。

「おい、お前。ここでゲームしてたんじゃないか?恵が活躍してる時に、お前はゲームか?何様のつもりだよ」

 父さんの方を見ると、ゲーム機を手に持っていた。俺は、服の中に隠してあるゲーム機を握りしめ「ごめんなさい」と心にもない謝罪を口にする。それだけで到底許されるはずもなく、胸ぐらを掴まれた。

「出来損ないのくせに何遊んでんだよ!」

 これ以上謝罪も抵抗もしない。ただ、無表情でこいつの機嫌が治るのを待つ。それまでに何発殴られるとか、蹴られるとか、心底どうでもいい。日々、俺の目を殺意と憎しみが蓄積してくれさえすれば、それでいい。復讐の機会を今か今かと待ち望み、両親への殺意を脳裏に刻み込む。そして両親が苦しんで死ぬ様を特等席で嘲笑う日を夢見て、数年が経った。この憎しみが爆発した時を想像すると、口角が上がる。

「棗、二階に行こうか」

「うん」

 恵が気を利かせて、棗を二階に誘う。胸ぐらを捕まれ何度も殴られる俺。棗は階段を上がるときに、俺から背けた。それでいい。ごめんな、棗。こんなの見たくないよな。

「おい、黙ってないで何か話せよ」

 俺は少し馬鹿にしたような笑顔を作る。

「なんでそんな短気なんだよ。お前らの機嫌をとってる恵はすげーな」

「は?黙れよ」予想通り、父さんの怒りが爆発する。

「ちょつとあんた自分が何言っているかわかってんの?」それに釣られて、母さんまでソファから立って俺の目の前に来た。やっぱりこいつら短期じゃねーか。発情期の猿のように、こいつらには怒りを抑える理性がないから扱いやすい。こうして、俺は度々火に油を注ぐ結果になるように誘う。これも、こいつらへの復讐心を俺に刻み込むために必要なことだ。何が合っても忘れないように、復讐心を忘れないように、こいつら直々に刻み込んでもらう。

「お前みたいな役立たず、この家にいらねーよ」父さんは俺を蹴り飛ばした。少しよろけたが、近くにあった壁に手をついて体勢を立て直す。次来るのと思って全身に力を入れたが、痛みが来ることはなかった。その代わりに、母さんが「ちょっと待って」と父さんを止めた。珍しいこともあるものだと思っていると、急に機嫌が良くなった母さん「お前にピッタリなチラシがあったんだったよ。お前に見せてやろうと思って取っておいたんだ」と奥のテーブルに置いてあるチラシを持ってきた。

「あんたにピッタリな場所見つけてあげたわよ」そう言って母さんは、俺にチラシを投げた。ヒラヒラとゆっくり俺の足元に落ちたのは、児童相談所のチラシ。ハハハ、こいつら狂ってやがる。

「よかったな、お前の新しい家が見つかって。あ、でも行くとしたらお前が一人で行けよ。そうだな…『家が貧乏で姉弟がいるから一人できました』とでも言っとけ、お前は優しいから姉弟のためにこの家を出て行ってくれるよな?」

 ああ、そうか。こいつらも本気で俺がこの家から消えるのを望んでる。そして俺も…。

「ああ、いいよ。出ていくよ、こんな家」

 痛む身体を無理やり動かして、玄関に向かう。ああ、そうだ。これだけは言いっておかなきゃな。

「お前ら絶対殺してやるから、逃げるなよ」



 *



 外は思っていた以上に冷えていて、両腕を擦る。勢いで腐った家を出てきたのはいいものの、何か食べ物を持ってくればよかった。そんなことを思いながら、両親に「出て行け」と言われた時にいつも時間潰しとして使っている公園のベンチに腰をかけていた。この公園は小さい上に、人通りが無いから居心地がいい。そしてここで待っていれば、いつも恵が両親に自主練と嘘をつき、自分のご飯をこっそり俺に持ってきてくれる。その時の恵は両親に淡々と怒っていて、でも最後には俺の頭を優しく撫でる。そして必ずかけてくれる言葉。『優雨も私の大事な弟だよ』その言葉を恵からもらう瞬間だけ、俺が姉を頼る少し手のかかる弟のような気がする。両親にも、棗にもバレずに弟になれる瞬間。その感覚をふと思い出して、自分の頭を優しく撫でる。けれど知っている感覚に似ても似つかなくてすぐにその手を頭から退けた。その手が恵の手と程遠く、深いため息をつく。

「まあ、恵じゃないから仕方がないか」

 おろしたはずの手が自然と頭に戻ってきた。その手でぎこちなく髪の毛を触る。

「優雨!」

 公園の入り口で膝に手をついた恵がいた。

「今日は、早かったね」

「早かったねじゃないよ、ばか。あいつら信じられない!我が子をなんだと思ってるのよ!」

「あいつらが理不尽なのは今日に始まったことじゃないだろ」

「まあ、そうだけど」そう言って恵は当たり前のように自分のご飯をリュックから出してくれる。俺はそれを受け取って腹を満たす。

「で、優雨はどうしたいの」

「とりあえず、あいつらの言う通り施設に行こうかな」

「ねえ、それ、本気で言ってる?」

 恵はいつも以上に真剣な顔で俺を見る。

「はは、冗談だよ。でも、今まで家出しても他人を巻き込んだことないから、散々人を巻き込んであいつらが言い逃れないようにするのもありかなって思ってきてる。ほら、最後に迷惑かけてーじゃん?」

「最後にって、まさか…死ぬ気?」

「さて、どうかな」

 恵は深いため息をついた。

「優雨はあいつらに復讐したいの?」

「復讐…。復讐か。そうだな。あいつらに俺たち子どもの苦しさを味わってもらいたい。殴られる痛みを、逆らえ無い恐怖を…、ただ教えてあげるだけだよ」

「そう」

「うん。あいつらがそれを躾と呼ぶなら、俺がするそれは教育だから。あいつらが俺の教育でいい子に育つといいな」

「もう無理でしょ。あいつらの化けの皮を剥がしてもいい人にはなら無いよ。でも…、優雨がそうしたいなら、私は手伝うよ」

「ありがとう」

 恵は小さく頷き、髪が耳から落ちる。

「ねえ、あいつら殺すって本気?できっこ無いじゃんってあいつら笑ってたよ」

「うん。本気」

「そう」

 冷たい風が沈黙を際立たせる。

「私もあいつら殺したくてたまらない」

「決まりだな。でも、ヤルのは俺にヤラせてくれ」

「何言ってんの。優雨だけに背負わせるわけないでしょ。私もするよ」

「ありがとう、恵。ヤッチまえばあいつらとはオサラバだ。だけど、俺らには棗がいる。わかるだろ。棗を頼むよ。俺らの大事な弟を」

「優雨も、優雨も、私の大事な弟だよ」

「わかってる。だけど、決めたろ?俺と恵で棗を守るって」

 しばらく冷たい風の音がこの場を支配する。恵は何かを諦めたように「そうだね」と笑った。その返事を聞けた俺は、最後に唯一信用できる恵に棗を託す。

「棗を任せた」

「うん、任せて」



 *



 俺と恵が棗を守ると決めた九年前の夏。当時小学四年生の棗と五年生の俺、そして中学一年生の恵の三人はいつも近所で仲良しと評判でいつも一緒にいた。その頃は、習い事がない日は決まって、学校が終わると一目散に家に帰りランドセルを自分の部屋に放り投げてすぐさま公園へと向かった。

「優雨!棗!アイス、食べにいくでしょ?」

 公園の入り口から聞き慣れた声の方を見ると、中学の制服を着て自転車に跨った恵が大きく手を振っていた。

「あ、お姉ちゃんだ!」

 いち早く恵に気づいた俺は、さっきまで遊んでいたテニスボールとラケットを抱えて恵の元へ走る。

「待ってよ、恵姉ちゃん!優雨兄ちゃん!」

「はは、そんな慌てなくても置いていかないからゆっくりきなよ」そんな恵の言葉が一生懸命にラケットを抱えて走る棗に聞こえているはずもなく、小さな体で一生懸命走ってくる。

「棗、かわいい」一生懸命走る棗を似て、恵がつぶやいた。透き通った声の方を見ると、恵が微笑んでいた。かと思えば、急に驚いた顔をして「棗!」と言って走り出した。俺もその後を追いかけると、どうやら棗は転んだようで俺たちの方を見て今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「あー、痛かったね。大丈夫?立てる?」

「うん」

 怪我をした場所を恵に見てもらっている時も、棗は溢れ落ちそうな大粒の涙を必死に我慢している。

「棗、痛かったら泣いてもいいんだぞ」

「だって、ママが泣いちゃダメだって。それに、優雨ちゃんみたいに泣かない強い子になれって…。僕、優雨兄ちゃんみたいになりたいもん」

 涙ぐんだ瞳と震えた声でそう言った棗を抱きしめる。

「泣きたい時には泣いていいんだぞ。我慢するな」

「そうよ。我慢しなくていんだから。優雨だって全く泣かないわけじゃないんだよ、この前だって私のところにきて――」

「あー、うるさい。泣いてねーし」

「強がらなくていいんだよ、ほらほら」

「うるさい」

「ははは」

 いつの間にか涙が引っ込んだ棗が笑っていた。

「じゃあ、みんなでアイス食べいこっか」

「「うん!」」


 アイスを食べ終えて家に帰ると、恵がご飯の用意を始めた。うちの家では、週に何度か恵がご飯を作っている。恵が作るご飯はとても美味しくて、恵が料理を作っている時はいつも棗とつまみ食いをしている。こっそり恵の目を盗んで料理は一段と美味しい。

「お姉ちゃん、このお肉美味しいよ」

「あ、また食べたの?夕飯の時におかずがなくなっちゃうからあんまり食べたらだめよ」

「はーい」

 それからしばらくたって三人でご飯を食べ終わると、両親が帰ってきた。俺だち三人は両親が帰ってくると、互いに他人のように距離をとる。

「恵、ご飯あっためてて」

「わかった」

 香水の匂いを漂わせた母さんは、自分の部屋に荷物を置きにいく。その後ろから父さんが、深いため息をついてソファに深く腰掛けた。この両親はいつも一緒に出掛けていて、近所から仲の良い夫婦と言われている。実際のところはわからないが、息は合っていると思う。それは言うまでもなく、悪い意味で。

「ねぇ、棗。通知表が廊下に落ちてたんだけど。何、この点数」

 棗は肩を跳ね上げ「ごめんなさい」と頭を下げる。

「謝ってどうするのよ。何か変わるの?違うでしょ?」

「はい、ごめんなさい」

「あーもーだ、か、ら。優雨のようになんでもこなせない。恵のように運動もでき無い。それで棗はこの先どうするの」

 小学生にそんなことを言われての、「わかりません」と答えるのが精一杯だ。だが、そんな答えを両親は望んでいるはずもなく、理不尽に将来を設計される。お前にはこれはできないだろ、と彫刻のように削り取られていく選択肢と、残ったクソみたいな進路希望を無理やり掴まされる。

「いいじゃないか、棗何もできなくて。だってそうだろ?お前は何もできないんだもんな」

 小さな体は重力に逆らい、父さんによって宙に投げ出された。

「ねえ、やめてよ!」

「うるせぇ。お前に関係ねーだろ。こいつがいると俺らが恥をかくんだよ。お前にそれがわかるか?」

「わかりたくねーよ!棗が何したって言うんだよ!」

「は?何したって?何もしてねーから躾けてんだろ」

 気づけば俺の体も突き飛ばされていて、全身に痛みが走る。

「ごめん、なさい…」

「だから、謝ってどうにかなることじゃねーだろ!」

 棗は何度も殴られ、気絶してしまった。その気絶した小さな人間に怪物だちは興味を失って、自分たちの部屋へと戻っていく。

「棗!棗!」

 恵と二人で名前を何度も呼ぶ。すると、意識が戻ったようで棗が目を開けた。

「棗、ごめん。ごめん」

「なんで謝るの」

「ごめん。助けられなくて。ごめんな、こんな兄ちゃんで」

「そんなことないよ。優雨兄ちゃんも恵姉ちゃんもいつも助けてくれるでよ」

「助けれてなんか…」

「ごめんね。これから私と優雨でちゃんと棗を守るから…」

 それ以上棗に謝っても、自分の無力さをひしひしと思い知らされそうで口を閉じた。


 その夜、恵が俺の部屋に来たと思ったら、急に泣き始めた。

「自分が何もできないのがもう嫌だ。棗が、優雨が、目の前で殴られてるのに何もしてあげられない…」

「お姉ちゃん、俺も棗もそんなこと思ってない。だから、自分を責めないで」

「ごめんね。こんなに弱いお姉ちゃんで」

「弱くないよ。お姉ちゃんは僕の憧れなんだよ」

「憧れなんて…私はバスケがほんの少しできるだけで、優雨みたいに器用な人間じゃないよ」

「何言ってるの。僕はこれといって凄れたものがない。だから…お姉ちゃんが羨ましいよ

「あれ、なんでこんな話せるんだっけ。ああ、そうだ。私がこれから両親の暴力を全て請け負うよ。もう二人に痛い思いはしてほしくない」

「だめだ、そんなことをしたらお姉ちゃんはどうなるの!」

「これは誰かがやらないといけないの!そうじゃないと…三人ともあいつらに壊されちゃうよ」

 普段弱みを見せない人がこんなにも弱っている姿を見ると、心に包丁が突き刺さったように痛みが走る。無力な自分が憎くてたまら無い。

「じゃあ、俺がその役を請け負うよ。お姉ちゃん、知ってる?男の俺の方が数年後は姉ちゃんよりも強くなるんだよ、先生が言ってた」

「でも殴られたら痛いんだよ。蹴り飛ばされたら痛いんだよ」

「そんなこと知ってる。痛いほどわかってる。お姉ちゃんはあいつらの目が棗に行かないようにしてあげて。俺は棗以上に出来損ないになるからさ」

「それって、棗より成績を残して両親の関心を私に向けるってこと?」

「そう。棗には自分のやりたいことをやって欲しい。棗はすっごく優しくて俺の自慢の弟だからさ、そのままでいて欲しいんだ。あいつらのせいで歪んでほしくない、俺みたいに…」

「歪む…、そうだね。棗にはそうのままでいて欲しい」

 涙を力強く拭いた恵は、深く頷いた。

「私は優等生として、両親の期待を全て背負う」

「俺は出来損ないとして、両親の理不尽を全て背負う」

「「二人で棗を守ろう」」



 藍沢深紅


 部活帰り、いつものように佳澄と駅のホームで電車を待っていた。次の大会まで後数日、そのため今日の部活はいつもの練習より気合が入っていた。練習の疲れが溜まってか、少し体が痛い。電光掲示板を見ると、次の電車が来るまで少し時間があるようでベンチに腰掛けた。その横に佳澄が腰掛けて、今日は口数が少ないと思っていた「が急に口を開いた。

「ねえ、深紅。私、今回の成績クラス一番だったんだけど」

「そうなんだ、よかったね!」

「深紅は今回のテストわざと点数落としたの?私の平均点前回よりも落ちたのに一番だったんだけど」

「そんなことはないよ。佳澄が頑張ったんだよ」

「何それ。深紅は二番になって悔しくないの?私が憎くないの?」

「悔しい?憎い?そんなことないよ。だって佳澄が一位になったのは佳澄が頑張ったからでしょ?憎いのは一位の成績を取れなかった自分自身だよ」

「なんで深紅は二位で悔しそうじゃないの!私は一生懸命頑張ってもいつも二位なんだよ!なのになんで深紅は二位でそんなに平気そうなの。頑張ってる私が馬鹿みたいじゃん」

「そんなことないよ。二位でも十分すごいよ。誰かと比べてじゃなくて、佳澄はいつも頑張ってるじゃん」

「そうだよ。私は頑張ってる。だけど、みんな一番しか見ないんだよ。一番以外はみんな平等に霞んで見えるんだよ」

 涙を浮かべた佳澄は「ごめん」と言って、ちょうど来た電車に乗り込んだ。その後を追おうとするが、足が動かない。

「佳澄…」


 グサリ、グサリと一定のリズムで野菜が切り落とされる。力強く、思考を断ち切るように包丁を握る手に力を込める。切り終わった野菜と解凍しておいた肉をフライパンに入れると、油が跳ね上がった。フライパンに蓋をして、深いため息を吐く。出来上がった料理をお盆に乗せて、兄の部屋の前まで運んだ。

「お兄ちゃん、ご飯置いておくからね」

 当たり前のように部屋から返事が返ってくることはなく、代わりに聞こえるのはゲーム音と暴言。たまに聞こえる叫び声に似た怒声がリビングまで漏れる。その怒声に気分が沈む。自分に向けて言われているはずがないのに、まるで自分が怒鳴られているように感じる。

 怒声について何も感じていないうと嘘になるけど…、でもお兄ちゃんのことは好きだし…。お兄ちゃんがあんな風になってしまったのは、私の責任でもあるし。だけどさ、なんというか、ねえ。

 自分のご飯を食べ終え、キッチンの掃除を始めた。普段から掃除しているため、大掃除というわけではないが、微かに汚れている箇所の掃除をしておく。ついでに、昨日の夜に洗っておいた皿を片付ける。なかなか面倒な作業だが、溜めてしまうともっと面倒だ。最後に、兄が夜中にキッチンを漁って夜食を作るときに使ったのであろう調味業を収納に直す。最初はなんで兄の分までと思っていたが、そんなことを考えても家族にぶつけても、「あなたがすればいいでしょ」と返される。そうだけど、そうだけど、違うじゃん?なんでわかってくれないのという不満も、初めから持たなければ心が乱されることはないようで、無意味な不満は心の奥底に沈める。

 気分転換をするために、自分の部屋に戻り運動着に着替えた。

「お兄ちゃん、バスケの練習してくるね」

 返事が返ってこないことは知っているが、一応報告だけはしておく。兄の部屋を通り過ぎ玄関前に置いてあるバスケットボールを手にとって玄関を飛び出した。

 近所のバスケットゴールが設置されている公園に行くと、中学生ぐらいの女の子が一人でシュート練習をしていた。

「ねえ、一緒にシュート練習してもいいかな?」

 シュート練習に夢中になっていた女の子は、少し慌てたように「あ、どうぞ」とゴールを譲ってくれた。私は女の子にお礼を言って、三ポイントの距離からシュートを打った。そのボールは綺麗な曲線を描き、ゴールに吸い込まれる。

「おお、うまいね」

 声がした方に振り向くと、自転車に跨っている女の人がいた。どうやら私たちと同じようにバスケをしにきたようで、自転車のカゴからバスケットボールをとり出す。彼女が歩くたびに揺れる綺麗な髪の毛を慣れた手つきでまとめた。かっこいいな。その姿が凛としていて、自然に目がいってしまう。

「一緒にバスケしてもいい?」

「はい!」

 彼女は軽い足取りでドリブルをして、綺麗なシュートを決めた。その姿があまりにも滑らかで、見惚れてしまう。

「すごいです!」

「はは、ありがとう。あなたのシュートもすごく良かったよ」

「ありがとうございます」

 初対面の人に褒められるのはなんだか照れ臭くて、頭をかく。

「あ、あの!私にシュートを教えてくれませんか?その、この前の試合でスタメンを外されて…、次は絶対に試合に出たくて」下を向いて話す女の子に私と彼女は「いいよ。一緒に練習しよう」と優しく声をかけた。女の子は一瞬で表情が明るくなり、何度もシュートを繰り返した。その度に私と彼女にアドバイスを求めて、フォームを修正する。回数を重ねるほどゴールに入る回数が増え、フォームが安定してきた。

「すごいよ!すごく良くなったね!」

「ありがとうございます!」女の子は冷たい空気にさらされて赤くなった鼻を触りながら笑った。

「あの、私。二人みたいにもっと上手くなれますかね」

「なれるよ。絶対に」私が力強く応えると、女の子は下を向いて気まずそうに手をさする。

「でも、周りと比べてバスケの才能がないんじゃないかって最近思ってきたんです。周りの子は小学生の時よりもずっと上達してるのに、私は小学生の時から何も変われなくて」

 ああ、知ってる。その不安の感覚を。上手くなりたくてもなれなくて、結果が出せないことに焦って自分を責めて、他人を妬んで、また自分を責める。すごく自分が惨めに感じる感覚を。

「わかるよ。その感覚、すごくわかるよ」女の子から目を逸らして、つぶやいた。

「私には自慢の弟がいてね。その子は私が持っていないものを持っているのに、私のことをすごく尊敬してくれるんだ。私が一番、弟の才能を羨ましく思っていたのにね」

 私と女の子は心当たりがあるためか、静かに深く頷く。

「それでも弟が憧れてくれるから、一生懸命努力してたらさ。急に、とても追いつけそうにない人が現れるんだよ。たまったもんじゃないよね。それでもさ、無駄だと思ってたことが積み重なって、少しずつだけど変われるよ」

「そうですかね」

「うん。すごく長い道のりだし、いい方向に変われるとも言えないけどさ、変われるよ。あなたはバスケ好き?」

「はい。好きです」

「じゃあ、その夢を捨てないで。諦めてもいい。だけど、捨てないでね」

「はい!」

 女の子の表情が一気に明るくなる。そして、またシュート練習を始めた。彼女は私の方を向き直して、ふわりと笑う。

「あなたは何か変われた?」

「多分、変われました。けど、勉強も部活もできるってすごく望んでたはずなのに。なのに、何かが違うんです」あれ、私なんでこんなこと言ってるんだろう。

「そう、そうなっちゃうよね。私も同じだよ。けど、それが違うとわかっててまだ努力しているあなたはすごいね。すごく強い子」

「そんなことは…」

「あるよ。自ら暗闇に足を進めてるのと同じだから、すごく怖くて不安にだけど、それでも頑張るってすごいことだよ。だけどね、休みどころを学んだ方がいいかもね」

「休みどころ?」

「うん。休むのはすごく怖くて勇気がいることだけど。だけど、必要なことだよ。じゃないと…、いや、なんでもないや」

 彼女は「じゃあ、私そろそろ帰らないといけないから」と言ってバスケットボールを拾い上げた。

「あ、そうだ。名前聞いてもいい?」

「藍沢深紅です」

「深紅ちゃんね。私は柊恵。またね」

 柊…。もしかしてと思うが、彼女の後ろ姿に声をかけることをやめた。その憎たらしいほどの赤い背中に、私は何も言えなかった。


 二人と別れて家に戻る。そのままお風呂に向かい、汗をかいた運動着を脱ぐ。暖かいシャワーが身体を伝って冷え切った体を温める。お湯をパンパンにためたお風呂に身を沈めると、お風呂から大量のお湯が溢れ出す。お湯に顔をつけて、息を吐く。少し息苦しくなって顔を上げると、一気に空気が肺に入り込む。

「休みどころね」

 それがわかってたら苦労してないよ。それにあの人、『柊』って言ってたけど柊くんのお姉ちゃんかな。文化祭の時に柊くんが『恵』って言ってたし、きっとそうだよね。試合に両親がついていくから、文化祭には両親は来ないって言ってたけど、あんなにうまかったらやっぱり試合の時もすごいのかな。けど、なんかいいな。あんなにすごい人に自慢の弟って言われて、それに柊くんも弟くんのことを大切にしていて…。なんだかなー。ちょっとだけ、羨ましいや。

 のぼせる前にお風呂を上がりドライヤーで髪の毛を乾かす。そのドライヤーの音よりもでかい兄の怒声。近所迷惑になるなんてことは考えなくていい。だって私の家の両隣は耳が遠い老夫婦が住んでいて、向かいには殆どの時間仕事に行っている若いシングルマザーが住んでいるから。お陰様で、兄のゲームについてクレームが入ったことはない。

 髪の毛を乾かし終えて、兄の部屋の前に向かった。

「お皿、片付けるね」

 兄が食べ終えた食器を片付けて、お母さんが帰ってくるまでリビングで参考書を解く。どこの大学に行くとか具体的な話はまだしてないけど、選択肢を狭めないためにも勉強はしておかなきゃ。きっとお母さんが私のために進路を考えてくれる。だけど、この前のテストが頭をよぎって、不安に駆られる。その不安をかけ消すように勉強に打ち込んだ。

「深紅、ただいまー。あら、勉強してたのね。いい子ね」

「お母さんおかえり」

 私はすぐさまご飯を温めに、キッチンへ向かう。温めたご飯をテーブルに並べると、お母さんがちょうど部屋着に着替え終わったようで、椅子に座った。

「今日のご飯も美味しそうね」

「ありがとう」

 私は再び参考書を解き始めた。やはり頭の中には、この前のテストの点数がよぎっていて、焦りからペンを走らせる。

「深紅、そういえばこの前のテストどうだったの?返ってきたでしょ?」

「あ、うん。返ってきたよ」

 テストが終わると必ず全教科のテスト用紙をお母さんに見せることになっている。だからいつも高得点を取っても嬉しいではなく、心のどこかでホッとしている。だけど今日は違う。心臓がうるさく、うまく笑えない。

「テスト、見せて」

「うん。持ってくるよ」

 自分の部屋にいく足取りは重く、学生鞄からテスト用紙を取り出した。七十五点のテストを一番下に置いて、深呼吸する。

「お母さん、あのね。今回点数悪くて…」

「あら、そうなの。どうしたの」

「いや、特には…」

 恐る恐る渡したテスト用紙。それをお母さんが一枚一枚捲っていく。あのテスト用紙が顕になるまで、後三枚、二枚…。そして最後の一枚が顕になった時、お母さんの表情が曇った。

「何、この点数」

「ごめんなさい。その、調子が悪くて」

「で、この点数なわけ?いつも言ってるでしょ?いい点数を取って、いい学校に入って、いい企業に就職するの。深紅はまだ子どもだからわかんないかもしれないけど、いつかお母さんが言ってることが正しいってわかるわ。だから、わかるでしょ?」

「うん。ちゃんと勉強するよ」

「そうよ。ちゃんと勉強するの。今回みたいな点数を取ったらいい大学に入れないわよ。それは深紅もいやでしょ?」

「うん。いい大学に行けるように今のうちから勉強しておかないとね」

「そう、わかってるじゃない」

 そうだ。私のために選んでくれる選択肢を私のせいで狭めてはいけない。お母さんが私のためを思って言っているんだから。だから、私は神様の言うことを聞かないと。

「お母さん、私のためにありがとね。私、もっと頑張るから」

「分かればいいのよ。次は頑張りなさい。それに、私はお父さんの分まであなたを支える責任があるからね」

 お母さんは食べ終わった食器を洗い場に持って行って、お風呂へ向かった。私はそのお皿を片付けて、お父さんの仏壇の前で静かに目を瞑り、手を合わせる。これが長い一日が終わる合図だ。私が小学校六年生の時にお父さんは事故で亡くなった。その日のことを昨日のことのように鮮明に覚えている。あの日、私は犯した罪を忘れるわけがない。

 その日は、私のバスケの試合があって、どうしても大好きなお父さんに観にきて欲しかった。なんと言っても、大好きなチームメイトとできる小学生最後の大会だったからだ。

「お父さん、土曜日の試合絶対観にきてね!」

「土曜日…、そうか、試合だったよな。ごめんな、お父さんその日は仕事で行けそうにないんだ。代わりにお土産買ってくるからさ」お父さんは困ったように眉を下げる。

「そうやって、お父さんいつも試合観に来てくれないじゃん。今度の大会が最後なんだよ」

「ごめんな、仕事が入ってて――」

「そうやっていつもお仕事ばっかりじゃん。たまにはみんなのお父さんみたいに試合の応援に来てよ…」

「わかったよ。お仕事早めに終わらせて絶対見に行く」

「本当?」

「うん、約束する」

「やったぁ!」

 チームメイトが観客席にいる両親に手を振っているのを見て、いつも観客席にいるお母さんの隣が空席であることにどこか寂しさを覚えていた。お父さんはお仕事を頑張っているから仕方がないとわかっていても、その寂しさが埋まることはなかった。だから、お父さんが観に来てくれると言ってくれた時は心から嬉しかった。

 次の日の朝、眠たい目をこすりながら玄関へ向かうとスーツ姿のお父さんがいた。お父さんのスーツ姿はなんだか家にいる時と雰囲気が違くて別人のようだけど、スーツ姿で頑張っているお父さんも好きだった。

「お父さん、行ってらっしゃい。試合絶対観にきてね」

「行ってくるね。試合楽しみにしてるね」

「うん、お仕事頑張ってね」

「ありがとう。深紅、お母さんの言うことを聞いていい子でいるんだよ」

 この時は、お父さんが試合を観に来てくれる楽しみを胸に送り出したのが最後になるとは思ってもいなかった。お父さんは約束通り、主張を半日早く切り上げて空港から直接試合会場までタクシーに乗った。だけど、そのタクシーに飲酒運転をしていたトラックが突っ込んで、お父さんは帰らぬ人となった。

 私があの時、わがままを言わなかったらお父さんは死ななかったのに。家族が歪まなかったのに。お兄ちゃんも、狂ったようにゲームの世界に入り込まなかったし、お母さんも優しいお母さんのままだった毎週、お父さんとすごく楽しそうに出かけていたのにお兄ちゃんの笑顔を、あれから見ていない。元から内気だったお兄ちゃんは、お父さんがいなくなったことで家族とも話さなくなった。お母さんは、お父さんがいなくなって私に対して口出しするようになった。元から、バスケの試合について少し口出しされることはあったが、その度にお父さんが「深紅が楽しくできたなら、それでいいじゃん」といつも言ってくれた。だから、今のお母さんを止める人は誰もいない。全て私のせいだ。わがままの私が家族を壊した。

 お父さんが出張に行く前に最後に私に告げた言葉

「深紅、お母さんの言うことを聞いていい子でいるんだよ」

 ねえ、お父さん。私、お母さんの言うことを聞いて、ちゃんといい子だよ。苦手な掃除も洗濯も勉強もたくさん頑張ったんだよ。あの日からわがままなんて言ったことないんだよ。だって、わがままなんて言っちゃったらお父さんの時のように、大好きなお母さんとお兄ちゃんを困らせてしまうもんね。だからさ、お父さん。あの日、わがままを言っちゃったこと許してくれる? ねえ、返事してよ。もう、許して…。お願い…。



 平川未来


 教師、保護者、生徒が同じ空間で言葉を交わす。いや、交わしているように見える。さっきから生徒に質問しても保護者が横から模範回答を突き出してくる。

「お母さん、僕はこの子の口からちゃんと答えを聞きたいのですか」

「ですってよ?ちゃんと先生に自分の言葉で話しなさい。これはあなたの進路なのよ」

 先ほどまで会話の主導権を子どもに渡すがなかった保護者が急に、その主導権を放棄した。だからと言って生徒が抑圧されたこの空間で何かを言えるはずもなく、沈黙が流れる。

「この子は自分の意見を言えないんですよ。家で何かを聞いた時も黙ってばかりですし。すみません、先生にご迷惑をおかけして」

「いえ、この子が意見を言えるような環境を作ってあげられていない僕の責任ですし、これからゆっくりこの子の意見が聞けるように僕も頑張りますので」

「そんな、ありがとうございます」

「ちょっとずつでいいから、一緒に進路考えようね。僕は君の意見を尊重するから、大丈夫だよ」

 生徒の方に体を向けて優しく声をかけると、生徒は小さく頷いた。

「じゃあ、今日の三者面談は以上となります。今後ともよろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

「お母さんも何かお困りごとがあればいつでも相談くださいね」

「はい、ありがとうございます」

 親子が教室から退出したのを確認して大きくため息を吐く。三者面談では保護者が如何に自分の教育が正しいかを熱弁して、教師からの太鼓判を押されるのを待っている。家庭という閉鎖的な空間で行う自分の子育てが評価されることに敏感な保護者は僕の質問に対しての模範解答を常に探しているのだ。逆に、自分の子どもはダメなんですよと保険をかける保護者もいるが、何をみてそんな評価をしているのか、馬鹿らしくて聞きたくもない。たまにこんな両親に育てられたかったな、と思う保護者に出会う。だけどそんな保護者に縁もゆかりも無い僕は古傷を抉られる感覚に襲われる。今更だけど僕は教師に向いていないとひしひしと思い知らされる。

 三者面談の予定表にチェックを入れる。次が最後の一人。僕が見てきた中で一番の優等生、藍沢深紅。それがいいか悪いかを僕が評価していいわけではないが、もう少し肩の力を抜いて欲しいのが本音。まあ、僕にはその方法なんて教えられなし、知らないけど。

 三者面談で何を話そうか考えていると、ノック音が教室に響く。

「どうぞ」

「よろしくお願いします」

 深々と頭を下げる彼女と母親。

「よろしくお願いします。こちらにお掛けください」

「ありがとうございます!」

 親子揃って礼儀正しいと改めて思う。そして、なんと言っても親子揃っての笑顔が、過去の家族ごっこの舞台に立つ人たちと似ている。それに負けじと笑顔を絶やさない僕がどうこう言えるものでもないが。

「今日の三者面談では、お子さんの日頃の様子や進路のこと、あとは成績表をお渡しする流れになります」

 成績表という言葉に彼女の笑顔が一瞬曇ったような気がしたが、業務内容的に心の中で謝ることしかしてやれない。

「わかりました」

「そうですね、まずは学校生活では勉強も部活動もご活躍されていて、僕も他の先生たちもすごく誇りに思います」

「そうですか。よかったです」

「クラスでは学級委員をしてくださっていて、特に文化祭の時はリーダーシップがある子だなって思いました。それに、クラスメイトから信頼されていて、僕のクラスにいてくれてすごく嬉しいです」

「そうれはよかったです」

「ご自宅でのお子さんの様子はどうですか?」

「そうですね。私の仕事が遅いのでいつも家事をしてくれてて、ご飯なんていつも任せっぱなしなんですけど文句も言わずやってくれるいい子ですね。あとは、バスケが好きみたいで家事の間にバスケの練習をしてるみたいです」

「へー、そこまでしてるんですね。いつも良い成績とってるけど勉強はいつしてるの?」

 僕は保護者が話している間、終始笑顔の彼女に聞いたつもりだが保護者が答えた。

「勉強は私が仕事から帰ってきたぐらいに家事が一通り終わるみたいで、それから結構遅くまで勉強しているみたいですね」

「帰宅されるお時間帯をお伺いしても?」

「十時半ぐらいですかね」

 うちの子はこんなに頑張ってるんですよ、と目で訴えてくる。自分の子どもが周りから好評の優等生で、家でも良い娘。そうだよな、自分の作品が大賞を取ったら自慢するよな。だって、自分の作品があんたの自己肯定感を保ってんだもんな。

 僕は彼女の方に向き直る。

「藍沢さん。いつ休んでるの?自分の時間ちゃんとある?」

 彼女の笑顔が消えて、少し焦ったように「ちゃんと休んでます」と目を逸らした。

「そっか」

 保護者の方を向いてわざとらしく「少し自分の時間も必要ですかね?」と言ってみるが、「そうですかねー」と笑顔で交わされた。

「じゃあ、先に成績表をお渡ししてから進路のことを少しお話ししますね」

 僕が親子の前に成績表を置くと、さっきまでの親子の笑顔が歪なものになる。

「あの、今回成績が落ちたんですけどこれで志望校下げないといけないとかありますか?」

「いいえ。まだ受験まで一年ありますし、藍沢さんの成績が落ちたのは今回だけですので直接進路に影響しませんよ」

「それを聞いて安心しました」

「進路先はもう決めてる?」彼女の方を向くと軽く横に一振りした。

「この子には良い大学に入って、良い企業に勤めて欲しいんです」

「良い大学。そうですね、良い大学に入るのも大事ですが一番はこの子の人生なので、僕は担任としてこの子の希望する大学に入って欲しいですね。それが結果的に良い大学かもしれませんよ」

「そう、ですかね。この子はまだ十七歳ですし、私のように将来のことで苦労して欲しくないんです」

「もう十七歳ですよ。子どもは親が思っている以上に賢いですから、一度お子さんの意見も聞いてあげてください。大丈夫ですよ、この子はいろんなことを考えてますから、だからいろんな人から高い評価を受けているんです。それを大人でも難しいことですから」

「そうですね。まあ、少しなら」

「はい。じゃあ、これで三者面談は以上となります」

「はい。ありがとうございます」

「いえいえ。あと、藍沢さんは少し頼み事があるので残ってくれる?お母さん、少しお時間いただいても大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。深緋、先に車で待ってるね」

「わかった」

「では、失礼します」

「はい、失礼します」

 保御者が教室を出て、廊下から足音が聞こえなくなったのを確認して僕は口を開いた。

「三者面談お疲れ様。ごめんね、僕あんまりカバーできてなかったよね」

「いえ、そんなことは…、謝らないでください。お母さんはいつもあんな感じなので」

「そうなんだ。家で家事もやってるの?」

「あ、はい。掃除と洗濯とご飯は私の仕事なので。ご飯はお母さんとお兄ちゃんと私の三人分なのでそんなに大変ってわけじゃないです」

「そう。お兄さんは家事してるの?」

「いえ、お兄ちゃんは、その…、引きこもりで。いつもゲームしてて…、あまり顔を合わせ無いです」

「ねえ、もう一回聞くけどちゃんと休んでる?」

「はい。休んでます」いつもは目を見て話す彼女が、相変わらずこの言葉を口に出す時は目を逸らす。

「僕の目を見て言える?本当に休めてる?」

 彼女は僕の顔を見上げて口籠もる。

「いいえ。休めてないです…」

 俯いて話す彼女の髪が耳から落ちた。いつものような強さはなく、弱々しく感じる。

「もし家でも学校でも良いから不満が溜まってるなら、明日の放課後旧校舎の屋上に来よ。僕は君を救ってあげることはでき無いけど、愚痴の吐け口にならなれると思う」

「いえ、不満なんてないですよ」

 強がる彼女をよそに、僕は明るい口調で話し始めた。

「旧校舎の屋上はね、前言った子との思い出の場所でね、大人になった今もたまに行くんだ。日頃から人が来るわけじゃないけど、汚されたくないから壊れていた屋上の鍵まで直してもらってさ、こんなことまでしてちょっとダサいよね」

「そんなに大事な場所なんですか?」

「うん。ちょっとだけ自分に素直になれる場所だからね。俺ってみんなが思うような優しい人間じゃないし、綺麗な人間でもないから。それに、俺はその子を殺してる、ただの人殺しだよ」

 彼女は驚くことも怖がることもせず、僕の話を静かに聞いている。

「俺が一緒に心中しようって誘ったのに、俺だけ生き残ってしまってさ。あと、ついでに家族も俺のせいで壊れたし。ほら、良い人に見えなくなったでしょ?」

「はあ、そうですね」

「怖がらないんだ」

「怖くないです。先生は、先生ですから」

「そう。君はあの子みたいなことを言ってくれるんだね。今君の前に居るのが俺じゃなくてあの子だったら君の心を軽くしてあげられたのかな」

「どうでしょう。私はその人に会ったことがありません。今目の前に居るのは平川先生ですから」

「はは、そうだね。じゃあ、明日の放課後待ってるね。来るか来ないかは自由だから。またね」



 藍沢深紅


 昨日の担任との会話を思い出し、一日中考えていた。学校での不満。家での不満。そんなのあるわけないじゃん。

 私が、悩みを抱えてると思ってるの?

 私は、友達にも恵まれて、優しいお母さんも居て、他に何が足りてないの?

 だけど、担任の演じているとい言葉に似たものを感じたし、人殺しだと告白してくれたことには、ああ、ここにもいたんだって思った。

 悔しいけど、担任に惹かれてる。学校で人気があって、生徒から信頼されている先生が、人殺し?しかも、家を壊したって。いいじゃん。やっぱり人間、そうでなくちゃ。これで、順風満帆人生なんだよね、なんてつまらないことを言われるよりも、よっぽどいい。

 そんなことを考えていると、放課後になっていた。部活が無い日、いつもは佳澄と帰るのだが、あの日から会話をしていない。仲直りをしたいけど、こっちから話をするのは、正直気まずい。

 机から必要な荷物を鞄にまとめて、帰る準備をする。いつもと変わらない日常。だけど、今日は靴箱に向かわずに、旧校舎に足を進める。悪いことをしているわけでは無いのに、心がざわつく。旧校舎は特別教室が多く、あまり本校舎よりも人がいない。旧校舎に入り、階段を一段一段登る。途中で引き返すことも考えたが、今は担任と話をしてみたいと言う気持ちが強かった。屋上のドアの前に着き、深呼吸をする。勢いよく開けると、強い風が吹き、目を瞑る。

「来たんだね」

 そこには、ベンチに腰掛ける担任がいた。手招きさせ、担任の隣に座る。

「やっぱり、君は僕と違う選択肢を取るんだね」

 私は、担任の言っていることがわからず首を傾げる。

「ああ、僕だったから、ここに来ないってことだよ。大人から、悩みあるなら聞くよって言われて素直にいかないからね」

「はは、それを言った先生がそんなこと言います?」

「そうだね。けど、君が僕と違くて嬉しいよ。ここ、どう?僕のお気に入りの場所」

「いい場所ですね。初めて来たはずなのに、どこか懐かしいです」

「そう。気に入ってくれたならよかった」

 二人の白い吐息がその場を支配する。

「先生。私、学校でも家でも悩みなんてないです」

「だけど、ここに来た?」

「はい。先生が演じてるって聞いた時に、共感はしました。だけど、私は周りに恵まれています。先生が人殺しだって言った時は、こんなに人気な先生だって順風満帆人生じゃないんだって惹かれました。だけど、それだけです。私は悩んでいません」

「そう。この前の休めてないってことは、悩みじゃない?」

「はい。私がやるべきことをやるのは当たり前ですから」

「そっか。ここは僕と同じ考えなんだ。休むのは、怖い?」

「怖い?」

「うん。怖い?」

「わかりません」

「ちょっと、僕の過去の話してもいい?なんで人を殺してしまったか」

「はい」

 私が返事をすると、担任は優しい笑顔で「ありがとう」と言った。

「僕の家はね、物心ついた時から壊れれて。それを僕は必死に笑顔で取り繕ってたんだ。お父さんは、僕を出来損ないって呼んで殴るし、お母さんは僕のせいで怒られるってヒステリックを起こすしさ。その割には、僕ってまともに見えるよね?」

「はい」

「おかげで周りから好かれるように生きていけるようになって。敵を作らず、かといって人に優しくするのが偽善と疑われないように、取り繕えるようになってさ。でも、肝心のお父さんとお母さんは、満足してなくて、結局一度も褒められなかった。あんたらのために頑張ってんだよって感じなんだけどね」

 担任は笑顔で話しているが、少し寂しそうに見える。それに、両親に褒めてもらいたから頑張るとという、子どもみたいな理由に共感する。

「前言ってた女の子、千愛って言うんだけどね」

「千愛さん?」

「そう、千愛。千愛のお母さんは、千愛のことなんて二の次で彼氏をつくっては、遊んでいるような人で。それでも、お母さんが好きな千愛は、お母さんのために料理を習ったりして頑張ってたのに、報われなくて。結局最後は、千愛がお母さんを守るために彼氏を殺したけど、それを追ってお母さんも目の前で亡くなってしまって、この屋上で飛び降りようとしてたところを僕が見つけて心中することにしたんだ」

「先生も死にたかったんですか?」

「僕は、消えたかった」

「そうですか」

「うん。結局死んだのは、千愛だけでさ。しかも、千愛は一人で死ぬつもりだったらしくて、丁寧に僕に手紙まで残していったんだよ」

「なんて書いてありました?」

「人を救ってから会いに来てって。僕にできるわけないじゃん」

「難しいことを言いますね」

「ほんとにね」

「先生は、千愛さんに手紙書いてないんですか?」

「うん。書いてないよ。その時は自分に手紙を書いた」

「遺書ですか?」

「遺書というか。後悔というか。自分自身を理解しようとしなくてごめんなさい。拒絶してごめんなさいって書いたかな。これ、ただの謝罪文だね」

「どういう意味で書いたんですか?」

「演技してない僕を殺したのは、一番嫌ってたのは僕だから、認めてあげなくてごめんっていう謝罪。本当は、演技をしてない僕がいたから、千愛と心を通わせられたから感謝してるんだけどね」

「そうなんですね。演技してない、自分…」

「そう。少しは心当たりあるんじゃない?」

「心当たり…」

「この前の三者面談の時、お母さんに遠慮してたでしょ。本当は何か言いたかったことがあるんじゃない?成績のことだって、そうでしょ」

「ないですよ。成績が落ちた私のせいですし」

「本当にそう思ってる?成績の話が出た時、笑顔が消えてたよ」

「気のせいですよ」

 私は、担任を睨んだ。三者面談は、ちゃんと笑顔で対応していた。そう、絶対最初から最後まで笑えていた。

「今、僕の言葉に少しイラついてるでしょ。本当は笑えているか心配だったんじゃないの?」

「イラついてません。私は笑えていました」

「そう。じゃあ、僕が君のお母さんの教育方針が素晴らしいって褒めちぎっても、嫌な気持ちにならない?」

「それは…」

「ごめんね。ちょっと意地悪だったね。君のお母さんの教育は、少し歪んでるよ」

 担任は、痛いところをついてくる。いつもいつも、心を見透かされているようだ。

「ねえ、生きづらくない?」

 その言葉に、胸が締め付けられる。一番シンプルな問いが一番胸に刺さる。

「ああ、ごめん。君は優しい言葉では本音を出してくれなそうだったから。必要以上に傷つけたくはなかったけど、ごめん。僕は傷つけられて生きてきたから、人を傷つけるのは得意みたいなんだ。だから、励ましの言葉よりも心に刺さりやすいかも」

 担任は、頭を下げる。傷つけられて生きてきたから、人を傷つけるのは得意。なんとなくわかる気がする。私も多分、人を傷つける方が得意だ。それに、人の顔色を窺って生きていきすぎて、人の機嫌がわかってしまうようなものか。まあ、生き残るために勝手に吸収された能力だ。使い方は、本人が決めていいだろう。だから、いつもそれを人の役に立つ方に使っている担任は、すごい。

「先生。平川先生は、生きづらくないんですか?」

 やっぱり、私も人を傷つける方が得意のようだ。さっきまで笑顔だった担任の顔から、笑顔が消えた。

「俺は…、いや、俺も、生きづらいよ…」

 いつも人の目を見て話す担任が、初めて下を向いて話すのを見た。

「先生。私、小学校の時にお父さんを交通事故で亡くしました。それも、私が見にきて欲しいって言った試合に、お父さんがタクシーで向かう途中に事故に遭ったので、私が父を殺したようなものです。だから、私は人殺しです」

「そっか。同じだな」

「それから、お父さんと仲の良かったお兄ちゃんは引きこもってゲームをするようになって。お父さんがいなくなったことで、お母さんが私に依存するようになりました。初めは、お父さんが死んだのは私のせいだと思って、お父さんがいなくなる前の家族に戻りたくて頑張っていたんです。でも、家族が変わることはなくて、むしろ音を立てて壊れるんです。だから余計に、頑張らなくちゃって思って勉強も部活も頑張ったんですけど、お母さんは満足してくれなくて」

「うん。頑張ったのをお母さんに見て欲しかった?」

「はい。お母さんに見て欲しかったんです。頑張ったねって言って欲しかったんです」

「俺と一緒だね」

「はい。それで、だんだん学校で羨ましいと思ってもらえるぐらいにはなったんですけど、それでもお母さんは認めてくれなくて。私ってそんなに、お母さんの視界に映る価値もないんでしょうか」

「あるよ。藍沢さんは頑張ってる。そうでしょ?」

「この前成績のことで、佳澄に『なんで二位になったのに悔しくないの?頑張ってる私がバカみたいじゃん』って言われたんですけど、佳澄が頑張っていることは私も知っていたから、『佳澄は頑張ってるよ』って言ったら余計に怒らせちゃったみたいで。人付き合いもそれなりにこなせるようになったと思っていたんですけど、やっぱり難しいですね」

「そうだね。難しいよ、人と生活するのは」

「そうですね」

「学校での生活は我慢してない?お母さんの要求に応えることが義務になってない?」

「そうですね。正直…しんどいです」

「そっか。けど、やめられない?」

「はい」

「そうだよね。俺もだよ。俺も、まだ両親の期待に応えようとしてる。もう褒めてもらえるなんて希望を捨てたはずなのに」

「そうなんですね。私も、お母さんに見てもらえないとわかっていても希望が消えません。お母さんの自慢になりたいんです。ただ、小さい時のように、お父さんが言ってくれてたように『頑張ったね』って言って欲しいんです。これって贅沢ですか?先生」

「贅沢なんかじゃないよ」

「もう、あの時のような家族に戻れないとわかってても。私、家族が大好きなんです。母さんも、お兄ちゃんも、そしてお父さんも。大好きで、嫌いになれないんです」

「藍沢さんにとっては大事な家族だからでしょ。いいよ、好きでいて」

「けど、家族は私のこと、私のことを…好きじゃないって、わかってはいるんです」

「そっか」

「私、本当はお母さんの言う通りに生きるのが苦しいんです。本当は他にしたいことも、夢だってあるんです。でも、それを誰も許してくれない…」

「それだけ周りにとって藍沢さんの存在が大きくなってしまったんだね。それなのに誰もその努力を知ろうとしない」

「そうなんです。誰も私の努力には興味なくて、興味があるのはキラキラしている私だけ。何も知ろうとしない人間なんてみんな消えればいいのに…」

「俺もだよ。ドス黒い感情がこびりついて、こいつ死なねーかなっていつも思ってる。何も知ろうとしない人間も、通り過ぎていく人間も、助けてくれなかった人間も」

「毎日、毎日、頭の中を黒い感情でいっぱいなんです。私、本当の自分を曝け出したら殺人犯なんでしょうか」

「どうかな。それを殺人犯と呼ぶなら、僕も立派な殺人犯だ」

「はは、そうですね。佳澄はこんな私に『したいことをすればいいじゃん』って言ってくれたんです。平川先生、私みんなよりほんのちょっと憧れが大きかったみたいです」

「そっか。ねえ、最後に泣いたの、いつか覚えてる?」

「覚えてないです」

「もう泣いていいよ」

 担任の方を見ると、いつの間にか視界がぼやけていた。人前で涙をこぼすなんて、お父さんが亡くなって以来だ。だって、私は強く生きなきゃいけなかったから。涙を流す暇なんてなかった。誰かに弱さを見せている場合じゃなかった。そうだ、私は強くなくちゃ。涙を拭いて笑顔を作る。

「無理に笑顔を作らないでいいよ。おいで、強がりにも限界はくるよ」

 担任は私を優しく包み込んだ。外が冷えるからか、人の温もりを久しぶりに感じたからか、余計に温かくて心地よい。一度流れた涙が簡単に止まることはなく、顔を上げられそうにない。

「今までよく頑張ったね。お疲れ様」

 その言葉を本当に言ってほしい相手では無いのに、涙が止まらない。

「真面目に生きるのは息苦しくない?」

「そう、ですね。しんどいです。非行をしたいわけでも、犯罪を起こしたいわけじゃないですけど、誰も知らない場所でパーっと羽を広げて、自分を表現してみたいです」

「奇遇だね。俺もだよ」

「先生、家に帰りたく無いです」

「そう。じゃあ、行くでしょ?どっか」

 担任は子どものような笑顔で、車の鍵を指で回した。

「はい!行きます!」



 *



 気づけは、あたりは暗くなっていて一層寒さを引き立てていた。担任は「風邪引いたら困るね」なんて言いながら、自動販売機でホットレモンを買ってくれた。私は温かいホットレモンで両手を温める。悴んだ手が徐々に温まり、生き返るようだ。

 担任が「どうぞ」と車のドアを開けてくれたが、急に我に返って担任の車に乗るのってどうなんだ、と思考が過ぎる。それを担任も察したようで、首を傾げる。

「大丈夫、僕を信用して。それとも、家に帰りたくなった?」

「いえ、その、先生の立場は悪くなったりしませんか?」

「ああ、そんなこと気にしてたの。いいよ、今は何も気にしないで」

「じゃあ、お願いします」

「うん。どうぞ」

 助席に乗り込むと、少しワクワクした。非日常的な、悪いことをしているような感覚が、妙に正義感を刺激する。

「行きたいとこある?」

「特に無いです」

「じゃあ、俺が行きたい場所に行くね」

「はい」

「お母さんは、何時に帰ってくる?」

「今日は、十時半ですね」

「そっか。今は、家出を手伝えるわけじゃ無いから、それまで楽しもうね」

「はい!」

「じゃあ、行こうか」


 車内での担任は妙に子どもっぽくて、少し面白かった。こんな内面を持っている人間が、学校ではあんなに大人びて見えていたのが不思議だ。そして、別人と思えるほど、口調が悪い。けど、こっちの方が親しみやすい。

「俺、そんなに優しい先生に見えんの。ウケるね」

「はは、今の先生を見たらみんなびっくりしますよ」

「だろうな」

「だけど、私はこっちの平川先生の方が好きですよ。学校の先生も、今の先生もどっちも優しいから、親しみやすいんだと思います」

「藍沢さんも、千愛みたいなことを言うんだな」

「そうですか、千愛さんは先生の良いとこを良くわかってますね」

「はは、褒め上手だね」

 それからしばらく会話を楽しむと、車が止まった。車を降りると、強い風が吹く。

「塩の匂い?」

「そう。海だからね」

「暗いのに海ですか?」

「うん。俺と千愛の大切な場所」

「そうなんですね」

「うん。寒いから、これ着ててね」

「はい」

 担任は、後部座席に置いてあったジャンバーを貸してくれた。

「じゃあ、行こうか」

 しばらく歩くと、浜辺に来た。誰もいない夜の海から、静かな波の音と二人の足音だけが聞こえる。せっかくならと思い、海に近づいて海水に触れてみる。予想通り冷たいが、そんなことより…。

「綺麗…」

「だろ」

「はい。全てを包み込んでくれそうで、身を引き寄せられるみたいです」

「そっか。答えたくなければ答えなくて良いけど、自殺願望があったりする?」

 私は、砂浜を触りながら考えた。先生に言うか、言わないか。困らせちゃうんじゃないか。いや、この人なら、もう私の答えなんてわかってるか。

「ありますよ。自殺願望」

「同じだな」

「やっぱり、先生は『死にたいなんて言わないの』なんて、薄っぺらいことを言わないんですね」

「はは、俺がそんなこと言うと思う?」

「言わないと思います」

「でしょ」

「死にたいと思うのは、病んでるからでしょうか」

「病んでる。病んでるかー、そんなことを言ったら俺は物心がついた時から病んでるな」

「それは、病んでると言うより、そうゆう思考の人じゃないですか」

「そうだよ。生きる理由がある奴が生きやすいわけじゃないし、死にたい奴が生きにくいわけじゃないだろ」

「先生は楽観的なのか、悲観的なのかわかんないですね」

「さあ、どうだろうね」

 担任は楽しそうに笑う。

「実は、あそこに見える崖から俺と千愛は飛び降りたんだよ」

「飛び降るのは怖かったですか?」

「怖くないよ。この世に未練なんてないから。だから、飛び降りた時に地球から追い出された感覚がしてほっとした」

「そうなんですね」

「うん」

「あの崖には、それから行ってないんですか?」

「うん。今はあの場所に行く勇気はないけど、千愛が死んでから初めてこの海に行けた。だから、今日はありがとね」

「次は、あそこに行けると良いですね」

「うん。次は、必ず会いに行くよ」


 楽しい時間はあっという間に過ぎ、不安が過って何かを頑張ることもなく。家のことを考えて、家事をすることもないのはいつぶりだっただろうか。気づけば、十時を回っていて家の前に車が止まっていた。

「今日はありがとうございます。泣いてごめんなさい」

「謝らないで、泣くことは恥ずべきことじゃないし。それに、俺の用事に付き合ってもらっただけだし」

「先生は、人前で泣いたことありますか?」

「覚えている限りだと無いな。泣くほど弱くもないし、泣けるほど強くもない」

「何も気にせず泣ける日が来るといいですね」

「うん。そうだな」

「きっと来ますよ」

「うん。きっと」

「あ、そうだ。連絡先、渡しとくね。不満が溜まる前に連絡しなよ。今日みたいに、ストレス発散には付き合えるから」

「ありがとうございます」

「あと、死にたくなったら、俺も連れてってね。自殺を止めない不完全な教師だけど、一緒に千愛に会いに行こう」

「はい。平川先生、今日は助けていただいてありがとうございます」

「助けたなんて、俺は何もしてないよ」

「先生にとってはそうでも、私にとって、どれほど嬉しかったか、救われたか考えたことありますか?」

「ないね。俺が何もしなくても藍沢さんは強いから、勝手に前に進んでいってた」

「はあ、先生は自分の影響力を知ろうとしなさすぎです」

「藍沢さんは俺を過信しすぎ」

 私が眉を顰めると、担任は困ったように笑った、

「俺は誰も救えないよ。誰の言葉も僕に救済を与えないことを誰よりも理解してる。だからこそ、そんなに簡単に救われたなんて言われても、俺が困る。人はそんなに簡単に変わらないし、変われないだろ」

「はは、捻くれてますね」

「そうだな。捻くれてる」

「じゃあ、私が証明してみせます!先生が人を救っていることを」

「はは、変なことを言うね」

「変じゃないです」

「そう。じゃあ、楽しみにしてるよ」

「はい」

「じゃあ、また明日」

「はい。また明日」



 柊優雨


 公園に差し掛かる朝日が眩しくて、目を細めた。冷たい空気が鼻を啜って、くしゃみをする。ポケットから、恵にもらったカイロを取り出すと、微かに温もりが残っていた。そういえば、時間を確認するものを持っていなくて、時計の便利さを実感する。今何時だよ。恵が来るって言ってたの、七時だったか。いつもあるものがないって不便だな、なんて思いながら、もう一度目を閉じる。

 これからどうしようか。親を殺す。これは決定事項として、他にやりたいこと…。

 あれ、俺って毎日何を楽しみに生きてたんだっけ。

 毎日、殴られて、蹴られて、罵声を浴びて、それで、それで…。

 あ、それだけか。

 俺が親を殺したら、みんなどう思うかな。

 心温は俺を軽蔑するかな、それとも俺のことを知らなくてごめん、なんて泣くのかな。

 恵は、俺が両親を殺す気持ちを一番理解してくれているから、褒めてくれるかな。

 棗は怒るだろうな。ごめんな、棗。俺、最後までダサいお兄ちゃんだ。

 ああ、それと平川先生。あの人は、俺が人殺しになっても、なんとなくだけど、今まで通りに接してくれそうだ。だからなんだって話だけど。

「優雨」

「ああ、おはよう。恵」

 恵が鞄を渡してきた。そこには、携帯と数万円が入っていた。両親の言いつけで、家に毎月七万円を入れている恵にとっては、この数万円は貴重なはずなのにと胸が痛む。

「これからどうするの?私、考えたんだけど一緒に家出しない?私と優雨と棗の三人で」

「恵、もう無理だよ。遅いよ。家出をしたところで、親を殺したい気持ちは抑えられない。だから、恵と棗でどこか遠くで幸せになってよ」

「ばか!なんでその幸せに優雨もいようとしないの?」

「今更幸せになれるはずないだろ。見ろよ、俺の身体。こんなにボロボロなんだよ?幸せそうに見える?」

「そ、それは」

「それに、俺だち三人で生活するお金なんてどこにもないだろ」

「お金なんて気にしなくていい!私が、何とかするから!」

「そうやって、また一人で何とかしようとする!少しは俺を頼れよ」

「じゃあ、優雨も私を頼ってよ!!」

 俺の胸ぐらを掴む恵の力が、弱まる。

「もう無理だよ、恵。歪んだ俺が、歪んだ人間を殺す。それだけだよ」

 恵が下を向いたと思えば、涙が溢れた。恵の涙は、あの日以来だ。

「ねえ、私たち…、棗さえいなければ…、こうはならなかったのかな」

 目の前で壊れていく恵を、力強く抱きしめた。

「ごめん、恵をそこまで追い詰めてたんだな」

「違うの!棗は、好きだし。棗のためなら、なんでも頑張れる。だけど、もう、私が限界なの。お姉ちゃんって役割が…」

「恵、今まで役割を押し付けてごめん。両親の期待を押し付けてごめん。両親が恵に向けるものが愛情じゃないことに気づいてた。いや、気づかないふりをして、両親に見てもらえてる恵が少し羨ましかった」

「結局、私たちはどこまでいっても愛されなかったね」

「うん。だけど、こうやって歪んだ家で育っても、兄弟は大事にできてる」

「優雨は限界が来てない?」

「ああ、そんなのとっくの前にきてるさ。だから、壊すんだ。何もかも」

「もう、これしかないのかな」

「うん。後戻りできないよ。もう十分あいつらへの殺意が膨れ上がってる。ごめんね、こんな弟で」

「私は優雨が弟で誇りに思うよ」

「そっか。ありがとう。お姉ちゃん」

 俺が笑うと、恵が顔を上げた。その泣き笑いが綺麗すぎて、思わず抱きしめた。

「お姉ちゃん、バカな弟でごめん」

「本当だよ、ばか」



 *



 両親のことを気にせず、恵とたくさんの思い出を話した。真っ黒の過去にほんの少し重なる楽しかった記憶。数えるほどしかない楽しい記憶をかき消すのは、両親のから浴びた言葉たち。俺は幸せになってはいけないと、痛いほど教わってきた。おかげさまで幸せなんてものに憧れなくなった。自由に羽ばたく羽をむしり取られ、反抗しないように腕をもがれ、逃げないように足をもがれ、口答えしないように舌を切られ、希望を見ないように目を抉り取られ、最後に残った耳を澄ます。

「あんたを見てたらイライラするわ」

 俺もあんたらを見るとイライラが止まらねーよ。

「あんたなんか産まなければよかった」

 俺もあんたに産んでほしくなかった。

「何であんたは生まれてきたのかしら」

 俺が聞ききてぇよ。何で俺なんかを産んだんだよ。

「あんたなんか…、あんたなんか…」死ねばいいのに。

 両親からかけられた言葉たちは何一つ忘れてやるか。直々に刻み込んでもらった身体の痛みだって、ほら、しっかり残ってる。あいつらの殺意を忘れてやるか。

 やっぱり最後は、両親に迷惑をかけてあいつらのバケの皮を世間に晒しあげて、苦しんで死んでもらわないと。

 そうと決まれば、どうやって両親に迷惑をかけられるか。

 携帯を開くと、あるニュースの通知がなった。

「ああ、これだ」

 これしかないと確信して、SNSのアカウントをすぐさま作成する。それらしい投稿文を作成して、投稿ボタンを押す。

『××市の家出少年、十七歳。誰でもいいので家に泊めてくれませんか。連絡お待ちしています』

 うまく釣れるかわからないが、とりあえずこんなものか。

 これが上手くいかなかったらどうするかな。

 あ、そうだ。最後に棗に会うか。

 今は、えーと、十時か。じゃあ、もう学校にいるよな。

 学校まで会いに行くかぁ。

 あ、でも、制服…。まあいいか、そんなもの。

 最後、最後だもんな、学校に行くの。はは、最後か…。


 平日のこの時間の通学路は知らない道のような気がする。人通りが少ないからか、いつもより風が冷たい。いつもは、心温の笑い声が聞こえるはずの道なのに、誰一人として笑顔でこの道を歩いていない。あの人も、あの人も、みんな何かに急かされて、機械的に歩いている。誰も、私服で通学路を歩く高校生に目を向けるものはいないおかげで、学校の前にたどり着いた。

 閉まっている校門を少し開け、学校の中にはいる。ちょうど警備員がどこかに行っているようで、中に入れた。どうやら今は授業中のようで、校内は静かだ。

 少し歩くと、楽しそうな声が聞こえてきた。どうやら校庭で体育の授業をしているらしい。青春だな、なんて思いながら、微かに見える校庭から目を逸らす。そこに映ったのは、文化祭で2年b組が焼きそばを出していた場所だった。

『つまらない日常でも小さな幸せを必死に見つければ、自分が幸せだと錯覚できるでしょ?』

「藍沢さん、俺には錯覚すらできなかったよ」

 あの人は、これからも幸せだと錯覚して生きていけるといいな。いや、俺が心配しなくてもあの人なら、大丈夫か。何となく、だけど。

 棗の教室に向かうために、一年生の棟に向かう。棗に迷惑がかかりそうなら、遠くで見るだけ…。そう思っていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「兄を助けてください!」

 一年生の塔の入り口で、俺の担任である鈴木先生と棗の担任である山口先生に頭を下げる棗の姿があった。

「棗?」

「優雨、兄ちゃん?」

 私服の俺を見る鈴木先生と山口先生の同情と嫌悪の目が痛い。

「柊君。今、ご家庭のお話を聞いてね。かわいそうに。大変だったわね」

 カワイソウニ?

「柊、親御さんと喧嘩したんだってな?まあ、あれだ。反抗期ってやつだろ?俺もあったから安心しろ」

 アレガ、ハンコウキ?

「ご家庭が大変なら、頑張らなくていいのよ。可哀想に、大丈夫?」

 だから、さっきからそのカワイソウ二って勝手に決めつけるのは何なんだよ。

「山口先生。俺、可哀想じゃありませんよ。それに、先生だって親の介護で忙しいって言ってましたよね。それは、カワイソウじゃないですか?」

「そ、それは、私は大人だし、可哀想じゃないのよ」

 なんだ、自分がカワイソウって言われたら、こんなに傷ついた顔する癖に、簡単に人のことはカワイソウとか言い張るんだ。

「なんだ、柊。山口先生は柊のことを思って、言ってくれたんだぞ。ありがとうございますだろ」

「――ありがとうございます」

 心の籠もっていない感謝を述べると、なぜか鈴木先生が誇らしそうな顔をしている。

 ああ、こいつもか。独りよがりの偽善で、他人を救った気になって酔いしれるやつ。気持ち悪りぃ。

「俺も、このぐらいの時はいつもお袋と喧嘩しててな。うぜーなって思ってたけど、喧嘩してても絶対弁当だけは作ってくれてて。今はわからないかもしれないが、親になるとわかるぞ。思春期の子どもと関わる親の偉大さが。親も人間だからな、案外子どもに言われたことでダメージになることもあんだぞ。だから、いくらムカついても、親御さんを大事にな」

「子どもも人間です。親に言われて、傷ついた言葉がたくさんあります」

「それはそうだろ。人間同士で関わっていたら、多少の傷つけ合いは我慢しないとな」

 何だよそれ。

「あ、それと。いくら喧嘩してるからって、子どもを嫌う親なんていないからな。柊もそうだろ?いくら喧嘩したって結局子どもは親が好きだろ」

 何それ、バッカみたい。子どもを嫌う親はいない?子どもは親が好き?そんなわけねーだろ。子どもは親の道具だ。この世に生み落とされた瞬間から、そう決まっている。愛情なんて、愛なんて、親からもらったこのとねぇよ。

「鈴木先生は俺の何を知ってるんですか?」

「そりゃあ全部知ってるさ。担任だぞ?柊、お前は素直な子だ。お前の素直な気持ちを親に伝えればわかってくれるさ」

「はあ、そうですか」

「またなんかあったら、俺が聞いてやるからな」

 再び誇らしそうな顔をする鈴木先生にイラッとするが、家族に対する価値観が違いすぎる。家族に大事に育てられたやつは、人を傷つけてることにも気づかないのか?痛えよ、あんたのナイフ。

「じゃあ、明日はちゃんと学校に来るんだぞ。制服でな」

 そう言って先に鈴木先生はいなくなった。

「柊くん、いつでも相談に乗るからね。私ができることはなんでもするから」

「はは、先生は何もできないですよ」

「そんなことはないわ。私ができることはなんでもする」

「先生、俺たちがどれだけ人の顔色を窺って生活してきたと思ってるんですか。先生は、俺たちのことを可哀想としか見れなくなってる。そのくせ、深く関わりたくないと思ってる。いや、深く関わる度胸がない」

「そ、そんなことはないわ。力になりたいと思ってる」

「そうですか。じゃあ、俺たちをどう助けてくれるんですか。俺たちの歪んだ人格も刻み込まれた痛みも、へし折られた希望も全て救えますか?」

「そ、それは」

「いいんですよ、先生。中途半端に関わろうとしないでください。何もできないのに、無駄に希望を見せないでください」

 棗は冷めた目で山口先生を見下す。

「先生に僕たちを分かろうとしないのに、何ができるんですか。大人だから僕の知らない僕も知ってるんですか?じゃあ、答えてください。普通に生きるってどうすればいいんですか?どうやら僕たち普通からかけ離れた家に生まれたみたいです。そんな可哀想な僕たちに普通の生き方とやらを教えれるなら教えてください」

 山口先生は下を向いて泣き始めた。やっぱり、あんたは俺たちとは別の世界で生きてきた人間だ。

「親の顔色を窺わずに生活するってどんな生活だよ、先生。家族といると楽しいってどんな感覚?親に褒められるって、親に見てもらえるってどんな気持ち?先生…親に愛されるって幸せ?」

 俺の言葉にひたすら泣くことしかできない山口先生。これ以上付き合ってられない。

「先生、ごめんなさい」

 そう言って棗と二人でその場を離れた。

「棗。ごめん。恵と幸せになってほしい」

 棗に腕を回して、頭を撫でる。

「優雨兄ちゃん、いかないで」

「ごめん、棗。兄ちゃん、もう戻れないや」

「あいつらのせい?」

「そうだよ」

「あいつらがいなくなればいいの?」

「そうだよ。この手で消すんだ」

「そしたら、幸せになれるの?」

「幸せになれるよ」

「優雨兄ちゃんも?」

 その言葉に体が反応する。幸せになれるのか。そんなのどうでもいいだろ。だって、どうせ無理なんだから。

「幸せになれるよ」

 さっきまで俺の胸に蹲っていた棗が顔を上げた。近くで見ると、記憶よりも成長した、凛々しい顔があった。

「優雨兄ちゃんって嘘を付くのが下手だよね」

「え?」

「いつも無理して笑ってさ。今もそう、無理して笑顔を作らないでよ。それに嘘をつく時は、必ず頭を触るよね」

 棗に言われて気づいた癖。無意識に頭の上に乗っていた手を下ろす。

「嘘なんてついてねーよ」

「はあ、僕がどれだけ優雨兄ちゃんと一緒にいると思ってるの」

「俺は幸せになれる。いや、なる」

「無理しなくっていいって。僕は優雨兄ちゃんと恵姉ちゃんの優しい嘘に気づいてるよ」

「棗に嘘なんかついてねーよ!」

「いや、ついてる。ずっとついてくれてる。けどさ、僕ってそんなに頼りない?」

「頼れるさ、俺の自慢の弟だから」

「そうやってまた誤魔化す。ねえ、優雨兄ちゃんって僕のことを知ろうとしてる?弟としてじゃなくて、棗として」

「そんなの当たり前だろ。棗のことなら、何でもわかるさ」

「多分だけど、僕が優雨兄ちゃんと恵姉ちゃんに付いてる嘘、バレてないと思うんだ」

「嘘?」

「うん、嘘。あいつ、みんながいない間に僕を可愛がるから」

「なんのことだ?」

「僕が、母親の愛玩動物ってこと」

「は?それ、本当に言ってるのか?」

「うん。本当だよ」

「クソが!あいつら、地獄に叩き落としてやる」

「優雨兄ちゃん!別に、あいつらの殺意を膨らませたいわけじゃない。ただ、僕のことも頼ってよ。二人からして、僕ってそんなに頼りない?僕もあいつらに対する恨みなら充分持ってるよ。それとも、弟だから?弟だから、僕は守られる役をし続けないといけないの?僕だって戦えるよ。見てよ、僕ってそんなに弱そう?」

「棗、ごめん。俺達が棗を勝手に生きる理由にして依存してた。俺達は弱いから、そうしないと、壊れちまうんだ…。理由がないと、こんなクソみたいな世界で生きていけないんだ…」

「うん。それで二人が生きてくれるならそれでいいよ。それでも、僕を頼るのはできない?」

「こんなに頼りない兄ちゃん達でごめん、棗。やっぱり、俺、一人で何とかするよ。幸せになってなんて難しいことは言わないから、せめて二人で生きて」

「優雨兄ちゃん。いや、優雨。僕が望んでなくても、そんなに苦しい兄という役割をし続けるの?」

「ああ、そうだよ。今更崩せない。だから、棗。もう少し、兄ちゃんをさせてくれ。愛してるよ、こんな頼りないやつを兄ちゃんにさせてくれてありがとう。じゃあな」

 絶望に似た傷ついた顔をした棗を残して、逃げ出すように走り出す。

 結局何も守れてないじゃねーかよ、クソが。

 ああ、俺が棗を傷つけてどうするんだよ。

 本当にどうしようもないな、俺は。兄としても、弟としても。

 死にてーよ。つれーよ。誰が殺してくれよ。

 なあ、なんで俺がこんな惨めな気持ちにならないといけないんだよ。

 これも全部、あいつらのせいだ。

 あいつらさえいなけらば、俺達は傷つかなかった。

 それに傷ついた俺達を誰も理解しようとしない。

 結局、殺すしかないんだ。

 もう充分、頑張った。充分、戦った。充分、解決策を探した。けど、もう無理なんだ。どこを見ても真っ暗な暗闇にしか繋がってなくて、耐える選択肢しか見つからなかった。どこを探しても、戦う、改善する、逃げるという選択肢に辿りつかなかった。かといって諦める選択を取るのも難しくて、ここまで耐えてきた。けど、もう無理だ。耐えるのだって限界がある。三人で壊れるよりも、俺がやらなきゃ。ごめん、棗。ごめん、恵。愛してる。



 平川未来


 旧校舎の屋上で一服する。授業中に教員が何してるんだと自分で思いながら、今は担当授業がないからいいだろと、誰かに言い訳をする。その誰かが、言い訳をするなと言っているが、聞こえないふりをした。

 目を閉じて、昨日の夜のことを思い出す。道中、千愛と過ごした記憶が鮮明に甦り、何一つとして記憶が薄れていなかった。私を覚えていてなんてことをいう寂しがり屋の千愛のおかげだろうか。おかげで、千愛を忘れないという約束は果たしている。後一つの約束。誰かを救うことがいつまでもできそうにない。

「じゃあ、私が証明してみせます!先生が人を救っていることを」

 はは、すごいことをいうね。僕よりよっぽど夢を見てる。けど、少し羨ましい。

 だけど、人を救うということを現実にしたい俺もいる。

 無理だと思っているけど、現実になってほしい。酷い矛盾だ。だけど、本当にそう思う。

 目を開けると、汚れを知らないような空があった。あまりにも、自分とは違いすぎてため息をこぼす。吸い終わったタバコの火を消して、屋上を後にした。次の授業の準備でもするかと、職員室に向かう。すると背後から、足音が聞こえてきた。足音の方を見ると、切羽詰まった様子で今にも泣きそうな生徒が走ってきた。

 というか…泣いてないか?

 その生徒は、俺が見えていないようで俺の横を通り過ぎようとした。俺は慌てて、その生徒の手をガッツリ掴んだ。

「何があった」

「離してください!関係ないでしょ!兄ちゃんが…、優雨兄ちゃんが!」

「落ち着いて。お兄さんがどうしたの」

「だから、あんたには関係ないだろ。どうせ何もしてくれない。だったら、離しせよ!」

 悲鳴にも似た声で、俺を軽蔑したように睨む生徒。俺は、この目を知っている。絶望した目だ。何もかもに。救いの手など無いという現実を知った時の目。

「僕は君を見捨てない。僕を信じて」

「そうやって助けた気になるのが大人だろ!中途半端な覚悟でいい気になるな!」

 どいつもこいつも僕を拒絶しやがって、そんな目で僕を見るな。その目は、まるで『オトナ』を見る目じゃないか。あ、いや、そうか。僕、大嫌いなオトナになったんだった。

「ああ、そうだよ。大人なんてそんなもんだよ!でもお前が大人に助けを求めたいのも事実だろ!無力なガキが足掻いたってどうにもなんねーだろ!」

 生徒の舌打ちが響く。

「ああ、そうだよ!助けろよ!僕たちを、無力な僕達を見捨てるなよ!!」

「俺はあんたを見捨てない。俺も大人に見捨てらたことがあるから。それでも僕を敵だと思う?」

「そんなのわかんねーよ。あんたも大人だろ」

「そうだな。俺を頼れとは言わない。僕を使ってくれ」

 その言葉に生徒の勢いが止まる。

「それとも僕を頼る?」

「頼れそうとか、頼りなさそうとかわかんないよ…。人の頼り方なんか…、わかるはずない」

「そっか。じゃあ、君の力になるよ」

 生徒は相変わらず俺を見ていない。多分、僕のことを少しも信用してない。それでも、いい。

「君の名前を教えてもらっていいかな?」

「柊棗」

「柊?」

「はい」

「お兄さんって、柊優雨くん?」

「そうですけど…」

 不思議そうに俺の顔を見た棗くんが口を開いた。

「もしかして、平川先生ですか?」

「そうだよ」

「ああ、そうですか。通りで…。あ、いや、優雨兄ちゃんが平川先生の話をよくしてくれたので。平川先生なら、他の先生と違って僕たち兄弟を見捨てませんか?」

「うん。見捨てないよ。必ず」

「平川先生。僕たち兄弟を親という呪縛から助けてください」



 *



 柊さんを探すために、棗くんと急いで車に乗り込む。エンジンをかけて出発しようとした瞬間、後部座席のドアが開いた。

「平川先生!私も連れてって!」

「は?藍沢さん?ダメだ、連れていけない」

「この前は連れて行ってくれましたよね」

「うん。だけど、今回はダメだ。藍沢さんを巻き込めない」

「助手席にいるの棗くんですよね。それに、柊くんが泣いてたから力になりたい。これじゃダメですか?」

「先輩?」

「大丈夫だよ。平川先生なら私たちの味方だよ。それに私も柊くんの力になりたい。もちろん、棗んの力にもなりたい。私も平川先生に救われたから」

「はあ、どうせこれ以上言っても聞かないでしょ」

「はい」

「じゃあ、乗って。急ぐよ」


 車のハンドルを強く握る。道中、柊家の現状を聞き、忘れようとしていた記憶が蘇る。世間体を気にしている親の化けの皮は厚く、優秀で従順な息子と育てられた。勉強もスポーツもできて当たり前だと言われ、飼い主は「お前はまだ子どもだから何も知らないかもしれないが、親の言うことを聞いとけばいい」とレールを作る。もちろんどんなに努力しても褒められることはなく、親のレールの上を歩くことが自分の身を守る手段になっていた。家ではいい息子として、学校ではいい生徒として笑顔で取り繕っていれば、みんなと同じ普通になれた気がした。そんな僕を尊敬してくれる同級生のことを何も理解してくれない奴らと突き放してしまう自分が嫌いだった。みんなと違う家族の在り方に気付いても、これが普通の家族だと、愛されているに違いないと言い聞かせて、必死に身を削ってきた。全ては、親を自分の人生で悪役にしないために。

 それよりも、頭の中を占めていたのは、大人たちの対応。

「要するに一方的に可哀想な子だと解釈して、求めてもいない言葉をかけた挙句に、役に立っただろうと満足してたわけ?それを拒絶した君たちの前で、泣き始めたと…」

 怒りを取り越して大きなため息を吐く。助手席に座る棗くんの冷たい目が合う。

「僕はあいつらの正義感を満たすための道具じゃない。あんな幸せそうな奴らに助けを求めた僕がバカだった」

 車内で棗くんの乾いた声がした。


 柊さんが行きそうな場所を棗くんに聞きながら、探す。そんなに遠くに行っていないはずなのに、なかなか見つからないことに焦りを感じ始める。どれだけ不安と恐怖で押しつぶされてきたのか、全てを壊すしかないと思考を止めた時の感覚を昨日のことのように覚えている。後先考えずに、現状を破壊する快感を、この手で修復不可能のところまで、自分で繋ぎ止めていたものを全て壊す快感を覚えている。そして、その後のどうしようもない喪失感も、全て失う感覚も、何も残っていない現実も、全て覚えている。

 この子たちは、あの時に似ている。いや、今の自分にも似ている。異常なのは自分たちだと理解しているから、大衆が敵に見えて仕方がない、僕たちに。不安定な俺たちに。

 だけど、僕はもう大人になったよ、ママ、パパ。

 今度は、俺が救えるかな、もう大人になったもんな。

 千愛。俺、大人になっちまったよ。

 なあ、俺みたいなやつがこの子たちの力になれるのかよ。

 不安で押しつぶされそうなこいつらを俺が救えるのか、千愛。答えろよ、応えてくれよ。

 今度も千愛の時みたいに失うのが怖い…。

 なあ、俺。本当に大人になっちまったのか?

 あの時と何も変わってねーじゃないか。

 手の震えも、張り詰めた胸の鼓動も、気取った笑顔も、不安で押しつぶされそうなこのプレッシャーも、隠して。隠して。隠して。隠してただけで、あの時から、いや、もっと前から弱いままじゃないか。だっせーな、俺。

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