七章〈命を削って馴染む〉
平川未来
「調子乗んなよクズが!」
目の前でご飯が飛び散り、大きな音をたて茶碗が割れた。
その瞬間、足元に痛みが走り皮膚を伝う赤い液体。
痛い。そう口から出るのを締め殺すために、すぐさま唇を噛み締める。
「おい。お前が今日の試合が一番下手だったぞ。チームのお荷物かよ。お前が十一人もいなくて良かったな、チームが腐る」
「ごめんなさい」軽い頭を下げると、視界に映る小さな手。
なんだ?やけに小さいてだな。小学生くらいか…?
「あ?謝ってどうかなると思ってんのか?」
「いいえ」そう答えると、ビールグラスが中を舞った。
「父さん、これは――」顔を上げると最後に見たゴミより若い。そうだ。この頃のゴミは、試合を見にきては怒鳴りつけて『常に一番でいろ』が口癖だった。そのくせ、一番になっても褒められるなんて奇跡が起こるはずもなく、ゴミの機嫌を損なわないように、いかに怒られないようにするのか頭をフル回転させるのが日常だった。
「あ?」
「なんでもありません」
目の前で音を立てて割れたビールグラス。ゴミの誕生日に健気にお小遣いを貯めて買ったものだ。
だめだ。
泣くな、未来。
歯を食いしばれ、涙がこぼれちまうぞ。
そう思っていると、歯を食いしばって小さな手で強く拳を握った。
そうだ、良い子だ。希望を持つな。期待するな。賢く生きろ。
だって、形あるものは全て壊れる。
いや。全て壊される。形がないものだって
「痛い!」
ほら、全て奪われる。どうせ欲しいものは手に入らない。手に入っても理不尽に奪われるんだぞ。学習しろ。
「ママ!」
「そうやって俺を悪者にして楽しいか?」
「そうゆうわけじゃ…。パパもママも大好きだよ」
必死に両親の仲を取り持とうとするバカなやつ。そんなことをしたって、仲良く過ごせるわけないだろ。そんなにお前だけ必死になったって…。もう気づいているだろ。父さんも母さんも互いに軽蔑していることに。あれが愛するパートナーに向ける目か?どう見たって違うだろ。人間に向ける目をしてないんだよ。それを必死に目を逸らして、いつか仲良くなれるなんて希望は持つな。青春なんてかけ離れたところで、こいつらのために人生捧げても、何一つ変わらないぞ。
「黙れ!お前みたいな出来損ないが俺の子どもなんて恥ずかしくて言えねーよ。もっと必死こいて結果出せよ」
自立と自己中を履き違えた迷惑な人間。いつもそうだ。大人は世話がかかる。大人になれば、自分が子どもの時に大人に気を使っていた記憶が飛ぶのだろうか。いや、こいつらは自己中だからそもそも気を使うなんて言葉知らないのか。子どもがこの場に存在しているから繋ぎ止めている何かがあることに気づこうとしない。純粋な思考で欠けたジグゾーパズルを必死に揃えようとしてんだよ。バカみたいだろ。そうだよ、子どもなんて所詮その程度だよ。愛情と依存の違いもわからず、あんたらみたいなクズにも必死で縋り付くんだよ。
『自分の子どもは何をしても可愛いんだよ』
あれ、これ、どこで聞いた言葉だっけ。まあ、どこでもいいか。縁のない話だし。
「でも、パパ。俺今回が頑張ったんだよ。優勝して得点王にもなって、コーチからすごいねって褒めてもらったんだよ」
すがるな。期待するな。
出来るだろ未来、お前はいい子の型にハマれるはずだ。
「チッ。それで満足してるのがいけないってわかんねーの?」
その瞬間、幼い顔から感情が消えた。リアルで完成度の高いドール人形は、飼い主をバカにするような蔑んだ目をしている。
抑えろ。感情なんてお前に必要ないだろ。
飼い主と目が合った瞬間、目から光が消えた。
「父さん、僕が悪かったです。ごめんなさい」
ほら、ちょっとは気が楽になったろ。
何も考えるな、ただ頭を下げて無理やり謝罪しろ。
言い返したって話を聞いてくれる相手じゃないだろ。全て『お前』が悪いと指を刺される簡単な話じゃないか。
「チッ。最初から親に口答えするな!だからお前は――」
目の前に拳、怖くなって目を瞑ると次に視界に現れたのは見慣れた天井だった。
「はぁ、なんだ、夢か」
額は濡れ、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
「わかってる。失敗作だろ」
突然、夢によって過去放り投げられる。その度に過去が強く深く突き刺さるのだ。遠くに離れても、何年経っても、何度もかけられた言葉たちが、子守唄となって根付く…。呪いのようだ。
いまだに変なリズムで鼓動している心臓と締め付けられるような痛みと共に、あの日生き残った事実が身体に刻み込まれる。あの日終止符を打った千愛の人生と、あの日から句読点すらつかない人生。どちらが良いかなんて誰にもわからない。
「はぁ」
深いため息が部屋に響いた。気力など等になくなったはずなのに、ため息とともに何かが抜けていく。
あの夜、千愛に命を救われた。あとから警察から聞いた話だが、飛び降りた場所には睡眠薬を粉々にした袋と栄養剤を粉々にした袋が発見された。今思えば、千愛が僕から鞄を受け取ったあの時から、彼女は一人で死ぬことを覚悟していたのかもしれない。
千愛に生かされたこの死に損ないのこの命は、淡々と心臓が鼓動させる。図々しく人道にしがみつき、せめて人間らしく。そう思って日々を消化している。
生きるというのは案外忙しく、無理やり身体を動かし、朝の用意を始めた。生きるために胃に詰め込んだ食べ物が、逆流して嘔吐する。
「生きるために食べてるのに、逆に削がれてどうするよ」
起きて何回目かわからないため息をつく。洗面所で顔を洗う。顔を上げると、鏡に映る人物が死んだ目で涙を流していた。
「ハハハ、泣いてる」
流れる涙をタオルで拭き取り、口角を無理やり指で上げる。鏡の前で、死んだ目をした奇妙な笑顔が出来上がった。
「笑え。未来。今日も元気に笑え」
凝り固まった表情筋をほぐし、笑顔を作る。完璧な作り笑顔を作り続けているためか、自然な笑顔に見えるようになった。わざとらしくない。自然な笑顔。大袈裟すぎず、ぎこちなく無く。
「うん。今日も笑顔で…頑張れ」
一通りの準備が終わり、返ってくるはずもない一人暮らしの部屋に「行ってきます」を言い残し家のドアを開けた。
ファミレスに到着し、タブレットを操作する。
「えーと、大人二人っと」
あれだけ大人になりたくないと思っていたはずなのに、気づけば大人と言われるようになっていた。子どもの頃は、大人になれば一気に自分の両親のような醜い人間に成り下がると思っていた。反対に、大人になれば、大人になれば何かが変わると思っていた。だが、良くも悪くも醜い大人も幻想の大人にもなっていない。本当は、早く大人になって自分を救いたいと小さな希望を持っていた。今思えばバカみたいだ。先ほどから隣のテーブルでピーピー喚き散らかしている体の大きな子どもも大人のなり損ないだろうか。
「子どもが苦しんでいようと、私がやっていることはいずれ子どものためになるの!」
「お前の言いたいこともわかるが、もう少し遊ばせてあげてもいいんじゃないか?」
「うるさい。仕事ばかりのあなたに何がわかるの?」
「ママ、私ママのために頑張るから」
「当たり前でしょ?私はあなたのためにしているのよ。あなたが頑張らなくてどうするの」
虫唾の走る会話だ。吐き気がする。必死に両親の間を取り持つ女の子の姿が、自分と重なって目を逸らす。深呼吸して、先ほどから心拍数が早い心臓を落ち着かせる。大丈夫、もうあいつらはいない。あいつらは…。
「ママ、パパ待って」
どうやら、胸糞悪い家族の形を保とうと必死な集団が帰ろうとしていたところらしく、女の子が大きな荷物を上手く持てずにいた。女の子と、どう見ても女の子荷物ではないブランド物のバックと買い物袋の奇妙な組み合わせが取り残されている。だが、女の子の両親からすれば、それは日常風景なようで気に留めるどころか、先に店を出てしまった。店のドアを開ける時の母親の目が示した。ああ、この子も僕と同じか。
「大丈夫?」
「うん」
僕が荷物を持ってあげようとすると、女の子は頭を手で覆った。僕は、それを見てすぐに手を引っ込めて、できるだけ優しい声で話しかけた。
「それ、お父さんとお母さんの荷物でしょ?」
「うん」
「持ってって言われたの?」
「違うよ。いつも私に持たせてくれてるの。のろまな私でも、荷物を持つのは得意なんだ」
女の子は少し誇らしそうに語る。
「そう。誰かに、のろまって言われたことあるの?」
「ママに、言われる。でもね、私が悪いの。お兄ちゃんはね、頭が良くて、ママもパパもいつもいい子だねって褒めてもらってるの。でも、私はそんなにお勉強は得意じゃ無いから、他のことで頑張らないと。ママとパパに褒めて貰うんだぁ」
「ママとパパに褒めて貰えるといいね。パパは、君のことなんて言ってるの?」
「パパはね、二人でいるときに褒めてくれるの。いい子だねって。でも、少し寂しそう。だから、私がパパを笑顔にさせたいんだ」
「いい子だね」
「うん!私、いい子にしないと!」
女の子は笑顔で荷物を抱える。荷物で衣服が引っ張られ、腕にあざが見えた。
「そこ、怪我してるの?」
「これはね、転んだの」
「そっか、気をつけてね」
「うん」
「お母さんとお父さんは好き?」
「うん!優しいパパとママが大好き!」
今日一番の笑顔を見せる女の子に、僕は何も言えなかった。まだ、理想郷を見ていた方が、この子が辛くないんじゃ無いか。
「じゃあね、お兄ちゃん。私、ママとパパのところに戻らないと」
「うん。じゃあね」
店を出る女の子の背中はやけに大人びて見えた。きっとあの女の子も、親の機嫌と都合で行われる子育てだと、気付き始めている気がする。それを見ない振りをするのは、両親が好きだからで、その事実はどうしようもないぐらい変換不可能であることを僕は知っている。
あんなに小さな身体に大きな負荷ばかりをかけるのは、きっとほんの数年先の未来も見ずに今を生きているから。多分、それは僕もあの時と変わってない。
「未来、待たせてごめんな」
「あ、うん」
「未来?どうした?」
「なんでもない」
彼が来たことにそれほど反応できなかった。いつもなら笑顔で迎え入れていたはずなのに、先ほどの光景で心が揺らいだ。
「そうか?いつよりもテンションが低い気がする。なんかあったら言えよ」
「ちょっとぼーっとしていただけだよ。大丈夫」
「それならよかった」
そう言って眩しい笑顔を向けてくる。背けたくなるほどの笑顔を。
こっちの笑顔が無い方が本物だよ、なんて彼は受け入れないだろうな。いや、彼だけじゃないか。平川未来を知っている人間はそれを受け入れない。一度笑顔を作ってしまえば、笑顔でない何かは平川未来として認識されない。笑顔を一度作ってしまえば、その相手にとっては一生物になる。笑顔を作らないと言う選択肢を与えてくれなくなるのだ。周りが笑顔でない何かは平川未来ではないと全否定してくる。故に、途中でリタイアできないゲームが始まる。もしリタイアすれば、平川未来で作った信用が地に落ちる。リターンとリスクの天秤がぶっ壊れているゲームだ。もう辞めることのできないこのゲームは、『僕』の方が有利だ。そうだろ?平川未来。
*
ファミレスから帰宅して、一直線でベッドに倒れ込む。この家に住んでから一度も開けていないカーテンの隙間から、眩しい光が溢れる。
「眩しいな」
手で日差しを妨げようとしても、眩しい日差しには敵いそうにない。あまりの眩しさに体勢を変えて反対方向に視界をやると、さっき考えることを辞めた賃貸の契約更新の通知書が机の上に置いてあった。スマホを手に取って検索履歴を確認すると、『人に迷惑をかけない 自殺方法』、『AC 治し方』、『毒親 連鎖』の下に『毒親 一人暮らし』、『連帯保証人なし物件』があった。毒親から実際に逃げた記事を見るだけで、あの奇妙な生き物たちの執念深さを感じられる。あらゆる手段を使って子どもを離さない執着心を、是非他のところで使って欲しいものだ。
『AC 治し方』の検索ページを削除する。「自分を愛しましょう」「ありのままの自分を受け入れましょう」その行為が皆目検討もつかない。こんな出来損ないを愛す?ありのままを受け入れる?僕は誰からも愛されたことはないし、愛したこともない。それにありのままを曝け出したら嫌われるに決まっている。それに、みんなに隠している本当の自分というやつは僕が一番嫌いだ。
次の画面に『連帯保証人なし物件』がでている。
「次は連帯保証人がいらないとこに引っ越すか…」
大学入学と同時に住み始めたこの家。あの時の僕は親が関わる全てのものを断ち切ろうとしていた。十八年間積み重ねたことが無駄になっても。今まで繋ぎ止めていたものが全て無駄になったとしても。一人で生きていくための決断を下さないと生き残れはしないと思っていた。それにどうせ、みんなを僕が繋ぎ止めている力よりも両親の社交的な表向きの力の味方をする。僕に味方なんて存在しない。それに、親孝行した方がいいとか親子は仲良くしないとなんてありがた迷惑で僕の居場所を両親に知らされても、面倒ごとが増えるだけだ。それでもたまに、断ち切った人たちを思い出す。僕に優しくしてくれた人間とも全て縁を切った。後悔はしていない。そうしなければまたあいつらの支配下に置かれるかもしれないから。
深いため息をついて、呼吸を整える。
「うん、大丈夫」
だが、全て断ち切ろうとしても現実はそう甘くなく、賃貸を借りる余裕がなかった。大学生に経済的な余裕があるはずもなく、信頼できる他人なんているはずもなく、叔父さんが家賃補助をしてくれた。この家の身元保証人や緊急連絡先は叔父さんの名前が書いてある。本当は叔父さん達とも縁を切るつもりだったが、それでは生きていけないし、赤の他人の力を借りることもできなかった。だから、せめてもの償いとして年に何度か顔を出して感謝を伝えている。
「この前叔父さんの家に挨拶行ったのは…半年前か」
メッセージアプリを開いて、『明日のお昼お邪魔します』と送信する。すぐに『待ってる!』と返事が返ってきた。そのメッセージに既読をつけずに、携帯を放り投げ眠りについた。
ズタボロの身体を隠すための練習着。誰も気づかなかったサッカーを嫌っている事実。勉強より部活動で成績を残していたからか、ゴミに「サッカーを辞めたらお前には何が残る」と何度も問われた。
そんなの自分が一番わかっている。
何も残らない、だろ。
そんな嫌な記憶を呼び起こさせたのは、目の前にいる従兄弟が見覚えのある練習着に袖を通していたからだ。
「未来お兄ちゃんと一緒で、サッカー部に入ったんだ。だからこの練習着もらっていい?」
「いいよ。似合ってる」
そう言うと「ありがとう」と嬉しそうに言いながら、「これもいい?」と聞いてくる。
それが少しおかしくて、「そこにあるのは全部あげるよ」と付け加えると「やった!」と練習着を一枚一枚箪笥から出していく。叔父さんが家から私物を全て持ってきてくれた時は、いらないと思っていたが、まだこの練習着には役目が残っていたらしい。
ガチャ。
玄関のドアが開き、帰ってきた人物に挨拶をする。
「こんにちは」
「あら、未来君帰ってたのね。おかえり」
「これ見て、未来お兄ちゃんがくれたんだ」従兄弟は先ほどとは違う練習着を着て、叔父さんと叔母さんに嬉しそうに見せる。
「あら、よかったわね。そうだ、後で公園に行ってボールを蹴ったら?未来君も久しぶりにボール蹴りたいでしょ?」
「そうですね。そうします」
世間では、サッカーが好きの平川未来と言うことになっている。叔父さんと叔母さんに今更カミングアウトしても、知らなかった自分を責めそうだから、たった一人が一生嘘をつき続ければサッカーが好きな平川未来が崩れることはない。
「そうだ。これ、どうぞ」
行列のできるケーキ屋さんで買ってきたケーキを叔母さんに手渡した。
「あら、ありがとね。でも、気を遣わなくていいのよ?私たちは家族なんだから」
叔父さんと叔母さんにはお金では買えないものをたくさんもらっている。それに、嫌いなわけではない。ただ、良くしてくれる叔父さんと叔母さんの家族でないという現実が堪らなく嫌なのだ。どうしたらこの場に一秒でも長く居座れせてくれるのか。この場にいたい気持ちと、この場から逃げ出したい気持ちが交互に襲ってくる。だけど一番は、自分がこの家に入り浸る不純物に思えてならない。
「いえ、お世話になっているので…。受け取ってもらうと嬉しいです」笑顔を作ると「あら、そう?じゃあ、遠慮なくもらうわね」と叔母さんが受け取ってくれた。少し、気を使わせてしまっただろうか。
「叔母さんが好きなクッキーも一緒に買ってきましたよ」
「あら、本当に!ありがとう」
「いえいえ」
「ねぇ、未来お兄ちゃん、僕には?」
「もちろんあるよ。チョコクッキーでしょ?」
従兄弟は、袋に入っているチョコクッキーを手に取って「ありがとう!これ美味しんだよね〜」と言いながら、先にリビングに戻った。
「はは、いつもありがとね」
「いえいえ」
幸せだと思える空間に、せめて何か目に見える形で何かを返さなければ、追い出されてしまうのではという恐怖感が伸し掛かる。その恐怖感を少しでも薄めるために、こうして形で何かを返している。そう、これは弱い僕が恐怖感から逃げる手段だ。
「未来君?俺たちは未来君が幸せになってくれればそれでいいんだよ」
「ありがとうございます」
幸せになって欲しいなんて、まるでお前は不幸せだと決めつけているだけじゃないか。幸か不幸かどうかは僕に決めさせてくれ、それ以外は周りの言いなりにやってやるから、
「そうよ。未来君は頑張りすぎるからね、自分を大事に幸せになってね」
叔母さんの手のひらが僕の頭に乗った。
自分を大事になんて難しいこと、誰ができる。
そう思いながら「はい。大事にします」と笑顔で答える。
優しさを他人に使いすぎて、自分に使う分まで回ってこない。それに、自分に優しくしては他人に気遣うことが遅れてしまってはすぐに必要がないと変わりを用意されるに決まっているじゃないか。それなら身を削って、人間のなり損ないとして他人に利用される方がずっといいに決まっている。
柊優雨
帰りのホームルームを終えると、クラスメイトたちは解放されたように教室から次々に出る。
「先生さようなら」
「さようなら」
担任に挨拶をして教室を出ると、隣のクラスの先生を見つけた。
「先生!」
「どうした?」
「また、明日!」
「うん。気をつけて帰ってね」そう言ってひらひらと手を振ってくれる先生に「わかってますよ。さようなら」と手を振りかえす。今日は部活動が休みで、いつもよりも早めの下校だ。同じ通学路だというのに、部活帰りのような暗い帰り道ではないというだけで、なんだか知らない道を歩いているようだ。
「優雨兄ちゃん」
「棗」名前を呼ばれ振り返ると一つ下の弟がサラサラの髪の毛を揺らしながら手を振っている。
「恵姉ちゃんが部活で怪我しちゃってお母さんが病院に連れてくらしいから先にご飯食べててって言われた」
「家にご飯あんの?」
「ん?ないよ」
「じゃあ、今日は棗の好きなお好み焼きでも作るか」
「え、いいの?」
「よし、決まりだな。材料買いに行くか」
「うん!」
店に着き、棗は好物が食べられるのが嬉しいからか、楽しそうに食材をカゴに入れていく。
「棗、デザートでも食べるか?」
「いいね。食べよう」
買い物を終え、軽い足取りで家へと向かう。
「ただいま」
玄関を開けると、愛猫のネロと目が合う。普段よりも多めに買った買い物袋を見ながら「今日は二人なのにたくさん買っちゃったね」というとネロが「ニャー」と不機嫌そうに鳴いた。
「ごめんごめん。今日は二人と一匹だね」そう言って、棗はネロの頭を撫でる。
「俺たちがネロのことを忘れるわけないだろ」
藍沢深紅
「ただいま」
「お母さんおかえり」
お母さんは、夜遅くまで仕事をしてくれている。今日は疲れているのか少し元気がないように見える。お母さんを元気づけるように部活帰りに買って帰ってきたケーキを冷蔵庫から取り出した。
「お母さん、この前言ってたケーキあるよ」
「え、わざわざ買ってきてくれたの?ありがとう」
「うん!食べてみたいって言ってたでしょ」
「ありがとね」お母さんは嬉しそうにケーキを受け取ってくれた。さっきまでのお母さんの疲れた表情が一瞬でなくなり、買ってきてよかったと思った。お母さんがご飯を食べている間に、お風呂掃除とお母さん以外の皿洗いを終わらせる。
「ご馳走様、これもお願いね」
「はーい」
お母さんは、台所に食器を置いてお風呂に向かう。リビングで流れていたテレビを消して携帯を触っていると、隣の部屋からはゲームをしている兄さんの声が聞こえてくる。
「そういえば、課題が出てたんだった」
課題が出されていることを思い出し、鞄から課題を取り出す。眠たい目をこすりながら、課題をしているとお母さんがお風呂から上がってきた。お母さんは、冷蔵庫からケーキを取り出して私の隣に座った。
「このケーキ美味しい!」
「本当?よかった」
「深紅も食べる?」
「ありがとう」お母さんからフォークを受け取り、ケーキを口に運ぶ。
「美味しいね」
「でしょ。買ってきてくれてありがとね」
「また美味しそうなの買ってくるね」
「ありがとう」お母さんは残りのケーキを頬張って席を立った。
「深紅、明日お母さん夜勤だから冷蔵庫のご飯食べててね」
「わかった」
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
お母さんがいなくなったリビングは、三人暮らしとは思えないほど静かだった。
平川未来
「平川先生おはようございます」
「おはよう」
廊下を歩いていると聞こえてくる僕以外の足音。校舎、教室、教師、生徒、制服、笑い声――。五感で感じ取る全てが、過去の記憶と微かに重なる。
教室に入ると朝から元気な生徒たちが「おはようございます!」と元気に挨拶をしてくれる。僕もそれに合わせて「おはよう」と笑顔で挨拶を返す。
見慣れた教室には退屈そうに座っている千愛も、誰かと話している僕もいない。席替えの候補にも入らなくなった教卓が、今の僕に用意された特別席だ。
環境が変わって、普通になれたと錯覚する。でも、ボロボロな環境にいない僕が僕じゃないみたいで、居心地が悪い。いつまでも僕の中でうずくまっているボロボロな昔の僕を僕だけは見捨てないために、今日も何も変われない消費するだけの一日が始まる。環境が変わっても何も変われないのは、僕の中に俺がいるだからだろうか。
ホームルームで必要事項を伝達し終えると、再び職員室に戻る。自分の机から教務手帳を取り出し、ノートや筆記用具、出席簿を手に取り一限目の教室に向かう。
聞き慣れたチャイムが鳴り響き、号令に合わせて「お願いします」と生徒たちが口を揃える。朝から眠い目を擦りながら授業を受ける生徒、真面目に板書を取る生徒、部活動で疲れて寝ている生徒…。そんな生徒たちを相手に、手元の板書計画を見ながら授業を進める。
「今日の授業はここまで、次の授業までに四二ページを予習しておくように」
授業が終わり、先ほどまで隣の席と一定の感覚で座っていた生徒たちが交わり始めた。一気に賑やかになった教室を後にして、職員室に向かう。やはり記憶と重なる光景ばかりで、懐かしいような苦しいような…。教師を初めて数年が経つというのに胸が騒つく。あの日から何も変わらず囚われた僕は、新しい記憶を上書きすることなく、学校という場所に再び足を踏み入れている。
休憩をする暇も無く次の授業に足を運ぶ。隙間時間を見つけては、授業の準備をしていると、あっという間に昼休みがやってきた。
「平川先生お疲れ様です」
「森先生お疲れ様です」
「平川先生、この前言っていた映画の続編が出たんですよ。両親から虐待を受けて育った少女が、家から逃げ出して幸せに暮らす話なんですけど」
なぜだろう。一瞬誰かの顔が浮かんだ。サラサラとした黒髪に、白い肌。そして目を逸らしたくなるような黒くて綺麗な瞳。誰だったけ…。
「そうなんですね」
「はい!続編出るのずっと待っていて、公開日に観に行きました!面白かったのでぜひ行ってくださいね!」
「はい、観てみますね」
「そういえばこの映画、いつもお話に出てくる友人と観に行くんですか?」
友人?一体誰のことを指しているのだろう。
友人という言葉は他人に誰かを表現するときに便利な言葉でしかない。
「そうですね。その人と行こうと思っています」
「映画、絶対面白いので観てくださいね!」
「そんなに面白いんですね。楽しみです」
映画の内容も、この映画を誰と行ったのかも思い出せない。まぁ、思い出せないならそれほど大事なものではなかったのだろう。
生徒たちが下校する中、明日の授業準備をするために職員室に足を進める。廊下には部活動の服を着ている生徒がいて、過去の自分と重なる。少し胸が苦しくなって、目線を逸らした。僕は、職員室の自分の席に座り、明日の授業準備を始めた。
「平川先生、すみません。頼まれていた仕事なんですけど、今日中に終わりそうになくて…」
申し訳そうに眉を下げる彼女は、あまり休めていないのか疲れているように見える。
「わかりました。あとは僕が引き継ぎますね」
「ありがとうございます」
「いえいえ、あまり無理をなさらずに。僕が手伝えることならいつでもお声掛けください」
彼女はにっこりと笑って「いつも助けてくださりありがとうございます。すごく平川先生に救われてます」と深々と頭を下げその場を去った。
救われましたなんて言葉はそんなに簡単に口に出せる言葉じゃない。本当の意味で救う、救われるなんて僕みたいな化け物にできるわけないだろ。
「そう簡単に救われたら、誰も苦労してない」
藍沢深紅
楽しそうな笑い声が響き渡る教室。教室のドアが開く音と同時に「テスト返すよ」と先生がテストを片手に教室に入ってきた。森先生は、二年b組クラス担任で、国語の先生だ。
「先生、俺の点数どうでした?」
自分のテスト結果が気になるクラスメイトたちが、先生の周りに集まる。
「頑張ってたよ。それより、今からテスト返却するから、早く座って」先生は少し面倒臭そうに言うと、クラスメイトたちは「えー」と言いながら各席に。「今回のテスト自信ないんだよなー」その声にクラスのみんなが賛同し始め、騒がしくなる教室。
テストの採点で疲れているのか、いつものように生徒たちと授業が始まるまでの時間会話することなく、腕時計を確認している。先生は顔を上げて私をみて頷いた。その直後チャイムが鳴り響き、先生の「はい。授業始めるよ」の声に続いて、私は「起立。礼、着席」の号令をかける。
先生は私から目線を外し、「それじゃあ、名前を呼ばれた人とからテストを取りに来て」と言ってテスト返却を始めた。
「深紅は、今回のテストどう?」
自分のテスト返却を待っていると、同じ部活動の新城佳澄が話しかけてきた。佳澄は去年も同じクラスで部活動も同じということもあり、いつも一緒にいる。
「んー。あんまり自信ないかな」
「そんなこと言って、いつも点数高いじゃん」
「そんなことないよ。佳澄は?」
「私も自信ないかな〜」
「はは、佳澄もそんなこと言っていつも点数高いでしょ」
「深紅には負けるけどね」
そう言って佳澄は、頭をかく。
「藍沢さん」
「あ、深紅の番だよ。いい点数だといいね」と言われ「そうだね」と答えた私は、先生にテストをもらいに向かった。
「よく頑張ったね」先生は笑顔でテストを差し出した。
「ありがとうございます」
先生から受け取ったテストを持って席に戻る。周囲から点数が見えないように折り畳まれている点数の場所を開くと九十七点の文字。間違った場所を見ると、どうやら解答用紙に写し間違えていたみたいだ。
何やってんだろ。
「深紅、テストどうだった?」
「一問解答用紙に写し間違えたみたい」佳澄に問題用紙と解答用紙を見せる。
「それこの前のテストでもやってたよね」佳澄は少し呆れたように笑う。
「そうなんだよね」
佳澄から目線を逸らして、ふと周りを見るとほとんどのクラスメイトが自分のテスト用紙を見て、会話を広げていた。
「テスト返却が終わったから、今から配るプリントに間違えたところ書いて提出してね」クラスメイトからは「えー。私ほとんど間違ってるんだけど」と声が聞こえてくる。
そんな中、早くテストの修正が終わったクラスメイトがノートを提出しに席を立った。
「先生、俺一位ですか?」
「一位は九十七点の人だよ」
「えー、一位じゃないのか」と、悔しそうにするクラスメイト。そのクラスメイトに先生は「よく頑張ってるよ」と優しく声をかける。
佳澄は私の袖を引いて、「深紅、一位じゃないの?」
「らしいね」
「さすがだね」そう言ってハイタッチを求めてくる佳澄の机の上には九十五点のテスト用紙が置いてある。なんだか直視してはいけないような気がしてすぐに目を逸らし、佳澄の手に軽くハイタッチをする。
「私、先生にプリント出してくるね」
「わかった」
教卓で作業をしている先生の元に向かう。
「先生、お願いします」
「ありがとう」先生は受け取ったプリント見て、名簿にチェックを入れる。
「テストどうだった?」
「点数は良かったんですけど、ケアレスミスをしてたので…。それがなければ良かったなとは思います」
「そんな、ミスしたところも解答用紙に写し間違えただけでしょ?」
「まあ」
「いつも高得点ですごいよ!自信持って、次も期待してるから」先生は笑顔でガッツポーズをする。その期待の目には、先ほどまで疲れていた面影がなくなっている。
そんな期待に応えるように私は「ありがとうございます」と、笑顔で軽くお辞儀をして席に戻った。
藍沢深紅
テストが終わり、放課後は文化祭の準備に追われていた。二年a組は外でお好み焼きの提供をメインで行い。教室で射的やヨーヨー釣りなど楽しめるコーナを設置する予定だ。正直、出し物が一つじゃないのはクラスがまとまりにくい。それに外と中で分かれているのも難しいところだ。それに、みんなの想いをいろんなところに詰め込みすぎて、一つのクラスがする作業量じゃない気がしてくる。だけど、外と教室で分かれている分、全く違うテーマの飾り付けを日こうできるのは正直ありがたい。おかげで、誰かの意見を採用できる機会が増えた。
「深紅ちゃん!飾り付けの買い出し行ってくるね」
「わかった!リストはそこの机に置いてあるからお願いね」
「はーい」
「藍沢さん、射的とヨーヨーの配置をどこにするかなんだけど――」
「藍沢、この飾りこっちも欲しいんだけど――」
「ちょっと待ってね!順番に対応するから」
学級委員の私に次々とくる問い合わせに頭を抱えていると、佳澄が笑顔で近づいてきた。
「深紅、私が飾り付けと配置担当していい?」
「ありがとう。助かるよ」
「いえいえ、いつでも頼りなよ」
任せなさいと言わんばかりに、ガッツポーズをする佳澄に「ありがとう!頼りになるね」と感謝を伝える。佳澄が飾り付けと配置の問い合わせを担当してくれたことで、負担がかなり減った。クラスメイトの相談役をしていると、いつの間にか時間が過ぎ、下校時間を知らせる音楽が鳴り始めた。
「みんなお疲れ様さま!そろそろ片付けして明日頑張ろう!」
私の声にクラスのみんなが反応して疲れた身体を伸ばしながら、片付けを始めた。長時間作業をしているはずなのに、みんなの目はキラキラしていて疲れを感じさせない。それほど文化祭の準備から楽しんでいるのだろう。
「深紅、お疲れ」
「佳澄、お疲れ。さっきはありがとね」
佳澄は首を横に振り少し呆れたように言った。
「一人じゃ無理な時は無理って言いなよ。いつも深紅は言わないんだから」
「でも、佳澄はいつも助けてくれるでしょ?」
「まあそうだけどさ」
佳澄は少し照れつつ、「そうじゃないんだよなー」と口を尖らせる。
「ごめんごめん、ちゃんと頼るから」
「本当に?」
「うん!頼りにしてる」
私が笑顔で言うと、佳澄の機嫌は戻ったようで笑顔になる。
「そういえば、深紅の親は文化祭くるの?」
「来るよ。佳澄は?」
「来るよ。お父さんもお母さんもお好み焼き楽しみにしてるって言ってた」
「そっか!なら、美味しいお好み焼きださないとね!」
「そうだね!」
柊優雨
文化祭で二年b組はお化け屋敷をすることになった。クラスメイトはお化け役になりたいらしく、お化けを誰がやるかで揉めている。そんな揉め事に興味の無い俺は、二年連続同じクラスの北条心温と駄弁っていた。
「お化け役決まるのにすごい時間かかるな」
「そうだね」
「心温はお化け役に立候補しなくて良かったのか?」
「僕は暗いところ得意じゃ無いから」
「あ、そうだったな」
「優雨は立候補しなくて良かったの?」
「いいよ。めんどくさそうだし」
「そう言うと思った」
お化け役を決めるのに苦労しているクラスメイトたちに視線を戻すが、やはりすぐには決まりそうな雰囲気ではなかった。
「なかなか決まらなそうだから今のうちに飲み物買ってくる」
財布を片手に席を立つと、
「あ、僕もいくよ」
「じゃあ、一緒に行くか」
お化け役を決めるのに盛り上がっているクラスメイトをよそに、心温と廊下に出た。廊下で文化祭の準備をしている生徒たちもいるようで、学校がどんどん知らないもので埋め尽くされているようだ。
「あ、藍沢さんだ。お疲れー」
心温が話しかけた生徒は黒髪のボブを揺らしながら振り返った。
「北条君お疲れ!」
両手に荷物を抱えて歩きづらそうだ。
「手伝うよ」そう心温が口を開けた瞬間、教室の中から誰かの名前を呼ぶ声がした。
「深紅!もう、全部一人で持ってこなくてよかったのに。ほら、貸して」
「気づかなくてごめんね。持つよ」
あっという間に、彼女が持っていた荷物がクラスメイトたちの手元に移動している。
なんだ、あんたも周りに恵まれてんだな。
「みんなありがとう」
彼女がお礼を言うとクラスメイトたちが笑顔になる。みんなに好かれる人間はこの人のことを言うのだろうか。クラスメイトに感謝を伝える笑顔が、人を惹きつける理由だろうか。
「心温、飲み物買い行こうぜ」
「そうだね」
「あ、私も喉乾いたから飲み物買いに行かなくちゃ」
「僕たち買ってこようか?何がいい?」
「いや、いいよ。申し訳ない。自分で行く!」
彼女は「待ってて」と言い残し教室に戻ったと思えば、財布を片手に戻ってきた。
「お待たせ」
「じゃあ、いこっか」
心温の言葉に反応して彼女は頷くと、何かを思い出したように口を開いた。
「あ、話すのは初めてだよね。北条君と同じバスケ部の藍沢深紅です。よろしくね」
「あ、うん。よろしく」
心温以外の生徒と話すのが久しぶりで話しかけられたことに戸惑い、変な返事になってしまった。そんな俺を彼女は笑うことなく、「うん!」と笑顔で返してくれた。あ、そうだ。名前言ってなかった。
「柊優雨です…」聞こえるか聞こえない声で名前を口にすると、
「あ、君が柊君か。いつも北条君が弟思いのいい人がいるって話を聞いてるよ」
「え、」
「だって優雨は、いつも棗君の話を楽しそうにするでしょ」
図星を突かれて、どうしていいか分からずに「うるさい」と精一杯の反抗をする。
「照れなくたっていいんだよ。兄弟愛があっていいじゃない」
自分の話を誰かにされるのはむず痒くて、話題が切り替わるように、楽しそうに笑い合う二人の少し後ろにくるように歩幅を調節する。食堂前の自動販売機に行く道中、彼女には知り合いが多いのかすれ違う生徒たちに声をかけられる。学校で棗と心温としか話さない俺とは別の世界の人間のようだ。
「飲み物何にする?」気づけば自動販売機の目の前に来ていて、二人は飲み物を選んでいた。前にある自動販売機にお金を投入して、ボタンを押す。ペットボトルが落ちる音がして、取り口から炭酸水を取り出した。
「そういえば、優雨の親は文化祭に来るの?」
「くるわけないじゃん。いつも恵姉ちゃんの試合に行ってるし」
「そっか。たまには優雨のとこに来たらいいのにね」
「いや、棗が俺のクラスに遊びに来るって言ってたからそれで十分だよ」
「やっぱり優雨は棗君が好きだね」
「それが言いたいだけだろ」
「そうだよ」ご機嫌そうに一足先に教室に戻っていく心温の背中が見えなくなっていく。置いて行かれた俺が教室に戻ろうとすると、彼女も一緒にいたことを思い出した。
「北条君行っちゃったね」
「そうだな」
彼女と何を話せばいいのか分からずに、少し沈黙が流れる。
「戻る?」
「そうだね」
教室に戻る間も彼女に話しかける生徒がいた。やっぱり、人気な人なんだな。
先生たちが彼女に挨拶する時の目は、俺に向ける目とは違う。期待、尊敬、敬意…。そんな目を最後に向けられたのはいつ頃までだったか。
「私の家族、文化祭にはお母さんだけが来るんだ。だから、仲間だね」
彼女はにっこりと笑って言った。
「仲間?」
「そう、家族が一人だけ来てくれる仲間。さっき両親は来ないの?って聞かれた時に少しさびしそうだったから。本当は来て欲しかった?」
彼女の言葉に傷跡を抉られるような感覚を覚える。
「そんなこと――」
「私はお母さん以外にも来て欲しいよ」彼女が少し下を向くと、髪の毛が流れて彼女の顔を隠した。
「お父さんとか?」
「そう。お父さんとか兄妹とか」
「そっか」
気まずい雰囲気に耐えきれずに詰め込めた炭酸水が口の中で弾けた。
藍沢深紅
そわそわした雰囲気がクラスに漂う。クラスでお揃いのシャツを来て、何だかクラスメイトが知らない人のように感じる。文化祭の準備期間で知ることができたクラスメイトの良いところ。みんなが私を頼りにしていること。
教壇に立ってみんなの方を向いた。クラスメイトが私の言葉を待っている。
うん、大丈夫。今日まで頑張って準備したんだから。
「今日は文化祭当日。今までみんなで準備を頑張った成果が出せるように、お客さんを満足してもらおう!」
いろんなところから「がんばろう!」と声が聞こえてきて、少し安心する。すぐに教室はザワザワし始めて、文化祭への興奮が抑えられないようだ。
「深紅、今日は楽しもうね!」
「うん!」
「お客さんたくさんくるかな〜」
「たくさんくるよ。だって、ほら、みんな頑張ったからね」私が飾り付けられた教室とこれから運ぶ荷物を見せると、佳澄が「そうだね」と頷く。それから、しばらく佳澄と話していると担任が近づいてきた。
「藍沢さん、しばらく教室のこと任せて良いかな?僕、見回りに行かないといけなくて」担任は少し申し訳なさそうに、眉を下げる。
「先生、わかりました」
「ありがとう。何かあったら呼びにきて」
「はい」
先生の後ろ姿に佳澄が「先生、今日は楽しみましょうね!」と背中を押した。その声に反応した先生は、振り返って「うん、楽しんでね」と笑顔で手を振る。
「じゃあ、また観にくるから」
「はい!」
「それじゃあみんな、持ち場に着こうか!」
「ドキドキする〜」
クラスメイトが持ち場につき始めて、いよいよ文化祭が始まる。窓から外を覗くと、普段見ない年齢層の人たちが学校にいるのが新鮮で、そわそわする。
「佳澄、今日もよろしくね」
「任せて!」
「はは、頼りになるね」
柊優雨
「優雨!どこいくの!」
「ああ、心温か」
どこにいくにも人が多すぎて嫌になる。みんな浮かれて馬鹿みたいだ。
「特にすることもないから、静かな場所探してる」
「静かな場所?そんな所あるわけないよ。だって、ほら、こんなに人がいるんだよ」
あたりを見渡すと、窮屈な学校がいつも以上に窮屈に感じる。家族連れが多いようで、子どもの笑い声が聞こえてくる。頭に流れ込んでくる少し高い笑い声が頭の中でこだまする。
「ぼーっとして、どうしたの?」
「何もない。ただ、人混みが嫌いなだけ」どこを見ても視界に映るのが家族で連れの親子で、進める足を早める。
「人酔いした?」心温が心配そうに俺の顔を見つめる。
「いや、してない」
「ならよかった」少し安心したように心温は胸に手を当てた。
「そういえば、また母さんが怒ってた」
「え、また?今度はどうしたの」
「あー、何だっけな。俺が母さんの持ち物を奪ったとか?」
「なんで疑問系なの」
「さて、何でだろう。俺が奪ったと思ったみたいで、勝手に怒ってたから」
「何それ、理不尽すぎない?ちゃんと誤解溶けたの?」
「誤解?無理でしょ。話し合いとかしたことないし」
「それ、どうやって解決するの」
「俺が謝る」
「悪くないのに?」
「そう。悪くないのに」
「変なの。家族なんだからお互いを大事にしなよ」
「そうだな、家族だもんな」
「そうそう。さて、暗い話じゃなくて明るい話しようよ。今日は文化祭だよ!」
「そうだな」
「ねえ、あそこにいるの棗君じゃない?」
そこには、クラスメイトと楽しそうに話している棗がいた。
「おーい!棗くーん!」
「おい、声かけなくていいよ。クラスメイトと話してるから」
「え、いいの?」
「うん。いいよ」
俺が話かけなくていいと言っていることに心温は不思議そうにしている。
クラスメイトと楽しそうに話しているのに邪魔できないだろ。そう思っているはずなのに、クラスメイトと仲良く話している棗に少し妬ける。
「あ、優雨兄ちゃん!」
声がした方を見ると、棗がこちらに手を振っている。俺は手を振り替えてして、その場を離れようとしたが、棗がこちらに歩いてきた。
「心温さんこんにちは」
「棗君こんにちは。この前は体育館シューズ貸してくれてありがとね」
「いえいえ」
だからこの前の体育が始まる前、急にいなくなったのか。
「今度、家族旅行行った時にお土産買って帰るね」
「え!良いんですか!ありがとうございます」
どうやら俺がいないとこでも、この二人の関係は良好らしい。
「あ、当然優雨にも買ってくるから」
「ありがとう」
「僕も優雨と棗君の兄弟だったらよかったのにな〜。僕、一人っ子だから兄弟に憧れる」
俺と棗は顔を合わせて、
「兄弟だったら楽しそうだな」
「兄弟だったら、優雨兄ちゃんが心温さんの弟かな?」
「え、俺が弟?」
「優雨が弟か〜。世話が焼けそうだよね〜」
「優雨兄ちゃんって、こう見えて頼りになるんですよ」棗が少し誇らしげそうに答えた。
「こう見えては余計だろ」
心温と棗が顔を見合わして笑う。
「はは、やっぱり優雨は棗君に頼りにされてるね」
「まあ、俺は棗のお兄ちゃんだからな」
心温は俺と棗の背中を叩いて「いいな兄弟愛」と聞こえるか聞こえないかの声で言った。それを拾うか迷った結果。聞こえない振りをした。
「優雨、やっぱり両親は恵先輩の試合についてったの?」
「ん?そうだよ」
「恵先輩を優先しすぎじゃない?一回も優雨の学校行事に顔を出したことないでしょ?」
「観にこられても、嫌じゃね?」
「そう?」
「うん。それに恵も両親がつきっきりで行き着く暇なさそうだし、そうはなりたくない」
「やっぱり、娘だから愛情をたくさんあげてるとか?」俺と棗は首を傾げる。
「んー、どうでしょう。親にたくさん口を出されるのも大変ですから、これくらいの方が僕はちょうど良いです」
「それならいいか」心温はどうやら、俺の両親が来ないことを気にしていたらしい。そんなこと、わざわざ気にしなくて良いものを…。心温の優しさに少し呆れる。
「優雨兄ちゃん、あそこにお好み焼きがある!」
「食べる?」
「うん!」
棗がお好み焼きの行列に並ぶ。あたりを見渡すと、この店だけやけに人が集まっている。次々に列に加わる人たちを不思議に思っていると、どうやら呼び込みが優秀らしい。列での待ち時間にはクイズを渡して、客が退屈しないようにしている。
「んー、このクイズむずかしい」
「そうですね」
心温と棗は、クイズが書いている紙を覗き込み、頭を悩ませている。
「そのクイズ見せて」
棗に渡された紙を見る。
「――小さな幸せ?」
「え?優雨、クイズの答えわかったの?」
「うん」
「すごいじゃん!優雨クイズの才能あるんじゃない?」
「はは、大袈裟だよ」
そんな会話をしているとどうやら先頭に来ていたようで「いらっしゃいませ」と声をかけられた。
「えっと、お好み焼き三つください」
「三つで、九百円になります!」心温が先に三百円を出し、俺は財布を開いて追加で六百円を出す。
「ありがとうございます!隣で受け取ってくださいね!」
お会計が終わり、隣に移ると見知った顔があった。
「北条君、柊君、来てくれたんだ!」
「藍沢さん、お疲れ!ここすごく人気あるね」
「おかげさまでね。クラスメイトが頑張ってくれてるからだよ」誇らしそうに笑う彼女はやはり俺とは違う人間に見える。とても眩しい、日向で生きる人間。
「この子が優雨の弟の棗君だよ」
「棗君、初めまして!いつも北条君経由で柊君が溺愛している弟君の話を聞いてるよ」
「初めまして。心温さん、一体どんな話をしてるんですか」
「優雨が棗君のことを心配でたまらない話」
「なんですかそれ」
「だって、優雨が棗君のことになると感情的になるんだよ?いつもはこんなにツンツンしてるのにさ」
「いつもはツンツンしてて悪かったな」
「ははは、仲良いんだね」
「まあな」
「弟君が来てくれてよかったね!はい、これお好み焼きね」
「ありがとう」
心温と棗は早くお好み焼きを食べたいのか、すぐに食べられる場所をキョロキョロと探す。
「そういえば、家族きてくれた?」
「うん!きてくれたよ!」
「お母さん?」
「そう。お母さん」
「他は?」
「きてくれなかった!あーあ、残念だな〜」彼女は悔しがるよりも、来ないことをわかっていたように見える。少しも残念そうに見えないのは気のせいだろうか。諦めとは違う何かのような。
「お父さんは?」
「お父さんは来られないよ」
「来られない?」
「そう。来られないの」
正直来られない理由に興味もないが、それ以上に彼女がこれ以上踏み込んでほしくなさそうな彼女に、どうして?という疑問を断ち切った。なんだか訳ありそうな言い方に親近感を感じるが、この人は表舞台で照らされている人だ。共感を求めてもダメだ。
「あ、そうだ。クイズの答えはお好み焼きのパックの下に書いてるよ」
「小さな幸せ、だろ?」
「おお!答えわかったんだ。そうだよ。小さな幸せ!」
「なんで小さな幸せにしたの?」
「それは、みんなが作ったお好み焼き食べて幸せを感じてほしいからだよ」彼女はにっこりと笑って「だって、お好み焼き美味しいでしょ?」と言った。俺はこの前棗と食べたお好み焼きを思い出し「美味しいね」と呟いた。
「藍沢さんは、お好み焼き食べて少しは幸せ感じた?」
彼女は急に真顔になったと思ったら「感じないよ」とはっきり答えた。
「さっきの答えは建前だよ。でも、つまらない日常でも小さな幸せを必死に見つければ、自分が幸せだと錯覚できるでしょ?」
ふわりと笑う彼女は触れる前に消えそうで、遠い存在のように感じた。
平川未来
学校が色鮮やかに飾り付けられ、爆音の音楽が流れる。美味しそうなご飯の匂いに、生徒の笑い声。そして目を背けたくなる、家族連れの部外者。いや、招き入れる客か。さっきから、親子連れの楽しそうな光景が目に焼き付いて脳内再生される。眠っていたはずの過去の自分が醒め、幸せそうな家族連れに敵意がむき出しになる。それをあやしながら、業務をするのは正直しんどい。いつの間にか幸せそうな家族に対する羨ましいなんて感情は無くなり、みんな死ねば良いのにと心が荒む。こんな奴が人様に教えを説く職業に就くなんて場違いにも助度がある。
「平川先生!うちのクラスすごく人気ですよ」声がした方を見ると、行列ができていた。
「よかったね。文化祭、楽しめてる?」
「はい!すっごい楽しいです!先生、ありがとうございます。先生のアイディアすごく役に立ってます」
「そっか。役に立ててよかったよ」笑顔を作ると、生徒は「ありがとうございます!おかげでお客さんは退屈しなくて済んでるみたいです」
「そっか。それは良かった」
「はい!また後で来てくださいね」と慌ただしく、手を振りながら去っていった。
「あの、3年c組のところに行きたいのですか…」振り返ると、小さな子どもを三人連れた父親と母親が尋ねてきた。僕はよそ行きの笑顔を作り「3年c組でしたら、そこの階段から三階に上がっていただいて、すぐ右側にあります」
「ありがとうございます」
階段に向かおうとする家族に軽く頭を下げると、小さな子どもが目の前で転んで泣き始めた。あーあ。かわいそうに。
すぐに子どもを持ち上げて笑顔を作る。子どもは涙を溜めて、膝にできたかすり傷を抑える。
「痛かったね〜。ここ擦りむいちゃった?」
子どもは、今にもこぼれ落ちそうな涙を脱ぐんで小さく頷いた。
「子どもさんに絆創膏貼っても大丈夫ですか?」
「え、申し訳ないです」
「大丈夫ですよ。消毒もありますし」ちょうど怪我をした生徒に消毒と絆創膏を持っていったあまりを持っていてよかった。
「なら、お願いします」
子どもが怖がらないように優しい笑顔を作る。
「少ししみるけど我慢できるかな〜」子どもは消毒が染みるようで目を瞑った。この年で我慢なんて言葉を知っているんだなと関心しつつ、その間に消毒を終わらせ、絆創膏を貼った。
「うん、えらいね!」頭を撫でると、泣き顔の面影が見えないぐらい笑顔になっていた。
「ありがとうございます」母親は僕に頭を下げ、子どもに「大丈夫だからねー」と声をかける。
「優しいお兄さんにありがとうして?」父親は、子どもに向かって優しくいった。
「優しいお兄ちゃん、ありがとう」
僕は笑顔を作り「いえいえ〜、お祭り楽しんでね」と笑顔で手を振る。
家族が過ぎ去り、胸が痛む。僕が優しいわけないだろ。何の疑いもなく大人の言うこと聞いてバカなやつ。なんだよ、あんなに愛情もらってますみたいな顔してさ、死ねば良いのに。あ、ほら、こんなやつを優しいとか言うんだよ。あいつらバカじゃん。