六章〈期待という名の呪い〉
平川未来
意識が曖昧で俺は、雲にでもなったのだろうか。
まるで肉体を失い魂だけになった感覚だ。
その自分が自分ではない、ふわふわとした感覚が心地よい。
「み…、い…」
遠くではっきりと聞こえない声。
今は誰も話しかけないでくれ、こんなに心地よい空間を誰にも邪魔されたくない。
あの世での時間なんていくらでもあるのだから、今はそっとしてほしい。
「みら…、くん」
「み、らい…くん」
何でこんなに騒がしいんだ。
声の主の方に意識を向けると、自分の体にそっと意識が戻る。
目を開けると、叔父さんと叔母さんが顔をくしゃくしゃにして泣いている。
声を振り絞って「泣かないでください」と声をかける。
その俺の声に叔父さんと叔母さんは安心したように肩を撫で下ろした。
そして涙がいっぱいの顔で俺の頬を触った。
なぜそんな顔をする?
なぜそんなに心臓が張り裂けそうな顔をする?
「未来君、生きていてよかったよぉ」
生きていた?
まさか、死ねてない、のか?
先程までのふわふわしている感覚はなく、自分の体が自分で動かせる。
手を少し動かしてみるが、やはり自分の意思で自分の体が動いてしまう。
「千愛は、僕と一緒にいた女の子はどうなりましたか?」
叔父さんは気まずそうに目を逸らした。
「一緒にいた女の子はね、亡くなったよ」
「そうですか。無事に死ねたんですね」
叔父さんは眉を顰めて「そうだね」と言葉を絞り出した。
千愛はもうこの世にいない。
無事にお母さんと会えただろうか。
次は誰にも邪魔されずに、思う存分談笑できているだろうか。
「未来君、ごめんなさい。未来君がこんなに苦しんでいたことに気づかなくて…」
俺が、苦しんでいた?
何を言っていんだ?
俺は苦しくて死のうとしたんじゃない。
「叔父さん、僕は苦しいと思って死のうとしたわけじゃありません」
俺言葉に叔父さんと叔母さんは泣きそうな顔になった。
どうしてそんな顔をするんだ?
ただ死のうとしただけなのに、なんでそんな顔を俺に向ける?
「ごめんね、未来君の体の傷…見たんだ。今まで気づかなくてごめんなさい。これからはうちで暮らそう。もう君の両親は…了承している」
そうか、厄介払いができてよかったじゃないか。
「そうですか。もう帰れないんですね」
いつも通りの笑顔はやはり好きにはなれなくて、何かがこびり付いた。
*
叔父さんと叔母さんが病室から出て数分が経った。
生き残ってしまったという現実が叩きつけられる。だが、涙の一滴すら流れなかった。絶望も希望もなく、ただ虚無感に駆られる。千愛が死んだことも、「そうなんだ」とすんなり受け止められた。悲しいという気持ちに不思議となれなかったのだ。ただ『死』という目的を共有した人間が死んだだけだ。そう思うことしかできない俺は、人間の心など等に失っているのだろうか。
コンコンコン。
「どうぞ」
病室の扉が開く。すると、そこにはおばあさんがいた。
「あぁ、生きててくれたんだね。ありがとう」
おばあさんは俺の手を握って涙を流している。
「おばあさん、心配させてごめんなさい。どうか泣かないでください」
旅の途中で経った一日お世話になっただけなのに、この人には泣いていて欲しくなかった。綺麗な世界だけを見て欲しかった。汚い世界を見せたのは俺なのに、酷い矛盾だ。
「千愛は、無事にお母さんに会えたようです」
「そう、なのね…。あの子のこと、私はずっと忘れないわ」
「こんなに優しいおばあさんに覚えていただけるなんて、千愛も喜ぶと思いますよ」
「そうだといいのだけど…」
無言が続く病室でおばあさんの冷たい液体が俺の手の甲に落ちる。
「あの日の夜。千愛ちゃんが『私が死んでも誰かに覚えていてほしい』って言っていたのが、どうしても頭から離れなくて、二人がいるはずの部屋を覗いたのよ」
「そう、だったんですね」
おばあさんも叔父さんと叔母さんと同じような顔を俺に向ける。この人たちは他人に感情移入しすぎて死んでしまいそうだ。人は死ぬ。誰もがわかっていることなのに、なぜそんなに悲しそうな顔をする?死ぬことを理解していない子どもではあるまい。
「そしたら置き手紙があったから、慌てて警察に連絡したの。結果的に千愛ちゃんは亡くなって、あなたは生き残らせてしまった。私がしたこと…正しかったのかしら」
「そうだったんですね。正しかったなんて誰にも分かりませんよ。千愛は死んで、僕は生き残った。今はただそれがわかっているだけです」
「あなたが生きていてくれたことは、とても嬉しいのよ。でも、生き残らせてしまったことがあなたにとっていいことなのか…」
俺がおばあさんに救われることを拒否していたのだから、おばあさんは無力で当然だ。だからそんな顔で俺に謝罪しないでくれ。
おばあさんは俺を救ったことをこれから先の人生、悩み苦しむのかもしれない。ここで俺が死ななかったことが俺にとってどんな結果をもたらすのか、あの時死んでいた方が俺のためになっていたのではないかと悩み続けそうだ。いや、優しいおばあさんのことだから、俺が死んでいたら救えなかった自分を責めるだろう。だからせめておばあさんを苦しめた罪人が、おばあさんを安心させるように笑顔で答える。
「僕にもう一度チャンスをくれてありがとうございます。僕なら大丈夫です」
「そう言ってくれて、ありがとうね」
俺が笑いかけるとおばあさんは困ったように笑い返す。
「これ、大事なものでしょ?渡さないとって思って持ってきたのよ」
おばあさんの手に握られていたのは、俺たちが旅で使った鞄だ。
大事なんて入ってなかった気がするが…。
「ありがとうございます」
鞄を開けて中身を確認する。
少量の荷物で旅をしていたようで、開いた瞬間に中身が全て見える。
俺が書いた手紙と…、もう一つの紙切れはなんだ?
紙を開くと見慣れた名前が書いてある。
未来へ
初めて話した時を覚えてる?
あの時も今も完璧な笑顔で、みんなに好かれる未来はクラスで浮いている私にも同じように接してくれたよね。
それが何だか別世界の住民だと思えていました。
そんな完璧な平川未来を一番嫌っていたのは、未来なんだよね。
でもこれだけは言わせてほしい。
平川未来の化けの皮が剥がれ落ちたあなたに、私は救われました。
完璧だと錯覚していた人間もこんなに醜いのだとしれたから、醜い私も少しは変われるんじゃないかって思えんだ。完璧な平川未来じゃなくて、あなたが嫌いなあなただから救われたんだよ。バカみたいだけど、確かに完璧じゃないあなたに私は救われたんだよ。
いつか未来は話していたよね。
学校はマシだって。
未来は自分のことを含めて人間なんてどうでもいいと思っているけど、私は人未来が一番人間と向き合っている人だと思っている。
だから、誰かを救える力があるんだと思う。
救えるわけないだろ?って思っているかもしれないけど、勝手に周りが救われているんだよ。
だから、私のわがままだけど、私たちみたいな人を救って欲しい。
沢山じゃなくていい。一人だけでもいい。
そしたら、私にあいにきてよ。
ゆっくりでいいから、期待してる。
「期待してる、ねぇ。ずるいよ…」
「なんて書いてあったの?」
俺は手紙を閉じて、顔を上げた。
「僕はもう少し生きなければならないようです」
「そう。生きる理由ができたのね」
「はい。僕に対する優しい呪いです。完璧じゃない僕を好む変わり者がどうやらいるらしいです」
「千愛ちゃんらしいわね」
「そうですね。僕なんかを優しいと言ってくれる人ですから」