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地獄で息をする  作者: 乙丸 乃愛
〈プロローグ〉
6/11

五章〈自由への旅〉

 平川未来


 冬暁、三十六度の温もりを頼りに夜を明かした。

 昨晩、旧校舎の屋上で互いの張り詰めていた糸が切れ、互いの存在を確かめるように強く抱きしめ合いながら朝を迎えたようだ。

 言葉で傷を舐め合うこともせず、互いの行いを褒めることもしない。

 ただ、互いの温度が語り合ってくれた。

『それでも生きている』のだと。

「千愛、おはよう」

「おはよう」

「未来、昨日言っていた死に場所までどのくらいかかる?」

「二日かな」

「そう、あと二日で死ねるんだね」

 まだ隣で眠そうな千愛が昨晩人を殺してしまったとは思えない。

「うん。死に場所は決めてあるんだ。千愛も気に入ってくれるといいな」

「どんな場所かな?楽しみだな〜」という千愛は、まるで遊園地を楽しみにしている子どもみたいだ。

「もうすぐ死ねるとおもったら、明日が来るのが悪くないと思えてきた」

「そうだな」と返事をすると、楽しそうに千愛が笑った。

 明日を待ち望んだのは、明日を待ち望むことができたのは『死』のお出迎えがあると知っているからだろうか。案外、『死』のお出迎えというのは、つまらない日常に花を咲かせてくれるらしい。

「ねぇ。もし、もしさ、私たちのことを見てくれる誰かがいて、辛いって。きついって。助けてって言えたら何か変わったのかな?」

「どうだろうな。俺たちには、その言葉を向ける相手がいなかったから、こうなったのかもな」

「もしその言葉を受け止めてくれる人がいたら何か言ってた?」

「多分、言ってない。その人が助けるほどの価値を俺が備えていないから」

 千愛は悲しそうな顔で「そう、かな」と返事をした。

「助ける方も助けられる方も覚悟がいるからな。その人の何十年分の人生を救うということは、生半可な覚悟じゃできないよ。お金も体力も精神力も全部持っていかれて、一人の人生で救える人間なんて片手に収まるだろ?そう考えると、すでに救いたい先客がいる人間に助けは求められないだろ?」

「そうだね」

「千愛はそんな人がいたら、何か言ってた?」

「どうだろうね。ただ抱きしめてくれたら、それだけで救われていたかもね。でも、ただそばにいてほしいなんて望みすぎだよね」

 苦しそうに笑う千愛は、そばにいてほしいと願うことさえ罪と捉えているようだ。

 口に出すだけで蝕まれる千愛にそっと触れる。

 千愛の頬を一筋の感情が流れ落ちた。

「苦しかったら苦しいって言葉にして、怒りたかったら自分のために怒って、叫びたかったら叫んで、泣きたかったら涙を枯らして…。人間、それだけでいいのかもな」

「そうだね。それが言えたら…良かったのに。苦しいって誰かに訴えたかった」

 苦しそうに拳に力を込める彼女は「わかろうとしない人間も、幸せそうな人間もみんな死ね…」と震える声で言った。

「辛いって、苦しいって言いたかったな…」

「うん」

「でも、みんなが期待する平川未来は勉強も運動もできて、みんなに信頼される優しい子らしいよ。だから、弱くても弱音を吐かずに、辛くても楽しそうにヘラヘラ笑って、自分がどれだけ辛くても他人に大丈夫?ってアホみたいに気遣って感謝される気持ち悪い化け物が生まれちまったよ。はは、バカみたいだよね。こんなに弱くてボロボロなくせにさ、ほんとバカみたいだ…」

 何もない夜空に石鹸の香織が漂った。どうやら千愛が俺を抱きしめているらしい。大丈夫と赤子をあやすように頭を撫でられる。

「ははは。なぁ、こんな化け物、救いようねーだろ」乾いた本音が屋上に響いた。

「みんなを騙してよくここまで頑張ったね。もういいよ、もう、頑張らなくていいよ。ありがとうね、未来。みんなのためにありがとう…」

「…うん」

 俺を強く抱きしめる千愛をそっと抱きしめた。

 狭い肩幅に、細い腰、透き通った白い肌。

 こんな非力な身体で、よくここまで生き抜いたものだ。

 言葉なんていらない。

 求めていない。

 言葉如きで救われるほど単純じゃない。

 境遇に理解も共感も同情もいらない。

 だから、ただ骨が軋むほど抱きしめた。



 *



 死に場所目掛けて人生を巻いていく。

 足を進めるたびに死に近づいていくというのに、今更怖いなんて感情はない。

 死に場所に行くまでに、必要なものは全て盗んで手に入れた。

 今から死ぬというのに、盗みに罪悪感を覚えるのが不思議だ。

「よし、これで全部だな」

「うん。未来にだけ行かせてごめんね」

「大丈夫だよ」

 大切な物も思い出も全て捨てて、必要な時に手元に置いておけばいい。

 それが、元の物と異なっていても問題はない。

 代わりなんていくらでもあるのだから。

「これ、着ときな。血が見えてる」

「ありがとう」

 こうして、虚偽人間は今日も人間に紛れ込む。

 そして、表面だけを見て他人をわかった気になる。

 だけど誰もそれを咎めることもできないだろ?

 だって、丁寧に飾り付けした偽善を振りかざす人間だって、どうせ自分を偽っているのだから。

「この服、お母さんが可愛いって言ってくれた服なんだよ」

「そうなんだ。似合ってたよ」

「ありがとう。でも、もう、さよならしなくちゃね」

「そうだな」

 千愛は、血のついた服を川に沈めた。

 服から剥がれ落ちた血が、千愛の思い出を薄れさせていくようだ。

「未来、いこうか」

「もういいの?」

「うん。そんなに大事な物じゃないから」

「そっか」

 物に執着しない俺たちは、誰かに奪われた時に傷つかなくていいように、自分で手放しても傷つかないようにしている。何かに執着できる人が少し、羨ましい。


 夜が再び訪れ、俺たちを包み込んでくれた。

「今日はここで寝ようか」

「うん」

「人ってこんなに温かいんだな」

「うん。温かかったんだよ」

 これが夏だったらこんなに心地の良いものを知らずに、生命を終えていたのかもしれない。



 斎藤千愛


 死ぬための旅だというのに、今までで一番充実した時間を過ごしている。誰かに必死に話題を合わせるでも、目的地を合わせるでもない。『死』という目的を共有しているというのに、とても居心地が良い。

 今の未来は何をおもって死に向かっているのだろう。

 道中、相変わらず私に取り繕っている笑顔を向けてくる。

 まだ囚われているの?

 そう聞いたら、彼はなんと答えるのだろう。

「ねぇ、未来は死ぬ前に何かしたいことないの?」

「ないよ。でも、人生をたたむ前に走馬灯が見たい」

「なんで?」

「俺が何に執着していたのか、わかるかもしれないから」

「なんでそんなことが気になるの?」

「両親に情があるとは思えないし、学校は取り繕っていた場所だから、俺の思い出に誰が踏み入れているのか検討が付かない。だから、死に際に何が見えるのか興味があるんだ。楽しかったことでも、苦しかったことでもいいから、俺の記憶に切り刻まれたものが知りたい」

「楽しいことだといいね」

「はは、そうだな。千愛の走馬灯は何が見えると思う?」

「私は…、お母さんがいいな。お母さんの走馬灯に私が写ってて、私の走馬灯にもお母さんが写ってたら、私が生まれた意味があったって思ってもいいよね?」

 未来は困ったように笑って、「やっぱり、千愛は千愛のままだね」と眉を下げる。

「未来もね」と小さく呟いた言葉に「知ってる」と噛み締めていう彼は、必死にみえない何かと戦っているようだった。



 *



「まだ歩けそう?もう少しで着くよ」

「うん。大丈夫」

 あの日から、振り返らずにここまで歩いてきた。消したもの失ったものが、どのようなものだったのか。その代わりに得たものがどのようなものか。過去に戻りたいという希望を膨らめることが、無意味なことを私は知っている。

 少し見渡せば美しい風景が広がっているというのに、それに気づかないように足を進めることが、今の私たちにできる生きるための行動だ。

 時が経つのは早いもので、気づいたら日が落ちていた。

「暗くなったね」

「うん。ここは海に近いから寒くなるよ」

「そういえば目的地聞いてなかった。海なの?」

「海だよ。夜の海。すごく大事な場所なんだ」

「特別な場所なんだ」

「うん。中学校の時に友達と遊んだ時に目的地も決めずに遠出して、たどり着いた場所なんだ。そこに、若い女の人がいてね、その人に初めて人間として誰かに扱ってもらえた気がしたんだ。女の人は旦那さんに浮気してるって疑われて苦しんでいたのに…人に優しくする余裕もないぐらい思い詰めているくせに、俺なんかに優しくしてくれた変わった人と出会えた場所…。人間として認めてくれた場所で、人間として死にたいんだ」

「その女の人はどうなったの?」

「わからない。その一回しか会ってないから…。でも、優しい人だったよ」

「そう、なんだ」

 人の大事なものを奪うな、なんて誰が嘆くことができるのか。

 その女の人が誰かなんて今更知れるはずがない。でも、どうしてもあの男の顔が頭に浮かぶ。

「千愛?どうした?」

「なんでもないよ。優しい人と出会えてよかったね」

「うん」

 百合子のことを思い出し、少し悲しくなった。

 百合子は死んだ。

 その事実が私の胸をきつく締め付ける。

 そっと頬に流れる冷たい液体。

 その液体が頬をつたり終える前に上を向いた。

 どうやら地球が代わりに泣いてくれるようだった。

「雨、降ってきたね」

「ほんとだ」

「未来、雨強くなってきたよ」

「止むまでちょっと休憩しようか」

 私たちは、すぐそばにあった小さな古民家の屋根の下でお世話になることにした。

 濡れた服に体温を奪われ、それ以上の体温を互いに分け合うように寄り添う。

 死に場所目がけて歩む道中、束の間の休息。

「千愛、大丈夫?寒くない?」

 未来は相変わらず自分のことなんて二の次で、私のことを心配してくれる。

「大丈夫だよ。それに、今から死ぬんだよ?今更体調を気にしても仕方がないよ」

「死ぬ時まで身体を蝕まれていたくないだろ。死ぬ時ぐらい、何も気にしたくない」

「それもそうだね。雨が止むまで、ここで休もうね」

「うん、雨が止むまで」

 雨は強くなるばかりで、一向に止む気配がない。

 まるで私たちを堰き止めているようだ。

 古民家の屋根からつたる大粒の雫は、水たまりに波紋するものの水たまり全体を満たすことができない。小さな波紋は水たまりに吸収され、その存在すら感じ取ることができなくなってしまった。

「私たち、頑張ったよね?」

「うん。頑張ったよ」

「休んでも、怒られないよね?」 

「大丈夫、誰も怒れないよ。休んでも、もう誰も俺たちを責める人はいない」

「そう、だね…。たくさん休もう」

 世間の音を全てかき消すような大雨は、私たちを守ってくれているようだった。


「そこのお二人さん、そんなところで何してるの?」

 私たちのこと?

 もしかして、警察…?

 まさか、私を捕まえにきたの。

 どうしよう、捕まったら死ねない。

 早く逃げなきゃ。

「千愛落ち着いて、大丈夫だから。僕に合わせて」

 未来は怖くて動けない私に耳打ちをして、私の前に立ってくれた。

「こんばんは。ごめんなさい、勝手にここを使ってしまって…、急に雨が降ってきてここで雨宿りさせていただいていました」

 私は、未来の背中に隠れてそっと様子を窺う。

 そこには、優しそうなおばあさんが居た。

 ひとまず、警察でないことにほっと肩を撫で下ろす。

「あら、そうだったの。急に雨降ったからね。大丈夫?風邪ひいてない?」

「はい、ご心配ありがとうございます」

 私たちには後ろめたいものがあるというのに、未来はおばあさんとの会話を楽しんでいるようにも見える。

 完璧な優等生がボロを出す瞬間はいつなのだろう。

 詮索すればするほど、未来に完璧が染み付いていく。

 未来に大丈夫?と言いたくて、背中にそっと寄り添ってみる。

 その返事も完璧なもので、私の手をそっと握って未来の三十六度の体温が私を安心させてくれる。

 私は未来の完璧な笑顔に守られて、じっとすることしかできない。

 じゃあ、未来は誰が守ってくれるの?

 私も未来を守りたい。

「後ろのお嬢さんは、寒くない?大丈夫?」

「あ、この子は少し人見知りで――」

「大丈夫です」

 私は未来の隣に移動してはっきりと答えた。

「それならよかった。そうだわ、うちでお風呂でも入っていきなさい。このままだと風邪ひいちゃうわ」

「でも…」

 私が返事に困っていると、未来がすっと答えてくれた。

「では、お邪魔してもいいですか?」

「ええ、いらっしゃい。久しぶりに人とたくさん話せて嬉しいわ」

 嬉しそうなおばあさんの顔を見ると、今更断ることができそうにない。

 もし、おばあさんに人殺しだとバレたら、警察に捕まってしまう。

 その不安がどうしても胸の中に残る。

「未来…」

 そっと未来の袖口を掴むと、いつもの笑顔でこう言った。

「大丈夫だよ。僕に任せて」

 未来に完璧を剥がさせないのは、周りが未来なら大丈夫だとなんの根拠もないものに甘えてしまっているからだろうか。



 *



「どうぞ、上がって」

「お邪魔します」

 おばあさんに軽くお辞儀した後に、未来に続き家の中へと足を進めた。

 人の家に足を踏み入れるのは初めてのことで、家の隅々まで見渡す。

「はい、これで頭拭いて。すぐにお湯を張るから、少し待っててね」

「ありがとうございます」

 見ず知らずの人が私に優しくしてくれている。

 その事実がたまらなく怖い。

 この人は、私に何を求めているのだろう。

「ここに温かいお茶を置いておくからね」

「ありがとうございます」

 ただ優しくしてくれるおばあさんが何を求めているものがわからず、ますます怖くなる。後で何かを請求されるような気がしてならない。

 受け取ったタオルを眺めていると、未来がそっとタオルを頭に乗せてくれた。

「千愛、大丈夫?」

「大丈夫」

「本当は?」

 タオルの隙間からそっと顔を覗かせた未来が、優しい眼差しを私に向けた。

「少し…怖い。おばあさんが優しくしてくれるのが怖い。私たちに何を求めているんだろう」

「どうだろうな。あの人はただ俺たちに優しくしているようにみえる。条件付きの優しさじゃなくて、ただ優しくしてくれるからこんなに胸が痛いんだと思う」

 未来は胸の辺りをギュッと握りしめて、苦しそうにしている。

「私はこの優しさにどうしたらいいのかわからない」

「俺もだよ。俺も、ただ優しくしてくれる人間は怖い。でも、今は優しさに浸ろう」

 小さく頷くと、未来がタオルで私の髪を優しく拭いてくれた。

 その感覚が懐かしくて、笑みが溢れる。

「どうした?」

「なんだか懐かしくて。昔、ある人がこうしてくれたのを思い出しちゃった」

 その感覚に重ねてしまう人物が誰だったのか思い出せない。

 多分、私の大切だった人。

 もう、私の中から消えた人。

「お待たせ、お風呂沸いたから入ってきてね。着替えは洗面台に置いているから、それに着替えてちょうだい」

「はい、ありがとうございます」

 おばあさんにお礼を言って、同時に立ち上がった。

「千愛、先に入ってきなよ。風邪引くよ」

「いや、いいよ。未来が先に入ってきなよ」

 互いに相手が風邪を引かないように先に入るように説得する。

 明日以降、この世に存在しない相手を気遣うなんて馬鹿みたいだ。

「じゃあ千愛、二人でお風呂場に行こう」

「え、何言ってるの?」

 いいから、と未来は私の手を引いた。

 脱衣所に着くと未来は入り口の方を向いて座り込んだ。

「どうしたの?」

「千愛、あのおばあさんと二人になるのが怖いでしょ。俺がここにいるから安心してお風呂に浸かりなよ」

「私、一人でも大丈夫だよ」

「大丈夫な人がこんなに震えないでしょ」

 そう言って未来が私の手に触れて、やっと気がついた。

 自分が震えていることに。

「大丈夫、俺はここにいるよ。ここにいるから」

「…うん。ありがとう」

「じゃあ、風邪ひかないうちに入ってきな」

「うん」

 久しぶりのお風呂は体の芯から温めてくれた。

 あの日から冷え切った身体を、ゆっくりと温める。

 この温もりをもう少し前に知りたかった。なんて言ったら、笑われるだろうか。


 

 *


 

 着古したパジャマに身を包み、二人でおばあさんが待っているリビングに戻った。

 他人の家にいることを思い出し、未来の後ろに隠れる。

「お風呂、ありがとうございました」

「いえいえ、ゆっくりできた?」

「はい、ありがとうございます」

「そう、それならよかったわ。お風呂入っている間に夜ご飯作ったから、もしよかったら食べてね」

 私の顔を見た未来に、軽く頷くと「では、いただきます」と未来が返事をした。

 誰かと食事をするのはいつぶりだろう。

 未来と一緒に食器をテーブルに運ぶ。

 いつもは一人でしていた作業。

「「いただきます」」

 湯気の立った温かい料理は、匂いを漂わせ空腹を刺激する。

「とっても美味しいです!」

 自然と出てきたその言葉に、「それはよかったわ!」とおばあさんも嬉しそうに答える。

「私も夜ご飯作る時があるんですけど、このぐらい料理が上手になりたかったです」

「あら、夜ご飯を作ってるなんて偉いわ。お母さん助かってるでしょうね。今からでも十分上手になれるわよ」

「お母さんを助けてあげられていたら良いんですが…。ありがとうございます」

 料理をしていたことを褒められて少し照れ臭くなった私は目を逸らし、軽く頭を下げた。

「僕は千愛の料理好きだよ」

 その言葉に顔を挙げると、未来が笑顔でこちらを向いている。

「あら、作ってあげてるの?素敵ね」

「お昼を一緒に食べた時にお弁当のおかずを少し分けてあげていただけですよ。未来は、コンビニ弁当ばっかり食べてるので」

「お弁当持たせてもらってないの?」

「僕の母は料理が苦手なので…」

 未来は少し悲しそうに眉を下げた。

 以前未来から聞いた話だが、ご飯以外もあまり作ってもらった記憶がないようだった。

 レトルト食品とコンビニ弁当がお袋の味かな?なんて笑えない冗談を笑顔で話してくれたことを思い出した。

「果物あるんだけど、まだ食べられそう?」

 食事が終わりお皿を片付けをしようとした時、おばあさんが台所から蜜柑を持ってきた。未来が「千愛、大丈夫?」と小さな声で聞いてくれたので、私は「うん」と答える。

「はい、食べられます」

「よかった。この蜜柑甘くて美味しいのよ。あ、お仏壇にあげていた物を下げてもらってもいい?」

「はい」

「そこの戸を開ければ、お仏壇があるからね」

 私はおばあさんが教えてくれたお仏壇のお供え物を下げに向かう。

 おじいさんかな?

 綺麗に掃除された祭壇には、満面の笑みの写真が置かれてある。とても手入れが行き渡っているお仏壇だ。定期的にお花を変えているのだろう。お供えしてあるお花は。綺麗に活けてある。微かなお線香の香織が漂い、私の心を落ち着かせてくれる。使い古してある経本を見れば、おばあさんにとってどれほど大切な人かわかる。

 亡くなってもこんなに人に想われるなんて…ずるいよ。

 軽くご挨拶だけして、私はお供え物を下げた。

「お供え物持ってきました」

「ありがとね。そこに置いてて」

「すごくお仏壇を綺麗にされてて…その、すごく大切な人だったんですね」

 おばあさんはすごく懐かしそうに「そうよ。今でもすごく大切な人」と柔らかい笑顔でまっすぐした目でそう言った。

「私が死んだ時も、誰かに覚えていてほしいんです。私という人間がいたことを誰かに、誰かに覚えていてほしいんです」

 おばあさんは眉を顰めて少し考えた後に、こう言った。

「大丈夫よ。私はたった数時間しか経ってないけどあなたの良いとこをたくさん知ってるわ。さりげない気遣いも、たまに素直に出してくれる言葉も、たまに見せてくれる笑顔がとても可愛いところも、あなたの魅力は伝わっているもの。今まで一緒にいた人があなたのことを忘れるわけないわ」

 こんなに自分のことを褒めてくれたのは初めてだ。

 嬉しい感情のそばに、私は最低な人間だという後ろめたさが帯びている。

「でも、私感情が分かりずらいって言われて…」

「人と比べて感情を表に出すのが苦手でも、あなたは頑張って表現しようとしているでしょ?私の旦那さんもそうだったのよ。少しずつ、少しずつでいいから自分に素直になっていいのよ。押さえ込まずに、無理せずに表現すれば気づいてくれる人がいるから。そうよね?」

 おばあさんは未来の顔を見た。

「そうだよ。僕は千愛が喜んでいるのも、悲しんでいるのも、苦しんでいるのにも気づけるから安心してよ」

「そうよ。人は人のことを覚えておこうと思って覚えているのではなくて、気づいたら自分の中にいるのよ。良くも悪くもね」

「そうですね」

「もしどちらかが先に亡くなっても、片方が覚えていると思うわ。あなたたち互いのことを大事にしているのが伝わってくるもの」

 私は未来の方を向くと、未来も不思議そうにしていた。

「私のことを覚えていてほしい」

「うん、絶対忘れない」


 

 平川未来


 食事が終わり、外を眺めると雨が降り続けていた。

 おばあさんがテレビのスイッチを入れると、ニュース番組が流れ始めた。

 画面には大雨警違法の文字が出ている。

「今日は止みそうにないわね」

「そうですね」

「親御さんに連絡して、許可が出たらここで泊まっていきなさい」

「でも、そこまでしていただくわけには…」

「いいのよ。一人でいる時よりもすっごく楽しいもの」

「では、お世話になります」

 連絡手段なんてものを持ち合わせていないが、俺たちには必要ない。

「テレビ変えてもいいですか?この時間面白い番組があるので一緒に観ませんか?」

「いいわね。一緒に観ましょう」

 ニュース番組にチャンネルを固定されては千愛の居心地が悪いだろう。

 テレビを見て笑いが響くリビング。リビングが笑いで包まれるなんて空想の世界のことだと思っていた。これが無理やり作っている空間だったとしても、今はここにいたい。

 この家の居心地は良いが、ふとした瞬間に誰かに壊されるような感覚に襲われる。

 大丈夫。もう、あいつらはいない。ここがわかるはずがない。

 そう自分に言い聞かせて、感情を一定に保つ。

 いつもしている作業。

 慣れたものだ。

「ははは。こんなに楽しいのはいつぶりかしら。ありがとね」

「僕もすごく楽しいです」

 この家に生まれたかったなんて言ったら、おばあさんを困らせてしまう。

 俺はいつものように、自分の心に蓋をした。



 *



 二十二時を回った頃、おばあさんは一足先に就寝した。

 おばあさんが用意してくれた布団に入り、目を閉じるものの先ほどまでの興奮が抑えきれない。空想世界と思っていた夢物語のような家での生活が先程まで再現されていたのだ。そこにキャスト入りできたのが堪らなく嬉しい。

「未来、起きてる?」

「起きてるよ」

 今日は他人の優しさに浸った。優しさに耐久の無い俺たちにとっては、まっすぐ受け取ることが難しい。利用目的のある優しさの方が気兼ねなく受け取れる。相手に利益が無い優しさを貰うと、自分に何を求めているのか勘繰ってしまう、悪い癖。ただ相手のことを思う優しさが無意味だと思えて仕方がない。そんな無駄な優しさを俺に向けてあなたにどんなメリットがある?そう問いかけてしまいそうになるぐらいに、不思議でたまらない。だけど、不思議と悪気はしなかった。それを受け取れない自分自身が情けなく、罪深い人間だと思ってしまう以外は…。

「おばあさん、すごくいい人だったね」

「そうだな。すごくいい人だった」

「でも、優しい人は少し怖い。私に優しくする見返りを求めないなんて…、そんなの私に優しくする意味ないじゃん」

「そう…だな。でも、見返りがない優しさに死ぬ前に触れられて少し良かったって思ってる」

「そうだね。できれば私はもう少し早く出会いたかったかな」

 千愛は布団から出て、固定電話の隣に置いてある紙とペンを手に取った。

「ねぇ、おばあさんに手紙書こうよ。あのお婆さんなら私のことも覚えていてくれそうだからさ!」

 千愛から紙とペンを受け取ったものの、いざ書こうとするとペンが進まない。白紙から一向に方向性が決まらない。出だしの言葉も、残したい感情も、書き記したい気持ちも何も持ち合わせていない。一人掛けの椅子に腰掛けて、ペンをスラスラ走らせる千愛の人生の方が充実しているのだろうか。この二人で比べても人生の豊かさの基準が低いと大衆に笑われるだろうか。そもそも、他人風情が人の人生を不幸だとか幸せだとか評価していいわけがない。宛名さえ埋まらないこの事実にどう向き合えばいいのだろうか。書いて消して書いて消してを繰り返し宛名が黒く変色した頃、ようやく埋まった宛名は、俺が一番嫌いであり俺のことを一番嫌っている存在だった。

「未来書けた?」

「書けたよ。千愛は?」

「書けたよ!これで思い残すことなく死ねるよ」

 千愛は書いた手紙をもう一度読み直し、何度も頷きながらとても満足像な表情をしている。

 千愛は、その手紙を優しくテーブルに置き、そっとペンを隣に添えた。


 おばあさん

 今日という一日を私は忘れません。

 美味しいご飯を食べて、くだらない話をしてリビングに三人の笑い声がこだまする度に心がとても温かくなりました。お母さんと二人で楽しく過ごした日々を思い出しました。お母さんと二人で同じ空間を共有していることが、私にとっての生きがいでした。

 撫でてくれた手の温もりも、褒めてくれた優しい言葉も、おじいさんとの思い出を語る透き通った声も私の心を揺さぶるのです。私の母がほんの一瞬でもかけてくれた言葉たちに重なって心が締め付けられるようでした。

 私は、お母さんにちゃんと愛されていたのか、ちゃんとみてもらえていたのか不安でした。

 それでも、おばあさんが私を見つめる目と、お母さんが私を見つめる目が似ても似つかないはずなのにどこかで重なっているようでした。お母さんの顔がフラッシュバックして、私をみてくれていたのかもしれないと思ってしまうのです。

 でも、今更お母さんに答え合わせをする手段がありません。

 お母さんになんの言葉も届かないのです。

 届けられないのです。

 私がお母さんを殺してしまったから。

 だから、私はお母さんに会いに行こうと思います。

 誰にも邪魔されない場所で二人、腹を割って話せたら二人の笑い声が響き渡るかもしれません。次は罪悪感などなく、透き通った声が響き渡ると信じています。

 最後に、罪深い私の身の丈に合わない願いを聞いてくださるのならば、


 どうか、どうか、私を忘れないでください。


 俺は手紙に添えられたペンを手に取って書き加えた。


 僕たちは死に場所に行く途中でした。

 親不孝の罪を犯した僕たちは唯一残った命で償います。

 ここに来るまでに必要なものは全て盗んで手に入れました。

 許されない犯罪者です。

 それでも死ぬ前におばあさんの優しさに触れられたこと、とても感謝しています。

 この世界にほんの少しだけ色があるのだと錯覚してしまいそうでした。

 僕たちは今夜決行します。

 決して自分を責めないでください。

 むしろ無事に死ねることを願って、喜んでください。

 僕たちは生きるのに向いていなかった。

 ただそれだけのことです。

 どうか一日でもご長寿で。

 僕たちには合わなかったこの世界を色付けて、あの世から綺麗と思えるような風景が広がっていることを願っています。


「それじゃあ、そろそろいこうか」

「うん!次は私が荷物を持っておくよ」

「ありがとう。じゃあ、これも入れといて」

 俺は悩んだ末に書き記した折り畳んだ手紙を千愛に渡した。

「誰に書いたの?」

「自分に」

「未来らしいね」

「そうか?」と言い返すと「そうだよ。きっと自分に向けて書くと思っていたから」と答える彼女の方がよほど俺のことを理解しているようだ。

 二人で足音を立てないように玄関へと向かう。

「「逝ってきます」」


 

 *


 

 その日は、死ぬのにちょうどいい日だった。

 海辺の丘から海が一望できそうなほど、天気も恵まれている。

 海の規則性があるような不規則性な波の音が心を落ち着かせてくれる。

 月明かりを頼りに、全てを飲み込んでくれそうな崖へと足を進めた。

「やっと着いたよ。最終地点」

「これでお母さんに会いにいけるよ」

 隣を見ると、覚悟が決まった顔をしていた。

「はい、これ未来の分ね」

「ありがとう」

 千愛から盗んだお酒と、あらかじめ砕いておいた睡眠薬を受け取った。まさかこんな形で誰かと使うことになるとは思わなかったが、地道に集めてきた甲斐があったというものだ。

「今日は絶好の自殺日和だな。思い残すことは?」

「ないよ。逝こう」

 お酒を開けて、粉末の薬を入れてある袋の口を開ける。

 昂る胸の鼓動と比例して、相変わらず海は冷静でいつでも俺達を受け入れる準備ができている。

 待っているのは、救済か天罰か。

 勇気を振り絞った先に何があるのだろうか。

「千愛、地獄に堕ちよう!」

「うん、逝こう!」

 最高の乾杯が小さく響く。

「またな」

「うん、またね」

 薬を口に入れ、一気にお酒で流し込む。

 カッと熱くなる喉と逆流する胃液。

 大丈夫、これでちゃんと死ねる。

「ち、あき」

 冬霞、千愛の手を握り締め二人で優しい海に身を投げた。


 


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