四章〈破滅の時〉
斎藤千愛
街路樹は葉を落とし、誰からも目線を向けられなくなったものたちは、次に花を咲かせて名を呼ばれるのをじっと待っている。その名も呼べぬ猫は草木を踏み締めて、私の元に擦り寄ってきた。
「どうしたの?」
猫は人懐っこく私に甘えてくる。
「君は自由でいいね」
目の前にいる輪を付けた愛玩動物を愛おしく感じる。
あの男が家に住み着いてから、私の世界は変わってしまった。百合子と会話をしても、男の顔が脳裏にこびりついて離れない。男と私の関係が胸につっかえて、百合子の目をまともに見られそうにない。罪悪感で押しつぶされそうだ。
百合子と過ごせる時間が何よりの楽しみなはずなのに、上手く笑えているかな、変じゃないよね?なんて表情と感情を一致させるので精一杯だ。笑顔をつくることを知ってしまってから、表情と感情は一致できているはずなのに、段々離れていく感覚がある。心に大きな穴が空いているようだ。
ピロン♪
「千愛、本当に大丈夫?」
最近、体調が悪いからとデートを断っていた玲からメッセージが届いた。
「うん、大丈夫だよ」
すぐに玲からの着信がきたが、画面を切った。
ピロン♪
「心配だから会いに行ってもいい?」
私は既読をつけて少し考えた後に、「うん」と感情のこもっていない指先で返信を返した。
玲との待ち合わせ場所に一足先についたのはいいものの、久しぶりに会う彼にどんな表情をすれば良いのか分からない。そんなことを考えていると聞き慣れた声が耳に入ってきた。
「千愛、体調大丈夫?」
「大丈夫だよ」
彼の顔をうまく見られずに、大丈夫と返事をした自分に胸が揺らいだ。
「そっか、無理しないでね。これ、寒いから使って」
そう言って玲は自分のポケットからカイロを出して私の手を包み込む。
「ありがとう」
冷えた空気が私たちの沈黙を際立たせる。
私は心の中で深呼吸をして、ここに来た理由を彼に話す。
「ねぇ、玲。別れよう」
「え、千愛何言ってるの?」
玲は驚いた顔をして私の肩を揺らす。
「別れたい…」
「千愛、どうして?俺の悪いところがあったら言ってよ。直すからさ」
私は最悪なことをしている。所詮他人だからと私を愛してくれる玲の気持ちを利用した。そう、私の心を埋めるために、利用した。
「ごめん」
謝ることしかできない私に、彼はいつものような優しい眼差しを向けてくれる。
「千愛が謝ることじゃないよ。俺なりに千愛を大切にしてきたつもりだったんだよ」
「うん」
そう、それが原因だ。人を愛すことも出来ない癖に、愛されたいと欲望のままに玲の好意に甘えた。そのくせ、私なんかを好きだと言ってくれる彼に、どうせ誰でもよかったんだろと思ってしまう。
愛情を向けられると背けたくなるのは、劣等感のせいだ。
ここ、この胸を下らない劣等感が支配して消えない。
私のことを一番知っている私が、こんな人間のどこを好きになるんだと呆れている。
このまま玲と関わっていても、玲の愛情を利用してしまうだけだ。
それならせめて、傷が浅くいられるように、これからの思い出も情もつくってしまう前に別れてしまいたい。私が罪悪感に押しつぶされる前に。
「玲、今までありがとう。他の人と幸せになってよ」
「待って、嫌になった理由ぐらい教えてよ」
私は精一杯の笑顔を作る。この時のために練習した表情なのかもしれない。
「私には、幸せすぎたんだ。玲からもらったものを上手く返せるほど、私は強くないし、その方法も知らない。まぁ、強いて言うなら、『愛の迷惑』かな」
玲に愛されて、人並みの幸せを感じる時間があった。
私なんかに優しくしてくれた時間は贅沢すぎたのだ。
幸せが私の心を締め付ける。
今の私にこの幸せを受け入れられる余裕はない。
傷ついた顔をした玲を置いて、三人の家に足を進める。
「代わりなんているわけないだろ…」
背中から力無く聞こえた声に、ごめんなさいと何度も心の中で謝罪した。
*
朝起きて、洗面所に向かう。そんなことですら、体力の消耗を感じる。洗面所には、ハイブランドの化粧品が並ぶようになった。一番知っている百合子の知らない顔は、百合子を変えていく。
百合子と二人で生活をしていたことを思い出せないほどに、男の荷物が侵食しているこの家に、私の居場所があるのだろうか。最近、そればかりが頭の中を支配している。
「千愛、今から仕事行ってくるから」
「わかった。行ってらっしゃい」
百合子は私に目を合わせることなく、男の元にすり寄る。いつものように、「行ってくるね」と男に優しい声で話しかける百合子は幸せそうだ。
行かないでほしい、なんてわがままを口に出せずに、百合子の見送りは日に日にまともにできなくなっていく。
百合子が仕事に向かうと、男が私にニヤリと笑い、近づいてくる。
「千愛ちゃん、今日もよろしくね?」
男の優しい声の裏には、下心が詰まっている。
それに気づかない百合子は、私とこの男がうまくやっていると思っているようだ。
「触んないで」
私は男の手を振り払おうとするが、男の力に圧倒される。
「何?逃げれるとでも思ってるの?いつもみたいに諦めちゃいなよ」
私は男に首を絞められ、もがくことしかできない。
――助けて。
その想いは、誰かに届くことなくベッドに引き摺られていく体。抵抗すればするほど傷みつけられる身体に、抵抗せずに大人しく従った方が、賢い選択なのではないかと思ってしまう。いや、賢い選択であると自分に信じ込ませている。
ベッドの上で男に犯されるたびに、自分の身体が汚れていく感覚。汚物になっていく私に、気遣い、心配してくれる人達に、罪悪感を感じてしまうのだ。私は、あなたが心配してくれるような綺麗な人間じゃない。そう思ってしまう限り、素直に相手からの言葉を受け入れられない。例え相手が、そんなことないよと否定しても、私自身が私を肯定できない。
「あれ、泣いてんの?」
そう言われて自分が涙を流していることにやっと気づく。心はとっくに壊れているようで、痛みも悲しみも怒りも無い。心がぽっかりくり抜かれたように、その心の存在がなくなったことを嘆くように静かに流れる涙は、今の私が出した精一杯のSOSだった。
玲と別れてから数週間、心にできたこの空間に名前があるのだろうか。心はとっくの前に壊れているはずなのに、身体は動き続けてしまう。自分の寿命を理解して壊れていく機械の方がよほど賢い生き方をしている。人間を創り出す時に、心の傷を身体に影響させないシステムを作った神様は悪趣味なようだ。
私は言語化できない心の傷を受け止める限界に達し、自分の腕をカッターでなぞる。スーと流れる赤い液体は、私の腕にブレスレットを作り出す。可視化された痛みが、生きていると私に伝えてくれるようだ。増える傷口を尊く感じてしまうのは、生きているからだろうか。
平川未来
理由をつけて、家にいる時間を減らす。母さんに嘘をついて外出するのはこれで何度目だろうか。自分に嘘をつくのも、他人を騙すのも罪悪感を感じないのに、こんなちょっとした嘘は罪悪感がある。
俺は時々、いつも行かないような場所にふらりと足を運んでいる。目的地を決めずに、なるべく俺のことを知っている人がいない場所に足を運ぶ。
目に留まった見慣れた店に入って、いつもの商品を手に取った。物に執着しない俺が、唯一集めているもの。
「これ、お願いします」
「はい、お預かりいたします」
店員さんにお金を払い「ありがとうございます」とお礼を言うと、「最近寒いのでお体に気をつけてくださいね!」と温かい言葉が返ってきた。平川未来を知らない人物は、俺に優しく接してくれていると錯覚する。少しだけ人間でいられていると勘違いしてしまいそうだ。だがこれが、人ならざるものが人の道を這いずっていてよかったと感じる瞬間なのかもしれない。
温かいような、心に何かが刺さるような感覚を背負って、再び街を歩く。家族割、家族団欒を強みにする店を見るたびに、目を背けたくなる。この街でも、家族を大切にすることが正義であると言われているようだ。
斉藤千愛
百合子とお出かけをするときの私は、どんな顔をしていたのだろう。明日は百合子とのお出かけというのに、全く気分が上がらない。あの男と三人で、というのがどうしても引っかかってしまうからだろうか。これが、百合子と二人だったら、どんな気持ちで明日を迎えられたのか、そんなことすら想像できなくなってしまった。
「千愛、これ持ってて」
「うん」
私は両手に百合子が買った紙袋を握り、百合子と男の後ろをついていく。楽しさなんて感じることも無く、時が過ぎていく。百合子の知らない顔を見るのは、これで何度目だろうか。
「斎藤さん?」
こんな姿を見られたくない。そう思って声をかけてきた人物と目を逸らして、足を進めようとする。すると男が振り返りその人物に、声をかけた。
「あ、未来君じゃん。久しぶり〜。俺のこと覚えてる?」
「お久しぶりです。えーと、高田のお兄さんですよね?」
聞き慣れた名前に耳を疑う。この男が高田の兄なの?
「そうだよ、高田隼人。覚え得ていてくれて嬉しいな」
「僕こそ、覚えていただいて嬉しいです」
平川さんは、男に軽く会釈をする。平川さんが顔を上げ目が合うが、三人でいることを後ろめたい気持ちに駆られ、一歩足を引く。
「未来君は、今何してるの?」
「特に目的はないですけど、何か買おうかなと思っています」
「そうなんだ。俺たちはね、買い物しに来たんだ〜。百合子さんがほしいっていうからこんなに買っちゃった」
そう言って男は、私が持っている紙袋を指差して自慢げに語る。
「それはいいですね。斎藤さんは何か買ったの?」
「何も」
「あ、そうだ。千愛ちゃんにも買ってあげるよ。似合いそうな服、前見つけたんだよね」
男は、人目など気にすることなく私の肩を寄せる。硬直した私の体はぴくりとも動かず、今の私がどんな顔をしているのかわからない。少なからず、笑顔ではないはずだ。
「ちょっと、隼人さん何してるの。千愛にはバイト代があるんだから、自分で買うでしょ」
「それもそうだね。じゃあ、そろそろ行こっか。またね、未来君」
「はい。失礼します」
男は軽く挨拶を済ませると、百合子と楽しそうに歩き始めた。私もそれに続けて、重い足取りで二人の後を追う。
「待って、斎藤さん。大丈夫?」
「大丈夫」
「あれ、お母さんとお父さん?じゃないよね?」
「違う。お母さんと彼氏」
私の返答に平川さんは一瞬眉を顰める。
「他人の家の事業に干渉する気はないけど、斎藤さん相当我慢してるでしょ?」
「なんでそう思うの?」
しまった、素直にお父さんと言うことにしておけばよかった。
「無理に作ってるその表情だけは、僕が唯一気づけることだから」
「私はちゃんと笑えてるよ?」
これは私の痛みだ、他人が分かった気にならないで欲しい。
平川さんは困ったような顔をして、「そうだね」と悲しそうに言う。
「多分、僕が他の人に同じことを言われたら、斎藤さんと同じ気持ちになると思う」
「じゃあ――」
「僕は斎藤さんの異変に気づけたから、僕を信用してなんて言わない。むしろ、僕なんかを信用しないほしい。でも、他人の家庭の話についていけなかったり、親の機嫌を取るために心を擦り減らしたり、親のために笑顔を作っていくうちに、笑顔が何かわからなくなる感覚を僕は知っている…知っているんだ。だから、僕は斎藤さんの毒の吐口ぐらいには、なれると思うな」
平川さんには無縁だと思っていた内容が次々に語られる。しかし、その語られる内容とは裏腹にいつものような完璧な笑顔を向けてくる。
「僕は君を救えるだなんて思ってないし、救う気もない。どう?僕を使ってよ」
使ってよと言う彼はなんだか楽しそうにも見える。
「なんで私のことをそこまで気にするの?」
「さぁ、なんでだろうね。僕がその気になれば、君ごと君が背負っているものを僕が背負うよ」
完璧で優しい笑顔の裏腹で何を考えているのか、検討がつかない。
私は彼が苦手だった理由が、やっとわかったのかもしれない。
「私、平川さんのその笑顔ずっと嫌いだったんだ。その作りものように完璧な笑顔が」
「ハハハ。俺もずっと俺の笑顔が嫌いなんだ。笑顔を褒められるたびにこの顔が強くこびりつくんだよな」
狂ったように笑い始めたと思えば、悲しそうにこう言った。
「俺は、俺の笑顔を否定してくれる存在を、ずっと待ってた気がするよ。ありがとう」
そこにはいつものような完璧な笑顔などなく、小さな子供が笑っているように見える。
「え、怒らないの?それに一人称どうしたの」
「事実を言っているだけなのに、なんで怒る必要があるの?それに俺は感謝しているんだよ」
完璧だと思っていた人間の皮が剥がれていく。
知らない彼の一面が見える度に、親近感が湧いてしまう。
あぁ、この人もこんなに偽っていたのかと、見惚れるほどに。
「一人称は繕って生きていくために『僕』と呼ぶことにしたんだ。でも、もうあんたに取り繕う必要もないだろ?」
「私は『俺』の方がしっくりくるよ。それにいつもみたいに完璧じゃない方が、好きだよ」
「変わってるな」
「変わってないよ。完璧を演じなくても平川さんが優しいのは変わらないからね」
彼は困ったような顔をして、「優しさなんて嘘だよ」と苦しそうに言う。人助けをする度に、感謝の言葉を受け取り、その感謝の言葉に一瞬困ったような、傷ついたような顔をする彼の気持ちが今ならわかるかもしれない。
「私、もう行かなきゃ」
「そっか。次は学校で」
「うん。学校で」
彼の化けの皮が剥がれた日、殺しても死ななそうな彼の本性と、小さな子どもが必死に背伸びをしているようにみえた。
平川未来
昼休みの旧校舎の屋上は、相変わらず人気がない。ここに来た理由はたった一つ、ある人物に会えると思ったからだ。そろそろかな、なんて思っているとガチャと屋上のドアが開いた。
「こんにちは、千愛」
「こんにちは、未来?」
「はは、なんで疑問系なんだよ」
「急に名前で呼ばれたから」
「嫌だった?」と聞いてみるが、「別に」と、そっけない返事が返ってくる。
千愛は俺の隣に座って、お昼ご飯を食べ始めた。俺もそれに合わせてコンビニ弁当を開く。なんとなく、千愛弁当が以前と比べて彩りが少なくなっているような気がした。
「俺さ、家も学校も嫌いなんだ〜」
俺はできるだけ明るく話す。
千愛が心配する隙を与えないように。
「家では親父から殴られて、殴られるのは俺が悪い子だからだってずっと思ってた。だから、いい子になることにしたんだ。父さんが求めるいい子に。だけど、いい子にしたって親父は俺を殴ることをやめなかったんだ。そんなの、分かってたはずなのに、希望が捨てられなかった」
「うん」
返事はするものの、こちらを向かない彼女に、そのまま話を進める。
「父さんは母さんを殴る時もあってさ、俺が母さんを助けなきゃって思ってたんだ。…そう思ってはずなのに、自分が一番不幸みたいな顔をする母さんに、俺だってきついのに俺の気持ちはどこにいくんだよ、なんてイライラするようになってさ、気づいたら心が壊れて義務的に母さんを守るようになってた。それに気づいたところで、今まで取り繕って作ってきた俺を崩すことができなかったんだ。おかげさまで、学校で友達ができても、どうせ他人だろって、親しくなればなるほど冷めた気持ちが支配するんだ。学校は少しマシだと思える場所なのに」
千愛は少し困った顔をして「そっか」と受け止めてくれたような気がした。それが初めてのことで少し嬉しかった。
「あー、今話したのは心配してって意味じゃないよ。同情されても困るし、俺のことを話さないと、千愛は何も吐き出さないと思ったから、ってことで千愛の番ね」
彼女は「そのやり方はずるい」と言って黙ってしまった。俺は、千愛が吐き出すものが何もないなら、それはそれでいいと思っている。
「…他の人には言わないでほしい」
「もちろん。俺が他の人に話したと思ったら、俺がさっき話した内容を誰かに話していいよ。その瞬間、完璧な間平川未来を殺せるから」
「私がここで何も話さなくても、私が未来の話を誰かに話すことだってできるんだよ?」
「知ってる。千愛になら裏切られてもいいよ。そうしたいならすればいい」
「ずるいね」
「そうだな」
覚悟を決めた千愛は、言葉を選びながら、少しずつ腹の中を見せてくれた。
そのズタボロの心を。
「私ね、産まれた時から望まれない子だったんだ…。お母さんが妊娠している時に、お父さんが浮気しているのが分かってね。お母さんは私を堕そうとしたんだって…でも妊娠二十二週目なんて等に超えていて、私が産まれたの…」
「うん、ゆっくりでいいから」
苦しそうに話す彼女にそれぐらいしか声をかけてあげられない自分を情けなく思う。
「私が何かするたびに、お母さんは『お父さんに似て』って言うから、顔も名前も知らないお父さんのせいにして逃げていたんだ。でも、お母さんに好かれたくて、お母さんの好きな映画も好きなドラマも全て把握して、一生懸命話題を合わせられるようにしたら、お母さんが私を見てくれるようになったんだ…。でも最近は、お母さんが彼氏を作って私を見なくなって、生きる意味がわからなくなってきた」
「そっか…」
「私はお母さんの道具としてでもいいから見て欲しいのに…。今の私には、もう道具としての利用価値も無くなったのかな…?」
消え入りそうな声で打ち明ける千愛に何をしてやれるのだろうか。
多分、何もできないが答えだ。
一方的に何かしてあげた優越感に浸ることしかできない。
それならせめて、救った気にならないから、俺の偽善に付き合ってほしい。
「なぁ、もう泣いていいんじゃないか?」
「でも…」
「俺は、千愛が取り繕う相手じゃないだろ?」
声を殺して泣いているのは、いつもの癖か否か。
千愛の目から流れる大粒の涙にどれほどの苦労が詰まっているのだろう。
そっと制服の袖で涙を拭いてあげると、千愛の肩が跳ね上がり、震えながら縮こまる。俺は、この身体の動きを嫌でも知っている。
「千愛…、もしかして手をあげられているのか?」
千愛は小さく頷く。俺がまだ小学生だった頃、隣の席の人が発表で手を挙げるたびに体が反応して、それがバレないように周囲に常に気を張るようになったことがフラッシュバックした。
行き場の無くなった手をそっと元の位置に戻そうとすると、震えた手で袖口を掴まれた。その手に視線をやると、千愛の袖から見えるリストカットの痕が見えた。
「その腕…」
「…みた?」
「うん。綺麗な腕だ。頑張った証を隠す必要ないだろ」
「こんな腕を綺麗だなんて、ふざけたこと言わないで!」
「ふざけてない」
俺は制服を上げ、今まで隠し切っていた腹部の傷が見えるようにした。無数の切り傷と火傷の痕が顕になる。なんでここまで俺の弱みを千愛に見せられるのか分からない。分からないが、千愛になら自分の弱さを見せてもいいと思えた。
「え、その傷…、どうしたの」
「醜いだろ。全部、父さんにつけられた傷だよ。その傷を誇れなんて言わない。けど、嫌いにならないでほしい。俺は、その腕を綺麗だと思うから」
「…分かった」
「ただの俺のエゴだけどな」
千愛は「そうだね」と寂しそうに笑う。
「ねぇ、未来がそこまでボロボロになってまで、隠し続ける理由って何?」
理由なんて、そんなの簡単だ。
「取り繕って完璧を演じることと、俺を曝け出すことなんて、言わずともわかるだろ?」
「そうだね。心と体が壊れても、天秤にかけたら結局選んでしまうのは、演じることだった…」
「そうゆうこと」
共感してくれる相手がいることで少し心が軽くなる。
たとえ傷の舐め合いだと言われても、傷物同士にしかわからないものがあるのだ。
「愛されなくてもいいから、道具としてでもいいから、見てほしいよな」
「そうだね」
愛される、愛されないなんて二人いなければできないくせに、受け取れないものを望んでしまう。愛すことも愛されることもできない俺たちは、例え愛情を大人買いしても満たされた時の感情が、どのようなものか推し量ることすらできないだろう。
愛されないことを悟った俺たちは、どんな形であっても自分を見てほしいと願う。例えそれが、生物に向けるべきものでないとしても、俺たちは形を問えるはずもなく、欲望を満たす。
道具としてでも見てほしいなんて、誰かに言ったら笑われるかもしれない。けれど、道具としてでも見てくるなんて、傷物にとっては幸せなことだ。こんな傷物でも、利用価値があると言うことだから。まだ、誰かの役に立っているという事実が、存在価値となって生存理由となる。たまに道具の手入れをする几帳面な人間もいるようで、それがすごく嬉しい。
「でも、贅沢を言えば…」
「「愛されたいね・な」」
屋上に響く小さなふたりごとは、儚く消えた。
*
千愛と屋上で話して数日、千愛が俺に話しかけてくれるようになった。望まない共通点が、二人に居心地の良さを感じさせる。それに比べて、母と二人のリビングは、いつも通り居心地が悪い。
「課題終わったよ」
俺は、母さんにそう言って、席を立とうとする。
「課題終わったって、掃除は?洗濯は?それに進路希望も出さないといけないんでしょ?私はいつも未来のことが心配で、心配でたまらないの!私を安心させてよ…」
課題が終わったら教えて、と言ってきたのは母さんの方なのに、甲高い声でヒステリックを起こす。俺は常に母さんの顔色を窺っているのに、いつも何が起点となるかわからない。
「ごめんね。掃除も洗濯も今からちゃんとするよ。でも、進路希望はもう少し待ってほしい」
「そんなこと言って、私が言わなきゃしないつもりだったでしょ!まさか、進路決まってないとか言わないわよね?私をどれだけ不安にさせれば気が済むの?」
「ごめん。母さんをちゃんと安心させるから」
何度も何度も理不尽な言葉を浴びる。その度に、何度も何度も口先だけの謝罪を繰り返し、俺は今日もプライドなど等に無くなった軽い頭を下げる。
ようやくキーキーと喚く声が聞こえなくなったところで、俺は掃除と洗濯をし始めた。俺が掃除と洗濯をするのは、ゴミが母さんの家事に不満を漏らすからだ。母さんは俺に家事をさせることで、俺に責任転嫁することを覚えた。今更、理不尽が一つや二つ増えたところで…と今日も自分に言い聞かせる。
ゴミが帰宅し、平川家の日常が繰り返される。ゴミの罵倒、母さんが叩かれる音、そして、それを庇う俺。俺の中では家族の時間と言ったら、この光景が一番に浮かぶ。
ゴミが満足したところで、俺は風呂を済ませ寝床に行く。寝床が安心できる場所なんて思ったことはないが、家の中では一番マシな場所だ。目を瞑り、意識が切れるのを待つ。研ぎ澄まされた神経は、睡眠を妨害する。
「未来、お願い。私を助けて!未来ならできるでしょ!」
部屋のドアが今にも壊れそうな勢いでドンドンと鳴り響く。
これで何度目か、母さんが俺に泣きつくのは。
ドアを開けると包丁を握りしめた母さんが、ものすごい勢いでせがんでくる。
「私を殺して、あなたは私の子どもなんだから、言うこと聞けるわよね!」
俺が握れるように刃先が、母さんの方を向いている。
その包丁に、手を乗せればきっと俺は母さんを殺してしまう。
もし、ここで母さんを殺してしまえば、俺は解放されるのではないか。
ダメだ。ここで殺してしまっては今までの俺を否定することになる。
今までの俺が一瞬で無駄になってしまう。
「母さん、落ち着いて」
失われそうな理性を保ち、母さんを宥める。この包丁に触れてしまえば、取り返しのつかないことをしてしまいそうな自分がいることに気づいて、嫌になる。自分でも踏みとどまれている要因がなんなのかわからず、ただ親のようにはなりたくないと強く願う。
「うるさい、あんたは黙って私の言うこと聞いてよ!お父さんに殴られている私を見て、本当は笑ってるんでしょ?可哀想とでも思ってるんでしょ!!」
今まで繋ぎ止めていた何かが、音をたて一瞬で消えた。
いつも言われている言葉なのに、特別な言葉ではないはずなのに、全てがどうでも良く感じてしまった。
俺は母さんの横を通り過ぎる。どれだけ擦り寄られても、せがまれても、母さんに干渉することなく歩き続ける。自分の部屋を出て、人の気も知らないで優雅に寝るゴミの寝床にたどり着いた。普段俺からは近づくことのない、ゴミのエリア。ドアを開ける音ですら、かき消すようなイビキが聞こえてくる。ゴミは、さぞ快適に寝られているようで、それにすら苛立ちを覚える。
「未来、待って、何をする気なの!!!」
「僕はいい子だから、母さんを苦しめている元凶を消してあげるんだよ」
俺はいつものように母さんを安心させる笑顔で、俺が一番嫌いな自分の顔で、はっきり告げる。
これは、母さんのためだ。
なのに、なんで母さんは慌てる必要がある?
いまだに情が残っていると言うのか?
「なんだ?」
母さんが大きな声で叫ぶせいで、ゴミが起きてしまったではないか。
俺は優しいから寝ている間にいたぶってやろうと思ったのに。
「おはよう、父さん。僕からの最初で最後の愛情だよ」
これまで受けてきた親から子への歪んだ愛を、子から親へ返す番だ。
人は、他人に対しての歪んだ感情を愛情と呼ぶ。
「ゔぅ…、やめろ」
「未来やめて!!!」
俺はゴミにされてきたことを忠実に再現する。
「父さんも母さんも何言ってるの?これが家での日常でしょ?立場が変わっただけじゃないか」
案外、俺の身体でかくなっていたようで、抵抗するゴミを一方的に殴れる。
こんなことならもっと早くしておくべきだった。
もう、何も抵抗できないちっぽけな俺はどこにも居ない。
「もうやめてくれ…、俺が悪かったから!」
「アハハハハ、謝ってくれるの?謝るなんてこと知らないと思ってたよ。それに、僕が謝ってもやめなかったのに、なんで僕がやめてくれると思ったの??」
俺は、気を失いかけているゴミを風呂場まで引きずり、水面に顔を押し付ける。
「グハッ」
立場が逆転するだけで、こんなに気分が良いものなのか。
人生で初めて優越感に浸る。
「ハハハハハハ、ざまーねーな!苦しいか?助けてほしいか?」
「おい、未来、やめてくれ…お願いだ…」
目の前で意識がもがき苦しむゴミを見て、あぁ、俺は生きているんだ。初めてそう思えた。これが主従関係か、これが人を支配する快感か、ははは、最高だ。
「僕に殺されてないだけ感謝してよね」
俺は、意識が飛んだゴミをその場に置いて、自分の部屋から荷物を手にとる。ずっと家出する時のためにまとめていた荷物。いつか役に立つはずだと準備していた。
玄関まで行くと、誰かが俺の後ろをついてきていたことを思い出す。
「母さん、さようなら」
「待って、置いていかないで!私を一人にしないで!」
俺は、驚くほどに母さんに情など湧かず、冷静な自分がいることに気づく。
「僕が母さんに、父さんと離婚しない理由を聞いたのを覚えてる?」
「それが何よ。今は関係ないでしょ?」
「ははは。何言ってるの?僕がいるから離婚できないって答えたんだよ。でも、よかったね。僕が消えたら、母さんは父さんから解放される」
離婚しない自分を正当化するために子どもを使い、挙げ句の果てには「あんたのせいで」という呪いの言葉を吐く母さんに、俺は何度も心を蝕まれた。いっそ俺のことを殺してくれれば、母さんもあいつと解放されるんだろと何度思ったことか。
「何言ってんの!未来には父さんも母さんも必要でしょ?どこに行くって言うの!私が居ないと未来は生きていけないでしょ?」
人は皆、同じ感性を有していないとはいえ、ここまでずれていると感心する。
家族の前では特に気をつけていたが、『 』という存在をあまりにも知らなすぎる。
「ははは、いっそのこと母さんにしがみついて泣き喚いてあげようか?母さんが必要でたまらない息子になってあげようか?そしたら満足してくれる?」
「ちょっと、未来何言ってるの」
「いつまで空想の話をしているの?いい加減、それぞれ現実の世界を生き抜こうよ」
俺が現実を生きていくことを理解してくれない。理解しようとしてくれない。きっと母さんは、俺の行動を『親を捨てた』と捉えるのだろう。
俺の言葉に母さんは深く傷ついた顔をしたと思えば、眼球に液体が溜まり、溢れ出した大粒の涙が床に溢れる。
「み、らい?どうしちゃったの?未来はそんなこと言わない優しい子じゃない!」
その言葉を聞いて思わず笑みがこぼれる。
「ははは、何を言ってるの?」
我が子の一面だけ見て、息子から好かれているいい母親と信じて疑わない人生はどれほど幸福なのだろうか。
「傷つけられて生きてきたんだよ。人に優しい言葉をかけるよりも人を傷つける方が得意に決まってるじゃないか」
俺は深呼吸をして、できるだけ穏やかに話し始めた。
「母さん、僕が傷だらけのことに気づいて欲しかった。僕が弱いことに気づいて欲しかった。でも、母さんは僕のことを中途半端に心配してくれるから、どれだけ辛くても痛くても嫌いになれなかった…。母さんから『ごめんね』って言われるたびに、僕は許してしまうんだよ。今からでも変われるんじゃないかって、幸せになれるんじゃないかって、バカみたいな希望が消えないんだ」
「未来……。そうだ、やり直そう。今からやり直せばいいんだ。一緒に家を出て、新しい家に住んで…。ね、そうしましょう?」
自分が世界の中心で、世界で一番不幸とでも思えるのだろう。
不幸そうな親を見るたびに子どもは手段を問わず寄り添う。
これが洗脳だとして、それに気づいたとして、何か変わっていたのだろうか。
「僕はその提案に乗れるほど強くない。だから、僕の中に唯一名前のある繋がりを切るために、僕は家族がいなかったことにする」
「どうゆうこと?」
「そのままの意味だよ。僕は、このまま家族を続ける強さも、捨てる勇気もないから、初めから僕には家族がいなかったことにするんだ。簡単な話でしょ?」
人に執着ができない俺が、他人を特別だと思えない俺が、『家族』という名の縛りで他人に執着している振りをしていた。友達、家族、恋人。他人に特別な感情を抱く、人間の真似をしていたのかもしれない。
「僕は、僕の人生の中で親を悪者にしたくなかった。でも、母さんにならできるでしょ?罪を全ての僕になすりつけて、怒りの矛先を僕に向けることが」
「何言ってんの?そんなのできるわけないでしょ!親子なんだよ!」
「親子だからわかるんだよ。家族が崩壊するのは親不孝な僕の責任だ。母さんは何も悪くないよ」
「未来行かないで!」
「もう洗脳なんてしなくていいよ。大丈夫、心配しないで、母さん。僕は昔も今もこれからも、母さんを愛してるよ。今までありがとう。さようなら」
それから僕は母さんの懺悔を背に、もう二度と開くことのない家のドアを開いた。
「願わくば、幸せでいてください」
痛みも悲しみも憎しみも殺意も希望も欲望も、初めから全て無かったことにして、全て消し去った。そしたら、ほんの少し、『未来』に興味をもった。
斎藤千愛
荒い息遣い。
揺れるベッド。
肌が触れ合う感覚。
傷ついた身体。
全てが他人のことのようで、死んだ心は何を訴えているのだろう。
荒れた感情も痛む心臓も、等に限界を超えている。
感情が老化したのか、おかげさまで何も感じなくなっていた。
「今日も千愛は可愛いね」
男は私の身体をなぞる。
私が大人しく言うことを聞いていれば、この男は勝手に性欲を満たして満足する。
そう、ただ抵抗せず、この時間が過ぎるのをひたすら待つのみ。
カチャ。
手首にひんやりとした感覚が伝わってきた。
びっくりして腕を動かすと、手首に痛みが走る。
「え」
「びっくりした?手錠買ってみたんだ。千愛ちゃん最近反応悪いから、面白いものが見られるかなって」
私は自分の手首など気にせず、手錠から抜け出すために腕を引っ張る。鳴り響くのは金属音と男の楽しそうな笑い声。
「ははは。焦ってるね。大丈夫だよ、俺優しいから」
「これとってよ!ねぇ!」
私の言葉をこの男が聞くはずもなく、私の声は誰にも届かない。
そう、思っていた。
「なに…してるの?」
そこには部屋の前で立ち尽くす百合子がいた。
なんで、百合子がいるの?
あれ、私、なにしてるんだっけ、なにしてたんだっけ。
遮断していた情報が次々に入ってくる。
乱れた服を直したところで、言い逃れできない。
あ…。
私を殺して。
お願い。
誰でもいいから。
罪悪感で締め尽くされそうだ。
「あれ、百合子さん早く帰ってくるなら言ってよ。いつもみたいにお出迎えしたのに」
男はいつも通りヘラヘラしながら、この状況を楽しんでいる。
「…千愛になにしてるの?」
「なにって、可愛がってあげてるんだよ」
「百合子…私…ごめんなさい」
百合子は男にゆっくりと近づく。
それは、とても長い時間で、時間が止まっていると錯覚してしまう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
百合子に嫌われたら、私、私、どうなるの。
パチン。
聞こえてきたのは、乾いたビンタの音で、私は驚く。
「千愛に…、私の千愛になにしてんの!!!」
「いってぇなぁ!可愛がってやってるだけだろ!大体、百合子さんが千愛ちゃんを放置するから俺が相手してやってるんだよ。むしろ感謝してほしいね」
「なに言ってるの、私の千愛に謝って!!」
「なんで俺が謝らなきゃいけないの?ってかなんで今更母親ぶってんの?あんなに放置してたのにさ」
男のその言葉に百合子は、男から目を背け先ほどまでの勢いがなくなった。
「私は千愛の母親よ…」
「その言葉、千愛ちゃんの目を見て胸を張って言える?言えないよね。だって、托卵に失敗したのが千愛ちゃんだもんね。初めから、愛情なんてないでしょ?」
「そ、それは」
「…ゆ、ゆりこ、どうゆうこと?」
「あれ、知らなかったの?百合子さんとセフレの子どもが千愛ちゃんだよ。婚約者とセフレの二人は、自分が婚約者だと信じていたんだ。セフレとの子どもができた時に、百合子さんは托卵して婚約者との子どもとして育てることを思いついた。でも、それに気づいたセフレと婚約者に逃げられたってわけ。大きくなるお腹を気にせずに、馬鹿みたいに欲望のままに動くことしかできないなんて、可哀想な人だよね」
「え…、私のお父さんが浮気したんじゃないの?」
「違うよ。百合子さんがセフレを選ばず、婚約者を騙そうとしたんだよ。快楽と地位と金を全て欲張った結果、皮肉にも両者に捨てられてるけど、バカな女。世間体を気にせずセフレと結婚すればよかったのにね」
百合子は私にごめんなさい、ごめんなさいと謝罪を繰り返す。
なんで否定しないの?
なんで謝るの?
「…百合子、嘘だよね?」
「ごめんなさい、千愛。ごめんなさい」
あぁ、私、本当に誰にも望まれてない子どもだったんだ。
「ははは。俺、あんたみたいな人間ほんとに嫌いだよ。あんたの元既婚者、いや、俺の父さんと言った方がいいか」
「え、通りであの人に似て…」
百合子が男の顔に触れようとするが、男はそれを拒む。
「父さんはあんたに裏切られて、優しい女性に出会った。人間不信になった父さんが唯一話せた女性との間に、俺と妹が産まれた。でも、父さんは誰にでも優しい母さんが浮気してると勘違いして、暴力を振るうようになった。唯一信じていた存在が消えるのが怖かったんだと思う…。それに耐えられなくなった母さんは、学校から帰ってきた時には冷たくなってた…」
「そ、そんな」
「もう二度と返事が返ってこない死体に何度も話しかける妹の気持ちが、あんたにわかる?俺の…、俺の優しい母さんを返せよ!」
鈍い音がと百合子が苦しむ声。
「やめて!」
「なんで千愛ちゃんが止めようとするの?」
「私は百合子の子どもよ!お母さんを守るってなにが悪いの」
「ハハ、なにそれ、さっきの話を聞いてもそんなこと言えるんだ」
「言える。百合子がなにをしようが、なにをしてようが、私のお母さんだから」
男は百合子を容赦無く殴る。
百合子を助けなきゃ。
助けなきゃ。
「千愛、千愛だけは逃げて…」
百合子は男に髪を引っ張られながら、私の手錠の鍵を外した。
「あれ、手錠外れちゃったんだね。でも、もう千愛ちゃんに用はないから、逃げるなら逃げなよ」
そう吐き捨てる男は、百合子しか見えていないようだ。
ここで逃げたら、この男に犯されることも、百合子のために生きる生活から離れることができる。自分のために生きる。そんなことが私にできるかわからない。でも、そんな生活が待っているかもしれない。
逃げる。
助ける。
逃げる。
助ける。
どちらが私の取るべき選択なのか。
百合子がどんな人間なのか、私は痛いほど知っている。
視界には百合子が初めて私に買ってくれた縄跳びがあった。あの時の私は、百合子に見てもらうために、必死に気を引いていた。百合子に怒られることですら、私に時間を使ってくれていることに嬉しく思っていた。どんな形でも百合子が見てくれるならと、私はクラスメイトの縄跳びを盗んだ。学校で怒られた帰り道、百合子に縄跳びを買ってもらった。その初めてのプレゼントが嬉しくて、縄跳びを握りしめて寝たのを覚えている。私の宝物。
縄跳びを手に取ると、愛おしさが増す。
百合子に初めて買ってもらった大切な宝物。
親から子への初めてのプレゼント。
初めて私を見てくれた時の感覚。
全て覚えている。
私の中で決意が決まった。
今の私がすべき最善の選択。
縄跳びを握りしめ、男の首を締め付ける。
「ゔぅ。おい、やめろぉ!」
「黙れ!私の百合子を返せ!私の百合子にその汚い手で触れるな!死ねぇ!死ねぇ!」
「千愛やめてぇ!隼人さんが…隼人さんが!」
「死ね!死ね!死ね!百合子はお前のもんじゃねぇ!」
「ゔぅ…。や、めろ…、ほんとに死ぬ!」
「お前なんかこの家にいらない!」
男の抵抗は徐々になくなり、男の腕に力が消えた。
生きたいかではなく、生きるに足りるか。
この問いをこの男に問いかけたところで、応えはもう返ってこない。
「ははは。これで百合子は私のものだ」
百合子は男から解放されたというのに、男の死体に縋り付く。
この男は死んでまで私から百合子を奪おうというのか。
「百合子、これで私たち二人っきりで生活できるよ。二人でご飯を食べて、二人でお出かけして、二人で映画をみる。ね、いつも通りの生活に戻れるんだよ?」
「あぁ、隼人さん…隼人さん…」
百合子は男の死体を抱き抱えて泣き喚いている。
なんで?
私と二人の家に戻れたのに、百合子は嬉しくないの?
「百合子?私を見てよ…」
私は百合子が抱いている男の死体を百合子から引き剥がした。
全部こいつのせいだ。
「私が百合子をこいつから解放してあげる」
「な、なにをするつもりなの」
私は、男の死体を椅子で力いっぱい殴った。
何度も、何度も、何度も、何度も、今までの悔しさを思い出しながら一発、一発、殺意を込める。`
「ハハハ、被害者みたいな顔で死にやがって」
やっと二人の世界を取り戻せたというのに、百合子は顔がぐしゃぐしゃになった男のそばで泣き崩れる。
「百合子、もうここには私と二人だけだよ。私を見てよ。お願い。私を見て」
百合子がやっと私を見てくれた。
嬉しさと共に、百合子がこんなにも痩せ細っていたことに気づく。
あぁ、私も百合子を見ることを避けていたんだ。
「千愛、ごめんなさい。私、私、千愛の母親として失格だわ…」
「なに言ってるの!百合子は私にとって最高のお母さんだよ!誰がなんと言おうと、私のお母さんだよ!」
「ごめん、ごめんね」
泣いている百合子に合わせて、屈んだ私は百合子に腕を回す。
タカン。
縄跳びが地面に落ちた瞬間、百合子が叫んだ。
「いやあぁぁぁ!隼人さんがぁぁ!」
「百合子落ち着いて!」
「千愛ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
虚ろな目をした百合子が立ち上がったと思うと、勢いよく部屋を飛び出した。
次の瞬間、百合子はベランダに身を投げ出した。
「ああぁぁぁぁ。百合子ぉぉ!!!」
言葉にならない叫び声が響き渡る。
親愛なる我が身を捧げた少女は、偽って得た唯一の繋がりさえも失った。
平川未来
初めて他人から求められる期待から背いた日。
初めて人を殴った感覚、初めて親の反抗した感覚、初めて親から解放される感覚。
全てが新鮮で、誇らしい。
今まで俺が行う言動は全て、駄作で価値が無いと思っていた。
失敗作の俺がつくり出す駄作を必死に評価する大衆を滑稽だと思っていた。
処理されることが決まっている物に必死に価値をつけているようだと、そう思うことしかできなかった。
存在を否定され、過程を否定され、結果さえ否定される。
過程を報告すれば、できない言い訳をするなと言われ、結果を報告すれば、それぐらいで満足するなと言われる。
何も知らない他者に俺の駄作を褒められても、こんなもので満足するなと軽蔑してしまう。
他人に何を言われても。俺自身が俺の作り出す全てを嫌っているのだ。
だが、今まで自分を守るために名も知らぬ他者の評価を遮っていたのを許してほしい。
もし、許してもらえるというのならば、今の失敗作が成し遂げたことを誰か評価してくれないだろうか。
それがわがままであることは十分承知している。
それでも評価してくれる変わった人間がいたとして、凡作と言ってくれるだろうか。
可も無く、不可も無く。
作者に同情も作品に加点もいらない。
ただ、視界に入れてくれれば、十分だ。
完璧でも、欠陥品でもなく、凡人がつくった凡人の作品ということにしてほしい。
過去の完璧な平川未来が今の俺を見たら、どんな顔をするのだろう。
軽蔑するのか、嘲笑うのか、いずれにせよ今の俺の気持ちを理解しようとはしないだろう。
今の俺は必死に繋ぎ止めていた家族ごっこから抜け、ようやく『未来』に関心を向けられたような気がする。
とは言え、帰る場所をなくした俺は、気がむくままに足を進めるしかない。
目的も目標も無く、気がむくままに。
そうして足が止まったのは、学校だった。
取り繕って生活した場所にまた戻ってくるなんて、笑えてくる。
「はは、学校かよ」
今日という日がなければ絶対来なかった夜の学校に足を踏み入れる。
いつもいる場所なのに、俺が知っている学校とは違う静寂さがある。
どのような生物であっても、この静寂が包み込んでくれるようだ。
俺は、思い出を踏み締めるようにゆっくりと歩く。
視線の先が、思い出を辿っていく。
取り繕っていた場所だというのに、懐かしく感じるのはなぜだろう。
自然と溢れ出す感情に少し口角が上がる。
「学校は、やっぱりいいな」
今日は、らしくないことを考える日のようだ。
でも、今日ぐらいは素直で、わがままでも許してほしい。
学校の中を歩き回り終わり、旧校舎の屋上に向かう。旧校舎は新校舎と異なり、鍵を簡単に開けられるので有名だ。夏は、クラスメイトが肝試しによく使っていた。
鍵を少し扱うと、簡単に鍵が開く音がした。
廊下に響く、たった一人の足音。
俺が独りであることを、校舎が訴えてくる。
屋上のドアを開けると、昼間と異なる雰囲気の屋上が広がっていた。
ほんの数回の千愛と過ごした記憶が、フラッシュバックする。
「ただいま」
直感で、ここは安心できる場所だと思った。
俺が帰ってくる場所だと、そう思えた。
おかえりの言葉さえ聞こえてこないこの空間を愛おしく感じる。
身軽になった俺の背には、何がしがみついているだろう。
これから失うものを強いて言えば、この命ぐらいか。
今までたくさんのものを背負っていたのか、今が身軽すぎるのか、今となってはどちらでもいい。
「これからどうするかな〜」
頼る人がいないというのに、少しも不安を感じることはない。
他人に頼るという選択肢を知らないということは、絶望的な状況で役に立つのかもしれない。
家から持ってきた鞄の中身を確認する。
何度も家出を夢見て、揃えてきたものが唯一の頼りだ。
「こう見たら、結構集めてるな」
鞄を逆さにすると大量に出てきた睡眠薬に自分でも笑いそうになる。一箇所で睡眠薬を買い続けると販売してくれない恐れがあるため、いろんな店で睡眠薬を買い集めていた。家の周辺の店を制覇した頃、少し遠くの街に出かけたのがすごく楽しくてワクワクしたのを覚えている。俺のことを知らない街に行っては、睡眠薬を買って帰る。お土産を買って帰る感覚だった。
「死ぬ場所も、死ぬ方法もずいぶん前から決めている。あとは…死ぬタイミングぐらいか」
今日は初めてのことばかりをして、このまま死ねるような気がする。だが、今日でいいのか?と、問う自分がいる。今更、未来に希望なんてものを持ち合わせているはずがないのに、死ぬ機会を待つように心臓を動かしていたはずなのに、俺は何を求めているのだろうか。
ガチャ。
開くはずのない屋上のドアが開いた。
その人物は俺が見えていないようで、ゆっくりと屋上に踏み入れる。
「誰だ?」
その人物は俺の声が聞こえていないようで、フェンスに手をかける。
「おい、危ないだろ!」
俺は急いでフェンスから遠ざける。
月夜はその人物を見透かすように照らし、虚な表情と血の匂いで包まれた。
夜に隠されていた彼女の正体を月明かりが暴いたようだ。
「千愛、何があった?」
「離して!!私はもう生きたくない!!」
千愛から手を離してしまえば、今にもここから飛び降りそうだ。
このまま一緒に飛び降りるのも、悪くないか…。
俺は強く千愛を抱きしめた。
ここに俺が居ると、ここに千愛が居ると、伝えるために骨が軋むほど強く。
「俺も連れていってくれ、一人にしないでほしい」
死のうとするのを肯定するのでも、止めることもできない。
そうする資格がないことを十分知っている。
だからせめて、一緒に死なせてほしい。
「み、らい?」
「うん。俺はここにいる」
ようやく俺の存在を認識した千愛は、その場に崩れ落ちた。
「未来、私ね、人を殺しちゃった。お母さんは私が殺した彼氏を追って、目の前で死んでいったの。最期ですらお母さんに見てもらえなかった。私、もう生きていたくない」
「そうか。よく頑張ったな」
頭を撫でると、千愛は声をあげて泣き始めた。
押さえ込んでいた感情が溢れ出したようだ。
「俺は父さんを初めて殴ってきた。正直すごく気持ち良かった。それに、母さんのマリオネットになるのは…もうやめた。俺には家族がいなかったことにして、家族ごっこの舞台から引退できたよ」
「そっか、よかった」
「うん」
死体より冷たい俺たちを、冬夜が暖めてくれる。
「ねぇ、幸せな家族ってあるのかな?」
「ないと思うよ。みんな自分が幸せだと信じて疑わないからね」
「そう、だね…」
幸せな家族があるとしたら、不幸せを必死に否定している家族のことを指すのだろう。
「帰る場所、なくなったな」
「元から帰る場所なんてないでしょ?」
「そうだな」
身体が邪魔だと思うほどに、今はただ彼女の心に触れたいと思う。
「未来は強いね」
「強くないよ」
「泣かないんだね」
「うん、泣くほど弱くもないし泣けるほど強くもない」
「未来には、もっと弱くなってほしいよ…」
「弱くなることが怖いんだよ」
「そう、だね…。それでもほんの少し弱いところを見せてほしい」
「努力するよ」
弱くなるということは、自分に欠点を作るということだ。その欠点を誰かに刺されると考えると弱くなれない。どうせ人は裏切る。それなら裏切られる前提で人と関わればいい。これが、俺が俺を守るためにしていること。『どうせ他人だろ』この言葉が自分を守ることにも、自分を傷つける言葉にも変換可能であると知っている。だが、この考えをやめられない。頼ってしまったら、頼るという選択肢を持ってしまったら、自分が弱くなってしまう。だから、誰かに頼るという選択肢を持つということを頭に浮かべないようにしている。その選択を取るのは、ただ俺が人に頼ることができない弱い人間だからと知っていたとしても。
「俺たち、十分頑張ったよな」
「うん」
「もう、休んでもいいよな」
「うん」
「なぁ、俺と一緒に死んでくれないか?」
「え、」
「今から死ぬつもりだったんだろ?それなら俺に死ぬ理由をくれよ。平川未来は斎藤千愛を一人で死なせないために心中した。どう?納得できると思わない?」
「死ぬ時も平川未来を演じるの?」
「うん。探さなくても、離れたくても、平川未来は俺の中にあるから」
千愛は悲しそうに笑い、俺の頬に手を添える。
「本当の未来はどうしたいの?」
「どうだろうね。死んでも生命活動が終わるだけ…、特別なことじゃないから関心がないのかもしれない」
千愛は少し困った顔をして、優しく笑った。
「一緒にいこう」