三章〈共依存〉
斎藤千愛
今日はなんか予定があった気がする。んーなんだっけ。
珍しく体育委員の集まりがなく、そそくさと帰宅帰りの準備をする。
誰かと一緒に帰るわけでもなく、誰かに「じゃあね」ということもなく、一人学校の靴箱を後にした。
ピロン♪
「今どこいる?待ち合わせの場所いるね」
あ、そうだった。今日は玲とデートの日だった。普通の人だったら待ち遠しくて仕方ないのかもしれないが、私にとってはさほど重要なことではない。百合子とのデートとは大違いだ。そんなことを考えながら、忘れていたことを感じさせないような返信をして待ち合わせの場所とやらに向かった。
「今むかっているところ。少し待ってて」
「待たせてごめんね、行こうか」
本当は忘れていてごめんねというところだが、そんなこと言えるわけない。
また一つ隠し事をした。
彼は私のことを愛おしそうな眼差しを向けてみてくる。私にはその視線がとても痛い。でも、私にはその愛を返すことができない。私は彼のことが好きではないが、彼がくれる愛で少し寂しさを埋めていたい。ひどいことをしているとわかってはいるが、所詮他人。そう、所詮他人、関係ない。
彼とは、横に並んで喋ったり、服を選んだり、ご飯を一緒に食べたりした。楽しくなかったわけではない。だが、百合子といる時のようなワクワク感や、時間の過ぎ方とは大きく異なっていた。
そろそろ帰ろうとしたときに、誰かに名前を呼ばれた気がした。
「あれ、斎藤さんじゃない?」
見覚えはあるが名前はわからない。きっとクラスメイトの人だろう。見られていい気はしなかったが特別気にしなかった。
落ち葉が通学路を鮮やかに染める。その鮮やかさに目もくれない生徒たちはカサッカサッと、さらに地面を落ち葉で染めていく。踏んだ落ち葉が世界に彩りを与えているとも知らずにいるようだ。
いつもと同じ時間帯にいつもと変わらない通学路を歩いているはずなのに、今日はやたらと視線を感じる。そう、確かに視線を感じるのだが誰も私に声をかけない。
ニヤニヤしながら向けられる視線に、気持ち悪さを覚える。
――こっち見んなよ、気持ち悪い。
教室のドアを開けるとクラスメイトの視線が一気に私に向けられた。
私が来ることを待っていたかのように、ニヤニヤしながら高田が近づいてくる。
「あ、噂の斎藤さんじゃん」
普段話しかけてこない高田が話しかけてくる時は、決まって嫌なことが起こる。だが、私は今朝から向けられる視線の正体を知るために、高田に言い返した。
「噂って、何?」
「放課後、斎藤さんが男の人と一緒に居たのを見たっていう人がいるんだけど〜」
「それがどうしたの」
「彼氏だったりするの〜?」
高田は新しいおもちゃを見つけたと言わんばかりに、私の肩に腕を回してくる。
「いや、彼氏なわけないか、斎藤さんみたいなやつ好きになる男なんているわけないもんね」
教室に響く笑いと、私に向けられる目線の数々。
「一丁前に、男遊びしてんじゃねーよ」
高田に呟かれたその言葉が、私の中でこだまする。
はぁ、面倒臭いことになってしまった。
男遊びねぇ。
玲は、どうせ百合子の代わりでしかない。
いや、代わりにもなってないな。
「あんたには、関係ないでしょ?」
「え〜、そんなつれないこと言わないでよ。私たち友達でしょ?」
何が友達だよ。
私には友達なんて居ないし、これからも必要ない。
「離して」
私は高田が一方的に肩に回していた手を退けて、居心地の悪い教室から飛び出した。
後ろから冷やかしの声が聞こえてきたが、聞こえていない振りをした。
授業を受けて、休み時間は教室の外に避難する。そのなんとも言えない作業をこなしていると、昼休みの時間になっていた。ご飯を食べたい気分ではないが、その気持ちに反比例して腹の虫が鳴る。
私は旧校舎の屋上に行きベンチに腰掛け、お弁当箱を開いた。夫妻に教わるまで茶色がメインだったお弁当箱は、随分色鮮やかになっていた。百合子に食べてもらいたいと思っている夕ご飯は、いつも私の弁当箱に詰めることになる。そのお弁当箱の中身を胃に運ぶ作業は、少し胸が痛んだ。それでもその食べ物は、いつも私の胃を満たしてくれている。
ガチャ。
普段、誰もこない屋上のドアが開けられる音が鳴った。
「誰か来る」
私は反射的に弁当箱を閉め、その場を去ろうと荷物をまとめる。昼休み屋上に来てはいけないという校則はないが、この静かな空間に誰かが侵入してくるなら、ここは私にとって安全とは言えない。
「斎藤さん、こんにちは」
その聞き慣れた声に目を向けると、コンビニ袋を持った平川さんと目が合った。
「こんにちは」
そういって私は、慌ててまとめた荷物を手に取り立ち上がる。
「あれ、お邪魔だったかな?ごめんね。僕、別のところに行くよ」
「あ、いや。邪魔じゃないよ。ここで食べなよ」
私自身なぜ平川さんを引き留めたのか分からないが、わざわざ別のところに移動させるのもなんだか悪い気がした。
「ありがとう。せっかくだから一緒にご飯食べようか」
平川さんは私の隣に座り、コンビニ袋からサンドイッチを取り出した。ここでその場を去る気にもなれず、私は再びお弁当箱を開ける。
「そのお弁当、美味しそうだね。お母さんが作ってるの?」
「いや、私が作ってる」
「え、斎藤さんが作ってるの?すごく美味しそう。僕、料理できないから尊敬するよ」
「作ってみれば案外簡単だよ。平川さんはなんでもできそうだから、やってみればすぐできるんじゃないかな」
「僕だって出来ないことの一つや二つあるよ」
「それもそうか。平川さんはいつもコンビニでお昼買ってるの?」
「そうだよ。いつもコンビニ」
平川さんはそういって食べかけのサンドイッチに目線を向けた。母親が作るお弁当というものを、たとえこの瞬間だけでも食べていない平川さんに、親近感が湧く。
「たまにはお弁当食べたくならない?」
「んー。どうだろう。考えたことないかな」
私の中で、百合子に食べてもらいたいという願望が大きすぎるのかもしれない。
「斎藤さんはいつもここでご飯食べてるの?」
「そうだよ。ここは人がこないから気に入ってる」
「そうなんだ。ここ初めて来たけど、いい場所だよね」
「うん」
「僕、人がたくさんいるの得意じゃないんだ」
「そうなんだ?いつも人に囲まれてる気がするんだけど」
「まぁ、そうだね」
風でなびく髪の間から微かに見える横顔は、いつものようにキラキラした平川さんではなく、どこか静けさを感じる。
「そういえば、噂の件――」
「平川さんに関係あるの?」
私は平川さんがそれ以上何かを言う前に言葉を遮った。
これだから誰かと一緒にいるのは嫌なんだ。
勝手に人のテリトリーに土足で踏み入れようとする。
「あ、ごめん。詳しく聞こうとかじゃなくて……。クラスの奴らが言うことは気にしなくていいよ」
クラスメイトがしている噂について何か深掘りをされると思って身構えていたが、深掘りをする様子も無く反応に困る。
「少なからず僕は気にしていない。あいつら一人じゃ何も出来ないくせに、まとまっているってだけで強気になるよね。一人一人の力は変わらないと言うのに」
平川さんはベンチから立ち上がり、旧校舎のグランドで友達と遊んでいる生徒たちを眺めた。その横顔はなんだか寂しそうで触れれば消えてしまいそうだ。
「僕は人のことを攻撃してでしか、自分の価値を見出せない奴が嫌いなんだ。今回の高田みたいにね」
「え、」
振り返った平川さんは、驚いた私にいつものような優しい笑顔でこう言った。
――「僕は、みんなが思っているほど優しくないよ」
再びグランドで楽しそうに遊ぶ生徒たちを、羨ましそうな目で見つめる彼のことを私は何も知らないのかもしれない。
平川未来
「未来お兄ちゃん、こっちこっち!」
「はいはい。走ったら危ないよ」
小学校低学年の従兄弟は、その小さな体で大きく手を振る。
「そろそろご飯にするから、戻っておいで」
庭で遊んでいた俺たちに、叔母さんが家の中から声をかける。叔母さんが従兄弟を見る眼差しは、母さんが俺に向ける眼差しとは似ても似つかない。従兄弟は元気よく返事をして、叔母さんの元に走って行った。その映画のワンシーンのような微笑ましい光景に。グサリと胸に何かが刺さる。
――いちいち反応するなよ。
家族なんて、俺には必要ないだろ?
そう言い聞かせて、胸に刻まれる傷を無かったことにする。
「未来お兄ちゃん、お腹すいた〜。早く食べようよ」
「うん」
いつもの笑顔でそう答えた。
「未来お兄ちゃんは、僕の隣ね」
「ありがとう」
俺は従兄弟と母さんの間に着席した。斎藤さんのお弁当は確かに美味しそうと感じたのに、この食卓に並ぶ豪華に飾られた料理に何も感じることができない。
「じゃあ、みんな揃ったし食べようか」
叔父さんのその言葉に、「いただきます」と各自手を合わせる。
「これ美味しいね!」
「そうだね」
従兄弟は、料理を余程気に入ったのだろう。料理を手に取り、満足そうに次から次に手を動かす。隣にいる母さんを見ると、いつもと別人かのように笑顔だ。視界に入るゴミもいつもの横暴さは消え、叔父さんと世間話をしている。
「未来、これ美味しいから食べてみろよ」
ゴミはよそ行きの笑顔を向けて、俺の皿に料理を盛る。
笑顔でもこんなに醜い顔をできるんだな。
「ありがとう」
俺もすかさず表情筋を働かせて、笑顔を作り出す。
幼いときは、母さんがいつもと違って楽しそうにしている姿が嬉しかったのを覚えている。だが、今となってはそんなことも思えなくなった。いつもと違う家族に合わせて、どこにでもある家族の振る舞いをするこの時間は、神経をすり減らせる。楽しいとか、嬉しいとか、面白いとか、ましてやご飯が美味しいなんて感じとる暇がない。ただ、平川家の 一人息子として、その場にいる全ての人の顔色を伺いながら演じ切る。
家族で過ごすということは、自分を殺して時が過ぎるのを堪えるということだ。この与えられた茶番のテーマは『家族ごっこ』。幼稚園児のおままごとを、歳だけ食っていった 子供が、あの頃には持ち合わせていなかった財力で周囲の人を無作為に巻き込み舞台を作り上げる。
「未来君、来年受験生だね。進路どうするの?」
「まだ、何も決めてないけど、大学に行こうとは思っています」
叔父さんに進路のことを聞かれて、少しドキッとした。クラス内でも進路先について話すクラスメイトが増えてくる時期だ。俺は、夢があるのが当たり前といったクラスの風潮に居心地の悪さを感じている。明日すら見えない俺に、進路先について聞かれても上手く回答できるはずがない。とりあえず世間が、周囲が、親が納得する進路で当たり障りのないことを残りの高校生活は言うことになるだろう。
「未来君は勉強もスポーツも出来てすごいよね。将来安泰だ」
「未来は、いつも夜遅くまで部活頑張ってるからね」
「ハハハ、こいつなんてまだまだだよ」
母さんは叔父さんたちに、俺のことを自慢げに語る。俺は母さんの自慢の息子でいれているのだろうか。
平川家の平川未来を演じることは苦痛でしかないが、母さんが俺のことを活き活きと誰かに話している姿を見るのは、昔から俺の存在価値を周囲に示してくれているようで不思議と悪い気はしなかった。
ゴミは家族以外といるときは、俺と母さんのことをいつものように否定しない。だからと言って肯定することもないが、平川未来を育てた親として周囲から評価されている。ゴミは俺にしていることを忘れているのか、美化しているのか。素晴らしい脳内変換で、自慢げに家での教育方法について語る。つらつらと並べていくほんの少しの真実と、それを包み込む虚言に同一人物かと疑いたくなるほどだった。その薄っぺらい言葉に感化され、大人たちは平川未来を育て上げた親として讃える。そんなゴミの姿を間近で見てきた俺が言えることはたったこれだけ、ゴミは生き物を育てるセンスがない。
中学校の頃までの俺は、ゴミにされていることを大人に言っても、「親の言うことは聞きなよ」「あなたのために叱ってくれているのよ」「反抗期なのね、大人になれば親のありがたみがわかるよ」なんて綺麗事が返ってくる。大人にはゴミの嘘は真実に見えて、俺の真実は嘘に見えるらしい。
俺は、大人になんてなりたくない。
できれば、大人になる前に死んでおきたい。
この家で最低限の生活を送るためには、ゴミの顔色を窺って平川未来を演じなければならない。それができなければ生命が脅かされる。とても単純な話だ。俺が生き残るために、平川未来の人物像に寄せれば寄せるほど、ゴミの親としての評価が上がる。それに気づかない大人が悪いのか、周囲を騙している俺が悪いのか。表面だけで判断するな、俺にはそんな文句は一生言う資格がない。
「僕、未来お兄ちゃんみたいになんでもできるようになりたい!」
従兄弟はこんなどうしようもない俺の顔を、キラキラとした眼差しで見つめる。
「僕みたいになっちゃダメだよ」
「どうして?」
「そのままでいいんだよ」
従兄弟は不思議そうな顔をする。
俺みたいにならないでくれ。
そう願って、従兄弟の頭に手を伸ばす。
「そのままでいてほしい」
*
授業で俺、巧也、穂坂さん、斎藤さんの4人で班を組むことになった。授業が予定よりも早く終わったため授業が終わるまで自由時間になり、あちらこちらで楽しそうな笑い声が聞こえてくる。俺たちも残り時間で、たわいもない話をしていた。
「今日は、チア部休みだからはやく帰れる」
「チア部も休みなんだ。俺たちも休みだよ。でも、昨日お父さんと喧嘩したから部活あって欲しかったな」
「巧也、喧嘩したの?」
巧也は口を尖らせ、腕を組み直す。
「家族旅行の計画をしてる時に、俺が行きたい場所とお父さんが行きたい場所が違っててさ、時間的にどっちかしかいけないのにどっちも譲らないから喧嘩した」
「そっか。仲直りして、楽しく旅行できたらいいね」
「仲直りねー。できっかな?」
「できるさ」
俺は家族旅行をしたことがないし、ましてや家族でどこかに出かけるなんて記憶に残っている限りしたことがない。家族でどこかに出かけるなんて、想像すらつかない。それに、父さんと対等に会話をするなんて、夢のまた夢だ。
「未来は親と喧嘩することある?」
「んー。喧嘩か」
「うん」
「無い、かな?」
「なんで疑問系なんだよ」
「あはは。喧嘩っていう喧嘩はしたことがないかも」
母さんは俺が守るべき対象であり、一方的にゴミに傷みつけられることは、喧嘩と呼ばないだろう。俺の場合、親に怒るという感情が欠如している代わりに、親に対してのなんとも言えない黒い感情が、殺意として現れる。だが、殺意を親に向けることは喧嘩とは言わないはずだ。
「未来の両親優しいからな」
「未来君の両親、少し興味あるかな。どんな人?」
「俺が、前会った時はすごく礼儀正しくて、未来のことすごく大切にしていて、優しい両親だったよ」
「そうなんだ」
外面がいいだけだよ、なんて言えるはずもなく愛想笑いをする。
「斎藤さんは今日の放課後、何する予定?」
俺はなんともいえない気まずさから解放されるために、斎藤さんに会話を振った。
「――家に帰ってお母さんに料理を作る」
「斎藤さん、料理作ってるの?私も最近作るようになったんだ。家族で囲むご飯って美味しいよね」
斎藤さんは一瞬眉を顰め、そうだねと返事をした。
「ご飯といえば、晩ごはんでお父さんと顔合わせるんだった。それまでに仲直りしときたいな…」
「大丈夫だよ、巧也君。だって親子だもん。すぐに仲直りできるよ!」
「それもそうだな!」
俺も家族をかけがえのない存在だと、胸を張って言える日が来るのだろうか。親子だから分かり合える、そう思っている人間とは深く細い溝があると思ってしまう自分が、薄情で傲慢なやつだと思えて仕方がない。
斎藤千愛
「千愛、ご飯できてる?」
「できてるよ」
百合子にご飯を食べて貰いたいという願望は、望まぬ形で実現された。食卓に三人分の食事を運ぶ。生活費も置いていかなくなった百合子が久しぶりに帰ってきたと思ったら、玄関で百合子の頬を触った男がこの家に住み始めた。
私と百合子の家を汚す男は今、我が物顔で百合子の隣に座っている。
「千愛ちゃん、これ美味しいよ」
あんたに食べて欲しいんじゃない。
あんたのために作った料理じゃない。
「あれ、千愛ちゃん無視?俺泣いちゃうよ?」
「ほら、千愛。せっかく褒めてくれているんだから、お礼ぐらい言いなさいよ」
私は百合子にバレないようにため息をつき、「ありがとう」と感情の籠っていない感謝を述べた。
男が家に来始めてから数週間。リビングのドアが開き、男が鼻歌を歌いながら入ってきた。
「千愛ちゃん、見て。合鍵つくちゃった」
そう言って男は、鍵を指でくるくると回す。
「百合子は合鍵作ったの知ってるの?」
「知ってるよ。百合子さんが、合鍵あった方が便利だからって作ってくれたんだよ」
それはつまり、この男が私と百合子の家をいつでも踏み荒らせるようになったということではないか。
百合子、なんで私たちの家にこの男を入れるの?
百合子を独占できずに三人で一緒にいるのも嫌なのに、この男と二人っきりなんて最悪だ。
「仕事が遅くなるから、百合子はまだ帰ってこないよ」
「知ってるよ?」
「え、じゃあなんできたの」
この男は百合子に会いにくるために、この家に来たんじゃないの?
「千愛ちゃんがいるから来たんだよ」
「どうゆうこと?」
男は私の腰に手を回し、力強く引き寄せられた。
なにが起こったのか一瞬わからなかったが、怖いという感情だけはわかった。
「離して!」
「暴れるなよ。百合子さんに似て、顔はいいと思ってたんだよね」
「なに、いってるの?」
私は持てる力全てで離れようとするが、男の力に敵わない。
再び力強く引き寄せられた体と、唇にある違和感。
真っ白になった頭に、一気に情報が入り込む。
キス、された?
「ははは。なにびっくりしてんの。もしかして初めてだった?」
私は我に返って男から距離をとる。
「そんなに警戒しないで、こっち来なよ」
先ほどの感触が残っていて、気持ち悪い。
「そんなに強がらなくてもいいよ。ほら、手震えてるよ?」
私は自分の手に目線をやると、このどうしようもない現状に震えていた。
「百合子が知ったらあんたはこの家にいられなくなるよ」
「なに言ってるの?百合子さんは俺の味方だ。彼氏と娘がキスをしたって知ったら、娘を軽蔑するだろうね」
男は私の顔を触りながら、楽しそうに口を開く。
「百合子さんが、俺と千愛ちゃんどちらを優先するかなんて、千愛ちゃんが一番わかっているでしょ?」
*
バイトが終わり、見慣れた道をゆっくりと歩く。一秒でも早く帰りたかった私と百合子の家は、二人だけのものではなくなってしまった。男が家に入り浸るようになってから、何もかもが変わってしまった。百合子との楽しい時間も、百合子の温もりも、百合子の頭の中も、全てあの男に奪われた。
百合子には会いたい。だけど、男には会いたくない。
そんな意味がない葛藤をしていると、マンションについた。
玄関を開けると、当たり前のように百合子の靴の隣に男の靴が並んである。
「ただいま」
返事が返ってこなくなった、ただいまを告げリビングのドアを開く。
「百合子さん、三万ちょうだい」
「この前あげたばかりじゃない」
「うるさい」
男が百合子の頬を叩き、バチンとリビングに響いた。
「ちょっと、百合子になにしてるの!」
「百合子さんごめんね。叩くつもりじゃなかったんだ。でも、素直に貸してくれなかった百合子さんも悪いんだよ」
男が百合子の叩いた頬に手を添えて、申し訳なさそうに謝っている。
私は慌てて百合子に近づき、百合子と男の間に体を入れた。
「百合子から離れて」
「千愛、いいのよ」
百合子は私の肩をポンと叩き、男の胸に顔を疼くめる。
「私こそごめんね。ちゃんと渡すから、またデートしてくれる?」
「うん、いいよ」
男は百合子の頭を撫でるが、玲のような目で百合子を見ることはなかった。
夜、男がどこかへ出かけたため、百合子と久しぶりに二人になれた。あんなに楽しかった二人の空間がとても重く感じる。
百合子と二人になれたことは嬉しいが、やはりさっきの出来事が頭から離れない。
「百合子、さっき叩かれた場所大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
百合子の瞳が私を写してはくれない。
「――百合子、あんな男とはやく別れなよ」
百合子は私の言葉に肩が動く。
私の顔を見たと思えば、一筋の涙が溢れた。
「あの人は私と結婚してくれるって言ったの!ずっとそばにいてくれるって…約束してくれたの…。あの人はあなたのお父さんと違って女と浮気しないし、私の幸せを一番に考えてくれるの!」
あの男の何が百合子をここまで執着させているのだろう。
あの男が百合子の希望に添えないとこを私は知っている。
知っているが、その相手が私だなんて口が裂けても言えない。
「そっか…」
「千愛。私、幸せになってもいいよね?」
私はとびっきりの笑顔を百合子に向けた。
「幸せになってよ!」
その言葉とは裏腹に、いろんな感情が入り混じる。
今更嘘の一つや二つどうってことない。
百合子の幸せのために自分を騙す、そんなの簡単でしょ?千愛