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地獄で息をする  作者: 乙丸 乃愛
〈プロローグ〉
2/11

一章〈青春〉

 平川未来


「今日は、九月十七日の体育祭に向けて、クラスから体育祭実行委員を男女一名ずつと、応援リーダーを男女一名ずつ決めるぞ」

 二年a組の担任である中尾先生はかったるそうな声で言った。

 立候補なら手を上げなければ勝手に決まるか。

 僕は、そんな呑気なことを考えていた。去年の体育祭の話で盛り上がるクラスメイトを横目に、窓の外を眺める。そこには、何者にも縛ることのできない澄んだ青空が広がっていた。

「まず、体育祭実行委員から決めるぞ。体育祭実行委員をしたい人は、挙手して」

 教室は、先ほどの盛り上がりとは裏腹に静まり返る。体育祭実行委員といっても名前だけの肩書きが貰えるだけで、要は体育祭の雑用係だ。去年は体育祭実行委員という響きに惹かれたのか、すぐに枠が埋まった。しかし、去年の雑用を見たためか、クラスメイトは黙りしている。

「誰もしたい奴はいないのか?」

 一年生の時の役割決めよりも中尾先生がかったるそうだったのは、こうなるのがわかっていたからだろうか。中尾先生はため息をつき再びかったるそうに口を開く。

「じゃあ、先に応援リーダーを決めるぞ。応援リーダーをしたい人は、挙手して」

「はい!」

 クラス内を見渡すと、男子三名、女子二名が挙手をした。応援リーダーは、各クラスから男女一人ずつ集まり体育祭を盛り上げる中心的なメンバーだ。体育祭で応援リーダーに憧れるなんて話はよくあることで、応援リーダーになりたいと立候補者はキラキラした目をしている。

「じゃんけんか、話し合いで決めようか」

「先生、推薦するのはいいですか?」

「いいぞ」

 中尾先生にそう投げかけたのは、先ほど応援リーダーに立候補した巧也であった。僕の前に座っている巧也は振り返り、何か合図をしてくる。

 なんだ?

 僕はその合図の意図が分からず、眉をひそめる。

「応援リーダーに、未来を推薦します」

 巧也は何を考えたのか、僕を推薦した。今回の話し合いは部外者だと思っていた僕にとっては耳を疑う提案だ。

「未来君の応援リーダー?それって未来君の法被姿が見られるってこと?()先生、私も未来君を推薦します!」

「私も」

「俺も」

 クラスメイトは次々に僕を推薦し始めた。

 僕は目の前に座っている巧也に耳打ちをする。

「なんで僕を推薦したの」

「みんなが未来の応援リーダー姿に期待しているからだよ」と巧也は、楽しそうに言う。

 注目を浴びるために、応援リーダーをしたい気持ちはわかるけど、人を推薦するか?しかも、巧也は応援リーダーに立候補したのに。

 そこまで考えて、冷静になる。今はそれよりもこの状況をどうにかしなければいけない。

「先生。僕は体育祭実行委員をします。せっかく立候補した人がいるので」

「そうか。じゃあ、体育祭実行員の男子は平川で決定な。平川もこう言っているから、応援リーダーに立候補した人は、誰がするか決めろよ」

 そう言いながら、中尾先生は手元の紙にメモをと取った。クラスメイトたちは一斉に「えー」と批判の声が上がる。中尾先生にとっては誰がするかよりもこの時間に役割が決まることの方が重要なのだろう。それから、中尾先生の声掛けによって挙手をした五人で話し合いを行い男子は巧也、女子は穂坂さんに決まった。巧也は、僕と同じサッカー部で進んでリーダーをするタイプだ。穂坂さんは、チアリーダー部で二年生をまとめる役をしている。二人は学年問わず知り合いが多いため、この二人の応援リーダーは注目が集まるだろう。

「最後に、体育祭実行委員の女子は誰がする?」

 中尾先生の声にいち早く反応したのは、高田さんであった。

「先生、斎藤さんがいいと思いまーす」

 高田さんは、茶色がかったロングの髪に、見るからに校則違反である赤いリップと短いスカートを生徒指導の先生に指導されている場面をよく目にする。高田さんはロングの髪に指を通し周囲の女子たちとニヤニヤにながら斎藤の反応を窺っている。この提案も明らかに面白がってのことだ。

「斎藤、推薦されているがどうする?」

 高尾先生の声を合図に、クラスの目が一気に斎藤さんに集まる。斎藤さんと会話をしたことが無く、クラスメイトと同じように僕も斎藤さんの反応が気になった。僕の隣の席の斎藤さんは読書をしている手を止め、面倒くさそうに顔を上げる。

「します」

 たった一言、そう言った。

「え?あいつにできるの?ってか、人と話しているとこ見たことないんですけど」

 斎藤さんを推薦した高田も、斎藤さんが承諾したことに驚きながらも、あっさり承諾されたことが気に食わなかったのか周囲の女子たちと文句を洩らしている。隣を見ると斎藤さんは何事もなかったように読書をしていた。

「斎藤さん、体育祭実行委員一緒に頑張ろうね」

「うん」

 斎藤さんはこちらを見てそっけなく返事をする。そしてすぐに、読書に戻る。

 これ以上話しかけるのも、なんかなぁ。

 僕が、彼女と初めて話した印象は、『掴めない人』であった。



 *



 放課後、帰りの挨拶が終わると一番に教室を出る。いつも僕が一番に部室に着くからという理由で持っている部室の鍵で、サッカー部の二年生が使っている部室の扉を開いた。誰も居ない部室で練習着に着替えると、他のメンバーが部室に近づいてくる足音が聞こえてきた。

「部活だー!」

 僕は勢いよく扉を開けた巧也と目が会う。

「今日も、準備は早いな」

「早く準備したら、早く練習が始められるからね」

 そう言って部室を出る。僕は、早速ビブスが干されているところへ向かう。部活にマネージャーが居ないこともあり、練習に必要なものは役割分担して準備しなければならない。特に三年生のレギュラーが準備に取り掛かるのが早いため、僕は三年生よりも早く来て準備をするようにしていた。僕が一年生の時からレギュラーだからか、練習前の準備をおろそかにすると先輩たちに足元を掬われることがあった。

 僕は、洗濯竿にかけられた大量のハンガーにかかっているビブスを一つずつ丁寧に畳んでいく。

「未来。俺も手伝うよ」

 声がした方向を見ると、練習着に着替えた巧也がいた。サラサラとした黒髪に、サッカーをしているようには思えない白い肌。巧也の特徴でもある、黒くて綺麗な瞳が僕を映している。僕は畳んだビブスを入れる籠を僕と巧也の間に置いた。

「ありがとう。それと、なんで僕を体育祭の応援リーダーに推薦したの?」

「一年生から部活のレギュラーで、成績も学年で一番。加えて、男女問わず仲が良く、後輩や先輩からも人気がある。そんな人がいたら、応援リーダーしている姿見たくない?」

「そんな人がいるのか分からないけど、応援リーダーはやりたい人がやらないと、僕は巧也が応援リーダーをしている姿を楽しみにしているよ」

「ドライだな」

「巧也は、僕が応援リーダーをする姿を見たかったんじゃなくて、みんなのノリに乗ってみただけだろ?」

「バレたか。俺が応援リーダーしている姿ちゃんと見とけよ!」

 そう楽しそうに答える巧也との何気ない会話に、居心地の良さを感じていた。

 僕は体育祭で巧也の法被姿を見ることが、密かな楽しみになっていた。





 斎藤千愛 


「カフェ寄って帰ろうよ」

「あ、いいね!ちょうどパフェ食べたいと思ってたんだ」

 通学路では楽しそうな会話が聞こえてくる。私とは縁がない世界だな。そんなことを考えながら、先ほどの体育祭の役割決めの光景を思い出す。

「めんどくさ」

 深いため息が漏れる。体育祭なんて、苦痛の時間だ。みんなが楽しそうにしているのをひたすら眺めながら、時が過ぎるのを待つ。去年の体育祭は、普段の学校よりも時が経つのが遅く感じた。どうせ苦痛な時間なら、雑用をしていた方が幾分かましなのかもしれない。そんな沈んだ気持ちを少しでも早く解消したいと、アルバイト先に向かう足取りを速めた。

 私がカフェのバイトを初めて、一年ほど経過していた。初めは不慣れだった接客も優しい夫妻のおかげで、今は常連客に可愛がってもらっている。

「おはようございます」

 甘い焼き菓子の香りに包まれ幸せな気持ちになりながら、いつも通りタイムカードを切って、挨拶を夫妻に告げる。

「千愛ちゃん、おはよう。待ってたよ、おかえり」

 夫妻とのこの何気ない会話がどこか心地いい。私の家ではないのに、夫妻は「おかえり」とまるで自分の娘に声をかけるかのような、ふわふわの毛布で包み込んでくれるように言われ、一瞬家族と勘違いしてしまいたくなる。

 いつものようにテーブル準備とそのほかの雑用を手際よくこなした。

 今日は、誰が来るかな。

 学校と違ってここでは少し人と関わることにどこか楽しみを感じている。せわしない学校生活に比べて、この場所の秒針の進みが遅い気がする。決してお客が来ないわけでもない。どちらかと言えば忙しいのに不思議だ。

「こんばんは」

「あ、柊さん、いらっしゃいませ」

 柊さんはここのカフェの常連さんだ。バイトを初めて、不慣れなときから親切にしてくれている。まるで親戚家族のように。なんで優しくしてくれるのだろうか、そんなことどうでもいいか。接客ともいえないようなちょっとした雑談をして、自然と口角があがっていた。この時間は嫌なこと、小さな考え事さえしなくて済む。もちろん体育祭のことなんて頭の隅っこにすらない。いつの間にか柊さんがお会計する時間になってしまっていたらしい。他のお客さんもぞくぞくと伝票を持ってやってきていた。

 仕事に追われているといつの間にか時間が来たようだ。

「千愛ちゃん、今日はもうあがっていいよ。いつもありがとね」

 もう二十一時か。再びタイムカードを切り、足早に帰宅する準備を始めた。

「お疲れ様でした」

 バイトが終わり、明日のご飯を買うためにスーパーに寄った。家の近くのスーパーということもあり、入店した足取りでそのまま朝ごはんと昼ごはんを手に取った。レジに向かう途中、デザートが視界に入る。夫妻がたまに作ってくれるデザートの味を思い出し、夫妻の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。

「百合子、喜ぶかな?」

 家にいるであろう、百合子の喜ぶ姿を想像し、夫妻が作ってくれる中で一番のお気に入りであるチーズケーキを手に取り、会計を済ませ店を出た。

 マンションに着き、エントランスを通る。ちょうど他の住民も帰宅したようでエレベーター前で鉢合わせた。私は、一緒にエレベーターに乗り十三階のボタンを押した。

「こんばんは」

「こんばんは」

 挨拶をするが、それ以上に会話を弾ませることなく十三階に到着した。

「百合子、ただいま」

「千愛、おかえり」

「百合子のためにチーズケーキ買ってきたよ。明日の買い物楽しみだね」

「そうね。親子で買い物なんて、最近してなかったからね。千愛の欲しいもの買いに行こうか」

 久しぶりに百合子と買い物に心が弾んだ。


 斎藤千愛


 下校のチャイムが鳴り響く。

 私は百合子との買い物が待ちきれず、いつもよりも早く荷物をまとめる。

「斎藤さん」

 後ろの席の平川さんに声をかけられた。

 いつも一番に教室を出る平川さんが、まだ教室にいるなんて珍しいこともあるものだ。

 帰りの挨拶とほぼ同時に教室を出る平川さんを、クラスメイトたちが未来君サッカー好きだもんねと言っているのを思い出した。

「平川さん、どうしたの?」

 私は、平川さんの方を向いて返事をした。

「明日からの体育祭実行委員、頑張ろうね」

「そうだね」

 それじゃあ、と言ってその場を去ろうとする平川さんに思わず声をかけてしまった。

「平川さん、わざわざこれを言うために教室に残っていたの?」

 聞いたところで意味があるのか。

 今の質問を無かったことにしたくて口を開こうとしたが、それよりも早く平川さんが口を開いた。

「そうだよ。明日から一緒に準備をする斎藤さんに挨拶しておきたいと思ってね。それに、なんだか楽しそうに帰りの準備をする斎藤さんに、話しかけるタイミング見計らっていたらね……。ごめん、迷惑だったよね?」

 そう言って、平川さんは少し罰が悪そうに目を逸らした。平川さんは、常に誰かと一緒にいる印象のため、誰とでも分け隔てなく話せると思っていたが、どうやら違うのかもしれない。

「そうなんだ。ありがとね」

 うん、と頷く平川さんはいつも教室で見かけるような笑顔であった。

 バイバイ、と手を振りながら去っていく平川さんにバイバイと応えて見たものの、学校でそんな会話をするのはむず痒かった。


 *



 面倒臭い学校も終わった。いつもはそう思うのだろうが、今日一日百合子とのことで頭がいっぱいだった。これからの楽しみが大きすぎて学校の時間が普段の何倍も長く感じた。だが、今からのデートを考えるとそんな苦痛も忘れてしまう。待ち合わせ場所は駅前の食パンがおいしいと一時期話題で行列まで作っていたパン屋さんの前だ。パンを買うわけでもないのにずっといるのは少し気まずい。まぁ仕方ない、ここが一番わかりやすいのだから。学校を出る時には約束の時間に少し遅れてしまいそうだったのに、心躍る気持ちと歩くスピードが比例して早くついてしまったらしい。

「おまたせ」

 一見年の離れた姉妹にも見えなくもないような美人が声をかけてきた。百合子だった。

「やっと来た。それじゃあ行こうか」

 服やアクセサリー、生活雑貨などの多様な店が並んでいた。百合子は自分が着る服を鏡合わせてみたり、私に意見を求めてきたりと誰が見ても楽しそうと思うような光景だ。そんな百合子を見ているだけで私の幸福感は溢れ返る。たまに、私に似合いそうな服を持って来たときには、今までの人生での不幸が帳消しにされるぐらい心躍った。百合子とともに買い物をしていると、好きなものが一緒だなと思うことが何度もあり、やっぱり家族だなと感じると同時に、百合子が好きなものが私の好きなものであると感じさせられた。私の世界の中心はやはり、百合子だ。

 二人で歩いていると、ある一枚のポスターがふと目に入った。

「これ面白そうだね」

 以前映画館で上映されていて、その時期はこの映画の話題でどこのテレビもいっぱいであった。

「借りる?今度一緒に見ようか」

 百合子からの誘いだ。断る理由などどこを探しても見当たらない。

「うん。楽しみだな」

 そんなありきたりな会話をしながら店を後にした。

 百合子と何気ない会話を交わしていると、急に誰かに足をつかまれた。

「え、なに」

 驚きと恐怖を少し感じながら足元を見ると、おそらく幼稚園に入ったぐらいの年の子が私の足元になぜかくっついている。きっと走り回ってこけそうになり、とっさに私の足をつかんだという感じだろうか。

「ごめんなさい!!だから手を離さなでって言ったでしょ」

 この子の母親だろう。他人の私でさえ一瞬、鬼のような顔が見えてしまったが、その叱りから大きな愛情を感じさせられた。母親と一緒にいた赤ちゃんを抱いた父親が私に対しては申し訳なさそうな顔で謝ってきたが,私は怒りなどみじんも感じていない。

「全然大丈夫ですよ。怪我がなくてよかった」

「ごめんなさい。」

 母親に怒られて、小さな身体がより小さく見えて可愛く、少し面白く感じた。ふと思い出して、先ほど入ったお店でもらった飴をこの子にあげると、たった飴一つでどんよりした曇り空がいきなり晴れたかのような眩しい表情をこちらに見せてきた。

「おねえちゃん、ありがとう。ばいばい」

 そう言うと、母親とその子の父親はこちらに丁寧にお辞儀をして、あの子は小さな手を自分の身体よりも大きくこちらに振っていた。

「ばいばい」

 私も小さく手を振り、背を向けてまた百合子と歩き始めた。

「急にびっくりしたわね」

「そうだね。でも可愛かったね」

 あの家族と離れて少し歩いたところで、なぜか急に心に穴が開いているような気がした。その穴は百合子と二人では埋められないものであると、私は知っている。普段は忘れている、いや、何かで無理やりその穴に気づかないように隠しているのだろう。幸せいっぱいの家族との関りは私には少し重かった。自然とこの穴の存在を忘れようと歩いている方向が家へと向かっていた。

「家に帰って、さっき借りた映画でも一緒にみない?」

 私は百合子との幸せな時間のことだけ考えることにした。

「いいわね。じゃあそろそろ帰ろうか」

 夜も一緒にいられる喜びを感じながら家の方向に歩いて向かった。その道中、誰かがこちらに近づいてきた。

「百合子さん」

 知らない男が馴れ馴れしく名前を呼んでいる。私は番犬かの如くそいつをにらみつけた。

「啓太じゃん。なにしてるの」

 百合子が少し女の顔つきになり、私はすぐに察した。新しい彼氏かと。

「百合子さん今から前行きたがっていたお店に食べに行かない?」

 どうやらご飯に行くのは初めてではないらしい。誰とご飯に行こうが、それは百合子の自由だ。だが、今だけは私との時間を選んでほしい。そんな期待は一瞬にして破られた。

「行きましょ。千愛は先に帰って寝てなさい」

 百合子にとって、私との映画の約束がそれほど大切にされていないことを実感させられた。もしかしたら、忘れているだけなのかもしれない、思い出して早く帰ってきてくれるかもしれない。こんなあるはずもない期待を胸に、誰もいない家に一人で帰った。

 一緒に見るはずだった映画を、百合子の場所を空けて見始めた。

 ふとした時にはエンドロールが流れていた。有名な役者や人気アイドルも出ていたし、映画の大賞もとっていた作品だから、きっといい映画だったのだろうが主人公の名前すら一ミリも覚えていない。頭の中にあるのは百合子と二人の時間を奪った彼氏のことだ。いつか私との約束を一番にしてほしいという願いと、大切な人との時間を奪った者への憎しみを感じながらじっと扉の向こうから、

「ただいま」

 そう聞こえるのを待った。


 平川未来 


 放課後、体育祭実行員が集まる三年a組の教室に向かっていた。

 先ほどから隣を歩く斎藤さんはため息をついている。

「斎藤さん、大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「そっか、きつかったら僕に言ってね」

 三年a組の教室に着きドアを開くと、そこには知った顔がちらほらあった。

「二年a組の平川未来君と……。ごめん、名前教えてもらってもいいかな?」

 三年生の先輩が僕たちに話しかけてきた。

「斎藤千愛です」

「斎藤さんね。じゃあ、二人はここの空いている席に座って」

 三年生の先輩は、みんなが座っている端っこに二席の空席があり、そこに座るように指示をした。僕たちは、その席の周辺の人たちに軽く会釈をしながら着席した。

「今から体育祭実行委員を始めます」

 どうやら僕たちが最後だったらしく、すぐに委員会が始まった。

「体育祭実行委員は、体育祭の裏方の仕事です。私たち体育祭実行委員の人たちが居ないと、楽しい体育祭は成り立ちません。だからこそ私たちが――」

 体育祭実行委員のリーダーである三年生は、自分の仕事に誇りを持っているようで、自信満々に語っている。ふと隣を見てみると、斎藤さんが明らかに眉を顰めていた。三年生の長い話が終わり、すでに決まってあるらしい役割が発表された。体育祭実行委員と一言でいっても、体育祭の企画から運営、備品の買い出しまで行う。要は、体育祭の何でも屋のようなものだ。僕は、体育祭の運営に選ばれた。各クラスの競技出場人数の把握や調整、競技ごとの備品の数の確認、そして本番では競技者の誘導を行うのだ。斎藤さんは、備品係に選ばれたようだった。必要なところに備品を運び、足りない分は買い出しにいく役割だ。去年の体育祭準備期間は、僕が部活をしているグラインドの付近を備品係がよく慌てて走っていたのを思い出した。

 三年生が役割ごとに各自の作業場に移動するように誘導している。僕たち運営係は、そのまま三年a組で作業をするため、その場に座っていた。知った顔も続々と教室を出ていく。周囲に座っていた人たちが居なくなることに、心細さを感じていた。

「はい。これで移動は終了したから、残った運営の人たちは前の方の席に移動してもらえるかな?」

 教卓に立っている三年生の言葉に、教室に残った人たちは黒板近くの席に移動した。

 互いに顔を見合わせ、よろしくお願いしますと挨拶をしながら着席する。どうやら運営係は六人のようだ。互いに自己紹介を終えたところで早速作業に取り掛かった。

 初日の作業は、各クラスからそれぞれの競技に出場する人数が記入されている書類を見て、出場クラスの組み合わせを考えるところからだ。話し合いをしながら、着々と決まっていく。決して雑談をしているわけではないが、普段関わらない人たちと長い時間話すことに楽しさを感じる。

 気づけば日は落ち、十九時になっていた。部活をしている時とは異なる時間の流れに、少し驚きつつも下校の準備を始めた。今日一日でだいぶん仲良くなった運営係は、みんなで帰ることになった。僕は、部活が休みの時は部活のメンバーと帰るが、部活以外の人と帰ることに新鮮さを感じていた。楽しい下校時間に反して、一人、また一人とそれぞれの帰り道で別れていく。

「僕、ここの道を左なんだ」

「そっか。平川君、ここ左なんだって。みんなはこのまま真っ直ぐ?」

 その言葉に、その場に残っていた全員が頷く。

 僕は、左の脇道に足を進める。

「平川君またね」

 みんなが手を振ってくれている。

「じゃあね」

 僕は同じように笑顔で手を振った。


 斎藤千愛


 大量の荷物を抱えて、放課後の廊下を小走りをしていた。すれ違う生徒に備品係は毎年大変そうだね、と同情の声をもらう。文化祭実行委員を初めてというもの、買い出しに行って荷物をどこかに運ぶことを繰り返していた。カフェの仕事とは異なる体力を使うためか、疲労が溜まる。

「斎藤さん、この荷物どこに運ぶの?」

 聞き覚えのある声の主が居る方向に目をやると、平川さんが立っていた。

 平川さんは私が持っている荷物を手に取り、軽々しく持ち上げる。

「体育館倉庫だよ」

「僕も備品調達の伝達で、体育館倉庫に行くからちょうどいいね」

 そういって平川さんは歩き始めた。

 私は、平川さんが歩くたびに揺れる猫っ毛の柔らかい茶色がかった髪を眺めていた。

「どうしたの?ぼーっとして。こんなに重い荷物を毎日運んでいたら疲れるよね。でも、備品係のおかげで、本番の競技者誘導の練習がスムーズにできているんだ。ありがとね」

 笑顔で話す平川さんを見て私は驚いた。そういえば、運んだ備品が何に使われているかなんて考えたことがなかった。それに荷物を運んだ先でも、そこに置いといてと言われるだけで荷物を運んだことに感謝される日が来るとは思わなかった。自分の与えられた役割をこなすことは、当たり前だと考えていた私に感謝の気持ちを素直に受け止められそうに無い。

 それから特に会話することなく、体育館倉庫に着いた。そこには、大量の荷物が置いている。荷物の前には、三年生が紙を見ながら荷物をどこに運ぶのか、下級生に指示を出している。私は、平川さんに荷物を置く場所に案内して一緒に荷物を置いた。

「運んでくれてありがとう」

「お役に立てて良かったよ。じゃあ、僕は三年生の先輩に備品の調達リスト渡してくるね」

「あ、私も先輩に次の仕事もらわないと」

 私は平川さんの少し後ろを歩き、二人で下級生に指示を出している三年生の元に向かった。

「お疲れ様です。先輩、運営から備品調達リストです。よろしくお願いします」

 平川さんは、丁寧に挨拶をして三年生にプリントを渡す。

「あ、未来君お疲れ様。わざわざ持ってきてくれて、ありがとう」

 猫撫で声の三年生に、平川さんは相変わらず笑顔であった。三年生のよくわからない質問に対しても、平川さんは当たり障りない笑顔で答える。

 その姿に、私とは違う人間だと思い知らされる。

 はあ。この会話いつ終わるのかな?

 そんなことを考えていると、三年生は平川さんと話している時と同一人物とは思えない声でこう言った。

「斎藤さん。このリストしておいてくれる?」

 そう言いながら先ほど平川さんが三年生に渡したプリントを、私に差し出す。

 はぁ。まただ。毎度この三年生は私をこき使う。正直、私は仕事がもらえればどんな仕事でも良かった。体育祭実行委員になったものの、学校で何もしていない時間ほど苦痛なものはないからだ。私は体育祭実行委員の活動が始まってからすぐに、この三年生と揉めたことがあった。いや、一方的な三年生の嫉妬と言った方が正しいだろうか。平川さんが備品係の所に備品調達リストを渡す度に私に一言声をかけ、備品係全体の運搬を少し手伝ってくれる。平川さんは私に軽く挨拶をするが、それ以上会話が広がるわけではない。それ以上でも、それ以下でもない関係性だ。それでも業務伝達ではなく、私に挨拶をする平川さんの様子を見て、私は三年生に目の敵にされてしまったのだ。それからと言うもの、他の備品係の仕事まで押し付けられるようになった。初めは、わざと仕事を多く回してくる三年生に言い返していたが、逆効果だったようで日に日に仕事量が増えていった。毎日の運搬作業に疲労を感じていた私は、これ以上仕事を増やされては身が持たないと思い、言い返すことをやめた。

 今回もこれ以上面倒ごとにならないように、はいと返事をするために軽く口を開いた瞬間、平川さんの声が聞こえた。

「先輩、これは一人で揃えられる量ではありません。それに、一人では運べない荷物もあります。他に手が空いている人はいないんですか?」

「備品係は人手不足でね。でも、未来君がどうしてもって言うなら、人を増やしてあげてもいいよ?」

 その発言に流石の平川さんも、不満げな顔をする。

「先輩。荷物持ってきました〜。疲れちゃいました」

 女子三人で小さな備品を手分けして笑顔で運んできた。三人が運んでいる備品の量を合わせても、先ほど私と平川さんが運んできた備品の量に満たない。

「お疲れ様。休憩入っていいよ」

 私とは異なる対応に苛立ちを覚える。

「先輩。僕が斎藤さんの仕事を手伝いますね」

 平川さんは何を思ったのか、先輩が持っている先ほどのプリントを少し乱暴に取り、小さな荷物を手にした。

「ねぇ。今から荷物をグラウンドに持っていくんだけど、手伝ってくれない?」

 平川さんは、何を思ったのか休憩に行こうとしていた女子三人に話しかけた。

「え、未来君と話せるなんてラッキーすぎる!もちろん手伝うよ。何を運んだらいい?」

 平川さんは女子三人に荷物を持つように指示を出していく。いつものように優しい口調だが、少し怒っているようにも見える。

 女子三人は平川さんと話せることがよっぽど嬉しいようで、自分からたくさん荷物を持ちますと、積極的に荷物を手にしている。その結果、女子三人は普段運んでいる量の何倍も荷物を手にしていた。

「斎藤さんはこれを持ってくれる?」

 そう言って、平川さんが持っていた小さな荷物を私に渡す。私は少し戸惑いながらも、荷物を受け取った。そして、平川さんは重そうな大きい段ボールを持ち上げた。

「じゃあ、運ぼうか」

 平川さんの声を合図に、私たちはグラウンドへ向かった。私は必然的に四人の後ろを付いて行った。グラウンドに向かう道中、女子三人が平川さんに質問責めしている。それを嫌な顔ひとつせずに答えている平川さんの背中をぼーっと眺めていた。万人受けする性格と優しさを兼ね備えるその背中は眩しすぎる。グラウンドに着き、平川さんは女子三人に  「ありがとうと」お礼をした。女子三人は平川さんに大きく手を振りながら別れを惜しんでいた。平川さんは女子三人が見えなくなると振っている手を下ろし、ため息をつく。私もその場を離れようとすると平川さんに声をかけられた。

「斎藤さん。今回みたいに無茶な仕事を押し付けられたら、僕に言ってよ。手伝うからさ」

 人に優しい平川さんに、人に好かれる平川さんに私の気持ちがわかるわけないじゃん。

 この優しい言葉をまっすぐ受け止められるほど私は素直ではない。

 平川さんの優しいまっすぐな言葉は、私の中で形を変えひん曲がる。

「いや、別に手伝わなくていいよ」

 ありがとう。

 そう素直に言いたいだけなのに、私の中で歪ませた平川さんの言葉に歪んだ言葉でしか返せない。

「優しい平川さんに私の気持ちはわからないよ」

 私は、冷たく言い残しその場を去る。

 去り際、微かに声が聞こえたような気がした。



 僕が優しいねぇ……



 *



 誰も住んでいないような家の扉を開ける。

「ただいま」

 真っ暗な玄関に明かりつけた。あと少し早く帰っていれば聞けたであろう返事は返ってこなかった。

「もう寝ちゃってるよね」

 息をする程度の声量でひとり呟いた。履きなれたパンプスを脱ぎ、オシャレに着飾った洋服からスウェットに着替えた。まだ暑さが残る外からの帰宅で冷蔵庫の冷えた水は何倍もおいしく感じた。一息ついて明かりのついた静かなリビングを見渡す。どことなく寂しさを感じた。この感情に従うように百合子は一目娘の顔を見ようと部屋へ向かった。そこには、規則正しい寝息をたてている千愛がいた。きっと暑かったのだろう。布団がはだけている。そんな千愛の可愛らしい、子供らしい一面に笑みがこぼれた。はだけた布団を直していると、寝ぼけた千愛が百合子の腕を握った。

「玲」

 百合子は千愛が私ではなく知らない人の名前を呼んでいることに多少の苛立ちをした。

 あなたも私から離れていくの?そう心の中で言った。千愛の中心は百合子であると百合子自身も自覚している。なぜなら、そう思うように育てたのだから。いつか千愛も私が一番ではなくなってしまう。この喪失感と、離したくないという束縛の感情が入り乱れた。

「千愛は私から離れていかないでね」

 百合子は寝ている千愛の手を握ってそうつぶやいた。

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