十章〈人間〉
柊優雨
お兄さんの車に乗り込む。お兄さんは、巷を騒がす連続殺人犯で、俺の神様。
「今更だけど、俺のこと怖くないの?人殺しだよ?」
「どうして?今から親を殺す奴が殺人犯を怖がってどうするんだよ」
「まあ、そうだけど」
「それに、俺だってすでに親を殺した殺人犯になってたかもしれないし。今まで殺してない方が奇跡だよ」
「それもそうだね。優雨くん、ありがとう」
「え?なんでお礼?」
「俺、実は家族をこの手で殺してるんだよ」
「家族を殺した?」
「そう。高一で家を追い出されてから、親戚の間をたらい回しにさせてね。親戚たちは誰一人として俺を引き取りたいと思ってなくて、俺の居場所はどこを探してもなくてさ。中には結構ひどい扱いをしてくる親戚もいてね」
お兄さんはタバコに火をつけて、深い息を吐く。
「親戚に育ててもらったっていう縛りがある俺は、親戚の借金を肩代わりさせられることもあってさ。よく家出してた公園でいつ死のうかとか考えてたら、幸せそうな家族の声が聞こえてね。子どもとキャッチボールしてる父親が、俺の父さんと似てんの。しかも、俺とキャッチボールをしてた時よりも幸せそうな顔で」
「もしかして、本当のお父さんだったんですか?」
「そうだよ。その人は俺の父さんで、俺に投げられてたボールを我が物顔で取ってる息子は俺の腹違いの弟。俺が親戚をたらい回しにされてる間に、あいつは俺の居場所を取って、すっげー幸せそうな顔してんの…。その時思ったんだ。『あ、殺そう』って」
「そうだったんですね。後悔してますか?」
「してないよ。後悔なんて、しないよ」
隣を見ると、お兄さんはタバコを灰皿に押しつぶした。
「俺、優雨くんと出会えて良かったよ、ありがとう」
「お礼をいうのは俺のほうですよ。ありがとうございます」
お兄さんは、優しく笑った。
「あ、そうだ。最後に兄弟に何か言うこととかないの?死んだら何も伝えられないよ」
「伝えたいことか…」
携帯を取り出して、ロックを解除する。通知を見るとものすごい数の着信とメッセージが棗から来ていた。
『どこにいるんだよ』
『僕のお兄ちゃんが優雨兄ちゃんで良かったよ。それだけで十分だ。お兄ちゃんらしいとかどうでもいい。だから戻ってきてよ』
『一人でなんでもしようとするな。ばか』
『僕も優雨兄ちゃんがいないと生きていけなかった。僕こそ、依存してたんだよ。ばかな弟でごめん。頼らせてくれてありがとう、お兄ちゃん』
『僕のお兄ちゃんでいてくれてありがとう。愛してるよ。ずっと、ずっと愛してる。お兄ちゃん』
「はは、棗のやつ…。あー、くっそ。泣きそうになるじゃねーか」
棗へ
棗、俺をお兄ちゃんにしてくれてありがとう。
俺の弟が棗ですごく誇りに思うよ。
あんな家に生まれたからか、気遣いが上手くていつも俺と恵を見て声をかけてくれて、正直気を使わせすぎて心が痛かった。でも、棗はそれを気づかせようとしなかったから、俺も気づかない振りしてた。たくさん我慢させてたのも知ってる。ごめんな、本当に。でも、俺と恵の弟として生まれてきてくれてありがとう。愛する俺たちの弟。
俺は今からあいつらを殺しに行くよ。
神様に会ったんだ。その人と一緒に、最後の仕事をするよ。
だから、俺たちのお姉ちゃんを頼む。
あいつ、結構泣き虫でさ、毎晩泣いてんの。
泣き虫で、繊細で、メンタルが弱いくせいにいつも強そうな振りしてるんだよ。
笑っちゃうよな。そんな生活、苦しいに決まってるのに。これは、俺にも、棗もだけど。
そろそろ解放されようぜ、こんなクソみたいな生活。
どうか棗と恵は幸せでいてください。
平川未来
柊さんを探し始めてどれくらいの時が流れたのだろうか。一向に見つけられない焦りと、緊張感から等に藍沢さんと棗くんの体力は限界を迎えているであろう。永遠に探し続けているような、そんな気持ちに駆られる。まるで存在しないものを探し続けるようなそんな気持ちに。でも、ここで弱音を吐いてはだめだ。俺は大人だから、この二人を不安にさせてしまう。
「棗くん、藍沢さん。大丈夫。大丈夫だよ」
二人とも僕の声がまるで届いていないようで、返事は返ってこない。僕の独り言のようになってしまった。そう、僕自身を安心させる独り言に。
助手席の方から携帯電話の通知音がなり、棗くんが慌てて携帯電話を開く。
「平川先生!家だ!家!」
「家?」
「優雨兄ちゃんからメッセージがきて、今から両親を殺しにいくって。急がないと、あいつら基本在宅で仕事してるから、優雨兄ちゃんと鉢合わせちゃう!」
「急ごう」
再び棗くんには届かない独り言を呟く。
「大丈夫、柊くんに両親を殺させたりはしないよ」
柊優雨
何度も通ってきた見覚えのある道。家に近づく道のりはあんなに嫌いだったのに、今は早く家に着きたい気持ちがまさる。こんな感情何年ぶりだろうか。家出した時に居座っていた公園を通り過ぎ、もうここに逃げ込む理由も無いかと思うと、少し寂しいような気もする。公園での思い出を思い返す時間も少なく、家にたどり着いた。地獄のような生活を送ってきた家の前で、息を呑む。
「これで最後だ」
お兄さんと一緒にいるからか、不思議と不安はなかった。
やっと、こんな生活から解放される。
鞄を手にしたお兄いさんが俺の隣に立った。その鞄の中身を知ろうとは思わないが、きっとそれで親が殺される。
「優雨くん、引き返せる最後のチャンスだよ。どうする?」
「引き返さないよ。行こう」
「そう」
お兄さんは、悲しそうに笑った。
「俺、お兄さんと出会えてよかったよ。だから、そんな悲しそうな顔しないで」
「はは、ありがと。じゃあ、終わりにしよっか」
「うん。終わらせよう」
玄関を開け、お兄さんが鞄からナイフを取り出した。お兄さんは俺を安心させるように、空いている手で俺の頭を撫でる。その手はすごく温かくて、心地よかった。
リビングにつながるドアを開けると、そこには地獄が広がっていた。赤く染まった床。視線でその血を辿ると、大量の赤い液体が腹部から流れ出ている母さんは、呼吸を乱し、口から血を吐き出している。少し視界を移すと、荒れ果てた家具の周辺に血がひたたる包丁を片手に持つ恵と、恵にまたがって恵を殴り続ける父さん。
「恵!!」
俺は咄嗟に父さんを勢いよく蹴り飛ばした。
「恵…、どうして…」
「優雨…、私がするから…、優雨はここにいちゃだめよ」
「なんでだよ!こんな奴らでも、殺せば恵の人生が終わっちまうんだぞ!」
「そうよ。そんなことは知ってる。知ってるから尚更、こんなやつらを優雨に殺させてやるものか」
恵は痛々しい身体を起こす。
「恵、あとは俺がするよ」
「優雨、だめよ。私はあなたのお姉ちゃんなの!これの意味がわかるでしょ?」
「俺はそんなの望んでない!」
「それでも私はお姉ちゃんなの…」」
「優雨、その子は化け物よ。こんなことをする子じゃなかったのに…、私を助けなさい」
弱々しい声で母さんが言った。
「ハハハ、あんたはもう助からねーよ。苦しいか?なあ、苦しめよ。そしたら俺たちの気持ちが少しはわかるんじゃないか?」
「優雨…、助けて。私はあなたの母親よ。ここまで育ててやったのよ」
「ああ、そうかよ。育ててもらったことには感謝してる。だけどな、それだけだ」
その声は、自分でも驚くぐらい冷たかった。
「優雨くん、そいつにトドメを刺しなよ。俺はこっちをやるよ」
そう言ってお兄さんは鞄を置いて、倒れ込んでいる父さんの元にゆっくりと向かう。
「母さん、終わりにしよう」
「やめ、やめて…。死にたくない。死にたくない。死にたくない」
母さんの首を目掛けて延ばす手はあまりのも抵抗がなく、それは愛おしいものを撫でるように自然な行為だった。だが、首元に向かう手は恵によって止められた。
「優雨、お願い。それだけはやめて、もう母さんは助からない。優雨も言ってたでしょ」
「そうだよ。こいつはもう助からない」
「優雨はまだ引き戻せる。こんな奴らに振り回されないで。普通に生きて、普通に友達作ってさ、幸せになってよ…」
「普通ってなんだよ。俺たちには無理だろ…。だって、見ろよ、これが普通か?地獄じゃないか。俺たち幸せになんてなれるわけないだろ」
「優雨くん、こっちは終わったよ。腰抜かして、助けを乞うてさ、滑稽だよ。自分が狩る側だと思ってるやつってなんで自分が狩られると想像もしてないんだろうね」
お兄さんの白い肌は赤く染まり、壁にもたれ掛かる父さんは洋服が赤く染め上がり、力無く横に倒れた。決して鮮やかとは言えないドス黒い赤で父さんが染まる。俺を殴った返り血で染まる赤ではなく、父さん自身の血で染まっている。
あれほど恐怖で支配されていた父さんが、呆気なく死んだ。
ああ、そうか。死んだのか。
「あとはそいつを殺せば、俺が優雨くんを解放してあげるよ」
解放。そうか、待ち望んだ地獄からの解放が…もう直ぐ手に入る。
恵に掴まれた手をのけて、「ごめん」と謝る。
俺の手は再び息絶えそうな母さんの首元に向かう。
「優雨兄ちゃん!」
声がする方を見ると息を上げ、肩を上下させる棗がいた。
「は?棗?」
棗の後ろには、平川先生と今にも泣きそうな藍沢さんがいた。
どうしてここに来た?
「柊くん」平川先生は、俺を安心させるように笑顔で、少し困ったような表情をした。
「先生、帰ってよ」
「僕は柊くんを迎えに来た。帰ろう。ここじゃない別のところに」
遅いよ、平川先生。何もかももう手遅れだよ。もう引き返せねえよ。
「ごめんなさい、平川先生。お願いです。棗をお願いします」
母さんの首に触れている手に力を込める。
その瞬間、胸ぐらを掴まれ、勢いよく引っ張られた体。そして、左頬に衝撃が走った。
「な、つめ?」
「バカじゃねーの?あんなメール残してさ、僕が納得するとでも思ってるの?」
俺の服を掴む棗の手は震えていた。
「ハハハ、優雨くん。予想よりも人が多いから順番とか考えてあげられないかも。まずは、そこの弱ってるお姉さんから解放してあげよう」
お兄さんの視線が恵に向けられる。
「お兄さん!待って、俺だけでいい。殺すのは俺だけでいい!」
「はは、親を殺した後の地獄を知ってる?どれだけ親から酷い扱いを受けていたとしても、たった一回親を殺しただだけで、俺たちは罪に問われる。親に逆らう奴はこの世界で生きにくいんだよ。だから、解放してあげなくちゃ」
お兄さんは、「大丈夫だよ。俺が解放してあげる」と呟き、包丁を右手に持ち替える。
「藍沢さん、棗くん。そっちは頼んだよ」
平川先生はお兄さんに掴みかかった。
平川未来
赤い液体が滴る包丁を力強く握り締めた男性に掴み掴みかかる。男に近づくと嫌でも鼻に入り込む生々しい血の匂い。一瞬顔を顰めるが、男が力を込めて引き剥がそうとするので、それに合わせて男を掴む力を強める。
「あんた、誰だよ。俺の邪魔をするな」
「柊くんの教師だよ。お前に柊くんの大切な人を殺させない」
「は?教師がなんでこんなとこにいるんだよ」
「教師が生徒を守るのは当たり前だろ」
「ハハハ。バカだろ、あんた」
男を抑えるために足に力を込めた瞬間、横たわる男性の血溜まりで足を滑らせた。気づけば、俺に馬乗りになる男は、バカにしたように笑い出した。
「ハハハ、情けねぇな!」
俺の胸ぐらを掴み殴る男の拳は、重く痛かった。
「ねえ、あんたに何かできる?優雨くんを救えるなんて本気で思ってないだろうね?」
「僕が人を救えるわけないだろ。柊くんは僕の助けなんて求めてない」
「じゃあ、なんでここに来た」
「僕と同じ苦しみを味わって欲しくないからだよ」
「苦しみだぁ?あんたに優雨くんの何がわかるって言うんだよ!」
「分からないよ。僕と柊くんは同じ痛みを共有することはできないから…」
「そういう中途半端な正義感が子どもを苦しめるんだよ!」
「ああ、わかってるよ。だから僕はあの子たちを見捨てない」
「あんたの偽善に子どもを巻き込むな!」
勢いよく左胸に振り翳された包丁。刃先が胸に刺さる前に男の右手首を思いっきり掴んだ。視界に横たわり動かなくなった男性が映る。俺も、殺されるのか。そんな弱気な思考を断ち切って、体勢を変える。包丁は胸ではなく、避け損なった衣服に突き刺さった。
このままでは身動きが取れない。
俺は、勢いよく包丁とは反対方向に身体を傾ける。衣服は、ビリビリと破け、自由に動けるようになった。そのまま男から距離をとり、体勢を整える。
「おい、あんた、それ、どうしたんだよ」
男が戸惑いながら、俺を指差す。
「なんだよ」
「だから、その傷だよ。どうやったらそんな傷がつくんだよ」
「ああ、これか」
自分の身体に刻み込まれた古傷に触れる。
「これは、親に刻み込まれた古傷だよ。僕がどれだけ努力しても、親の気に召さなかったみたいでさ。俺が親を満足させられない出来損ないだっただけだよ」
「それでその傷か?」
「そうだよ」
「あんたは、親が憎くないのか?」
「憎いに決まってる。だから、僕は親に逆らった。親に逆らって、家族をこの手で壊した罪と引き換えに自由になったんだ。いや、自由になったはずなんだよ」
「あんたも、あんたもこっち側の人間か?」
こっち側…、男の顔つきがさっきよりも幼く見える。ああ、そういうことか。
「そうだよ。親に愛されてない傷物さ。あんたも?」
「ああ、そうだよ。俺は親が憎くて、この手で殺した。親殺しの罪を背負って自由になったんだ。だけど、親殺しって生きにくいよね。親が子どもにした悪行よりも、たった一回親を殺した俺が悪者になるんだよ?」
「そうだね。憎くて殺したくてたまらない相手でも、殺したあんたは罪に問われる」
「そういうあんたは、殺してないの」
「僕は殺してないよ。たとえ殺したくて堪らない人間がいたとして、殺せばただでさせ狂っている僕の人生がもっと狂うでしょ」
「はは、それは優等生みたいで気味が悪いね」
「そうだね」
男がバカにしたような口ぶりで「あんたは、つまらない優等生だね」と言ったから、僕は本音を隠すように優しい笑顔を作った。
「それで、あんたは親に逆らって何か変わった?」
「変わらないよ。僕の体に、心に、思考に、記憶にこびり付いた親の影に怯えて、いまだに苦しめられてる」
「生きづらいか?」
「うん。生きづらいよ。あんたは何か変わった?」
「変わらないよ。怖いぐらいに、家族に囚われてズブズブ沼にハマってるみたいなんだ」
「生きづらい?」
「生きづらいに決まってる。俺があいつらに心と体を何回殺されたと思う?なんで俺がたった一回親を殺しただけで整形までして隠れながら生きていかないといけないんだよ」
目の前にいる男のように、あの時親を殺していれば、柊くんの手を引いていたのは僕かもしれない。
「俺はあの子たちには同じ思いをして欲しくない。あんたにも分かるだろ?この後に幸せなんてものが待ってないことを」
「うん、わかってるよ」
「だから、俺の邪魔をしないでくれ。俺はあの子たちを殺してこの地獄から解放してあげたいんだ」
「あの子たちは、僕たちと似ているけど違うよ。あの子たちなら僕たちとは違う答えを出してくれる」
「そんなの分からないだろ。あの子たちが俺たちよりも苦しむ可能性だってある」
「あの子たちは僕と違って優しいからね。僕たち以上に苦しむ可能性だってあるよ。それでも、見てみたいんだ。あの子たちが僕を救ってくれる瞬間を」
「はは、バカな大人」
「そうかもね。そういうあんたも、もう、大人だよ」
男の舌打ちが響く。
「俺は大人が嫌いだ。子どもの意見も聞かずに、自分の都合を優先するくせに、心配してるフリして正義を振り撒く大人が嫌いなんだよ。他人のためにないかしたいと本気で思ってない奴らの正義感で子どもの心が死ぬ」
「そうだね」
男は僕にゆっくりと近づく。
「俺、その悟った顔が嫌いだよ。俺がガキの時と同じ顔してる」
男は心を覗いているように、問いかける。
「どうせ、子どもの時からそんな顔してたんでしょ?親の顔色伺って生きていれば、嫌でも精神年齢が高くなるもんね。今も演じて生きてるんでしょ?」
「そうだよ。僕は演じないと生きていけない」
「大人の振りしたガキだね」
「そうだね。僕は何も変われないガキだよ。臆病なんだ。変わるのが、変わってしまうのが怖いんだ」
独り言のような返事が、胸の奥底に刺さる。
「バカなやつ」
「僕はどうしようもないバカだよ。でも、もう大人になってしまったからね。僕はあの子たちを助ける立場になってしまったらしい」
「俺たちが子どもの時に大人は助けてくれなかったのに?」
「そうだよ。子どもの頃に誰もみてくれなくて、気づいてくれなくて、見捨てられたとしても、僕はあの子たちのために何かしてあげたい」
「なんで俺たちにしてくれなかったことをあんたはしてあげようとするの」
「僕が大人だからだよ」
『大人』になったから、そんなつまらない答えのためにあの子たちに関わってるんじゃない。僕が言う建前も、理想論も、演技も、全部嫌いだ。無くなってしまえ。
もう、とっくに分かってたんだ。僕なんかいなくても平川未来を受け入れてくれる人に出会ったことを。僕じゃない、演技なんかしなくても、本当の俺を望んでくれる物好きな人たちがいることを。
さようなら。愛しくて、大嫌いな僕。今までありがとう。
『君はひとりじゃない。頑張れ、もう一人の僕』
その瞬間、平川未来の中にいる僕は自分が消えてしまうと言うのに、俺の背中を押してくれた。
「俺が苦しんでいることに気づいて欲しかったんだよ。気づいて、助けて欲しかったんだ」
「あんたは大人に希望を持ってたの?」
「ああ、そうだよ。バカみたいだろ。でもな、苦しかったんだ。苦しくて、悲しくて、寂しくて、独りじゃどうしようもできなかったんだ。あんたもだろ、苦しくて、苦しくて、誰かに助けて欲しかったんだろ。だから、あの子たちを大人になったあんたが解放してあげたいんじゃないのか。誰もしてくれなかったことを、あんたはあの子たちにしてあげたいんだろ」
今度は男が悟ったような顔をした。
「ああ、そうだよ。それがあの子たちにできる唯一のことだ」
男は包丁を握り直す。
「あんたになら分かるだろ。あの子たちが生きづらさを感じで生きていることが。だから、ここで解放してあげないと」
「俺はあんたに子どもたちを殺させない。それは解放じゃない。あんたの自己満足だ」
「あの子たちをこんな生きづらい地獄で息をさせるのも、あんたの自己満足だろ」
藍沢深紅
目の前に広がる光景。真っ白な肌に血で染まった服を纏い片手に包丁を握りしめる男性を抑える平川先生。そのすぐそばにいるのは、血溜まりに横たわったピクリとも動かない男性。そして、口元から滴る血と痛々しい顔の痣に、左手には赤い液体が滴る包丁を握っている恵さん。隣で苦しそうにか弱い声で助けを求める女性を刺したであろう。女性は浅い呼吸を振り返し、今にも息を引き取りそうだ。弱りきった女性にとどめを刺そうとした柊くんの胸ぐらを棗くんは震える手で掴み、思いっきり頬を叩いた。日常の延長線上で弾き起こった状態を前に、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
「棗、ここにいちゃダメよ。優雨と二人で逃げて」
「恵姉ちゃん。なんで、いつもいつもひとりでなんとかしようとするの」
棗くんは悔しそうに拳に力を込める。
「私がやらなきゃ、優雨の人生があいつらのせいでめちゃくちゃになるでしょ。これ以上あいつらのせいで、優雨が壊れて欲しくないの」
「恵…、俺があいつらを殺すって言ったからこうなったのか?俺が、あんなバカなことを言わなければ、恵は恵のままでいてくれたのか?」
柊くんは感情が昂り、取り乱したように早口で問い詰める。
「優雨のせいじゃないよ。それに、私は私のままで何も変わってない」
「嘘だ…。俺のせいで…。俺のせいで…」
押し殺していた感情が溢れ出すように、少しずつ目から涙が溢れる柊くんを恵さんは抱きしめた。
「優雨は何も悪くないよ。今まで辛かったでしょ。たくさん我慢させちゃったね」
恵さんは小さな子どもをあやすように、柊くんの頭を優しく撫でる。愛おしそうに柊くんを撫でるその手はとても優しく、その横顔はこんな状況でも強くて美しかった。恵さんは棗くんの方を向いて、優しい笑顔を向けた。
「ごめんね、棗」
棗くんは撫でやすい位置に頭を下げ、恵さんの指先が棗くんの頭に触れる。多分、いつも恵さんは棗くんの頭を撫でているのだろう。その動作がすごく自然で、見惚れてしまうほど綺麗だった。映画の中で家族愛に溢れた主人公を役者が演じているように、第三者に伝わるぐらいに目の前の光景は私の知らない何かで互いが結ばれていた。
「恵姉ちゃん…。こんなにボロボロになって…。ほんとにバカだよ」
「はは、そうだね。こんな弱い姿、弟たちには見られたくなかったな」
「優雨兄ちゃん、恵姉ちゃん。なんで僕に黙っていつも、いつも、勝手にボロボロになるの?優雨兄ちゃんは僕の分まであいつらに殴られて、恵姉ちゃんは僕の分まであいつらの言いなりになってさ。僕って二人にとってなんなの」
「棗は俺と恵の大事な弟だよ」
「いつもいつも、大事な弟って…。その言葉で僕をどれだけ突き放してるか知ってる?」
「俺だちは、棗のことを思って…」
「それは痛いほどわかるよ。それが分かってるからの僕は二人を見守ることしかできない。痛みも苦しみも共有すらしてくれないじゃん。僕たち、兄弟だよ?」
「俺は棗の兄ちゃんだから、弟に弱いところなんて見せられねーよ」
「兄ちゃんだから、姉ちゃんだから、たったそれだけの理由で僕を頼ってくれないの?僕はずっと二人に守られてばかりで、自分が情けないよ…」
「情けなくなんかないよ。棗にはたくさん我慢をさせてしまってる。それでも私をお姉ちゃんって呼んでくれる。それで十分だよ」
三人ともそれぞれを思い合っているのが痛いほど伝わってくる。私とお兄ちゃんのような兄妹という事実だけがあるのではなく、互いのことを大事に思っているからこそのもどかしさ。互いが傷ついて欲しくないから、自分を犠牲にする優しい人たち。自分が傷つくことには鈍感なのに、兄弟が傷つくことには敏感な人たち。
「あの、私。三人ともお互いを思い合っている優しい人たちだと思うんです。私もお兄ちゃんがいるんですけど、会話すらしなくて…。それに比べて三人はすごく、お互いを思い合ってて…」
なんとも言えないもどかしさを晴らすために言葉を並べるが、すぐに「あ、すみません」と小さな声で謝る。
「いや、ありがとう。藍沢さん」
柊くんは無理やり口角を上げ、ぎこちない笑顔を作った。こんな状況でも他人を気遣ってくれる優しい人。その優しさでどれほど柊くんが自ら傷つく道を選んだのだろう。
「その、なんというか。ここに来るまでに棗くんとお話ししたんです。二人は本当に棗くんにとっていいお兄ちゃんとお姉ちゃんです。棗くんもいい弟です。でも、なんでそんなに互いを思っているのに、伝えていないことがたくさんあるんですか!」
感情が言葉を通り越して、涙が溢れる。
「大切な兄弟には幸せになってほしい。迷惑はかけたくない。心配かけたくない。全部、優しい三人の長所です。良いところです。なのに、なんで、なんで、そんなに苦しそうなんですか」
「それは…」恵さんが小さく口を開くが、すぐに唇を噛み締める。
「それは三人が互いのことを思って、自分を犠牲にするからでしょ。自分を犠牲にしてこんなにボロボロになって、ボロボロなくせに…。優しいから、優しすぎるから…、兄弟が自分を犠牲にしている姿を見るのが苦しんでしょ。許せないんでしょ。もっと自分のことを大切にしてほしいって思っちゃうんでしょ」
「そうだよ。恵姉ちゃんも、優雨兄ちゃんも、ボロボロなくせにヘラヘラ笑ってさ。バカみたい。ほんとに…バカだよ」
「けど、俺たちは棗に我慢ばかりさせて…」
「違う。我慢してるのは二人も同じでしょ」
「辛いとか、苦しいとか、悲しいとか伝えても良いんだよ」
「もし俺が弱音を吐いたら、二人に心配かけちまうだろ。それに、弱音を吐いてしまうと自分が弱くて情けない奴だって、自覚してしまう」
「心配をかけない生き方がどれだけ生きづらいか知ってるでしょ。人の顔色を見て行動して、言葉をかけて、演技して。なんでちゃんと話を聞いてくれる相手を突き放すの」
「弱音を吐いたって、何も変わらないだろ」
「変わるよ。変われるんだよ」
「どうやって」
「柊くん、棗くんが隠し事をしててどう思った?今の恵さんを見てどう思う?」
「それは…」
「大丈夫、まだ遅くないよ。互いに生きてるうちは…ね」
私がお父さんの二度と聞くことができない一方的な問いかけと違って、まだやり直せる。大丈夫、きっと三人なら、大丈夫。
「優雨、棗。私、私ね。家での生活がすごく息苦しかったの。きつくて、辛くて、一人で毎晩泣いてたの。演技して、演技して、演技して、演技したらさ、弱音なんて吐き出せないようになちゃたの。もう取り返しつかないや…、親まで殺しちゃってさ…、壊したかったんだよ、全部。普通に暮らしたかったの。バカだよね…」
「恵、大丈夫だよ。俺、毎日殴られて、蹴られて、それでも今日まで二人のおかげで生きてこれたんだ。どれだけ酷い扱いを受けても、二人がいたから、生きてこられたんだよ。これまでもこれからも、恵一人に何かを背負わせる気はないよ」
「恵姉ちゃん、優雨兄ちゃん」
棗くんは柊くんと恵さんを力一杯抱きしめた。二人がどこにも行かないように、繋ぎ止めるように力強く。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん。今までたくさんありがとう。僕たち、今は三人だけじゃないよ。大丈夫、大丈夫だから」
平川未来
「ハハハ、地獄から解放だ!!」
男の目の色が変わる。
俺の隣を勢いよく通り過ぎようとする男の腰を両腕で掴む。興奮状態の男の力が強く、縛り付けていた腕が緩まり、男から手が離れる。
子どもたちが危ない。
「恵姉ちゃんを殺させてたまるか!」
悲鳴のような叫び声。
目の前に見えたのは包丁を持った棗くん。
俺は、咄嗟に男の腕を引っ張り覆い被さった。
「せ、せん、せい?」
「棗くん。大丈夫…。俺は大丈夫だから…」
背中に走る衝撃と生温かさを感じる液体が身体を伝う。息が上がり、呼吸が乱れる。
「先生。僕、僕…」
遠くからパトカーのサイレンが鳴り響き、男が慌てたようにベランダから外に逃げ出した。
「棗くん、怖かったよね。苦しかったよね。もう大丈夫だから…。よく頑張ったね…。お姉さんとお姉さんを守ってくれてありがとう」
言葉を絞り出すのもやっとで、伝えたいことがたくさんあるのに視界がぼやける。
「先生!」
俺の周りに子どもたちが集まって、俺を心配そうな顔で見る。
藍沢深紅
恵さんの手に握られていた包丁を棗くんが手に取り、勢いよく男性の方に向かった。その瞬間、男性を庇った先生の背中に包丁が刺さった。
先生は、棗くんの頭に手を伸ばして何かを呟く。
先生の背中がだんだん赤に染まる。ゆっくりと食い殺されるように赤が侵食していく。
遠くから聞こえるパトカーの音で我に返り、先生の元に駆け寄った。
「みんな、俺の近くに来てくれる?」
恵さんは柊くんの肩を借りてゆっくりと先生の元に寄る。
「みんな、今までよく頑張ったね。不安だったよね。辛かったよね。苦しかったよね。怖かったよね」
先生は私たち四人を優しく抱きしめた。
「もう、戦わなくていいんだよ…。もう、ゆっくり休んでいいんだよ」
先生の包丁が刺さった背中の血が地面を染める。
大量の汗を掻きと、乱れた呼吸を繰り返しながらも、か細い声で私たちを安心させるように先生はいつもの優しい笑顔を作る。
「俺は知ってるよ、君たちが苦しくて、悲しくて、どうしようもない状況でも、今日まで戦い続けたことを」
先生は浅い呼吸で、言葉を絞り出す。
「やっとこうやって、みんなを抱きしめられた…。大丈夫、君たちは独りじゃない」
今にも倒れそうな先生は、私たちの支えがないと立っていられないと言うのに、今まで一番力強く、優しい声色だった。
「これからは、苦しかったら苦しいって言葉にして、怒りたかったら自分のために怒って、叫びたかったら叫んで、泣きたかったら涙を枯らして…。苦しいって、生きづらいって言葉にするんだよ。俺でもいい…、俺だったら、君たちを見捨てない」
先生は笑顔を作る。
「これから、親に逆らった君たちは過去と向き合いながら生きていかないといけない。決して簡単なことじゃないし、苦しいことも、逃げ出したくなる時もあるかもしれない。それでも、それでも、今日まで生き残ってくれてありがとう。俺を頼ってくれてありがとう」
私は先生の頭を優しく撫でる。
「平川先生。私たちを救ってくれてありがとうございます」
先生は、張り詰めた糸が切れたように、大粒の涙を流した。その涙はとても綺麗で、青年のような少年のようなその笑顔とよく合っていた。
「俺に救われてくれてありがとう」
エピローグ
心地良い春の風が吹き、俺の手を握る愛來の頬を撫でるように桜の花びらが舞い降りた。
「春だね」
「やっと、春がきたな」
あの日、あの子達は間違った行動をたくさんしたのかもしれない。もっと別の、あの子たちが一人で苦しまずに、吐き出せる場所があれば、何か変わっていたのかもしれない。耐えて、耐えて、耐えて。誰も助けてくれなくて、逃げたしたくて、それでもどうしようもなくなって、あの日の行動が正しいことだと信じ込まないといけない状況だったことを俺は知っている。あの日の俺のように、誰にも迷惑をかけずに、心配なんて必要のない子と演技して、優等生だと演技して、演技して、演技して、耐え切れなくなったあの子たちは何も悪くない。
「愛來、俺のそばにいてくれてあるがとう」
「今更どうしたの。当たり前でしょ?」
「そうだな」
愛來は、ふふっと笑う。
「未来はひとりじゃないよ」
愛來の手を強く握ると、愛來も同じように手に力を込めた。
「先生。またここに来れましたね」
周りを見渡しながら歩く柊くんの隣で、藍沢さんが嬉しそうに言った。
「そうだね。みんなのおかげだよ。やっと会いに行ける」
あの日、千愛と死別した場所。
『私のわがままだけど、私たちみたいな人を救って欲しい。
沢山じゃなくていい。一人だけでもいい。
そしたら、私にあいにきてよ。
ゆっくりでいいから、期待してる。』
千愛の優しい呪いが解けた俺は、死別してから初めてあの場所に向かう。
「二人とも、これからのこと不安じゃない?」
千愛と過ごした日々を思い出し、二人に問いかけた。
「不安ですよ。先生が言ってたように、これから苦しいことも、逃げ出したいこともあると思います。でも、俺は独りじゃないって思えたから、大丈夫です。それに…」
柊くんは藍沢さんと目を合わせる。
「「先生がいてくれますから」」
力強く答える二人に出会えて良かったと思う。
あの日から何も変われないと嘆いていた俺は、もうどこにもいない。俺を受け入れてくれる人たちを見つけてしまったから、それがどんなに居心地の良い場所か知ってしまったから、変わることが怖くないと思えた。
「ここだよ」
丘の上から見た海は、相変わらず綺麗だった。
「千愛、随分遅くなったけど…、会いにきたよ」
俺はその場にしゃがんで、用意していた白いマーガレットをお供えする。それに合わせて、愛來はピンクのかーネーションを添えた。
「千愛。俺、千愛がいなくなって、たくさん辛いことも、逃げ出したいこともあったんだ。それでも、それでも、俺、独りじゃないらしいよ。俺の側にいてくれる人ができたんだ…。だから、千愛に本当の意味で会いに行くのはもう少し先でもいいかな」
俺の頭に乗る三つの温もり。この年になって頭を撫でられているというのに、妙に安心する。
「千愛さん。私、先生のおかげで救われました。もう自分を騙して、家族のために演技して生きていかなくてもいいって、先生が教えてくれました」
「千愛さん。俺も、先生のおかげで救われました。辛くて、きつくて、悲しくて、それを受け入れてくれた先生にすごく感謝しているんです。お姉ちゃんと弟は、捕まっちゃったけど、また三人で暮らして行きたいって、やり直したいって思えるんです」
「先生が私たちを見捨てなかったから、見てくれたから、私たちはこうして今生きてます」
顔を上げると、二人は笑った。
「俺、この二人が本当の意味で救われるまで、側にいたいと思ってもいいかな」
後ろから二人に抱きしめられた。両耳から微かに聞こえる涙を啜る声が、優しい紅雨のようだった。
「千愛、たくさん話したいことがあるんだ。今までのこと、未来のこと。長くなる予定だけど、聞いてくれる?」