第90話:理想
七月も下旬に入り、あと少しで夏休みというとある日の三限目、私たちはプールにいた。本日の体育は今年最後の水泳の授業であり、今は一人ずつタイムを測りながらの泳力テスト中なのである。
「次、一色!!」
「はい!!」
いつもに比べてちょっとだけヤル気があるようなないような郷田先生指示の下、私は水の中へと体を沈める。そして・・・。
「!!」
笛の合図とともに、私は全力の蹴伸びを行う。
「よし、次は・・・」
一先ずではあるけれど、最低目標である二十五メートルのクロールと平泳ぎは達成できた。タイムの方はお察しではあるけれど、あとは時間いっぱい端っこの方で適当にパチャパチャして時間を潰すだけである。
「ふぅ~」
水から上がった私はプールサイドを伝い、テストの邪魔にならない方へと移動する。そしてそのまま静かに水の中へと入り、その場でボケ~っとテスト中のクラスメイトたちを眺める。
「・・・・・」
最初の頃に比べて、プールでの男子と女子たちによるいざこざは減ったように見える。佐久間君たちによる下世話な会話も殆ど聞くことはなくなったし、これも偏に郷田先生とか前原先生が目に見えないところで頑張ってくれた結果なのだろう。
とはいえ、男子たちからのネットリとした何とも言えない視線が全てなくなったわけではない。今もほら、私の方へと向かってきている驚異のCカップを持つ彩音ちゃんに男子たちの視線は釘付けになっているし・・・。
それにしても、いくら年頃であるとはいえ男子というものはこうも女子の体に視線が釘付けになるものなのだろうか?元男子である私ではあるのだけれど、いまひとつその辺の感覚が解らない。
まだ私が男子として過ごしていたあの頃、ともちゃんや雪ちゃんと遊んでいた時には彼女たちの体について深く考えたことはなかった。偶にパンツとか見えた時にはただただ気マズい思いをしただけで、それ以上でもそれ以下でもなかったのだけれど。
まあ、私が女子となってからもう一年近く経っているし、その間に桜ちゃんや委員長の枕崎さんから様々な知識を吹き込まれたし。そのお陰で変な知識だけは無駄に増えたし・・・。
おそらくではあるのだけれど、男子たちも私が男の頃に知ることのなかった何がしかの知識を得て、それで今の状況に至っているのだろう。彼等には彼等なりの事情があって、それで・・・。
「う~む・・・」
もしかしてだけれど、陽介もそうなのだろうか?あの無駄にイケメンで飄々としていて、だけれども優しくて気が利いて・・・。そんな完全完璧な超人陽介でも、女子の体に興味があったりするのだろうか?
「いや、まさかね?」
仮にそうだったとしても、陽介はあんな露骨な視線を女子に向けたりはしないだろう。陽介は紳士で優しいし、きっと鈴木君のようにスマートな所作でもってクラスメイトの女子たちをメロメロにしているに違いない。
「うんうん・・・」
私は一人納得し、近くに寄ってきた三人へと視線を向ける。
「夏ちゃん、何一人でウンウン頷いてるの?」
「いや別に・・・」
そうしてその日の水泳の授業は終わり、私たちは更衣室へと向かう。
「あぁ~、やっと終わったぁ~~!!」
大きなタオルでその体を覆いながら、雪ちゃんは歓喜の声を上げる。
「ホントホント、ようやくこの水着からオサラバできるよ!!」
そう言って、桜ちゃんも歓声を上げる。
「はぁ・・・、これでもう胸を見られずに済む・・・」
彩音ちゃんは小さく、そう言葉を漏らす。
「いやいや、彩音のそれは体操服の上からでも分かるから。てか、制服の上からでも分かるから」
「・・・・・」
桜ちゃんからの指摘に、彩音ちゃんは絶望の表情を浮かべている。
「とにもかくにも、今年のプールは終わりじゃい!!」
「サッサと着替えて、次の授業に向かうんだぜい!!」
私たちの中学最後の水泳の授業は、こうして終わりを迎えたのだった。