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10th year promise ~望まれ愛されること~

作者: サトノア

「ねぇ・・・」


誰かに呼ばれているような夢を見た。何の変哲もない普通の朝。いつものように寝室を後にし、インスタントコーヒーを作る。庭先で一服しながらボーッと空を眺めるのが日課であり、その日のスタートである。洗濯物を干し、自分のお弁当を作り、部屋中のゴミ箱をかき集めて集積所へ持って行く。妻と子供は、私が車に乗り込んで仕事に出発すると二階から降りてくるようだ。


私の仕事はトラックドライバー。一日の半分はトラックの中で過ごしていると言っても過言ではない。今日も朝から荷物を積み込み各納品先に届ける。私はこの仕事が好きで、とくに何が良いのかと聞かれたら「一人で気楽に仕事ができるから」と答える。以前は工場の作業員や事務職なども経験してきたが、周りの人に気を遣うのが嫌でこの仕事に落ち着いた。この仕事なら人との接触も最低限で済むし、配達が終わった者から順次帰れる。俺にとっては最高の条件であった。

べつに人間嫌いって訳でもないのだが、今はこうして家族以外には特別関わりを持たなくてもいいのかなぁって思っている。


今日も無事に仕事が終わり、どこにも寄らずに真っ直ぐ帰宅する。リビングの窓からは、私の車のエンジン音に気付いた娘が顔を覗かせる。玄関のカギを開けて中に入ると娘が近付いてくるのだか、5歳の娘の口からは「お帰り」という言葉はない。私から「ただいま」と言うが、いつも一方通行の会話になってしまう…。


3年前


高齢出産となる40歳で、妻と私の間に産まれた大切な生命。誰からも愛され、望まれるような人間になってほしいと願いを込めて「望愛(のあ)」と名付けた。やっとの思いで授かった娘を妻は溺愛し、身を削りながら一生懸命育児に励んだ。そして娘が2歳になろうかという時期に、私達夫婦に衝撃的な真実が突き詰められる事となる。


「発達障害」


2歳になっても娘は何の言葉も発しない。1歳半の検診の時、すでに妻は娘の異常に気付き始めていたが、その予感は娘の成長と共に辛い現実を突き付けられていく。小児科の先生は問題ないと言うが、妻は検診や予防接種などに娘を連れていくたびに、周囲の子供たちとの違いに耐えきれない不安を重ねて帰ってくる。葛藤の日々を過ごし、何か少しでも良い手立てがないかを考える事が日常となってしまった。私に出来る事と言えば、妻の話し相手になり、家事をサポートする事。勿論、妻がゆっくり休息が取れるよう、翌日の仕事が休みの日は私が娘を寝かし付けてゆっくり寝てもらう。少しでも娘との時間を作る事だった。しかし月日が経つにつれ、この「発達障害」は鮮明になっていく。

「自閉症」「注意欠如」「言語障害」「多動」「偏食」時には「睡眠障害」「自傷行為」にも悩まされた。

こんな日々の生活で夫婦喧嘩に発展してしまう事も多くなり、子供の未来と夫婦の行く末に明るい気持ちが持てなくなってしまった。



ある日の事、いつものように娘はおもちゃで遊んでいる。妻と私は夕食の準備を始め、先に娘の食事を用意した。偏食の酷い娘には決まった食べ物しか用意できない。落ち着きがないのでテーブルに向かって座っている事さえできない。こちらから遊んでいる娘の口にご飯を運ぶのが当たり前になっている。それの繰り返し。目の前で遊んでいる姿は健常者と何ら変わりないのに、娘を見つめている私は少し寂しげになってしまう。そんな時、いつもは奇声とも言える言葉しか発しなかった娘が小さい声で

何かを言っている気がした。


「パ…パ…」


「えっ!今、パパって言った?」


一瞬ではあったが、いつもの意味不明な言葉ではなく、ゆっくりと「パパ」と呼んでくれたのだ。私だけがそう聞こえたのかもしれないが…それでも…私にとっては娘の心に「パパ」の二文字が刻まれたのだと確信した。そして、いつのまにか私の頬には一筋の涙がこぼれていたのだ。


健常者と比べれば娘の成長は劣っているかもしれないが、ゆっくりでも遅れていても構わない、そんな毎日を私と妻は見守りながら幸せな日々を過ごしていた。


そんな深謀遠慮の暮らしのある晩の事、妻と娘が寝室に行き、私も一人で自分の寝室へと向かった。私の部屋は階段を登った突き当たりの部屋。階段のライトを消し部屋のドアを閉めようとした時、暗闇になった階段から違和感と言うか、不思議な感覚に襲われた。きっと仕事の疲れか何かだろうと気にする事はなかったが、布団に入り目を閉じると、誰かに呼ばれている気がしたのだった。


「・・・・・・!」


俺は慌てて体をお越した。いつの間にか私は寝ていたようで、娘に何かあったのかと思い妻の寝ている寝室側に意識を向けたが、静まり返った寝室からは何も聞こえてはこなかった。これも、きっと夢でも見ていたのだろうと、また布団の中に潜り込んだ。


翌朝、まだ外は薄暗闇の中、いつものように支度をして仕事へと出掛けていった。トラックに乗り込み、注文のあったお客様へと精密部品を届ける。昨夜の夢の事なんてすっかり忘れていた。夕方には仕事も終わり、今日も寄り道もせず真っ直ぐに帰宅した。娘も幼児番組を見てはしゃいでいたりする。言葉を話せないこと以外には何ら健常者とは変わらない家族の日常は、妻が一生懸命に支えとなって頑張っているからだと思っている。夕食の時の妻からの会話は全てと言っていいほど望愛の事である。


「今日はテレビを見ながら手を叩いたよ」

とか、

「くるくる回って踊っていたよ」

などである。


健常者の子供なら当たり前の行動が、私たち夫婦にとっては感動的で新鮮な出来事なのであった。夕食後はゆっくりしてられず、今度は娘をお風呂に入れる準備に取り掛かる。妻が娘の体を洗い、湯船に浸かりながらも、多動で落ち着きのない娘をしっかりサポートしてあげなければならない。落ち着いていられない娘を押さえ、体に真っ赤な引っ掻き傷を付けられる事も少なくはなかった。そして、先に娘をお風呂から出し、私にバトンを引き継ぐ。ここからは私が娘の体を拭き着替えをさせる。素直に着替えてくれる時もあれば、暴れたり、泣き出したり、手を焼く事も多かった。ここでやっと妻は娘から解放され、一人の時間をお風呂でゆっくり癒す事が出来るのだ。

娘の髪を乾かすドライヤーの時間は、タブレットに頼ってしまう。好きな動画を見せておけば、少しの時間はジッとしていてくれる。あまりスマホやタブレットで子供の気を引くのは良くないと知りつつも、それが無ければ時間がいくらあっても足りないのだ。風呂上がりの喉が乾いた時に、娘の好きなジュースに多動を落ち着かせる薬を混ぜて飲ますのも忘れずに行わなければならない。これを忘れようものなら、夜中に覚醒し、ベッドの上で跳び跳ねて遊んでしまうからだ。妻の寝る準備が整うと、ようやく俺は一人の時間になる。


『ふぅ~…』


仕事から帰宅して、やっと落ち着いてソファーでくつろげる。しかし、翌日も仕事の時は朝が早いため、妻にはゆっくり寝ていて欲しい思いから、少し早起きして洗濯物やごみ捨て、自分が食べる朝御飯と昼のお弁当の準備をして出勤する。夜になってもゆっくりはしていられない。これが基本的なルーティンになっていて、そして今夜も一人寝室に行き娘を起こさないよう寝顔も見ずに布団に入るのだった。


「・・・トシ、サトシ!」


ある夜の事、また私は誰かに呼ばれている夢を見た。その声はとても懐かしく、しかしながらとても聞き慣れた声であった。声はするが姿は見えない。しかし、その声の主は間違いなく"美香"であった。


"美香"とは、私の前妻の名である。私は今の妻と一緒になる前、前妻を病気で亡くしている。


そんな美香が他界して10年…。美香が亡くなった時は、毎日のように夢の中で会っていた気がする。悲しくて…寂しくて…。寝ても覚めても頭の中には美香がいた。妻の闘病中は会社も休んで懸命に看病の日々を送っていた。医者から"余命宣告"を受けた時は、人目も憚らず号泣した事を覚えている。10年経った今も、日常生活を送っている上で、ふと、美香と過ごした時間を思い出す事がある。散歩した公園、買い物に行ったお店、好きだったお菓子。その瞬間は突然やってくるのだ。勿論、今は再婚し嫁と子供がいるので、その事は絶対に口には出さないが、もしかすると嫁はそんな私を看過しているだけなんだと思う。なるべく前妻の事を口にしたり悟られないよう気を付けて今の生活を過ごしていた…。


望愛が幼稚園に通い始める頃、妻は朝から晩まで書類とにらみ合いをする事が多くなった。発達障害児を受け入れてくれる幼稚園探しで悪戦苦闘していたのだ。一言に障害児と言っても、子供によってはいろんなタイプがある。そのタイプに合わせて専属の先生を配置しなくてはならない事が、幼稚園側でも容易ではないのだ。受け入れてくれる人数にも制限があり、良い幼稚園を見付けても、抽選から外れてしまう事も多々あるようだ。その他にも、園によっては『勉強・運動・遊び』など、それぞれの方針が違ってくる。健常者の親御さんならどう子育てをしていきたいのかによって選んでしまえばよいのだが、発達障害児の親は簡単には決められない。そして、悩みに悩んだ末、やっと自宅から車で30分ほどの幼稚園に入園できる事に決まった。その幼稚園には障害児を受け入れられるように、障害児の人数に合わせた先生もいるとの事だった。緑豊かでいつでも自然と触れ合える、私たち夫婦にとっては最高の環境で子供を預けられる幼稚園。まさに"のびのび"と育てる環境に、五里霧中だった妻も胸を撫で下ろす思いであったろう。残る心配は娘が毎日通園してくれるかだ。やはり発達障害児に多く見られるのが、環境の変化に順応できなくなる事だ。簡単に説明すると、今までは朝起きたらママと一緒にテレビを見たりご飯を食べてお散歩したりしていた毎日から、今度は決まった時間に通園して、ママから離れて幼稚園でお友達と過ごす。このちょっとした変化にさえ対応出来なくなるのだ。健常者の子供なら「明日から幼稚園だよ!」で済む話が、発達障害児には、きっと「なんで?イヤだ!」と、"ルーティン"を崩される事に抵抗が生まれてしまう。健常者の子供の中にもたまに居るそうだが、発達障害児はこれによって自傷したりお漏らしをしたり、服を脱いでしまったり、時にはなだめる親や先生に対し"他害行為"をしてしまう。妻にとっての次の悩みは無事に娘が通園できるかどうかになった。

通園初日、入園式のために娘を幼稚園まで連れて行った。障害児の受け入れは娘を含め3名であった。そのうちの1人は男の子で、住まいも我が家の近所の子であった。もう1人は女の子。言葉も話すし、いったいどこに障害があるのか分からない程の活発な子であった。入園式は私が仕事のため妻が連れていったのだか、これといった問題は起こらなかったようだ。まだこの時点では妻もいたし、娘にとっては単なる"お出掛け"程度にしか思っていなかったのかもしれない。問題はこれからである。自宅前まで送迎のバスが迎えにきて、果たしてちゃんとバスに乗って幼稚園に行ってくれるかどうかだ。バスに乗るのを嫌がるか、はたまた、バスに乗ったがママが見えなくなったら泣き出すか、幼稚園でルーティンを崩され暴れるのではないか、様々な不安が妻の頭を過る。心配は常に隣り合わせである。

翌日、送迎のバスが来ると、笑顔で先生が娘を迎えてくれた。


「望愛ちゃん、おはよう!」


妻は先生に娘を託し、何度も頭を下げ頼み込んだ。娘もおとなしくバスに乗ってくれて、その場は無事に済んだという。しかし、いつ幼稚園から電話連絡が来るか、気の休まる事はなかった。いくら専門の先生方がいるとはいえ、発達障害児はいつどこで崩れるかが分からないからだ。手に負えなくなった場合は、最終的に親が迎えに行く事となっているからである。

1時間…2時間…、どうやら娘は無事に幼稚園を過ごす事ができた。

それからというもの、娘の場合は幼稚園での生活が楽しいものだと感じ取ってくれたようで、先生を酷く困らせるような出来事は起きなかったようだ。

ただ、「やはり…」というか、想像していた通りという事もあった。それはお遊戯会的な、いわゆる「団体行動」だ。娘は内弁慶なところがあり、比較的に外ではおとなしい事が多かったが、団体行動となると、やはり他の健常者の子供たちと同じ事は出来ない。一人座り込んでしまったり、列からはみ出してしまったりと。時折、奇声を発する事もあった。こういう時は、先生が近くでサポートしないと、どこかへ行ってしまうのである。本人には分からない事なので仕方のない事だが、少しでも健常者のお友達の真似事でもいいので成長してくれたらと、気長に見守るしかない。

娘は嫌がる素振りも見せず幼稚園に通い、妻も私も少しだけ心に余裕が出来たのだった。


無事に娘は幼稚園での新しい生活がスタートし、妻も日中は一人の時間を持てるようになった。しかし、何かと子供の成長に合わせお金の掛かる事も増えてきた。恥ずかしながら俺の給料はなかなか上がる事はない。妻は外に働きに出ようかと思い立ったのだ。しかし、なかなか都合の良い時間帯の仕事は見付からない。この辺りはどちらかと言えば"田舎町"なので、元々、働き口が少ないのである。そこで妻が始めたのが「内職」であった。たまたま近くに小さな工場があり、そこの内職が募集していたのだ。細かな作業をコツコツと組み上げ、一つ出来上がっても数円…。それでも家事の合間の手の空いた時は作業を続けていた。

そんな時、俺の仕事に不穏な動きが見え始めた。


担当していた荷主(取引先)が他会社と合併するというのだ。この時まではあまり心配はしていなかったが、少しずつ俺の運ぶ荷物は減り、やがて仕事の依頼は今月末で終了と宣告されてしまったのである。

俺の上司からは「他の仕事があるから心配ない」と言われてはいたが、慣れた仕事を離れ、新しい内容の仕事に就くのは、やはり不安もある。夜勤なら子供との時間が減ってしまうだろうし、中・長距離のドライバーなら家に帰って来れない。どんな仕事が待ち受けているのか、上司からの報告があるまで落ち着く事は出来なかった。


「○○営業所へ転勤してほしい。」


まもなく今の仕事が終わるという頃、突然の報告に俺は愕然とした。○○営業所は隣の県であり、通勤ともなると自宅からは車で二時間以上も掛かってしまう。さらに、通勤手当てにも上限があり、車通勤では燃料費だけで赤字になってしまうのだ。そこで会社側からの提案として『単身赴任』を推奨されたのだ。さらに、赴任先ではドライバーではなく、倉庫内作業員として働いてほしいと、好きだったドライバーからも下ろされてしまうのだ。アパート代は会社で持ってくれ生活費として給与も少し上乗せしてくれるとの事だが、俺は正直どうしたら良いか頭の中が混乱していた。毎日子供に会えない。障害児を妻一人に任せて良いものか。好きなドライバーではなくなる。年齢的に転職は厳しい。色んな葛藤が一度に押し寄せてきたのだ。勇気を出し妻に相談してみると、妻の口からは意外な言葉が返ってきた。


「私たちは大丈夫!何とかなるさっ!」


あまりの気丈な言葉に俺は呆気に取られてしまった。悩んでいた自分が恥ずかしくなるくらいであった。そして、俺は単身赴任をする事に決めたのであったが、本当の問題はこの後に待ち受けていたのだ。


赴任先のアパートも決まり、一人で少しずつ引っ越し作業も終わらせた。そして明日からは新しい勤務先で作業員として働く。その日の夜は、久し振りに一人で過ごし、緊張もあってか、なかなか眠ることが出来なかった。

初日は寝不足気味での出勤だったが、無事に朝礼ではうまく自己紹介ができた。職場の皆は温かく歓迎してくれ、初日は営業所や倉庫内の中を見て回り、作業内容の確認や書類等の手続きで一日が終わった。帰宅しても誰もいない部屋に寂しさを感じるが、週末は家族の元へ帰れるし、2~3日もしたら慣れるだろうと呑気にいたのである。

翌日、出勤するとすぐに座学なる研修を受けさせられた。倉庫内作業員としての心構え的なやつだ。こういう所が嫌で、一人で気楽に出来るドライバーを選んだと言っても過言ではない。荷物の扱い方や、来客時の対応とか、こんな研修を受けたとしても、誰も行っている奴などいないのが現実だ。俺も座学中は正直、眠気との戦いにしか過ぎなかった。しかし、座学の後半になると目の覚める現実を叩き付けられたのである。転勤前に聞いていた給与の話しと、ここでの給与体系が違うという事だ。確か転勤前は給与が下がらないよう話しを付けてくれると聞いていたのだが、そんな話しは聞いていないとの一点張りだ。すぐに俺は本社に確認するが、特別扱いなのですぐには給与上乗せは出来ないと返事が返ってきた。俺は騙されたのである。だが、辞める訳にもいかず、さらに数日が経つと、今度は俺の膝の調子が悪くなってしまった。今までドライバーとして働いていたのが、急に一日中立ち仕事に変わり、歩くのも辛いくらい痛みが出てしまったのだ。病院で診察してもらうと、膝関節症の診断を受けた。俺はアパートに戻り、一人暗い部屋でこれからの事を考えていた。


「俺は…やはり家族と一緒がいい!」


翌日、俺は上司に全ての胸の内を報告し、会社を辞めた。そして、家族の待つ自宅へと戻ってきたのであった。


さらなる問題は、果たして転職がうまくいくかである。幸いにもドライバーの求人は探せばいくらでもあったが、なかなか自分に合う内容の求人は少ない。しかし、家族を養わなくてはならない身としては、選んでいる場合ではなかった。手当たり次第に目星を付けては面接に行き結果を待った。しかし、いざ採用され働きに行ってみると、面接で聞いた話しとは異なる事ばかりの所が多かった。精神的に追い詰められていたのか、ただ単に俺の我慢が足りないのか、せっかく内定した数件の会社を辞めてしまった。そして今度こそと受けた運送会社では、入社から一か月以上の研修を我慢してようやくドライバーとして独り立ちとなった瞬間、求人案内に記載されていた内容の仕事が偽りであったと、また騙されてしまったのだ。

運送業界は年々成り手が減少しているとは聞いていたが、まさかここまで酷くなっていた事に俺は落胆した。

俺は帰宅すると、今回の会社も嘘で塗り固められた求人であった事を妻に伝えた。すると、妻の表情は曇りだし、大粒の涙を流した。


「もう…生活費がないの…」


俺は妻に…そして自分にも甘えていたのだと気付かされた。妻は今まで何も言わず俺に新しい職場が見付かるまで、生活費を切り詰めながら遣り繰りしていた。独り身なら自分に合う仕事をゆっくりと選べばそれでいい。だが、今は違う。家族を何としてでも食わせていかなくてはならないのだ。娘の小さな手を握り、俺はこの会社で再出発を決意した。


仕事内容は当初とは全く違っていたが、一応はドライバーという事もあり、少しずつ身体も精神的にも慣れていった。仲良くしてくれる同僚も出来て、順調と言えば順調なのかもしれない。でも心の奥では「こんな嘘つきな会社はいつか辞めてやる」という思いが拭いきれていなかったのが本心だった。しかしそんな平穏とも言える日が続く中、予期せぬ出来事が起きてしまった。


"いつか見た夢が、夢ではなかったのだ!"


仕事から帰宅し、いつものように寝室で横になっていると、あの声が確かに聞こえてきたのだ。そう…美香の声である。


10年前…


まだ美香が抗癌剤治療を受けている頃の話しだ。抗がん剤の副作用でよくある話しが「抜け毛」である。残念ながら、美香も髪を洗う度に少しずつ髪の毛が抜け落ちてしまっていた。日中はウィッグを付けていたが、入浴の際にはどうしても頭を洗わなくてはならない。女性にとって、髪の毛が無くなってしまうというのは、とてつもなく辛い事だと思う。浴槽の鏡に映る変わりゆく自分の姿を一人で耐えているのは俺も心苦しかった。だから俺は、一緒にお風呂に入ろうと提案したのだ。もちろん、美香が迷惑と言うのであれば無理にとは言わないつもりでもあったが、美香は喜んで承諾してくれた。美香の髪を俺が優しく洗ってあげたのだが、指には長い髪が絡み付き排水口へと流れていく。こんな簡単に抜けてしまう驚きと同時に、込み上げてくる切なさで美香を背中からギュッと抱き締めた。


「大丈夫!俺がずっと側にいるからな!」


美香は小さく頷いた。それからは毎日一緒に入浴するようになり、俺が髪を洗ってあげていた。抜け始めてからは一か月もしないうちに、1/3ほどの髪が抜け落ちてしまったのだ。二人で湯船に浸かっている間は美香を心配させないように、色んな話題で癌の事には触れないようにしていた。そんな時、美香がふとこんな言葉を投げ掛けてきた。


「私が死んじゃったら・・・どうする?」


俺は一瞬、何も考える事が出来なくなってしまった。心の中ではいつも完治すると思っていたのだが、本人の口から「死」の言葉を聞いた瞬間だけは、何故か急に怖くなってしまったのだ。そして動揺していたのか、俺は美香に対してこんな言葉を返したのだ。


「一人じゃ逝かせない…俺を一緒に連れていけ!」


美香に寂しい思いをさせたくない一心で思い付いた言葉だったのかもしれない。それにしては、現実味のない言葉に、美香は一瞬驚いた表情して、そして、笑ってくれたのだ。


それから数か月…

美香はこの世を去ってしまった。


俺は身体の真ん中に穴が空いたように、何もかもがすり抜けていく。お悔やみの言葉も、励ましの言葉も、応援の言葉も。目から入ってくる情報も、耳から聞こえる声も、全てが俺の身体を通り抜けてしまうのだ。そして、とうとう鬱状態となってしまった。仕事も手に付かず、夜も心臓の音がうるさくて眠れない。美香の写真を見ては独り泣いていた。こんな辛い思いをするくらいなら、俺も美香の後を追おうとまで思い詰めていた。だが、美香が仏の道へと旅立つ日である四十九日、俺の枕元へと現れてくれたのだ。光輝く寝室に美香は立って俺を見ていた。俺は必死に美香に泣き付いた。しかし美香は何も話してはくれない。ただ、微笑んで俺を見つめている。そして、ゆっくりと光の中へと姿を消していったのだ。寝室は真っ暗な部屋へと戻り、俺はベッドに座り放心状態になっていた。その時、やっと気付いたのだ。美香がお別れを告げに来たのだと。あの時、美香にした約束は果たされる事はなく、俺を連れて行く事はなかった。


あれから10年が経った今…俺はどん底から這い上がり、再婚もしていた。亡くなった美香の事を忘れる事はなく、墓参りや節目の供養もしていた。そしてこの日、忘れる事がない美香の声を俺は聞いたのであった。


「約束…」


俺はその言葉がつい昨日交わした会話のように鮮明に思い出されていた。そして、美香が俺を迎えにきたのだと悟った。なぜこのタイミングなのかは分からなかったが、美香は確実に俺を迎えにきたのだ。


「またね…」


そして、目覚まし時計のアラームで目が覚めると俺は布団の中でいつもの朝を迎えていた。これは夢だったのか、信じがたい思いもあったが、あまりにもリアルな感情とともに、時間が経つにつれ夢ではなかったのではないかと思い始めていた。

いつものように、コーヒーを飲みながら玄関先に出て一服をしている。そして、夢のような美香との出会いに、懐かしさとあの時交わした約束の重さに、どこか動揺している感じだった。


「こんなこと…あるわけないよな…」


自分に言い聞かせ、俺は仕事へと向かったのだった。

現場で作業をしている時は仕事に没頭できているのだが、一人運転中になると、やはり昨夜の事が気になってしまう。


夢なのか…それとも、現実なのか…。


確かに俺は10年前に約束を交わした。それがどうして今なのか、それだけが腑に落ちなかったのだ。それとも、俺に新しい家族が出来た事を恨んでいるのだろうか?俺はこの事を誰にも相談する事はなかった。相談した所で、夢に決まっていると言われるのが目に見えていたからだ。そして、そんなモヤモヤした状況のまま過ごす事となった。


ちょうどその頃、娘は年長となり来年からは小学生に上がる。発達障害である娘を、幼稚園の先生方が全力でサポートしてくれたお陰でいつも感謝している。遠足や運動会など、各行事の時の写真を見ると、必ず手を繋いでいたり、側に寄り添っていてくれた。その写真が幼稚園の方針や優しさの全てを証明していた。発達障害を抱えていても、娘はお友達や先生方と楽しく成長しているのだと改めて感じる事ができた。

しかし妻は悩んでいた。来年から娘は小学生になる。健常者と同じ小学校に通わせるか、それとも支援学校に通わせるかである。普通の小学校でも、特別学級などの特殊枠があるが、果たして周りに健常者が沢山いる学校でやっていけるかどうかである。会話も出来ない、多動もある、そんな娘が健常者の子供たちからはどう見られるのか?イジメられないか…?特別学級のサポートはどの程度のものなのか?逆に、健常者の子供たちから刺激を受けて、会話が出来るようになるのでは?普通の子供として通わせたい!悩む事は絶えないのだった。そして支援学校の場合ならどうなのか?娘とはまた違った障害を持つ子供たちが沢山いる。中には、他害(相手に危害)を加えてしまう子もいるという。大声や奇声も飛び交う事もある。教室から逃げ出してしまった子もいるようで、そんな時は大騒動になったらしい。しかし、普段から先生方の数は多く、介助者として食事やトイレなど細かなサポートは万全だ。どちらにせよ、会話の出来ない娘に聞く訳にもいかず、親がじっくり考えて決めるしか他にないのだ。俺は妻から相談されたが、その前から娘には支援学校に行ってほしいと考えていた。理由は簡単、偉そうな言い方になってしまうが、元々俺の教育方針は勉強は二の次。一番学んで欲しい事は『社会性』なのだ。勉強が全く出来ないのは困りものだが、まずは挨拶や決まり事、お友達とは仲良くし、思いやりや柔軟性を学んで欲しいと思っていた。しかしこれは娘が健常者であった時の場合である。会話も出来ない介助も必要な娘には、少しでも"自分で出来る事"を増やして欲しいのだ。その点では、支援学校の方が日常生活の必要な行動を指導してくれるのだ。着替え、食事、トイレ、団体行動など、言い方は悪いがまずはレベルの低い所からスタートしてくれる。俺も妻も、順番で言ったら先に死んでしまう。その時、娘には少しでも自分で出来る事を増やしてもらいたいという願いなのだ。健常者がやれる事を100%と例えるなら、10%でも20%でもいい。1%でもいいから自分の意思を表現出来るようになってもらいたい。それが俺の願いだった。勿論、この俺の気持ちは妻に伝えていた。そして妻の出した答えは、支援学校に通わせるという結論に達した。妻は、娘が安全に学校生活が送れる事が一番と考え、先生の数が多く、設備や対策が講じられている学校の方が良いのではないかという気持ちだったのだ。


娘は幼稚園に通う前に『障害者手帳』を交付してもらっていた。管轄の児童保健センターでカウンセリングを受け、重度障害者として認定されたのだ。そのため、地元の特別支援学校に入学できる事となった。幼稚園で一緒に過ごした二人の障害児も同じ学校に通う事に決まり、親同士も慣れた環境に少しホッとした思いでいた。


小学校入学間近の事、娘の成長も少しずつではあるが変化が見え始めた。『顔』が書けるようになったのだ。顔と言っても、丸い円の中に点が二つと横線が一本あるような、単純な顔である。それでも、会話の出来ない娘が、目や口を認識しているという事がはっきりと分かった。さらに、お風呂の内壁に張り付けた『数字表』と『50音表』を少しずつ言えるようにもなった。ちゃんと発音できるものもあれば、発音できない言葉もある。例えば『さ行』は発音が難しいらしく、『いーち、にーい、ぺーん…』となってしまう。しかしその後は『ちーい、ごーお、ろーちゅ、ちーち、はーち、くーう、ちゅう!』と、元気よく読み上げるのだ。親目線であると言えばそうかもしれないが、私たち夫婦にとっては喜ばしい成長であるとともに、娘にとっては立派な発語である。それと同時に、娘の遊びにも変化が見え始めた。テレビキャラクターのジグソーパズルを購入し遊び始めたのだが、普通なら外枠のピースから揃えていき徐々に完成させるのが基本となるが、娘の場合は色や形で覚えているため、適当にどのピースを渡しても揃える事ができるのだ!これは『カメラアイ』とも呼ばれる症状で、調べてみると、これは見たものをそのままの状態で記憶する能力との事だった。初めは子供用の少ないピースパズルからだったが、今では100ピースくらいなら揃えられてしまう。大人でも外枠からでないと揃えられないパズルを完成させてしまう才能には、親である私でも素直に驚いた!

娘の成長を感じるのはこれだけではなかった。

月に1~2度の作業療法【OT】(Occupational Therapist)では、細かな作業が苦手で、いつも途中で諦めてしまったり、癇癪(かんしゃく)を起こして中断してしまった動作が最後までやり遂げる事が出来たり、言語聴覚療法【ST】(Speech-Language-Hearing Therapy)では、口の動きが良くなり、話す相手の口元を見て発音を真似る動作が確認出来るようになった。また、放デイ【放課後等デイサービス】にも積極的に通わせ、団体行動や新しい遊びに学びを加えた療育も受けさせた。


今日に至るまで不安と心配の積み重ねばかりしてきたが、ちゃんと娘は成長をし続けている。当然、一番頑張っているのは娘であるが、俺は妻に一番感謝している。命掛けで子供を産み、初産で右も左も分からない事だらけ、寝る間もないくらい夜泣きに悩まされ、お洒落もせず、好きな事を我慢し、女である前に"母親"としての道を突き進んできた。自分の事より娘の安全と成長を一番として、それはこれから先も続くのかもしれないが、決して苦とは思わないのだろう。障害を抱えた子供であっても、日々、成長や変化を楽しみながら見守っていくしかないのだから。俺はそんな妻を全力でサポートしなければならない。少しでも子供との時間も作っていこうと思う。


そう、前向きな考え方を持てるようになった時、ふと、寝室にある美香の遺影が気になった。美香は真っ直ぐ俺の顔を見ている。そして思い出したのだ!美香が亡くなる直前によく聴いていた歌を。


『泣きたいときや 苦しいときは

私を思い出してくれればいい』


俺は大切な事を忘れていた…。

美香は俺を迎えに来た訳ではないのだ。病魔と戦い、生きたくても生きられなかった美香は、誰よりもつらかったはずなんだ。俺はそんな美香の気持ちを忘れていた。娘の成長に悩んだり、仕事が上手くいかなかったりしても、生きてさえいれば必ず道は開かれる。だから負けずに頑張りなさいという、"応援"だったのだと悟った。

それ以来、美香は俺の前に現れる事はなかった。

あの日の夜、美香が現れて『約束…』と言った事…それはきっと・・・


【私の分まで頑張って生きてほしい】


と、俺に改めて人として生きる意味を教えてくれたのだと思う。翌日、俺は美香の墓前に大好きだった向日葵の花を手向け、目を閉じた向こう側の美香へ感謝の言葉を捧げ続けた・・・。


終わり


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