第八十五話 小さな身振り
季節は少しずつ秋へと移ろい始めているが、それを肌で実感するには早い季節。
残暑とも言うべき暑さだけが取り残されたまま気温の脅威にさらされる中、拓也たちは学校のグラウンドで汗を流していた。
「ぜぇ……はぁ…! こんな走らなくても、いいだろ…!」
「なんだ拓也。こんくらいでだらしねぇな!」
「…運動部のお前と比較すんじゃねぇ。こちとらインドア派なんだよ」
乱れ切った呼吸を整えながら近寄ってきた颯哉に返答すれば、まだまだ余裕そうな雰囲気を残したこいつの有り余った体力が羨ましく思える。
数ある授業の中でもこの体育の時間はいつも気分が上がりずらいが、今日はそれが尚更顕著だった。
夏休みが空けてから日も経っていないということで、体力をつけるために持久走をさせられていたのだが……何分、休みの中で大して運動もしてこなかった身では体に堪えた。
今にもこと切れそうなくらいに限界を示してくる拓也の体は、日々の運動不足を示してくるかのように疲労を遺憾なく伝えてくる。
「これに懲りたらお前も運動するこったな! もう少しで体育祭もあるんだぞ?」
「…体育祭か。そういやそんなんあったな」
颯哉のその一言で思い出したが、夏休みが空けてから少しが経ったら体育祭があるのだった。
もともと運動が得意な身ではないのでやる気もなかったのと、それ以前に夏休み中にあった出来事のインパクトに意識を持っていかれていた。
高校の体育祭ともなればそこまで大々的に注目されるようなものでもないし、自分たちも出る種目をとりあえず選んで無難にこなせていけばいいやなんて考えていたので、すっかり気にも留めていなかった。
今こうして指摘されていなければ、確実に忘れていただろう。
「少しは体力づくりもやっておくべきか……」
「それがいいかもな。とりあえず教室戻ろうぜ」
「ああ」
走り込んだ後でくたくたになってはいるが、幸いなことにこれで授業も終わりだ。
早く教室に戻って少しでもこの体を休めてやった方がいい。
そう思って校舎までの道を歩いていけば、その途中で別の集団が渡り廊下を歩いていくのが見えた。
その集団はどうやらうちのクラスの女子だったようで、男子とは違い体育館で運動に励んでいた彼女たちも授業が終わって出てきたのだろう。
そんな女子のかたまりをなんとなく眺めていると、その中心に唯が立っているのが目に入ってきた。
「相変わらずの人気っぷりだよな、秋篠さん。むしろそれも高まってきてるんじゃないか?」
「かもな。どこかで距離を置いてるのは変わらないんだろうけど、真衣と関わってるときは素も見せてるんだし、そこで熱が入っててもおかしくはない」
「真衣の場合はなぁ……どっちかって言うと可愛がってるって感じが強いしな」
「わかってんなら止めてやれ。会うたびに撫でまわされてる唯の身にもなってみろ」
「そいつは無理だな! あいつの楽しみを奪ったりしたら今度は俺に被害が及ぶ」
「堂々と言うことじゃないだろ……」
あいつの彼氏としてそれでいいのかと思わなくもないが、真衣の行動を阻害した結果何が起こるかなんて想像もしたくないので賛同できてしまうのが悲しいところだ。
今は唯も困り顔になりながらもその絡み方を楽しんでいるようなので問題もないが、度を過ぎるようであればこっちが忠告しなければいけないだろう。
(そんな心配もいらないとは思うけどな……って、ん?)
真衣と唯の仲の良さを考えれば無用の心配ではあるだろうが、頭の片隅には入れておいた方がいい。
そんなことを思っていると、遠く離れた場所で女子の集団と会話をしている唯がこちらに視線を向けているように見えた。
周囲の女子たちには気づかれていないようだが、唯は拓也たちの存在に気付いたようで、こちらを見つめたまま上品な雰囲気を醸し出した笑みを崩して普段の柔和な表情を浮かべていた。
そしてその笑顔のままふっと口角を上げ、腰の位置から小さく手を振ってきた。
「…っ!」
「ん? …おーおー。お前も愛されてんな」
「…うっせぇ」
唯の何気ない仕草に胸の鼓動が早まってくのを感じると、その一部始終を眺めていたらしい颯哉にからかわれるように言われる。
…だが、彼女との小さなやり取りの一つ一つにもこうして意識を芽生えさせているようでは、返答に説得力なんてあるはずもなかった。
そのまま唯は周囲の女子たちに気づかれないままその場を去っていき、残されたのは拓也たち男子のみとなった。
ほんの少しの時間だったというのにこうも激しく感情が揺さぶられるのは、きっと彼女の魅力のせいなのだろう。
◆
「おい拓也、昼飯買いに行かないのか?」
「今日は弁当持参してんだよ。だから問題ない」
時間も昼頃になり、机を向かい合わせにしてきた颯哉が購買に向かわないのかと疑問を投げかけてくるが、今日からあそこに行くことはなくなるだろう。
その理由は今手元にある弁当であり、これも唯の手によって用意されたものだ。
朝のうちに準備してくれていた弁当は栄養バランスから色合いまで考えられたメニューが並んでおり、一目見ただけでもその完成度の高さがうかがえる。
「お前が弁当って……あ、なるほど。あの人の手作りか」
「そうだよ。俺が自分で作れるわけないしな」
「そこは嘘でも拓也が作ったって言ってほしかったが……別にいいか。ならこれからも昼は弁当になる感じか?」
「多分な」
拓也が唯に見捨てられるような未来が訪れない限りは作ってくれるだろうし、その手間を惜しむような彼女でもない。
こうした手間暇をかけてくれるところが嬉しく思えるが、それと同時に彼女の隣に並ぶために頑張ろうと思っていたのに頼りっぱなしな面も浮き彫りになって複雑でもある。
…やはりさっきの持久走でも感じていたが、運動か何かを始めてみるというのもいいかもしれない。
自分磨きの一環にもなるだろうし、真剣に検討してみよう。
「しっかし、随分美味そうな弁当の中身だな。これを朝の間に作るって言うんだろ?」
「夕飯の残りも使ってるみたいだけどな。けど、大変なことには変わりないし頭が上がらない」
話しながら弁当の具材を口にすれば、出来上がってから時間が経っているので冷めてしまってはいるが、その分食材に味が染み込んでいるようでこれはこれでまた別の味わいがある。
これだけ立派なものを学校でも食べられるのはひとえに唯のおかげだし、感謝しかないな。
「彼女の料理か……いいよなぁ…」
「まず彼女でも何でもないんだが…お前だって、真衣の手料理を食べたことくらいあるだろ?」
「そりゃ何度かはな。…けど、普通拓也みたいに毎食なんてありえないからな? しかも同級生の女子が家に来るなんてこともないし」
「……確かに」
言われてみれば、付き合ってもいない男女が毎日のように同じ家で過ごしているというのはかなりおかしい状況だ。
自分のことながら、あの時の唯の誘いをよく受け入れたものだと思う。
他人から指摘されると改めて自分の置かれている現状を冷静に考えられるが、やはり今の環境は破格のものなのだろう。
「まぁそうやって拓也の家に来てくれるってことはあの人も信頼してる証拠なんだろうし、前向きに受け取ってもいいと思うぞ。少なくとも嫌いなやつの家に上がり込むような人じゃないだろ」
「…そりゃまあな。信用はされてると思うけど」
颯哉が言うように、唯は信頼のおけない人物の元に駆けつけるほど聖人ではない。
目の前に困っている人がいたら助けるくらいの正義感はあるが、それだって相手が自分にどんな感情を抱いているかを見極めてのものだし、その結果として拓也との関わりも生まれたのだから。
…まぁ、ただ単に拓也が自分に襲い掛かってくる度胸もない小心者だと思われている可能性もなくはないが。
「少なくとも、俺はあいつに認められるように努力していくだけだよ。その先はそこから考えればいいし」
「…もーちょっとお前が積極的になってくれたら俺も悩まずに済むんだが」
「何の話だよ」
「……いいや、お前がそのままでいてくれ」
なぜか疲れた顔をする颯哉にクエスチョンマークも浮かんでくるが、特に気にすることもなく昼食を続ける。
それを見てあいつがさらに溜め息を漏らしてきたが、一体何だったんだ。




