第七十九話 臆病者の過去
「どこから話したもんかな……まず、俺とあいつは中学二年の時に同じクラスになって、話す機会も少ないくらいの関係性だった」
もともと工藤のやつとは、そこまで接する機会があったわけではなかった。
それこそ、クラス内でも目立つ立ち位置にいたあいつと、数は少ないけど特定の友人と話すばかりだった拓也では、関わることなんて挨拶くらいのものだった。
「そんな状態で時間だけが過ぎて……特に変わったこともなかったけど、そこまでは平和なままだったんだ」
「……そこまでは?」
「…ああ。だけどある時に、俺があいつに意見したんだ。ほんの些細なことだったけどな」
それは、本当に何でもないことだった。
掃除をちゃんとしないやつにちゃんとやれとか、授業でも寝てばかりのやつに真面目に授業を受けろとか、そんなレベルの小言だったし、そのくらいなら学生の間でもありふれたものだっただろう。
…ただ、俺にとってありふれたことでなかったのは、その小言を告げた相手があの工藤であったということ。
奔放…と言えば聞こえはいいが、実際は我儘な面が目立っていたあいつに対して苦言を呈した拓也の存在は、さぞや鬱陶しいものだったのだろう。
「…そっからかな。俺の周りから少しずつだけど……徐々に人が避けるようになっていったんだ」
「……え」
「最初は、小さな違和感だった。俺と話している時にぎこちないというか、どこかで距離を置かれているというか……」
あの時の拓也は純粋だった。
何かがおかしいということは感じ取っていたのに、それを気のせいだと断じて、何も行動を起こさなかった。
…その時には既に、全てが遅かったというのに。
「段々と話すやつがいなくなっていって……さすがにおかしいと思った時には、もう俺と関わる奴なんていなくなってた。…そんな時に、あいつが教室で騒いでいた声が聞こえてきたんだ」
忘れ物を取りに帰ったのか、何かの用事を片付けていたのか、今では思い出せない。
…それでも、あの時にあいつが言った言葉だけは、ずっと忘れられなかった。
「…『原城は輪を乱してる』だとか、『あいつが邪魔だ』とか……ひどいものじゃ、『犯罪もしたことがある』なんて言われたりもしてた」
「…っ!」
あることないことを言われていたというショック。それをクラスメイトに吹聴されていたという事実。
…そして何より、それを皆が信じていたということが、俺の心には重くのしかかってきたんだ。
今思えば、単なる子供の癇癪のようなものだったんだと思う。
気に入らない相手を陥れたい。目障りなやつを追いやりたい。
そんなことを思われてしまうような行動をとったのは拓也自身だし、そういうこともあるだろうとは思っていた。
…だが、工藤が取ってきたのは直接文句を言ってくるような形ではなく、クラスの印象を操作して追い詰めてくるという、陰湿なもので……拓也は、それに対抗する手段を知らなかった。
「…それを知った時にはもう何もかもが遅くて、誰も俺の言うことなんて聞き入れもしてくれなくなってた。…もともとクラスの人気者のあいつと、地味な俺じゃ比べるまでもないからな」
「…そんな」
拓也の前では本性を見せてくることもあったが、工藤はクラスの連中に対しては巧妙にその嗜虐性を隠していた。
学校でも目立つ人間と、何を考えてるかもわからない拓也では、その差は歴然だった。
「最初は無視をされるだけだったけど、それも次第にエスカレートしていった。物を隠されたり、陰口を言われるようになったり……そこまで工藤がやったかどうかは分からないけどな」
「………」
人とは共通の敵を見つけるとあそこまで一致団結できるものなのかと、当時は身をもって痛感させられた。
以前は普通に話してくれていた友人でさえも、そこからは話すことも無くなり、ただただ一人で耐えるしか道は残されていなかった。
「…多分、俺はそこで誰かに相談してればよかったんだと思う。…だけど、あの時の俺は全ては自分のせいだと思って、誰にも言わなかったんだ」
当時の担任も、どこか異質な雰囲気は感じ取っていたんだろう。
何度か心配するようなことは言われたような気がするが、あの頃の拓也は余計な騒動を起こしたくないという感情と、自分の行動が引き起こしたことだからと、全部を一人で抱え込む道を選んだ。
…少しずつ、しかし確実に荒んでいく心に感情を焼かれていく様は、さしもの両親も異常な事態だと思ったのだろう。
実家では常日頃から身を案じる両親の言葉に、親を心配させまいとする一心で『大丈夫だ』とだけ返していた。
「…そのまま時間だけが過ぎて……少しずつ他人を信用できなくなっていって、中学を卒業した」
あの地獄から解放された時には、嬉しさなんて欠片も感じなかった。
そこにあったのは、赤の他人なんて信用できないという一心であり……不器用の果てに苦しみ続けた馬鹿な少年だった。
「高校に上がるってなった時に、親に高校は離れた場所にさせてほしいって頼んだんだ。…薄々事情は勘付かれてはいただろうから、すぐに了承はしてもらえたよ」
両親は、学校でのこともほとんど気づいてはいたんだろう。
ただそこに介入してこなかったのは、息子である拓也自身がそれを望んでいなかったからであり、それゆえに強引な解決という手段が取れていなかった。
そこに文句をつけるつもりはないし、恨みを抱いたことだってない。
他ならぬ自分が選んだ道の果てにそうなっただけのことなのだから、その責任は拓也一人の中で完結させてしまえばいいだけだった。
「…中学のやつらと、また高校でも過ごすのは耐えられなかった。俺のありもしない悪評をばらまかれて、それを信じ込むようなやつらと一緒にはいられなかった」
…結局、耐えるだ何だと言っておきながら、自分は逃げたのだ。
心配してくれる人はいたのに。彼らに助けを求めることだってできたのに。
勝手に苦しんでおいて、勝手に潰れていって……どうしようもなく、独りよがりな被害者になっていた。
「高校に入ってからしばらくの間は、誰とも話せなくてな。…他人を信用できなくなってたっていうのもあるし、何よりもまた裏切られるんじゃないかって思うと、怖かったんだ」
そして、その荒み切っていた拓也に声をかけてきたのが、友人である颯哉だった。
あいつの遠慮のない物言いは、当時の俺の心にもずかずかと踏み入ってきて……その遠慮のなさが、自分には心地よかった。
「…唯に話しかけたのも、始めは単なる偶然だった。見るからに困ってるやつがいるから、手を貸してやるか、くらいの気持ちだったんだ」
「…そっか、そうだったんだね」
彼女を初めて見かけたときに手を差し伸べたのも、自分が良いことをしたことで、あの時の悪評を払拭できるかもしれない、なんて考えがあったからなのかもしれない。
…そこからは、彼女も知る通りだ。
「唯と過ごしていく内に、親との間に事情があることを知って……それを解いてやりたいと思った。…だけど、それも結局は自分の都合でしかなかった」
「………」
…これ以上は、ダメだ。
自分の醜い感情を、彼女に伝えたくはない。
そう思っているのに、一度動き出した口はブレーキを忘れたかのように言葉を続ける。
「唯と沙織さんの仲が戻って……それで、良いことをした気分になっただけだったんだ。…自分は善人だって思いこむために、利用してただけでしかなかった…」
「………」
…あぁ、言ってしまった。
己の浅ましくも醜悪な、自分勝手な都合をさらけ出してしまった。
唯は失望しただろう。
友人だと思っていた相手が自分の事情を勝手に利用して、その上被害者面をしているのだから。
「…俺はさ、最後まで逃げ続けてきたんだよ。面と向き合うのが怖くて、それでもどうしようもないからと漫然と受け入れる道を選んで……そんな臆病者なんだ」
「……拓也くん」
「…ごめんな、こんな情けないやつで。もう無理に俺に構わなくても……っ!」
「拓也くん。…今まで、よく頑張ったね」
「……唯?」
鬱屈とした感情が蓄積していき、己の浅ましさを嫌というほどさらけ出した拓也は、これで唯との関係は終わったのだと思っていた。
…しかし、それを告げようとした瞬間、唯は拓也を自身の胸へと抱き寄せてきた。
ふわりと漂ってくる甘い香りが、重く沈んだ感情を軽くしてくれるようで……拓也の頭を撫でるように手をやってくる彼女の行動に反応もできず、されるがままだった。
「ずっとずっと、一人で耐えてきたんだね。…気づいてあげられなくて、ごめんね? でももう大丈夫。拓也くんを一人になんてしてあげない。…私が隣にいてあげるから、その苦しさを私にも背負わせて」
「…っ! …俺は、唯を利用してたんだぞ? 自分の身勝手な都合でかき乱して、そのせいで沙織さんとの溝だって深めてしまったかもしれないのに……」
「…そうだね。もしかしたらあの時、お母さんとの仲はもっと離れることになっちゃったかもしれない。けど、そんなの関係ないでしょ?」
「……え?」
何てこともないように、そんな軽く伝えられた唯の言葉に一瞬呆然としてしまう。
沙織さんとの一件を聞いた時、拓也の脳裏にはわずかとはいえ、それを解決することで昔の悪評を取り除きたいという思いがあったことは事実だった。
そんな最低な欲を抱えた人間の言うことを、彼女は気にも留めない様子で言ってきた。
「…確かに、最初は利用するためだったのかもしれない。でもね、私はそんな拓也くんに救われたの。…そんなあなただから、傍にいたいと思ったの」
「……唯、俺は……」
「何も言わなくていいよ。…少なくとも私は、拓也くんから離れていくことなんてない。たとえ他の誰かが敵に回ったとしても、私だけは、あなたの味方だから」
「…! そう、だったのか…」
包み込むように、縛り付けていた拓也の思いを肯定するように告げられた唯の言葉は、自分の感情に容易に踏み込んできた。
…けれど、それは決して不快なものではなくて、ただひたすらに彼のことを思う唯の温かさが伝わってきた。
もう、いないと思っていた。
少しずつ周囲から人が離れていき、孤独になっていく寂寥感。
そんな事態を引き起こして、自分にはもう近くにいてくれる人なんて皆無だと思い込んでいた。
…だけど、そんな情けない自分の内面を知った上で、離れないと言ってくれる人がいたから。
全てを理解して、それを受け止めてくれる人が傍にいると知ることができたから。
押さえつけていた思いを、無理に閉じ込めなくてもいいって思えたんだ。
「…こんな俺でもいいのか?」
「拓也くんだからいいんだよ。私にとって、あなた以上の人なんていないの」
「…そっか。…俺はずっと、誰かに隣に居てほしかっただけだったんだ」
「うん」
「なのに皆からは距離を置かれて……ありもしないことで悪意をぶつけられて……!」
「辛かったね。…もう、我慢しなくてもいいよ」
その言葉は、拓也にとってのブレーキを失わせた。
誰かに頼ってはいけないと、そう思わなければ持たなかった感情が、ついに漏れ出てしまった。
「…何で俺だったんだ! ずっと見下されて、その矛先を向けられる意味もわからなくて! …ただ、普通の生活が送れればそれでよかったのに!」
正しいことを言っただけだったのに。
たったそれだけのことで、一人の反感を買っただけで、拓也の心は壊された。
全てを奪われて、引き剥がされて。それでもなお信じようとした純粋な信頼は、純粋な悪意に踏みにじられた。
「…誰でもよかったのに、助けてほしかったのに。…その思いを無視して踏みつけにされてきた!」
「私が助けてあげる。…もう、そんな辛い目には遭わせない。だから、拓也くんも私を頼ってくれていいんだからね?」
「…唯。……ぐぅっ、あ、ああぁぁ!!」
彼女の胸の内で、今まで抑圧し続けてきた思いを吐き出し、その感情に身を任せて溢れる涙をこぼし続ける。
これまでの自分は、縁に恵まれてこなかった。
大多数の意見に流され、たった一人を敵だと断定する集団の圧力に圧し潰されてきた。
…だが今ようやく、自分を見てくれる人に出会えた。
小さな……されど、何よりも温かく、その熱で凍り付いた心を溶かしてくれた少女の瞳は、声を上げる少年を優しい眼で見続けていた。




