第六十八話 また二人で
…昨日は色々なことがあった。
記念すべき唯の誕生日という節目に、彼女の母親との再会を計画して奔走し、何とかそれを達成してやることができた。
これで彼女は家族との確執をなくし、以前のように心置きなく過ごしていけるはずだ。
…その代わり、拓也との関係性は消えることになるだろうが、それは仕方のないことだ。
唯だって俺みたいな頼りないやつといるよりも、自分の母親である沙織さんと暮らした方が幸せなはずだ。
その結果に寂しくないと言えば嘘になるが、そんな自分の感情なんて後回しだ。
「………んっ、もう朝か…」
どこか清々しさを覚える朝日に意識を呼び覚まされ、昨日の疲労をわずかに残しながら起き上がる。
清らかな空気とは裏腹に拓也の気分は上がっていかないが、これも自分で選んだ道。
早いところ一人の生活にも慣れておかなければ。
そしてそのまま着替えに向かおうとした時、リビングの方から妙な音が聞こえてきた。
「……ふふ…」
「……は?」
…それは、ありえないことだ。いるはずがない。
理性ではそう考えているはずなのに、本能ともいえる直感はその可能性を肯定するように音を拾い続けている。
リビング……具体的に言えば、キッチンから聞こえてくるその声は、カチャカチャという景気のいい音と共に響いている。
鼻歌でも歌っているのだろうか。彼女の機嫌の良さを示すようにかすかに漏れ出ているそのリズムは、拓也の沈んだ気持ちも浮かび上がらせてくるようだった。
その音の正体を探るため、急いでベッドから飛び降りてリビングへと向かう。
ガチャッ!っと勢いよく開け放たれたドアは、普段と何ら変わらない間取りを視界に映しだし……そしてそこにいる見知った少女もまた、いつもと変わらない姿でそこにいた。
「あっ! 拓也くん、おはよう!」
「……何でいるんだよ、唯」
…予想はしていたが、やはり我が家に来ていたのは唯だった。
自宅に入るための鍵を持っているのが拓也本人か両親、残るは唯だけなので家の中にいる時点である程度分かってはいたが、こうして実際に来ているのを見ると疑問も出てくる。
彼女にはもう、自分の家に来る理由はないはずだ。
沙織さんとの和解を果たし、ここではない居場所はできたはずだ。
それなのになぜ、まだ拓也の家に来ているのか………。
「うーん……それに答える前に、まずご飯食べない? もうすぐできるから!」
「…食べたらしっかり事情を聞かせてもらうからな」
なんだか唯に強引に押し切られてしまった気がするが、話は聞いておかなければならない。
ひとまずは拓也も着替えたいので、そのために部屋を移動していった。
「……で、何でまだいるんだ?」
「何でって言われてもね……ちょっと説明が難しいんだけど…」
食卓に並べられた朝食を食べ終わり、片付けも終えたら彼女への追求を始める。
拓也から疑問を投げかけられた唯は説明に対してどうしてか躊躇うような仕草を見せているが、もしやあの後に沙織さんとまずいことでもあったのかと勘ぐってしまう。
「…もしかして、沙織さんと上手くいかなかったのか? それならまた話し合いで……」
「ううん。それはないよ。お母さんとはちゃんと話し合ったし、また一緒に暮らさないかって言われた」
「なら尚更、ここに来る理由がないだろ。…もし俺に気を使ったとか、恩を返したいとかそういうことなら気にしなくていいし、そんなことで唯の家族の時間を奪うっていうんなら、俺はそんなことを望んでない」
「………」
少し口調が強めになってしまったが、ここははっきりと明言しておかなければいけない部分だ。
事実、拓也は自身に対する同情で唯が本来手にするはずだった幸福を手放すなんてことになればそれが一番許せないし、そんな半端な理由で彼女を受け入れてまで一緒に過ごしたいとは思っていなかった。
だが、それに対する唯の返答を待っていれば、なぜか彼女は呆れたように苦笑していた。
「…これは重症だね」
「……何がだ」
「何でもないよ。…それに、私は拓也くんに気を使ったとか、恩を返したいとかそんな理由でここに来たわけじゃないよ。ただ、来たかったから来たの」
「………」
「確かにお母さんとは仲も戻ったし、もう一緒に暮らせるようにもなった。でも、それと同じくらい拓也くんと過ごす時間も大切なものだから、こっちで過ごしたいってお母さんにお願いしてきたの」
その言葉に嘘偽りはないのだろう。それは唯の目を見ればわかる。
しかし、だからこそ分からない。
もう来なくてもいい場所に、自ら望んでやってくる。
それはよほどの理由でもなければありえないことだ。
それこそ……彼女が自分を、好意的に思ってくれているということでもない限り。
(馬鹿馬鹿しい……何でわざわざこんな俺を好きになるっていうんだ)
拓也は、自分が優れていると思っていない。
運動は並程度。容姿は地味なばかりであり、勉強も努力こそしているが、目の前の少女には及ぶべくもない。
そんな好意的に思える要素なんて皆無の男に、どうしてそんな妄想ができるのか。
「…なんかすごく的外れなこと考えてそうだけど、とにかく! 私は自分の意思でここに来てる! それは拓也くんを同情してるからじゃない! 分かった?」
「お、おう……ん? なぁ、この状況は沙織さんも知ってるんだよな? なんか言ってなかったのか?」
唯から発せられた思わぬ圧に押し負けてしまうが、せめてもの抵抗として彼女の母親を引き合いに出す。
あの人ならばこの現状に納得はいっていないだろうし、よその男の元に娘を預けることなど許さないだろうという判断から聞いたのだが………。
「お母さん? 拓也くんの家に行くって言ったら『唯を泣かせたら承知しないわよ』って言われたけど……」
「…沙織さん、そこはここに来ることを否定してやってくれ」
拓也に味方などいなかった。
まさかの味方だと思っていた相手からの予想外の裏切りにショックを受けるが、そこは親として止めるべきところだろう……。
「お母さんからは了承してもらってる。私もここに来たいと思ってる。…まだ拓也くんは、私がここに来たらいけないって言う?」
「…はぁー……分かったよ。降参だ」
「やった! じゃあこれからもお邪魔させてもらうね!」
心から嬉しそうな笑みを浮かべて喜びを表す唯を見て、なんでこんなことになったのかと拓也は頭を抱えそうになるが……この状況を、自分でも嬉しいと思ってしまっているのも事実だった。
もう会うことはないと思っていた少女と再び過ごすことが叶うと知ってから、またあの日々を送ることができるのだと喜ばしく思ってしまったのは、自分の強欲な面が出てきてしまったからだろう。
「あとねあとね! これからはお料理だけじゃなくて、お洗濯とかもさせてほしいんだ! それにお掃除とかもしたいし……!」
「…待て待て。それはさすがにダメだって」
「…どうして?」
コテン、と首を傾げながら疑問を投げかけてくる唯は非常に可愛らしいが、その愛らしさに惑わされてはいけない。
いくら唯自身が提案してくれていることだとしても、そこまで世話になってしまうのは自分のプライド的にもアウトだった。
「…それは唯に負担がかかりすぎだし、洗濯って言っても…俺の下着とかもあるんだぞ? 男のそんなもん触るのは嫌だろ」
「………あっ」
興奮冷めやらぬままに発言していたのか、そこまで考えてはいなかったのだろう。
拓也としては唯に自分の衣類を見られたところで被害は少ないが、彼女の立場からすれば積極的に目にしたいものでもないはずだ。
なのでそう言ってやれば大人しく引き下がってくれるだろうと思っていたのだが……現実は、予想と真逆の結果を出してくるものだ。
「……その、いいよ? …拓也くんのだったら、別に…」
「………」
恥ずかしそうに目を伏せながら、もじもじとした様子で俯きがちに申し出てくる彼女の様子は、まさに暴力的なまでの魅力があった。
いじらしくも拓也のために尽くそうとしてくれる彼女の様子に頭が空白になりかけるが……すぐに理性を総動員して、彼女の頭を撫でまわしてやった。
「……馬鹿、そういうことを軽々しく言うな」
「わっわっ!? …髪、ぐしゃぐしゃになっちゃった」
「頭は冷えたか? また髪を崩されたくなかったら気を付けろよ」
「…えへ、えへへっ」
「……何で嬉しそうんだよ」
あえて強めに彼女の頭を撫でまわして髪型を崩してやれば、それすらも唯は愛おしそうに頬を緩めている。
拓也としては唯が嫌がるだろうと思って警告のつもりでやったのに、そういう反応を取られるとこちらも困ってしまう。
「ねっ、今のもう一回やってくれない?」
「今のって……撫でまわすやつか?」
「そう! できれば今度は撫で下ろす感じでお願い!」
「…いいけどさ……嫌だったらすぐに止めてくれよ?」
唯の強い主張に、なぜ彼女がそこまで要求してくるのかは分からないが、見ようによってはセクハラとも捉えられかねないので釘は刺しておく。
それを軽い返事と共に了承した唯の返事を聞いてから、彼女の要望通り頭を撫でてやる。
「…んっ……んふふ……」
「………なぁ、こんなんでいいのか?」
先ほどまでの撫で方とは違い、できる限り唯の髪を傷つけないようにと気を付けながら頭を撫でてやれば、彼女は気持ちよさそうに目を閉じながら拓也に身を委ねている。
頬をほころばせながら穏やかな時間を満喫している唯を見れば嫌がってはいなさそうだが、どうしてこんなにも急激に甘えてきたのかがわからなかった。
「…拓也くんの手って大きいんだね……男の子って感じがするよ」
「そりゃそうだろ。細い方ではあるけど、唯に比べたら大きくもなるさ」
「そっかぁ………ねぇ、もう少しこうしてても良いかな?」
「…満足するまでは付き合ってやるよ」
…だがまぁ、何だかんだと言いながらそれを受け入れてしまっている拓也も、ある意味では手遅れなんだろう。
周りから見れば甘さしかない空気をまき散らしながら、二人は久方ぶりの穏やかな時間を満喫していたのだった。




