第十一話 苦手なもの
拓也が声を掛けるまで気配にも気づいていなかったのだろう。
完全に意表を突かれたという表情を浮かべながら、秋篠は突然話しかけてきた俺に戸惑っているようだった。
「…一応聞かせてほしいんだが、変なトラブルに巻き込まれたわけではないんだよな? それなら俺にできることなんてないけど……」
「へっ? …あっ。そ、そういうわけじゃないよ! た、確かにトラブルと言われればトラブルではあるんだけど……」
「どういうことだよ。…内容を聞かせてもらってもいいか?」
こんな状態でマンションの廊下に座り込むなんて、確実に何かがあった証拠だ。
そうでなければ、まともな精神状態でこんなことはしないし制服のままでいるところを見れば、慌てて家から出てきてしまったという流れだろう。
ともかく事情を聞かねば話が進まない。なので彼女から詳しい経緯を聞き出そうとしたのだが、何やら必死な様子で首を振り始めた。
「い、いいよそんなの! 原城君に迷惑かけるわけにはいかないし、私の事なんて放っておいていいから!」
「…はぁ。あのな、そんな恰好で外にいるやつのこと気にしないで通り過ぎるなんてできるわけないだろ。そんなことしたら、むしろ俺の方が悪役になるわ」
「う……。で、でも私たちは極力関わらないようにって……」
「言ってる場合か。確かにそれも言ったけど、ケースバイケースでどうとでもなることだし、ここでずっと座ってるつもりか?」
「…分かった。話すけど、絶対笑わないでよ?」
「別に笑うつもりなんてないけど…聞くだけ聞くよ」
俺も聖人じゃない。俺が関わることで秋篠のトラブルが解決するのなら手を貸すが、そうでなければ応急処置だけ施して引き上げる。
俺みたいな人間が全ての問題を完璧に解決できるなんて思い上がりもいいところだし、ただの高校生の分際でそれは無謀というものだ。
なのでひとまずは話だけ聞くということにしたのだが……笑うなっていうのはどういうことだ?
「その……家の中で、アレが出てきちゃって…」
「アレ? アレって何なんだよ」
拓也に言うことを躊躇う様子を見せながら事情を説明してくれようとしてくれているが、まだ情報が少ないため全容がわからない。
これだけでは状況が曖昧過ぎるので、より詳しいことを聞こうとさらに疑問を投げかけたのだが……観念したのか、秋篠は意を決したように声を大にして話してくれた。
「だ、だから……ゴキブリが出ちゃったの!! それで避難しようと思ってここにいたの!!」
「……へ? ゴキブリ?」
もたらされたのはあまりにも予想外な答え。
怯え切った姿からただ事ではないと思って話を聞いていたら、それが自宅に虫が出てしまったというものだったのだから呆然としてしまうが、段々と状況が飲み込めてきた。
「えぇと……つまり、秋篠は虫が出てきたからここまで逃げてきたと」
「そ、そうだよ! 昔から虫だけはだめなの…! …笑わない?」
「笑うことなんてないけど……。少し意外だとは思った」
学校では完璧な姿であり続け、自分の苦手なことなんて一切感じさせない顔所がこうも当たり前のように恐怖心を出しているのは、意外でもあり新鮮でもあった。
しかし彼女にとってはそれが不服だったようで、俺に向かって口を尖らせている。
「意外って……。確かに学校ではあまり表に出してないけど、私だって苦手なものくらいあるんだからね!」
「それは分かってるよ。お前だって人間なんだし、それくらいあって当たり前だ」
苦手なものがない者などいない。
いくら口で苦手を克復したと言っていたとしても潜在的な意識ではまだ恐怖心を抱いている場合だってあるくらいだし、むしろなければおかしいくらいだ。
俺は学校での彼女の様子だけを見て、強い人間だと考えてしまっていたがそんなことはない。
秋篠も俺たちと大して変わらない普通の女の子だったんだと知れて安心してしまったくらいだ。
「…ならいいんだけど。それと、他の人には言わないでくれる?」
「あぁ。わざわざ人の弱みを言いふらす趣味もないし、そんなことはしないよ。…で、こっからどうするんだ?」
「それは……とりあえずほとぼりが冷めるまでここに居ようかなぁ、と」
「どんだけ座ってるつもりだよ……。ほとぼりが冷めるっていうのもお前が確認できなきゃ意味ないし、後始末はしないと駄目だろ?」
「うぅ……。やっぱりそうだよね…」
よほど現状に追い込まれているのか。頭まで抱えて悩みだしてしまった。
今回の事態を何事もなく収めるためには、やはり唯が自分の手で始末をつけるのが理屈でいえば一番いい。
ただ、それはできない。張本人の彼女は虫を見かけただけでも逃げだしてしまうくらいに嫌いだと自白しているし、それと無理やり向き合わせるのはさすがに酷だろう。
「親御さんとかはどうなんだ? 家にはいないのか?」
「……お母さんはいるけど、仕事で忙しいから家にはいないんだ。今は私一人だけ」
聞いてから、しまったと思った。
何気なく唯の家族に関する話題を出してしまったが、それを聞いた途端に彼女の顔に影が生まれてしまった。
他人の家庭事情に口を挟むつもりなど無いが、この様子から複雑な事情でもあるのだろうか。
ともかく、あまりこの話題を続けるのは望ましくない。すぐに別の話に切り替えてしまった方がいいだろう。
「ってことは、お前も一人暮らしだったのか。そうすると尚更頼れるやつがいないな……」
「うん…。そうなんだよね。友達を頼ろうとしても私の家は教えてないから、来れる人なんていないし」
「その判断も正しいと思うけど、今だけはどうにもならなくなったな…」
自宅を誰にも教えていないということには納得、というか当然の判断だ。
俺も先ほどまで知らなかったが、一人暮らしをしている彼女の家に来たがるやつなんてごまんといるだろうし、それによって自宅を友人のたまり場にされてしまえば考えるだけでも眩暈がしてきそうだ。
しかし、今この瞬間に限っては他に頼れるあてがなくなったということでもあるので、苦しいところだ。
「どうすっか……。他の家の人に来てもらうとかもあるけど、それは嫌か?」
「嫌ではないけど、ちょっと怖いかな。何されちゃうかもわからないし」
「そうだよな。俺もあまりこの手は勧められないし」
近所の人に声かけをして来てもらうというのも考えたが、赤の他人を家に上げるというのは少々リスクが高い。
良い人であれば問題もないのだが、これが良からぬことを考える者であれば防犯の面からも推奨はできないし、女子の彼女からすればそれはことさら強いだろう。
そうなると本当に手詰まりになってしまった。
これ以上の手段が思いつかないが、ここまでやってきて彼女を置いていくというのもできない。
そんなことをするくらいならば始めから見捨てているし、そもそも事情も聞いていない。
そのまま何とかならないだろうかと頭を捻ってうんうんと唸っていると……俺の制服がクイッと引っ張られた感触があった。
引っ張っていたのは唯。小さな手で服の裾をつまみ、申し訳なさをはらんだ瞳でこちらを見上げている。
その姿に何か思いついたのかと言葉を待っていれば、これまた思いもしなかった提案を持ち掛けられた。
「その……全然嫌だったら断ってくれていいんだけど……。原城君に頼んじゃ、ダメかな?」
「…え? 俺に?」
「う、うん。他の知らない人を頼るよりは信頼もできるし、原城君なら何かするわけでもないって思えるし……」
予想外の高評価を受けていたことには嬉しく思えるが、それはいささかまずいだろう。
彼女が言いふらすことなんてないとは思うが、万が一秋篠の家に俺が入ったなんて事実が学校で出回ってしまえば何をされるか分かったものではないし、何より秋篠にとっても迷惑がかかるだろう。
「それはダメだろ。俺だって男なんだし、女子の部屋に入ったら何するかわからないもんだぞ?」
「…本当に何をするかわからない人はそんなこと言わないものだよ。それに、原城君って私にそこまで興味あるってわけでもなさそうだし」
「そこはまぁ…否定はしないけど」
本人の前で言うのもどうかと思うが、唯の言っていることも間違っていない。
拓也は女子全般にそこまで興味を持っていないし、無理に関わり合いたいとも思っていない。
良く言えば無害。悪く言えばヘタレなんだろうが、その評価は正しいので素直に受け止めておこう。
それよりも今はゴキの件だ。俺の方は虫に対して忌避感もないので退治自体は可能だが、重要なのは秋篠の気持ちだ。
「この近くで知ってる人も、頼れる人も私には原城君しかいないし、変なことはしないって思ってる。だからお願い! 頼りにしてもいいかな?」
「…そこまで言うならわかった。俺がやってくるよ」
俺の許諾を得られたことによって彼女の表情がパァッ!と明るくなる。
その表情には彼女の爛漫さがこれでもかと詰め込まれており、俺でさえくらっと来てしまうほどの魅力があったが意識を強く保って持ちこたえる。
秋篠は俺を信頼して送り出そうとしてくれているのだから、その事実を忘れるな。
「ただし、だ。もし俺が怪しい挙動をしてると思ったら、そこで迷わずにぶん殴れ。それはそう思わせてしまった俺の方に非があるし、それが原因で険悪にはなりたくないしな」
「……うふふっ。うん! その時はそうさせてもらうよ。そんなことはないと思うけどね」
「何があるかわからないんだから言葉にしておくのは大事なことだよ。…それで、虫はどのあたりにいたんだ?」
「台所のあたりだったかな。奥に進んだらリビングがあるからそこにあるはず」
「俺の家とそこまで大差はなさそうだな。…よしっ。なら一旦俺の家から対策グッズ持ってくるから待っててくれ」
「わざわざごめんね……」
「気にすんな。これくらい手間でも何でもないんだから」
いくら苦手ではないといっても素手であいつとやり合うつもりはない。自宅の方に念のためにと購入しておいた虫対策のスプレーなんかがあったはずなので、それを使っていくつもりだ。
一度唯の元を離れてエレベーターに乗り込んでいく。
なんだか妙な展開になってきたが、これでようやく事態も解決に向かいそうだ。