第百五話 小声の応酬
唯とのイブの予定を無事に決めることができた数日後。
残すところは本番当日のみとなったこともあって、ふとした瞬間に気を抜いてしまいそうになるが、気合でそれを耐える。
まだ全てが終わったわけではないし、むしろやる気を入れていかなければならないのはこれからだ。
まだまだこの緊張感を解くわけにはいかない。
…しかし、そうは言っても常に気を貼り巡らせておくことはいくら何でも不可能だし、適度にガス抜きは必要だ。
なので、今は拓也の息抜きも兼ねて教室で勉強をしているのだが………。
「あぁー……もう勉強したくねぇ……」
「…お前が手伝ってくれって言ったんだろうが。項垂れてないで手を動かせ、手を」
…目の前で、机に突っ伏しながら現在進行形でやる気をなくしている颯哉の姿を見ると、思わず苦言を呈したくなるというものだ。
拓也の言っている通り、この居残り勉強を申し出てきたのは颯哉の方であり、普段の学習意欲を考えればなかなかに信じがたいことではあったが、何しろ状況が状況だ。
なぜ颯哉が気分を沈めながらも勉強に取り組もうとしているのか。
そのわけは、もう少しで定期テストが行われるからだ。
クリスマスや年末年始といったイベントが盛り込まれた冬休み前の総決算と言わんばかりにねじ込まれているこの試験を乗り越えなければその後の楽しみも味わえなくなってしまうので、仕方なくこうやって苦手な勉強にも取り組んでいるのだろう。
その心意気は素晴らしいのだが……やはりと言うべきか、すぐに集中力を切らしてしまったようだ。
その面倒くさがる心理にも理解はできるのであまり強制はしたくないが、今回は向こうから頼んできたことなのでビシバシといかせてもらおう。
…だがまぁ、それを言う拓也も拓也で、今日に限ってはそこまで集中できていない。
いつもなら颯哉に文句を言いつつも、自分の勉強も並行して進めるのだが……その理由というのは、現在も自分の真隣に座っている彼女にあった。
「あ! 原城君、そこ間違えてるよ! ここはねぇ……この式を分けて考えると分かりやすいかな」
「…あぁ、なるほど。さんきゅな、秋篠」
「いいよ! 困った時はお互い様だもんね!」
いかにも楽しいといった雰囲気をこぼしながら拓也に笑みを向けてくるのは、学校ではそこまで関わることもない唯だった。
…これが家なら特に思うところもないんだが、放課後とはいえまだ他の生徒が残っている教室で堂々と話しているのは良いものか?
「いやー、やっぱり唯ちゃんと拓也は仲いいよねー! 見るからに相性ピッタリって感じ!」
「…おかしなこと言ってないで、お前も颯哉のやる気を叩き起こしてやれよ。そのために来たんじゃないのか?」
「それもあるけど、私は二人の絡みを見たかったっていうのもあるしー? それに比べたら些細なことでしょ!」
それに加えて、今も拓也の集中を削いでいる原因の一つとして、にやついた笑みをこちらに向けながら唯との会話を眺めてくる真衣の存在があった。
今も周囲への誤解を加速させていきそうな言葉を隠すこともなく口にしているし……そのせいで、周りの目がすごいことになってるんだが。
さすがに拓也たちの関係にまで考えが行きつくことはないだろうが、それでも嫉妬の目を向けてくる輩はいるのだ。
…気づかない振りをしながら意識を向けないようにはしているが、全身にビシビシと突き刺さってくる複数の視線の方向はあまり見たいものではない。
もちろん、最初からこんな状況だったわけではないのだ。
最初は颯哉に頼まれて二人で居残りの勉強をする予定だったというのに、そこに割り込むように現れた真衣と、それに付き添う形で入ってきた唯もなぜか参加することになった。
いくら拓也と唯が少し話す間柄だと周囲に認識されていたとしても、今は四人の位置として彼女が拓也の真隣に座っているフォーメーションでもあるので、必然的にその距離は近くなっている。
時折唯がこちらの勉強のミスを指摘してくれることもあるのだが、その時には肌が触れるんじゃないかと思うほどに密着してくるので、それも相まって周りからは睨まれてるのだろう。
…しかし、さっきの真衣の発言のせいで睨みを利かせてくる者の数がさらに増えた気がする。
単なる気のせいだと思い込みたいが、当の唯が明確に否定もせずに微笑みながら受け流すだけだったので、こちらからはやんわりと咎めるくらいしかできない。
それとちなみに、先ほどまで教室内にいたはずの朝陽は既に姿が見えないので、とっくに帰宅しているのだろう。
細かいところにも目がいく彼だからこそ、この面倒ごとの気配を敏感に察知して去っていったんだろうが……その嗅覚の鋭さは正直羨ましかった。
「…ほら颯哉、あと少しなんだから気合い入れ直せ。そんな量も多くないんだから苦しむほどのものでもないだろうが」
「そうなんだけどよ……」
結局、今の拓也にできることは颯哉の手助けに尽力しながら唯との近すぎる距離感を調整することだけだった。
まぁそれにも限界はあるので、所詮は気休めの対処法でしかないが何もしないよりは周囲も納得してくれるだろう……と思いたい。
それよりも今は、沈んでしまっている颯哉のやる気を引き出してやることが先決だ。
「……はぁ、真衣。お前も何とか言ってやってくれ。彼氏の成績が落ちるのはお前も嫌だろ」
「それは確かにそうだね。…よーし! 颯哉、今から私も助太刀に入るよ!」
「よろしく頼むー……」
相変わらず覇気のない返答をしている颯哉だが、少なくとも真衣に任せておけばそれなりに持ち直してくれるだろう。
…気づいたら勉強そっちのけでいちゃつき始めるので、それだけは注意しておかなければならないが、それは後でいい。
ひとまず、少しの間は自分の勉強に集中していても大丈夫そうだな。
なので机の上に広げていた問題集に再び目を向けようとすれば……どこからともなく、具体的には拓也の真隣から熱烈な視線を肌で感じ取った。
「……どうしたんだ、秋篠。何か気になることでもあったか?」
「ううん、特に何もないよ。ただ何て言うか……真剣に勉強に取り組んでるのが格好いいなぁって思ったの」
「…っ!」
その声は小さく、それこそ隣にいた拓也でかろうじて聞き取れるほどの声量でしかなかった。
けれど、そこでもたらされた言葉は何よりも激しく拓也の理性を削り取ろうとしてくる。
…良かった。今の一言がもし周りにも聞こえていたら、阿鼻叫喚どころの騒ぎではなかったはずだ。
唯もさすがにそれくらいのことは考えていたのか、声量を絞ってつぶやかれた言葉が拓也にしか届かないように最低限の配慮はしてくれていたんだろう。
いやまぁ、そもそもそんな会心の一撃にも匹敵する褒め言葉を他人に聞かれるリスクもある教室で言うのもどうかと思うが、そこは誰にも聞かれていないので良しとしておこう。
見れば、彼女も彼女で悪戯が成功した子供のような表情を浮かべており、こちらの反応を見て少し楽しんでいるようにさえ思える。
…やられたな。学校では大人しく振る舞うと思い込んでいたばかりに、こういった不意打ちへの構えを取っていなかった。
拓也に翻弄させられたことが嬉しかったのか、満足そうに笑っている唯を見ると複雑な心境になってくるが……してやられてばかりというのも少し癪だ。
(あんま目立つようなことはできないけど……それならそれで、やりようはある)
クラスメイトの視線がある以上、あまり派手な行動はできない。
そんなことをすれば余計な疑念を買ってしまうだけだし、それは避けたいところだった。
…だが、それなら答えは簡単だ。
「おい秋篠。髪にゴミ付いてるぞ」
「えっ? どこどこ?」
「そこじゃなくて、もう少し上……あー、少しじっとしててくれ」
拓也からゴミが付着していると指摘された唯はそれを取ろうと髪に手を添えているが、細かい場所が分からないので悪戦苦闘している。
そんな彼女の様子を見かねて、拓也が仕方なく唯の耳元についていたゴミを取ってやる……そんな素振りを見せると同時に、小声でつぶやく。
「…そういうことは家の中で言ってくれ。ただでさえ唯は可愛いんだから、周りに誤解されたら困るだろ?」
「…~~っ!?」
仕返しと言わんばかりに彼女を褒める言葉を掛けてやれば、その意味を理解した唯がその顔を真っ赤にしてしまう。
…これで拓也の味わった羞恥も理解してくれるだろうし、学校ではこういった言動は控えてくれるだろう。
それと引き換えに拓也もかなり気恥ずかしいことを口にしてしまった気がするが、別に間違ったことも言っていないので過剰に恥ずかしがることもない。
周りで見ているやつらに誤解されないように、唯を諫める。
その方法は至極単純であり、要はゴミを取るという行動を隠れ蓑にして彼女との会話を図ったのだ。
ちらりと周りを眺めてみれば、今の拓也の行動を妬ましく思っている者こそいるが、彼女との会話を聞かれている様子は感じられないしバレたようでもない。
どうしてか突然顔を赤くした唯を不思議そうに見ている者もいるが、それも原因まではどれだけ考えてもたどり着かないだろうし、ひとまずはオーケーだ。
「ほら、取れた。…次からは気を付けろよ?」
「…は、はい……」
ゴミを取る振りをしながら唯から離れれば、唐突な展開にまだ頭がオーバーヒートしているようで、まさしく上の空といった状態だった。
そんな様子の彼女に思わず苦笑してしまうが、それすらも可愛いと思ってしまうのはもはや不可抗力なんだろう。
「…何で私たちが居なくなると途端にいちゃつくのかな。それも、かなり自然な流れで」
「それはもう拓也だからとしか言いようがないな。俺たちにはどうしようもないだろ」
それと、会話こそ聞いていなかったようだが一部始終を見ていた颯哉と真衣にはかなり呆れられた視線を向けられていた。
拓也としては唯を咎めるつもりでやっただけなので、そんな評価に納得がいかないばかりだった。




