慕夫井〜こがれい〜
この物語は、いくつかの歴史資料に書かれた史実をもとにしたフィクションです。
愛知県豊川市牛久保を舞台に、実際にある伝承をもとにしています。
あたしは、牛久保城に勤める女中の一人。
生まれは城下町、まあまあ裕福な商家の次女として生を受け、慎ましやかに育てと「忍」と名付けられて十八になる今日まで生きてきた。
でも、忍なんて名前にそぐわないお転婆ぶりを心配したお父が、ツテを頼って奉公先を決めてきて、三年前から牛久保のお城へ住み込みで勤めている。
こんな事言っちゃあ失礼なんだろうけど、田舎城主にしちゃ大きくって立派なお城さ。
お父によりゃ、ここは戦国の要所の一つなんだと。今は牧野のお殿様がこの城を奪還して住まわれているけれど、過去にはヨソから来た輩が城主を名乗ったりした事もあったんだって。
ここいらの人は皆、今の牛久保城主、牧野康成さまのお父さまだかお祖父さまだかにあたる、牧野成定公をいたく慕ってる。
何でも気前のいいお殿さまだったとかで、祝い事には武士だけでなく町民や百姓にまで酒を振る舞ってくださるような、民思いの神さまみたいなお殿さまだったとか。
成定公が眠る三本松の墓所は、今もお参りに行く人が絶えない。
あたしもよく父母に連れられて、祝い事の度にお参りして、無事の成長を報告に上がった。もちろん、この城に上がる前にも、どうかお殿さまやお侍さまのお役に立てますようにとお参りに上がった。
お父とお母の方は、どうかいい嫁の貰い手が見つかりますようになんてブツブツ言ってたけどねえ。
こんなお転婆に良縁だなんて、かの成定公だって他をあたれと言われることだろうさ。
時は戦国。あたしが奉公に出てからも、牛久保城は何度も戦にみまわれた。
心配したお父からは何度ももう家に帰ってこいと手紙をもらった。そのたび、自分が奉公に出したくせにと、つっ返してやったよ。あたしは案外この仕事を気に入ってんだ。
忙しいほど燃えるタチだし、今じゃ、侍さま達が大怪我してきたときのお世話だって慣れっこさ。
牧野さまは一度、勢いづいてる松平のお殿様に敗けてしまったけれど、戦死なさった保成さまの後継である康成さまは、その松平さまの下につくことになった。安堵状といって、この城と領を変わらず治めていいという許しをもらったんだそうだ。
牛久保のもんはもれなく牧野成定さまをお慕いしているから、変わらずそのお血筋に仕え続けられるって決まってみんな大喜びだった。あたし達城の使用人も、城を追ん出されず済んで一安心だったよ。
康成さまは今、松平さまのもとで生き生きとその武才を発揮していらっしゃるそうだ。
そんなわけで、このやりがいばかりの奉公先は、今じゃあたしの天職だと思ってる。
仕事も慣れたし、親しい友と呼べるような子もできたんだ。
花藻って言って、あたしと違って楚々として見た目も振る舞いも美しい子さ。でも、芯は強いし、あたしと二人の時は、意外にあっけらかんと明るく笑ったりもするんだよ。
あたし達はどんな悩みも打ち明けあってきた、正真正銘の親友なんだ。
花藻に会ったのは、あたしが勤め始めてすぐの頃。
あの子は同い年だってのに、あたしより何年も前から奉公に出ていたから、最初は彼女に何でも教えてもらった。
あの子の母親は都生まれで、どこぞの名家の姫だったらしいんだけど、出入りの医者と好き合って駆け落ちしてきたんだって。今は細々と薬屋をやっているが、お父に言わせりゃ人が好すぎて商売に向いてないんだと。だから花藻んちはずっと貧乏だった。
あたし、それを知って花藻に言ったんだ。つらくはないのかって。そうしたら花藻はこう言って返した。
「何もつらくない仕事なんてきっとないわ。でもね、貧しいことをつらいと思ったことはないの。うちはけっして裕福じゃあないけれど、心は豊かだと思うのよ。父も母も、私に色んな事を教えてくださったし、弟妹も可愛い。ずうっと家族五人、にこにこ笑って暮らしてた。こちらでの奉公のお話は、母さまが私に都言葉やお作法を躾けているって知った大家さんが、気を利かせて持ってきてくれた話なの。貧乏だからって売られたわけじゃあないのよ。ここで働かせていただけるのも、身一つでこの牛久保にいらした母さまが私をしっかり育ててくださったからこそ。私、ここで働いて両親を扶けられる事を誇りに思っているの」
それを聞いて、あたしは心の臓を打たれたようになった。感動したんだ。なんて健気で賢い人なんだろうって。
でもさ、同時に自分がこの立派な子に失礼なことを言ったんだって、情けなくもなった。今まで親に甘やかされて、ちゃらんぽらんに生きてきたあたしが言っていいことじゃあなかった。
この子は、貧しいけれど卑しくない。だからって人をおとしめたりもしない。自分と家族に誇りを持って生きている。けっして「可哀想な子」なんかじゃないんだ。
あたしもこの花藻のようになりたい。こんなふうに芯の通った、性根のきれいな人になりたいって心の底から思ったんだ。
花藻は仕事もできるし、美人で男衆からの人気もあるもんだから、他の女中からはやっかみを受けやすかった。だから、意地悪される度にあたしがやり返してやったもんさ。そういうのはお転婆の出番だろ。
いつもは花藻の世話になってんだもの。花藻のためにできることは、何でもしてやりたかった。
花藻はそういうあたしに、馬鹿ね、忍があぶない目にあうことないのに、っていつも困った顔をしてた。
でもね、あたしは知ってるよ。がさつでどじなあたしのために、花藻が何度も代わりに叱られてくれていたこと。
あたしは花藻が笑ってくれてたら、それでよかったんだ。
そうして三年、あたしらも歳下の子らを教える立場になった。いじわるだった歳上の女中達はほとんどが家に戻ったり、どこかに嫁いだりして抜けていった。
花藻とあたしが先陣切って、若い女中同士でいじわるなんてさせないよう目を光らせるようになったもんだから、最近はみんな和やかに仕事するようになった。
ある晩、二つ下のトキがあたし達に悩みを聴いてほしいと言って、あたしと花藻の二人部屋を訪ねてきた。
何かと思えば、城中で見かける若侍の一人が気になって、お勤めに集中できないだなんて言い出すんだ。
あたしが、そんなことでどうするんだなんて言いかけた時、花藻が先に口を開いた。
「そうね、年頃だもの。そういう事もあるわ。他の子からもそういう話をされる事はあるの。お勤め中に、じっくり話なんかできないものねえ」
意外だった。花藻は仕事にはきびしい人だと思っていたし、なまじ美人なせいで、若侍達から注目されすぎてうんざりしてるんだと思っていたから。
トキがさんざん自分の悩みをしゃべってすっきりしたようになって部屋に戻ったあと、あたしはつい「花藻が恋の肩を持つことがあるなんて」とついこぼしちまった。
「忍ったら。私は、父さまと母さまが恋を成就なさったからこそ生まれたのよ。もちろん、お家のために嫁いだり働いたりすることも大事だと思うけれど、気持ちをしまっておくことのつらさは分かってあげたいわ」
それは、花藻の言う通りだ。恋をしたって、何かきっかけでもなきゃ縁につながらないのがこの世の常。その「何かのきっかけ」があるまで、つらくとも胸にそっと秘めて待つしかない。
しかしいくらつらくたって、お殿様のお膝元でもある城内では、色恋沙汰で騒ぎを起こすなんて御法度。
女中から一方的な想いを告げるなんて、勤め人としても女としても、はしたないと思われても仕方のないことだった。
…もちろん、そんな理屈の通じない人はいくらでもいるけどね。
「あの仕事より色目ばっかりの姐さん方に、さんざんやっかまれていじめられたってのに。花藻は心が広いったら」
こんな毒ばかり吐くあたしとは正反対。花藻は苦労を重ねても人の心を大事にしてやれる。
「もう、忍はあいかわらずねえ。忍だって年頃でしょう。だれか気になる人はいないの」
「あたしは花藻さえ幸せならそれでいいよ。どうせこんな強情な女を見初めるような侍なんざいないだろうし、最後はきっとお父が決めた人に嫁ぐんだ。恋なんてするだけむださ」
むだだなんて、と花藻がため息をつく。
「忍は知らないの、あなた、けっこう人気があるのよ」
「ほら。花藻は優しいったら」
「お世辞じゃあないわよ。忍は地頭がいいから私が教えた都言葉もすぐに覚えてしまったし、育ちもいいから姿勢や所作が堂々として美しいし、私とは違ってパッと目を引く華やかさがあるもの。その凜とした佇まいは見事に咲いた大輪の百合のようだって、侍衆からは憧れの的よ」
「はあ、なんだいそれ。きっとあたしの話じゃないだろ。花藻が月や花つぼみのように儚くて品があって素敵だとか、器量よしなのに情も深くて言うことなしだとか、そういう噂ならたくさん聞くけどねえ」
「それ、きっと私たち二人のことを言ってくれてるのよ」
「あっはは、あたしが儚くて品良くて器量よしなわけないだろ」
「もう、忍ったら。聞いてちょうだい」
花藻も、この頃にはあたしを無二の親友だって言ってくれるようになってた。だから友達の欲目でそんなことを言うんだ。
あたしはせいぜい、花藻の引き立て役。日々肩を並べられてるだけで誇らしいと思ってるんだから。
最近、花藻の様子がおかしい。お勤め中にふっと物思いに耽ることが増えたし、どこか遠くを見つめていることも増えた。それでも仕事に手ぬかりがないのは流石だけど、花藻が何かに悩んでいることは、このがさつなあたしにも分かった。
悩みを聞き出そうとして何度か話をしようとしたが、首を振るばかりで埒があかない。花藻の視線の先には、ある若侍の二人がいた。数年前からお堀の中に居を構えることを許された、真木又次郎さまと、岩瀬林之助さまのお二人だった。
あのお二人は牛久保生まれの幼馴染だそうで、いつも二人つるんで朗らかに過ごされてる様子を、あたしも城内でよく見かけていた。お二人とも勇ましくも爽やかで、女中相手にだって偉ぶったり、不埒な目を向けたりしない。殿様に腕を見込まれた、将来も有望なお二人だ。
花藻の想い人はどちらなんだろう。
実直という言葉の似合いそうな真木さまだろうか。そんな真木さまをからかうように背を叩く、明るく少しだけひょうきんそうな岩瀬さまだろうか。
花藻が想っていると分かれば、きっとすぐにでも妻にと望まれるだろう。
花藻こそ、若侍たちの憧れの花そのものなんだから。
ある夜のこと、花藻が何かを決心したように「頼みがある」と言った。
あたしはもちろん「あんたの頼みなら何でもきくよ」と言った。
「ちゃんと話を聞いてからにしてちょうだい、忍」
困ったような顔の花藻を見て、あたしは嬉しくも少しだけ寂しい気持ちになった。あのお二人はいい男だ。どちらのお方も、きっと花藻を幸せにしてやってくれる。
花藻は、牧野さまゆかりの長谷寺の改修祝いに合わせて行われる、ご本尊の開帳式に行きたいのだと話した。
長谷寺の観音さまは霊験あらたかなことで有名だから、牛久保はもちろん、遠方からもご本尊を拝みたいという人がやってくる。武士も町民も百姓も、みんな区別なく境内を賑わせているって、話好きのトキからも聞いていた。
「観音さまに何かお願いしたいことがあるんだね、花藻」
「そうよ、きっと忍は気づいているんでしょう。でも、忍にだって悩みがあるんじゃないかしら。私ね、あなたには笑っていてほしいのよ」
花藻にそう言われて、あたしは言葉を一瞬失った。
「忍にそんな顔をさせているなんて私、親友失格よ。悩みをずっと打ち明けられなかった私が言うことではないと百も承知だけれど、私、忍の力になりたいの。それで、二人で一緒に、観音さまに心の内を聞いていただくのはどうかしら。お互いに言えないことも、きっと観音さまなら聞いてくださる」
そう言って、あたしの悩みとやらを無理に聞き出そうとはしないのが花藻らしいと思った。
「あたしには大した悩みなんてないけど、奥ゆかしい花藻には丁度いいかもね。開帳式となれば、関係のある方は顔をお揃えになるだろうし。知り合いも多く行くだろ」
真木氏もあのお寺のご開祖と縁があると聞いたことがあるし、真木さまも岩瀬さまも、牧野さまとつながりの深いお家柄の生まれでもある。
そうだ、あたしなんかと行くより、あのお二人のあとでもついて行った方がいいんじゃないだろうか。
「どなたが来られるかなんて分からないわ。私は忍と行きたいのよ。そうして観音さまに心の内を明かしてしまいたいだけなの。ねえおねがい。私と一緒に開帳式へ行ってよ、忍」
「もちろんさ。かならず行こうよ、花藻」
真剣な花藻の様子に、あたしは二つ返事で引き受けてしまった。あたしはせめて、現地であのお二人を探し出して、どうにかこの花藻を引き合わせてやろうと決めた。
あたし達は、女中頭の婆のところへ暇を願いに言った。
暇と言っても、開帳式のある日の昼までの時間だけ。婆には嫌味の一つでも言われるかと思ったのに、婆はこころよく許してくれた。
「あんた達二人は、毎日毎日一所懸命にお勤めを果たしてくれるからねえ。休みだって、盆暮れで家に顔を出す以外に、ろくに取ったこともないじゃないか。半日でいいのかい、たまには一日ゆっくりしてきたっていいんだよ」
今まで、口を開けばお小言しか言われた覚えのない婆から、そんな優しい言葉が飛び出るだなんて。あたしはびっくりした。
「なんだい忍、その顔は。この婆にだって情くらいあるんだよ。何年も勤め上げてくれた可愛い娘達には幸せになってほしいのさ。あんた達もそろそろ、うら若い娘とは呼べない歳にさしかかる。いいかげん、浮いた話の一つもないんじゃ、この婆だって心配にもなろうさ」
余計なお世話だよ、なんて口を出かかったけれど、まさに男と花藻を引き合わせてやろうとしているあたしには図星だ。
「女中頭さまったら、そんなんじゃありませんよ。ちょっとね、話題の観音さまに日々の悩みでも聞いてもらおうかって、私が忍を誘ったの。忍はともかく、私に浮いた話なんてきっとこれからもないわ」
花藻は、もしかしたら一生でもこの城に勤めて、家族を養っていこうとでも考えているのかもしれない。まさかこの婆の後継にでもなるつもりだろうか。
そんな健気な花藻を見た婆が、キッとあたしに目をよこした。
「忍、いいね。あんたが頼みだ。ちっとくらい遅くなったって目こぼししてやる」
「まかせな、婆」
あたしもキッとにらみ返してうなずいた。
「ねえ、お二人ともどうしたっていうの。忍は何をするつもりなの。忍、あなたと私、二人の悩みを聞いていただくのよ。聞いているの、忍」
この花藻の幸せはあたしにかかってるんだ。絶対に、絶対にあのお二人を境内で見つけてやるからね。
暇をもらった日の早朝、あたし達は急いで身支度して、他の女中の目に止まらないうちに城を出た。
若いのに見つかったら何を言われるか。どうせ帰ったらどこに出かけただの何をしてきただのと訊かれるんだろうけれど、だったらせめて、行きくらいは静かに出たいからね。
まだ開帳式までは時間がある。あたし達は、ゆっくりと町中を散歩した。
「晴れてよかったわ。こんなふうに忍とのんびり町を歩くなんて初めてね。私、今日が楽しみでろくに寝られなかったの」
「ふふ、あたしも楽しみにしてたよ。花藻がはしゃいでいるなんて珍しいね」
花藻は早くに奉公へ出たから、同じ歳の子と遊んだ記憶が少ないのだと語った。
「子どもにかえった気分よ。昔、八幡さまのお祭りに連れていってもらったのを思い出すわ。お団子をひと串いただいたの。とっても美味しかった」
「今日もきっと見世が出ているさ。かならず買って食べようよ」
悩みなんて忘れたみたいに笑う花藻を見て、暇をもらってまで来てよかったと心の底から思った。女中頭の婆にもお礼を言わないと。またこうして花藻を連れ出すのもいいかもしれない。
お互い、子どもの頃に遊んだ場所などをめぐりつつ、開帳式には間に合うよう、少し早めに長谷寺の前までやってきた。
まだまだ早い時間だってのに、長谷寺の周りはもう集まった人で大賑わい。境内では、武士も町民も百姓も、みいんな笑顔でご本尊とのご対面を楽しみに列をなしている。観音さまの前じゃ、誰もが一人の善い民草。境内で順番抜かしするような罰当たりもいない。
ご開帳の法要に出席なさる牧野一族の皆さまは、すでに観音堂の中にいらっしゃるみたいだ。入口の前を警備する侍の顔を見たけど、探しているお二人じゃあなかった。
花藻と二人して列に並ぶ。花藻が綺麗なもんだから、すれ違う人は男も女もなくこちらを振り返った。
「見て、忍が綺麗だからみんなが振り返るわ。一緒に並んでいるのが誇らしくなるわねえ」
「何言ってんのさ、花藻が綺麗だから振り返ってんだろ。手でも振ってやんなよ」
「忍ったら。私の話をちっとも信じてくれないんだもの」
頬をふくらます花藻も可愛い。後ろに並んでいた老夫婦がくすくすと笑った。
華やかな法衣に身を包んだご住職や稚児、山伏の列が、門から観音堂の前へとお進みになる。
経を読み上げる声に、法螺貝や鐘の音。たなびく五色の布も美しい。
松明の火の子が風に吹き上げられ、青空高く舞い上がった。
なんて盛大なお式だろう。ついここに来た目的も忘れ、花藻と一緒に手を取り合ってはしゃいでしまった。
そうした厳粛かつ盛大な法要が執り行われたのち、ついにご本尊の帳が上げられ、境内に集まった人々からは大きな歓声が沸いた。
列の流れについて観音堂の中へと進めば、小ぶりながら美しい木彫りの観音さまがあたし達を迎えてくださった。大和におわす大きな観音さまと同じ木を使って彫られているのだと、後ろの老夫婦があたし達に教えてくれた。
黙って手を合わせ目を閉じる花藻にならい、あたしも手を合わせて心の内を観音さまにお伝えした。
そしてどうかこれからも、幸せな生活が送れますようにとお祈りする。
◇ ◇ ◇
その同時期、忍が気にかけていた真木又次郎と岩瀬林之助の二人も、この長谷寺に参詣していた。
長谷寺の開祖は、真木氏と縁のある念宗法印という方だという。真木は開帳式にはぜひ行こうと岩瀬と申し合わせ、一般の列に共に並んでいたのだ。
若い真木と岩瀬も、忍達と同じように盛大な法要に心を浮き立たせていた。武士たるものと、人前ではしゃぐような真似はしなかったが、来てよかったなと岩瀬が言うので、真木も大きくうなずいた。
ご本尊である美しい観音菩薩像の前まで至ったとき、城中でくるくるとよく働く、ある女中の顔が浮かんだ。井戸の近くで転んだのを見かけ、助けが必要かと一度だけ言葉を交わした。
彼女は肘を軽くすりむいた上、桶の水をひっくり返して衣を濡らし、途方に暮れていた。
顔をよくよく見れば、同じ年頃の侍衆が高嶺の花と噂していた花藻という女中だった。
介抱を申し出たものの丁重に断られた真木は、それでも何もせずに去るということもできず、自分の羽織を肩にかけてやってすぐその場を離れた。小柄な彼女は真木の羽織の中にすっぽりとおさまっていた。濡れて透けた肌を隠すくらいの役には立っただろう。
あの時の羽織は、いつの間にか部屋の前に綺麗に畳まれて置かれていた。広げて見れば、細かなほつれなども直してあった。律儀なことだ。
「何をぼうっとしている」
「ああ」
岩瀬に肘でつつかれ、真木は慌てて手を合わせた。願うのは武運の長久だ。
牛久保城主である牧野康成公は、かの松平公の信頼を得て戦の先陣を切るようになった。真木や岩瀬もたびたびお供し、着実にその戦績を挙げていた。
岩瀬もきっと躍進を願ったはずだ。手を合わせた真剣な横顔からはそれが見て取れた。
二人は顔を上げ、次の者に場所を譲った。
「観音菩薩に見惚れたか、又次郎よ」
「ああ、そうだな。美しくもお優しそうなご尊顔だった」
なんだ、からかいがいのない。と岩瀬がつまらなさそうにする。菩薩像相手ならば、いくら朴念仁と揶揄される真木にも、素直に美をたたえることくらいはできた。
真木は、いつまでも岩瀬のおもちゃではいてやらないぞと隣をにらむ。
「そう怒るな。ここのところ、ずっと上の空だったのはお前の方だろう」
「だから、何でもないと言っているだろう」
真木が心ここにあらずなのは、女に懸想でもしているからに違いないと、岩瀬はずっとしつこく絡んでいた。
真木はただ、あの日のお節介を一言謝りたかった。あの羽織は、肌を隠すくらいの役には立ったかもしれないが、男物の羽織など着て城内を歩くのは目立ったはずだ。花藻という女中に変な噂が立ったり、それを気にしていたりしやしないかと気を揉んでいたのだ。
丁寧に繕われた自分の羽織の袖を見る。
「その羽織、ずっと気にしているじゃないか。気に入りの女にでも直してもらったか」
「そうではないと何度も言っただろう」
岩瀬は時々そうしてうっとうしく絡んでくる癖があるが、口下手な真木にとっては居心地のいい相手であった。子どもの時分から一緒にいるので、二人でいれば何も気負わずに過ごせる。
観音堂を出て境内に戻れば、多くの人でごった返していた。
あちこちが布や花で飾りつけられ、屋台で飴や竹の玩具を買ってもらった子どもが嬉しそうに走っている。
「団子、買うんだろ。せっかく昼まで時間をもらったんだ。祭りを楽しもうよ」
「そうね。少しだけれど、小遣いをとっておいてよかったわ」
聞き覚えのある女の声が耳に入って、真木は思わず振り返った。
「菓子代なら婆にもらってるよ。花藻に買ってやれってさ」
「もう、忍も女中頭さまも、私を子どもあつかいして」
その時、忍と呼ばれた女がふっと顔を上げ、手を浮かしかけた真木の顔をまっすぐに見た。
「あ」
忍という女が驚いたように目を丸くする。
つられて顔を上げた花藻も真木の顔を見て動きを止める。
「どうした」
岩瀬が真木の肩を叩き、目の前に現れた美しい二人の女を見て不思議そうな顔をした。
とうとう、件の男女四人は「何かのきっかけ」となる機会に恵まれたのだった。
◇ ◇ ◇
「他ならぬお前が、例の高嶺の花達と逢瀬の約束などしていたとは知らなかった」
「だから、そうではないと何度言えば」
真木が岩瀬につっかかるのを、忍と花藻が面白そうにして見ている。
四人は門前の茶屋で団子をひと串ずつ買い、茶を受け取って赤い毛氈のかけられた縁台に腰を下ろしていた。
「団子くらい、羽織の修繕の礼に買ったものを」
「いいえ、礼をいたさねばならないのは私の方でした。繕い物は女中のつとめですわ。こちらからお声がけするのもはしたないかと、黙ってお返ししたご無礼をお許しくださいませ」
「無礼などと。俺こそ余計な節介を焼き、気を揉ませてすまなかった」
お互いにぺこぺこと頭を下げ合う真木と花藻を、岩瀬と忍はどこか呆れたように眺めた。
「何に悩んでいたのかと思えば。しきりにお二人を見ていたのは、羽織の礼がしたかったからだったのかい」
「もう、黙っていて忍。親切にしていただいたのだもの、一言くらいお顔を見てお伝えすべきだったかと悔いていたのよ。でも、今さらそのようなことを告げられたって真木さまも戸惑われるに違いないわ。だから、観音さまに聞いていただいて、それでよしとしたかったの」
「花藻はあいかわらず奥ゆかしいったら」
「からかわないで、忍。どうせ私は口下手よ」
もし、花藻がその悩みを忍に告げれば、忍は花藻のためにと真木を引っ張ってでも連れてくるに違いないと花藻は思っていた。忍にうまく言って止められる気のしなかった花藻は、忍から心配されているのを承知で黙っていたのだ。
「お互い生真面目すぎる友を持つと苦労するなあ、忍殿」
「まったくです、岩瀬さま」
岩瀬の言葉に、忍が一も二もなくうなずく。
「それは俺のことを言っているのか、林之助よ」
「忍もひどいわ。あなたが昔から、私の言葉を半分も聞かずに飛び出していくからこそ言えなかったっていうのに」
生真面目な二人はそれぞれの友に文句を言う。
「それにしても願ったそばから悩みが解決するとは。流石は霊験あらたかな菩薩さまだ」
「林之助お前、自分の武運を願ったのではないのか」
「お前があまりに呆けているから心配してやったのだ。ありがたく思え又次郎」
真木と岩瀬のやりとりに、忍がついに声に出して笑い始めた。
そして忍も、花藻のためにこの境内で真木と岩瀬の二人を見つけ出そうとしていたのだと白状した。花藻はそれ見たことかと忍を責める。その様子を見て、岩瀬のみならず真木までもが茶を吹き出した。
四人は、まともに言葉を交わし合うのは初めてとは思えぬほど、心を砕いて話し込んだ。
「忍殿がこれほどおもしろ…いや、気さくな性格のおなごだったとは。美人だがとっつきにくいとの噂だったのに」
岩瀬が追加で頼んだ団子をほおばりながらそんなことを言う。縁台のふちに手をつき、だらしなく座って忍を眺めるさまは、いっそ清々しいほどに不躾であった。
「お世辞はよしてください。それにしても、岩瀬さまがこんなにも無礼なお方とは存じませんでした」
「忍、おやめなさい」
売り言葉に買い言葉といった忍の態度を花藻がたしなめる。
忍も花藻も所詮は町民出の女中にすぎない。庶民が武家出身の侍に物申すなど、本来は手打ちにされても文句は言えない時代だった。
「はは、いいぞもっと言ってやれ。花藻殿も我ら相手には気にすることはない。忍殿の言う通り、この林之助は失礼や無礼を煮詰めて固めたような奴だ」
「朴念仁には少し礼を失するくらいでないと話にならんのだ」
「なんだと」
詫びのつもりか、岩瀬が山のように積まれた団子の皿を差し出すので、忍は遠慮なく二串取って一つを花藻に渡した。
「忍ったら、私にまで。岩瀬さま、ありがとうございます」
「気にするな。真木の財布からいくらかくすねて買ったものだ。よかったな又次郎、礼ができて」
「お前、また勝手に。ああ、ああ、こちらのことは気にするな花藻殿。どうか食べてくれ」
すかさず遠慮しようとした花藻を真木が止める。忍はもちろん気にせずほおばった。
話は、昨今城内で流行っている物の話や、町で話題の店や人の噂、そして戦国の世らしく、現在の戦の近況などにまで及んだ。花藻と忍は、城付きの女中としては知り及ばないような、細かな戦局の話を興味深く聞き入った。
「花藻殿と忍殿は、おなごの身でも大まかな戦局はしっかり把握しているのだな。いや、城住みの若侍達は女中達に世話されているのだから当然か」
真木が感心したようにうなずく。
真木と岩瀬は堀の中に自宅を持っているので、城付きの女中に戦の傷を介抱されるなどといった経験が少なかったのだろう。
「真木さま、貴重なお話をありがとうございます。今後のお勤めに活かしてまいりますわ」
にっこりと笑う花藻に真木が少したじろぐ。岩瀬はにやにやとしてその様子を眺めた。
「花藻殿はまったく真面目だな。この忍殿を見ろ、団子はほとんど持っていかれたぞ」
「岩瀬さまがどんどんすすめてくるからでしょう。あたしの腹をごうつくばりの商人の腹みたいにしたいんですか」
「俺はふくよかな方が好きなのでな」
ぐ、と忍が団子をのどに詰まらせかけてせき込む。
「か、からかうのはよして」
「からかってなどいない。俺が面白半分でからかうのはこの又次郎だけだ」
「本人を前に堂々と言うな」
頬を赤らめ、まだ串を片手にせき込んでいる忍の背中を花藻がさする。
「ふふ、忍も慌てることがあるのね」
忍は岩瀬が悪いのだと言ってやりたかったが、まだのどに団子のかけらが引っかかっていてそれどころではなかった。
「すまない、苦しい思いをさせたな」
「いいえ」
そっぽを向いた忍に、岩瀬が姿勢を正して謝る。
真木と花藻は、それぞれの親友の見慣れぬ表情に口元をほころばせた。
楽しい時間とはあっという間に過ぎるもので、忍と花藻が女中頭と約束した正午まであと半刻ほどにせまっていた。そろそろ歩き出さねば間に合わない。
「まだいいじゃないか、婆も少しくらい目こぼししてやると言っていたのだし」
「だめよ、約束は約束。私達が破っては下にしめしがつかないわ」
勤めがあるのでは仕方ないと真木は花藻の肩を持ったが、岩瀬は忍と一緒になっていいじゃないかいいじゃないかと粘った。
結局、また四人で会う約束をすることで決着がつき、名残を惜しみつつも男女はまた二組に分かれた。
忍達は城中に戻ると、浮ついた気持ちなどまったくなかったかのように仕事を再開した。
昼餉は団子を食べすぎたのもあって辞退し、好奇心をおさえられずすがってくる若い女中達の追求も適当にかわしながら、午後の掃除や夕餉の用意にいそしんだ。
◇ ◇ ◇
「と、かわしきったと思ってたんだけどねえ」
「なぜ、こんなに噂になっているのかしら」
首を傾げる忍と花藻を見て、岩瀬がさらに首を傾げる。
「そんなもの、あんな往来の茶屋で話し込んでいたからに決まっているだろう」
「ええっ」
ここは忍の実家が営む商店の一角。店番や小間使いが休憩する一間を借り切っている。
四人は再び会う約束をしたものの、若侍二人と城付き女中二人の逢瀬が噂の的になってしまい、興味本意で追っかける者や、やっかんで嫌がらせをする者まで出てきてしまった。
城内では言葉を交わすどころか挨拶さえもろくにできなくなり、さらには城外でも町民が面白おかしく勝手な恋物語を紡いでいる始末。こと牛久保界隈においては、どこへ行っても有名人と成り果ててしまった。
結局、四人は闇夜にまぎれる隠密さながらの工作までして手紙を交わし合い、顔を隠してばらばらに城を出て、ここに集合したのだった。
「すまない、俺が気付けばよかったのだ」
「そんな、真木さまが頭を下げられる必要などございません。むしろ世間知らずでご迷惑をおかけしたのはこちらですわ」
畳に頭をこすりつけようかという真木を、花藻が慌てて止める。
「以前から牛久保城では美人の二人組が働いていると、城下でも話の種になっていた。それが珍しくそろって外に出たものだから注目されていたのだろう」
「林之助、お前は気づいた時点でなぜ言わない」
忍がふたたび首を傾げる。
「美人の二人組って何ですか。花藻は分かるけれど、まさかあたしのことじゃあるまいし」
心底不思議そうにする忍に、他の三人は思わず間の抜けた顔になった。
ふうむ、と岩瀬がうなる。
「…忍殿は美人だと、何度言えば信じてもらえるのだろうな」
「岩瀬さま、もっと言ってやってくださいませ。この子ったら一向に信じようとしないのです。私なんかよりずっと人の目をひく美人のくせして」
ふん、と忍が行儀悪く鼻をならし、岩瀬と花藻にあからさまな疑いの目を向ける。
「百歩譲って少々美人だったとしても花藻の前じゃ石ころ同然だろ。牛久保中、いやこの三河中の女が寄ってたかったって花藻が一番の美人さ」
曇り一つないまなこでそう言い切る忍に、他の三人はますます情けない顔になった。
「どうにもこのおなごは花藻殿を神か菩薩と思い込んでいるようだな…」
ふざけがちな岩瀬も思わず素でそうこぼした。忍の花藻贔屓は筋金入りであった。
「神か菩薩。いいこと言いますねえ、岩瀬さま。あの観音さま、花藻に似ていませんでしたか」
「忍はまた何をいうの、そんなわけ」
「その気持ちは分かるぞ忍殿。俺も、あのご本尊を前にしたらふと花藻殿と思い出したのでな」
「真木さままで」
「ああ、又次郎はあの像に見惚れて、美しくもお優しそうなご尊顔だったと語っていたものな」
「えっ」
「林之助、お前は」
くすくす、くすくす。
閉めきったふすまの向こうから、かすかな笑い声が聞こえてくる。
忍が勢いよくふすまを開けると、小間使い数人がばれたとばかりに立ちあがろうとする。
「逃げるんじゃないよあんた達。そんな所で盗み聞きなんかして。お父に言いつけるよ」
「その旦那さまから頼まれたんですよ、本当にお嬢さまにいい話かどうか確かめてこいって」
「…あのくそじじいめ」
そのあけすけな悪態に、後ろでは岩瀬と真木が茶を吹き、花藻は頭を抱えた。
「これはなかなかの重責だな。まあ、俺はかまわんが」
軽い調子で手をひらひらと振る岩瀬を忍がにらむ。
「岩瀬さま、この者どもが本気で勘違いするような冗談はよしてください」
「冗談ではない。俺は忍殿を気に入っている。そこの、いずれこの岩瀬が挨拶に伺うとお父殿に伝えてくれ」
とたんに色めきたった小間使い達が岩瀬に頭を下げ、ぱっと蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。
忍は完全に言葉を失い、その場にへなへなと座り込んだ。花藻が気づかわしげに寄り添う。
「真木さま、岩瀬さま。少し忍を休ませて参ります」
控えめな花藻にしてははっきりと、むしろ少し強い口調で二人の若侍にそう言い切った。
「ああ」
鷹揚にうなずく岩瀬と、申し訳なさそうに頭を下げる真木を残し、花藻は忍を立たせて部屋を離れた。
放心したような忍を連れ、花藻は商店の奥へと勝手に進む。
中庭と井戸を見つけたので、その端に忍を座らせ、井戸から水を汲み上げて自分の手拭いをひたした。
「これで顔でも拭いて、忍」
忍は言われるがまま、しぼった手拭いを火照った顔に当てた。そしてふう、と息をついた。
「ごめんよ、花藻。あんたのために真木さまをお呼びしたつもりが」
「岩瀬さまは忍に会いにいらしたのよ。…もちろん、忍と同じように、真木さまのためとでもお考えなのかもしれないけれど」
花藻が少しだけ恥じらうように目を逸らしたのを、忍は見逃さなかった。
「花藻、やっぱりそうなんだね花藻。あたし、あんたには幸せになってほしいんだよ。少しでも真木さまに気があるなら、あたし、喜んで応援するから」
「もう、落ち着いてちょうだい忍。私のことは置いておきましょう。問題はあなたよ。このままでは岩瀬さまに押し切られるわよ」
男が望み、家長がうなずけば女に選択権などない時代であった。本来、忍の方には断るすべなどないのだ。
しかし、花藻はあの岩瀬なら、忍が本当に嫌がることはしないような気がしていた。
「あなたがどうしたいか、しっかり考えるの。岩瀬さまならきっと聞いてくださるわ」
忍は花藻の言葉に、小さくうなずいた。
◇ ◇ ◇
「お前がおなごに興味があったとは知らなかったぞ、林之助」
「何をいう、興味しかないぞ又次郎。だが、興味が続きそうなおなごとは初めて会った。岩瀬の親戚筋が連れてくるのは、どれも淑やかで面白みのないおなごばかりでな」
真木はそんな岩瀬にため息をついた。
いくらなんでも、面白さで妻を選んでいるような言い方はどうかと思う。かつて門前でしっしと追い払っていた見合い相手達にはもちろん、忍にだって失礼だ。
とはいえ、気に入った者にはとことん情に厚い、むしろお節介がすぎるくらいのこの岩瀬が、冗談で結婚をほのめかすような事を言うはずがない。付き合いの長い真木にはそれがよく分かっていた。
「林之助よ、もう少し段階を踏むか、伝え方を変えたほうがいいのではないか」
「そんなまだるっこしいことをしていたらあっという間に歳を取るぞ。俺に興味を向かせようと粉をかけてはいたが、あのおなご殿は相当はっきり言ってやらないと本気にしないだろう。これまた面白いことに、花藻殿以外は自分を含めて全員不美人だとでも思い込んでいるようだしな。まあ俺は、忍殿であればどんな顔でも構わんが」
実際、岩瀬は顔かたちをあまり気にする方ではなかった。
忍と花藻が高嶺の花だの美人組だのと噂されているのは知っていたが、その時点で興味を持っていたわけではない。
あっけらかんとして正直な物言いも、思い込んだら一途そうなところも、岩瀬のおふざけに乗っかってくれたり、時に真っ向から言い返してくれるところも気に入った。
あんな女が添い遂げてくれたら、どんなにか毎日が楽しいだろう。
忍を見ていて全く脈がなければ諦めもしただろうが、こちらの言葉にいちいち動揺してくれる忍がいじらしくてたまらない。
「一応聞くが、本気なのだな」
「本気に決まっている。だがすまんな、又次郎をけしかけてやるつもりでいたが、俺はもはや自分のことで手一杯になった。だから又次郎よ、お前はお前でしっかりやれ。生真面目同士では結ばれるまでに何年かかることか分からんが、いつかは何とかなるだろう」
「どういう投げやりな言い草だ。それに、お、俺の方はそんな」
「あいかわらず面倒くさい奴だ。遠慮などしていては他の若いのに手を出されるぞ。あのお堅そうな花藻殿も、親切の礼に茶くらい付き合ってくれることが分かってしまったからな」
ぐ、と真木が言葉につまる。まったくもってその通りだった。
どういうわけか、真木が羽織を貸した縁で花藻と話したことまで城内外に知れ渡っていた。
今までは花藻がうまくかわして誰も相手にしなかったから皆諦めていたものを、真木との噂を聞いて多くの者が下手な希望を抱いてしまったのだ。
あの優しい花藻がどこかで転んだり困ったりしないものかと、下心を持った男達が手ぐすね引いて待っている。
中にはわざと転ばそうとするような悪質な輩も出る始末で、花藻は現在、ほとんど人目につかない裏方の仕事に回されているという。
ちなみに忍はというと、普段から小姓も武士も関係なくはっきりものを言う性格からか、今回のことがあっても花藻ほどには標的にされていない。しかし、愛憎の裏返しか、まるでみだらな行いをしたかのように陰であの二人を批難する者もいるらしい。
「あの年配の女中頭にまで小言をくらってしまった。あの娘の窮地はお前のせいなのだからはっきりしろと…。しかし、本当にこんな俺でいいのかどうか。あの奥ゆかしく人の好い花藻殿ではこんな俺相手にも断れないのではないか。やはりそうだ、こんな意気地のない俺には」
「こんなこんなとうるさい奴だ。真木氏は康成さまが兄弟の契りをとまでおっしゃった名家だぞ。お前自身も剣や槍の腕だけは確かな出世頭。お前が本気と分かれば他家の若侍ごとき一網打尽だ。花藻殿を守りたくばさっさと男を見せろ。手遅れになるぞ」
いささか乱暴な言い方ではあるが正論でもあった。
花藻に危険がせまっているのも事実だし、あまり時間を置いてはよくないとは真木も分かっていた。花藻にとって自分がいい相手なのかどうかはさておき、ここで彼女を見放しては確実に後悔する。
それに、自分はいつまた戦で城を離れるかも分からない身だ。もしそうなったら花藻を守るどころではない。確実に機を逃し、本当の手遅れとなってしまうだろう。
「家には反対されるやもしれんが…おい、林之助、お前だって親戚筋からつっつかれるんじゃないのか」
「はは、岩瀬氏の中でも康成さまに気に入られているのはこの俺だ。一族のくそじじいどもがわめいたとて知ったことか」
つよい。
剛腕な割に肝の小さなところのある真木は、あっけらかんとした友の言い様に素直に感心してしまった。
◇ ◇ ◇
しばらくして忍と花藻が連れ立って部屋に帰ってきた。
忍は、あれは本気かなどと岩瀬に訊きなおす勇気もなく、黙って新しい茶を用意し始めた。
真木は姿勢を正した。
「花藻殿」
「はい、真木さま」
畳に手をつき、何の屈託もなくほほえみ返した花藻に、真木がたじろぐ。
この時、花藻の中でおおよその覚悟は決まっていた。
忍と女中頭の予想通り、花藻は弟妹が家を継ぐか出るまでは奉公に出つづけ、叶うならその後も働いて家を支える気でいた。しかしこの騒動が起き、花藻を心配した家族から手紙が来たのだ。
手紙には、弟は十五で成人し、薬屋を継ぐための勉強に本腰を入れたこと、妹はまだ十二だが、近所の商店での奉公が決まり、先方もとてもよい方だから心配ないことなどが、父の字で丁寧につづられていた。
まめな性格は父ゆずりの花藻だった。
手紙は、これからは花藻の望むように生きなさいと締めくくられ、追伸には、長年の労をねぎらう温かな言葉と、わずかだが花藻の嫁入りのためと貯めた金子もあるから、城を辞めるのなら必ず家に寄るようにとも付け加えられていた。
本来ならば喜ぶべきことなのだろう。だが、花藻の心に残ったのは虚しさだった。
私はもう必要ないのね…。花藻は手紙を受け取った夜、声を殺し一人泣いた。
もちろん、花藻にも分かっている。家族はただ花藻に感謝し、花藻の将来の安寧と、幸せを願ってくれているにすぎないと。
弟や妹が立派に成長したこと、父母が過労なども起こさず健勝であることは、まぎれもなく花藻のおかげだった。
盆暮れのたび、家に顔を出せば家族は必ずそう言って感謝してくれた。つらいことがあっても、優しい父母と自分を慕う弟妹の顔を見れば、気持ち新たに城に戻ることができた。
何より大切な家族のため、子供時代も青春時代もすべてかけて働いてきたことは、花藻にとっての誇りであり、生きる意味そのものだったのだ。
家族というくびきを失った花藻は、ただ目の前の真木を見つめ、その言葉を待った。
「あの、そんなにまっすぐに見られると緊張するのだが…。その、だな、花藻殿のお家はどこだ」
「えっ、実家は、牛久保の町のはずれといいますか、畑に囲まれた…」
「では、そこに連れて行ってくれないか」
「えっ、今からでしょうか。あのあばら屋に」
脈絡のない申し出に、花藻は混乱した。
思い詰めたような顔をした真木の肩を岩瀬が叩く。
「又次郎、俺には段階を踏めなどと言うくせに。説明が足らなさすぎて花藻殿が困っているぞ」
「すっ、すまない、俺も次の段階というものがよく分からず」
「この朴念仁め。まずこの花藻殿の意志を確認しなくていいのか。お前は気にするタチだろう」
「そうだ、その通りだ。失念した」
武家の真木が本気で命令するならば、一介の庶民でしかない花藻に逆らう術はない。
しかし真木も岩瀬も、心の通わない女を無理に従わせるような趣味はなかった。
「お、俺が、あ、あなたを、の、のののぞん」
「落ち着け。性急にも程がある。まず考えをまとめろ」
岩瀬は、忍が淹れたばかりの茶を真木に差し出した。真木はその熱い茶をあおろうとして吹いた。
「真木さま、大丈夫ですか。火傷なさったのでは。今冷やすものを」
慌てて立ちあがろうとした花藻の着物の袖を、真木は思わずつかんだ。
「待て。この程度、平気だ。こ、ここにいてくれないか、花藻殿」
「はい。真木さまのお望みであれば」
大人しく真木のそばに腰を下ろした花藻を見て、真木がやっと落ち着いたように息を吐いた。
「いいか、花藻殿。俺に、お望みであればなどということは言うな。望まないならそう言っていい。俺は、あなたが心穏やかに、幸せに暮らしてくれるのが一番だと思っている」
花藻が目を見開く。真木から、父母と同じような慈しみの目を向けられたことが不思議でならなかった。
「…どうして、そのように、おっしゃってくださるのです。私は、真木さまにそこまで言っていただけるような」
真木は、花藻から目を離し、自分の袖を持ち上げてじっと眺めた。
真木は今日も花藻が繕った羽織を着ていた。
「この羽織の袖を見るたびに、細やかに気を配る、人の好いあなたの顔を思い出す。今、そんな花藻殿が窮地に立っているのは俺のせいだ。俺のせいだというのに、この羽織のようにあなたが寄り添ってくれたらと、思わずにはいられなくなってしまった。美人で気立てのいいあなたなら他にいい男をいくらも望むこともできようが…不相応を承知で言おう。花藻殿。俺の、一番近くにいてくれないか。妻に、望みたいのだ」
瞬間、花藻の目から大粒の涙があふれた。ぼたぼたと落ちて花藻の着物にしみを作る。
真木は慌てふためいた。
「な、泣くほど嫌か、困らせたなら謝る。どうか、どうか泣き止んでくれ」
「いやなどと」
花藻が首を横に振る。涙が止まらない花藻の背を、忍が寄り添ってさする。
「私などにはもったいない。真木さまほどの方ならば、それこそもっと美しく、いいお家の方を妻にお迎えできましょう。もし同情や羽織の礼のつもりなら」
「違う、同情でもなければ、羽織もきっかけにすぎない。羽織のことがあってから、遠目に花藻殿を見ては節介を悔いているうち、あなた自身のことが気になってきてしまったのだ。くるくるとよく働き、いつも笑顔を絶やさず、手際はいいのに品を損なわない。忙しくとも嫌な顔一つせず、周りを思いやり、そのくせ誰よりも動いている。昔から城にいるのは知っていたのに、初めてあなたという人をしっかり見たように思う。俺から見た花藻殿は、自分を後回しにて人に尽くすような、不器用で優しい人だ。だからこそ幸せになってほしい。心からそう思える人に、俺は今後出会える気がしないのだ。だから」
必死で言いつのる真木の様子に、花藻の涙は止まるどころか余計にあふれ、ついにはしゃくりあげ始めた。
「不器用で、お優しいのは、真木さまの方だわ」
泣きじゃくる花藻に、おろおろとするばかりの真木。岩瀬に何事か耳打ちされ、思い出したように懐から手拭いを出す。花藻が持っていた手拭いは忍のために濡らしてしまっていた。
真木の手拭いを受け取り、控えめな仕草で目元をおさえる。そうして花藻は少しだけ冷静になることができた。
「…私だって、羽織をお返ししてからずっと、やはり一言でもお礼をお伝えすればよかったと悔いて、遠目にご様子をうかがっておりました。年若い侍さま達から稽古をせがまれて快く応じる様や、小姓や馬丁にも気さくに礼や詫びをなさるお姿。城内に迷い込んだ犬猫を逃してやったり、誰かの落とし物をそっと雨土のかからぬところに置いたところさえ見ておりました」
そんなところまで見られていたとは…と、真木が顔を赤くした。
「真木さまがあんまり善い方なものだから、ますますお礼一つお伝えできなかった自分が情けなく、しまいには一日中、真木さまのことばかり考えるようになってしまって」
花藻は最初、真木も他の男達と同じように、面白半分に下心を押し付けるつもりではと疑っていた。だからこそ、仕事にさわりが出ない範囲で羽織の手入れをし、黙って返した。
しかし、真木を観察するうち、彼の善意が本物であることが分かってきた。
真木という男は、人が見ていなくとも、まして感謝されなくとも親切をやめない男だった。
真木に惹かれていく気持ちと同じく罪悪感までもがふくれ上がり、とうとう自分の中にとどめておけなくなった。それで観音像に打ち明けようという発想になったのだ。
「しかし、いくら城内という狭い世の中で見目をもてはやされようと、私は町民出の、しかも貧しい家の生まれ。本来ならあなたさまを想う資格すらない端女ですわ」
同じ町民出でも、実家が裕福な忍はまだしも、自分は貧乏薬屋の娘。
真木が娶る利点など一つもないと花藻は考えていた。
「お慈悲は嬉しゅうございます。しかし、やはり私などを娶っては真木さまのご迷惑になりましょう。ご心配はいりません。このような騒動を起こした以上、私は城を、いえ、この牛久保を出ていくつもりでございますから」
花藻の嘘偽りない真剣な目に真木が息を飲む。
岩瀬の言う通りだった。段階などを気にしてもたもたしていたら、完全に手遅れになるところだった。
このまま事態が収束せず、真木も黙っているとあれば、責任感の強い花藻は早晩のうちに牛久保を離れてしまっただろう。確かに騒動はおさまるかもしれないが、それではあまりにも…。
「生真面目よのう…」
「岩瀬さま、しっ」
真木からは岩瀬と忍がこそこそとやっているのが見えたが、花藻の耳には入っていないようなので黙って見過ごすことにした。
「…もし、それでも、もしこの私をおそばに置きたいとおっしゃってくださるなら、お家の下働きや飯炊きの一人にでも加えていただけないでしょうか。精一杯お仕えさせていただきます。どうか」
「そっ、そんなことは無理だ」
真木が首を横に振るのを見て、花藻はさっと顔を青くして下げた。
「も、申し訳ございません。図々しいことを」
「違う、そんなことを言わせたいのではない。話を聞いてくれ」
真木は花藻に、下働きなどさせる気はさらさらないこと、自分の手を取ってくれるのなら、妻に迎える以外考えていないことを必死になって説明した。
「それから、もし俺の手を取らずとも牛久保を出ていかなくていい。殿、康成さまにも相談して、より条件のいい嫁ぎ先なり、牛久保城以外の奉公先なり、いくらでも探してやるから。だからどうか、一人で町を出るなどとはもう言わないでくれ。心配でどうにかなりそうだ」
「真木さま…」
長年、町どころか牛久保城からほとんど出ずに暮らしている花藻は、ある意味で世間知らずだった。
家事や女中の仕事はできても、よく知りもしない土地に一人で旅立ったところで苦労するのは目に見えていた。
「ずっとここにいてくれ、どうか」
いつの間にか花藻の手を両手で取って捕まえていた真木に、花藻が顔を赤らめつつ無言で視線を送る。
「す、すまない、無意識で」
花藻の視線に気づいた真木はすぐに手を離した。そして、双方無言の静寂がおとずれた。
◇ ◇ ◇
「真木さま、花藻んちならあたし分かりますよ。お父が最近薬を仕入れているらしいんで」
気まずい沈黙を破ったのは、岩瀬の衝撃発言からいくらか立ち直った忍だった。
「えっ、忍のお父様が、うちの薬をですって」
黙っていた花藻がぱっと顔を上げる。
「質のいい薬を破格で売ってるんだ、あのごうつくじじいが目をつけないわけないだろ。花藻んちには利口で可愛い妹もいるから、支店の奉公に来ないかと声をかけるつもりだなんて話も盆に帰った時に聞いたよ」
「なんてこと、妹に見つかった奉公先っていうのは、忍のお父様が営まれる商店だったの」
家族からの手紙にはそんなことは一言も書かれていなかった。いや、家族も知らないのかもしれない。
家では、忍という仲のいい女中がいることは話しても、忍の実家が裕福な商家だとまで話した覚えはない。
「家に帰るたび、天から降りてきたみたいに綺麗で、賢くて、仕事のできる女中仲間に世話になってるんだって聞かせてやったからね。お父もお母も、花藻のことはこのお転婆をまともにしつけてくれた神さま仏さまだって崇めてるよ。だから心配ない。もし城を出るならうちに来な。花藻に不自由なんてひとつもさせない。変な輩からもきっちり守ってやるからさ」
忍がどん、と胸を叩いた。
「男前よのう…」
岩瀬は真木をちらりとうかがった。真木が焦りだす。
「し、忍殿。俺より男らしいことを言わないでもらえるか。俺の立場がなくなるだろう」
「あたしは出会ったときからこの花藻の幸せしか考えてない女ですんで。真木さまがちゃんと捕まえて、幸せにしてくださるっていうんなら文句はありませんよ。花藻はどうだい」
まるで男女や身分の差など毛ほどにも気にしていない様子の忍に、花藻は複雑な気持ちでため息をついた。
「忍、真木さまに失礼なことを言わないでちょうだい。それに、あなたはあいかわらず私に良くしてくれすぎよ。家や妹のことまで気にかけてくれたことは感謝してもしきれないわ。でもね、今はあなた自身の幸せを考えるのが先よ」
「そうだそうだ。俺のことはどうするつもりだ忍殿」
花藻の説教に岩瀬が乗っかる。
「岩瀬さま、こう言っちゃあなんですが、あたし、かなり強情で立場もわきまえられない女ですよ。武家の嫁だなんて、そんなのがつとまるかどうか」
「いいか、こう言っちゃなんだが、俺はかなり好き嫌いの激しい男だ。武家の嫁になろうだなんて殊勝な女はお呼びでない。遠慮もいらん。俺は、気にいらぬじじいをじじいと呼べるお前がいいのだ」
む、と忍が照れたような怒ったような顔になる。それを見た岩瀬がにやりとする。
「では、お前が嫁ぎたくなるように言葉を選んでやろう。俺の屋敷はこの真木の屋敷の隣だ。花藻殿が嫁にくるなら、隣の屋敷でずっとその様子をうかがえるぞ」
「嫁ぎます」
即答した忍に、満足そうにうなずく岩瀬。
理解できぬ、とばかりに眉を寄せる生真面目な真木と花藻。
くすくす、とふすまの向こうから小さな笑い声が聴こえた。
◇ ◇ ◇
四人そろって顔も隠さずに店を出れば、明らかに興味を隠しきれない人々がこちらを指さしてひそひそと話しだす。
「ふ、いくらでも噂するがいい。覚悟を決めるとは気持ちのいいものだな」
「まったくです、岩瀬さま」
肩で風を切るように堂々と歩く岩瀬と忍に、どこか不安そうに寄り添う真木と花藻が続く。
「おい、花藻殿。本当に俺でいいのか。後悔はしないか」
「はい。もはや真木さま以外の方にお仕えする気はございません」
思いの外毅然とした答えが返ってきて真木がたじろぐ。
「ですが、真木さまこそ本当によろしいのですか。お家は反対なさるでしょう。私は本当に、下働きでもなんでも」
「はは、花藻殿もなかなか面白い冗談を言う。この後に及んで、この高嶺の花を下働きや妾なんかで囲ってみろ。城中の男どもに真木がくびり殺されるぞ」
下働きに入れる、というのは、正妻でない愛人扱いの者を家に囲う手段のひとつでもある。
岩瀬と、岩瀬の言葉にうんうんとうなずく忍と真木を見て、花藻が慌てたように首を振った。
「そ、そんな、城の皆さまは私をただおもちゃのように扱っているだけで、真木さまほどのお立場の方が私ごときをどうしようと何とも思われないはずですわ」
今度は真木が静かに首を振る。
「花藻殿、今のを牛久保城古参の使用人達が聞いたら泣くぞ。長年あなたを娘のように可愛がっているだろうに。あれらに俺がどれだけ小言を言われたと思っている。大体、今回の騒動こそあなたの人望を証明しているようなものではないか。城に詰める若侍は皆、一度はあなたに憧れるのだ。こんな朴念仁の耳にさえしょっちゅう噂話が入ってくるほどだぞ。立場を自覚しろ」
「そうさそうさ、いい加減に自覚しな」
「お前もだぞ、忍」
岩瀬は早くも遠慮をやめたようで、忍を呼び捨てにし始めた。そしてわずかにむず痒そうな顔をした忍を見てにんまりとする。
「あたしはせいぜい花藻の引き立て役なんです。現に、花藻と違ってあたしに直接からむような男は少ないでしょう」
「お前の気が強いからだ。だがそこがいいという男もいるのだ」
「奇特な」
「俺を見て言うな」
岩瀬と忍の軽妙なやりとりは続く。花藻はその様子に、反論する気も失せてほっと小さく息をついた。
きっと、あの二人は性分が合うのだろう。岩瀬が一方的に気に入っているだけでなく、忍の方もどこか生き生きと会話を楽しんでいるように見える。
自分の様子を伺うために嫁ぐなどというやりとりには仰天したが、親友のありのままをいいと言ってくれる人が現れたことに関しては、花藻は心底嬉しく思った。
「奇特はどちらもだろうに。お互い、あのような親友を持つと心配が絶えぬな、花藻殿」
隣を見れば、困ったように笑う真木がいる。
「まったくです、真木さま」
当てつけに気づいた岩瀬と忍が振り返る。
花藻は、この四人での時間が永遠に続けばいいと願った。
◇ ◇ ◇
永禄十一年、松平家康の命により、牛久保勢は遠州への出陣が決まった。
真木と岩瀬ももちろん、主人である牧野康成について出陣することになった。
この頃には、花藻は真木花藻となり、忍は岩瀬忍として、それぞれの夫の屋敷に住まうようになっていた。
岩瀬は忍を娶るにあたり、年嵩の親族を相手に正面から堂々説き伏せようとした。
それでも、由緒ある武家の跡取りが市中出の女中風情を娶ろうとは、などと言って渋っていた親族達は、忍の父が袖の下を配り出すや否や手のひらを返した。
そんなことだからあいつらは康成さまに信用されんのだ、と愚痴る岩瀬を忍は笑ってなぐさめた。
岩瀬は忍の実家に金があることを一言も親族に言わなかったし、実家に金がなくとも忍を選んでくれたことくらい、忍にはよく分かっていた。
真木はまず花藻の実家へと赴き、花藻を騒動に巻き込んだことを両親に謝罪した。
その上で花藻を娶りたい旨を伝えて赦しを得ると、その足で自分の親族の元へと花藻を連れて行った。
真木の親族は一様に、人の好い又次郎が美人に騙されたのではと心配した。
が、真木が花藻の人柄や覚悟を懇切丁寧に説明し、最後には「康成さまに気に入られているのはこの俺だ」と岩瀬の受け売りを強がって叫んだところ、あの又次郎がそこまで言うのならと親族達も首を縦に振った。
結局のところ、真木の一族は又次郎と同じく、お人好しの集まりであった。
ちゃきちゃきとした忍は、屋敷の家事を率先してこなすようになり、岩瀬の屋敷に元からいた使用人達には最初遠巻きにされていたが、次第に奥様というより仲間としての意識が芽生えてきた。
岩瀬と忍が言い合いになると、家の者が皆して忍の肩を持つからやりづらい、と真木に愚痴をこぼすようになるほどの結束力だった。
花藻も忍と同じく、内助の功を果たそうと懸命に力を尽くした。
牛久保城中で男女ともに慕われた積年の功は伊達ではなく、使用人達もすぐに健気な花藻を大事にするようになった。
人の好い真木夫妻は、自邸の使用人達にも、隣の屋敷の夫妻と使用人からも大いに愛された。
「あんた達、しっかり旦那さまと真木さまを守るんだよ。全員無事に帰ってこなきゃ、承知しないんだから」
「へい、姐さん」
忍に頭を下げる供の者達を見て、岩瀬はため息をついた。
「忍よ、そこは殿を守って死んでも武功をあげてこいだろう。他に聞かれたら気まずくなるからそう言え」
「あたしに遠慮はいらんと言ったのは旦那さまでしょう」
「まあ、そうだが」
供につく者達が笑う。
「この口の回る旦那を黙らせられるのは、三河も広しといえど姐さんぐらいでさ」
「失礼しちゃうねえ、あたしに慎みが足らないってのかい」
「おお、怖え怖え」
「お前ら、俺を抜いて仲を深めるんじゃない」
岩瀬家は始終この調子である。
真木家では、出陣する又次郎の身支度を花藻が手伝っていた。鎧を着付け終わると、花藻が小さな巾着を真木に差し出した。
「お守りです。もう寺社ではご祈祷いただいたのでしょうけれど、これは私が祈りを込めてお作りしたものですわ」
「花藻が縫ったのか、これは嬉しい。あの羽織は持っていけないからな」
花藻が繕った羽織をいっとう大事にしている真木は、戦で汚すのは惜しいと屋敷に置いていくつもりでいた。
「あなたさまが寂しい、寂しい、とおっしゃるから。戦にはついて行けませんが、これを私と思って連れて行ってくださいませ」
「…ああ、このかわいい新妻を置いて行かねばならんとは」
「ふふ、まだそのようにおっしゃるの。お勤めでは仕方ありませんわ。あなたさまは康成さまから一番に信頼される立派な武者さまですもの。どうかご武運を」
真木は、鎧など着付ける前に花藻を抱きしめておけばよかったと後悔した。
新妻二人に、使用人達総出に見送られ、若侍二人は供を連れて勇ましく出陣した。
牧野康成率いる牛久保軍勢の一翼を担って。冬の初めの事だった。
◇ ◇ ◇
今回の遠州攻略にて相対したのは、一向一揆の軍勢だった。
牛久保勢も、個々の強さでは天下に名を馳せる三河武士の一端。遠州各地で参戦し、次々と戦果を挙げた。真木も岩瀬も牧野家家臣として恥じぬ働きをみせ、今回の戦もよい報せを持って牛久保に帰れると喜んだ矢先の事だった。
帰陣の途に、敗者の残党が潜んでいた。先に気づいたのは真木だった。薮から差し出された槍が岩瀬を狙う。真木はその岩瀬を思わず押し飛ばした。そして、槍は真木の横腹を貫いた。
又次郎、と岩瀬が叫ぶ声が聞こえる。
この程度、平気だ。と返したところで真木の意識は途絶えた。
「又次郎、又次郎。しっかりしろ。意識をもて」
真木が次に目を開けたのは、岩瀬の背中の上だった。あたりは薄暗い。あれからどれだけ時が経ったのだろう。
岩瀬は、深手を負った真木を手当てし、供の者と順に背負って牛久保を目指しているようだった。
「真木の旦那が、目を覚まされたぞ」
横を歩いていた供の一人が叫ぶ。周りの者が一斉に喜びの声を上げた。
「はは、執念だな又次郎。花藻殿が待っている。必ず連れ帰ってやるから、絶対に死ぬなよ」
「り、んのすけ、康成、さまは」
「先に帰城なさった。ご無事だ」
そうかよかった、と安堵する。あの残党は少数で、きっとすぐに鎮圧されたのだろう。被害が大きくならずに済んだことは不幸中の幸いだ。
「何もよくない。お前に怪我をさせた。すまない、俺の失態だ」
「はは、お前が、そんな素直な口をきくとは。お前でも、慌てることがあるのだな、林之助…っつう」
「うるさい。しゃべると余計に失血するぞ。いいか、ここでお前が死んだら、仰々しい堂でも建てて派手に祀ってやるぞ。ああ、かの成定公の墓所やあの観音堂よりも派手にしてやろう。それでもいいのか」
「やめろ、ひんしゅくを、買うだろうが」
「だったら絶対に死ぬな。根性で生きろ又次郎」
こんな時でも冗談とも本気ともつかない岩瀬の軽口は健在だった。
この器用なようで不器用な親友は、そんな軽口を言っては、折につけ真面目で小心な真木の背を押してきた。今の真木があるのは、まぎれもなくこの親友のおかげだった。
その親友、岩瀬が生きろと言っている。花藻も待っている。どうか、一目だけでもいい。
生まれ育った故郷とそこで待つ家族にまみえるまでは、必ず現世を諦めずにいてみせよう。
◇ ◇ ◇
朝方、先に牛久保へ帰ってきた牧野康成は、重臣の一人であった山本帯刀らを連れ、真木家と岩瀬家に事情説明に赴いた。
帰陣の途で真木が負傷し、岩瀬と供の者達がそれを担いで牛久保を目指していると話したところで、花藻が目眩を起こし、一緒に聞いていた忍がとっさに支えた。
気を失いかけた花藻だったが、すぐに取り直して真木の本家に連絡し、医師と、薬師である自分の父も呼んだ。真木が帰り次第介抱に全力を尽くそうと、屋敷の中に万全の体制を敷いた。
その日の夜、真木を背負った岩瀬達が帰ってきたとの一報があった。
城の者や真木の一族が出張って彼らを迎えに行き、重傷の真木と疲れ果てた岩瀬達を屋敷まで運び入れた。
真木の状態は予想以上に酷かった。むしろよくここまでもったとさえ、誰もが思わずにはいられなかった。
「はな、も。今、帰った。すまない、泣かせて」
「いいえ、いいえ。よくぞお帰りでございました。さあ、お医者さまがお待ちですわ。お体を診ていただきましょう。その後はしっかり拭き清めますわ。今夜はゆっくりとお休みになってくださいませ」
涙に濡れた花藻の手を、真木の手が弱々しく握る。
夫妻の再会に、真木の一族も使用人達も泣き崩れんばかりの様相だったが、すぐに総出で介抱を開始した。
医師は傷を診て、できる限りの処置を行なった。
当時は縫合術なども滅多に行われておらず、焼酎による消毒と薬草類による手当が全てだった。花藻の父は独自に配合した膏薬を医師と相談して処方した。
真木の体は化膿による発熱が始まっていた。花藻は夜通し寄り添い、真木の口に綿で水を含ませ、濡れ手拭いを額に当て続けた。真木は、痛みと高熱に意識を朦朧とさせながらも花藻の名を呼んだ。
「私はここにおりますわ。あなたさまの花藻です。ずっと、ずっとお側におりますから」
花藻が真木の手を握ってやると、荒い呼吸も少しはおさまった。
他の者が看病を代わると申し出ても、花藻はその場を決して動かなかった。
翌朝、体を清めた岩瀬が忍と連れ立って様子を見にやってきた。
岩瀬に主だった外傷はなかったが、ここまでの疲労がたたり、昨晩はほとんど倒れるようにして眠り込んでしまっていた。
「ああ、林之助に、忍殿か」
未明から数刻ほど寝られた真木は、少しだけ熱も落ち着いて会話ができるまでになっていた。
岩瀬が手を貸して真木の上体を起こすと、花藻が背当て代わりに布を畳んで丸めたものを持ってきて、真木の背に差し入れてやった。
皆の顔がよく見えるようになると、真木の顔に笑顔が灯った。
「ここまで連れてきてくれたこと、感謝するぞ、林之助」
「怪我をさせたのは俺だ。俺が運ばずして誰が運ぶ」
仏頂面でそう答えた岩瀬に、はは、と真木が笑った。
「お前は本当に、俺が大事でしょうがない奴だな、林之助」
「もうそんな減らず口が叩けるほど回復したか、又次郎。花藻殿の存在は偉大だな」
「否定はせん。花藻、夜通しついていてくれたな。疲れたろう。休んできていいぞ」
花藻はふるふると首を振った。
「仲間外れは嫌でございます。私、この四人でいる時間が好きなのです」
「また泣いている。お前の涙は、俺の心臓に悪いのだ」
「嬉し涙でございますわ」
半分は嘘だった。
真木が怪我をしたという報せを聞いて、花藻はもう夫とは話さえできないかもしれないと覚悟した。だからこうしてまた四人で集まれたことに、花藻は深く感謝していた。
しかし、真木のどこか悟ったような穏やかな顔には、焦りを感じずにはいられなかった。
傷は深い。奇跡的に意識もあり、回復のために手も尽くしているが、予断を許さない状況に変わりはなかった。
「忍まで泣くな。花藻殿が泣きやめないだろう」
「だって」
忍の言葉はそこで途切れてしまった。二人の軽妙なやりとりが聞けないのは少し寂しい。
真木は、四人が観音堂で鉢合わせしたときのことや、団子を食べながら話したこと、それから岩瀬と過ごした子供時代のこと、城に上がってからのこと、花藻と初めて話したときのことなどを楽しげに語った。
花藻も忍も、泣いていることを忘れて笑ったりもした。岩瀬はいつもの調子で真木をからかった。
「思えば、林之助とは幼少からの長い付き合いだ。それがどうだ、同じようにして武士になり、屋敷も隣、結婚相手との出会いも、婚儀の時期さえ同じだ。もはや因縁深いものを感じるな」
しみじみと語る真木に、岩瀬がふん、と鼻を鳴らした。
「そんなもの今更ではないか又次郎。馬鹿正直で、面白いようにからかわれてくれるお前がいないと、俺は毎日をどうして過ごしていいか分からんのだ。お前が武士になるというからなった。それだけのことだ」
真木はそんな岩瀬にため息をつく。
「はあ、忠義心があるのかないのか分からぬ奴と思っていたが、俺をおもちゃにするだけのために侍になったのか。まったくどうかしている」
どうかしている自覚はある。と言って岩瀬はまた妻達を笑わせた。
「そんなどうかしている俺が岩瀬氏の中で一番に信用されているとは。まったくあの一族も末だな」
「別に岩瀬氏が信用されていないわけではないぞ。殿は欲のないお前を特に気に入っておられるだけだ。そうだ、お前が岩瀬の若いのの面倒を見てやればいいだろう」
「俺は好き嫌いが激しいのだ」
岩瀬は、誰彼かまわず軽口を聴かせているわけではなかった。特に人の悪口を言うのは、よほど懐に入れた者の前くらいだった。
正直者で嘘の苦手な真木と、真木に負けず劣らず生真面目な花藻。竹を割ったような性格の妻、忍という三人の前だからこそ岩瀬は心を開いていた。
この四人の中では、実は誰よりも難しい性格をしているのが岩瀬林之助という男だった。
「忍殿を大事にしろよ、林之助。俺はもはやお前の相手ばかりはしておれん」
「そういうな又次郎。毎晩でも押しかけてやるから」
「少しは遠慮しろ。新婚だぞ。お前もそうだろうが」
そんな調子で談笑していた四人だったが、ふと話が途切れたあたりで、真木が花藻の方を見た。
「少し、この岩瀬と二人にしてくれないか。戦の前にためていた仕事があるのだ。俺が寝ている間に、この通り元気な岩瀬に押し付けてやろうかと思ってな」
「ふふ、お勤めのお話では仕方ありませんわね。では、私はその間に身を清めてまいりましょう」
素直に立ち上がった花藻に、真木は笑顔を向けた。そして同じく立ち上がった忍にも声をかける。
「忍殿、この花藻の口に何か入れてやってくれ。昨晩からほとんど食べていないはずだ」
「はい、真木さま。さっき握り飯を差し入れましたから。花藻にも食べさせておきますよ」
「感謝する」
このときに幼馴染が二人で語ったことは、真木は花藻に話さなかった。
岩瀬も、忍に話をしたのは後になってからのことだった。
◇ ◇ ◇
嘘のように穏やかだったその一日の後、真木の容態は悪化の一途を辿った。
粥のひと匙でさえ口にすれば、真木は腹をおさえて悶え苦しんだ。包帯をかえ、消毒し、薬を塗り、少しずつ水を含ませる以外には、何の手を施すこともできずに時間だけが経った。
岩瀬と忍は、毎日差し入れを持って真木の様子をうかがいに来た。
主である牧野康成も、他の重臣達も順に顔を見せた。真木は、来客のあるときだけは気丈に振る舞い、苦しみを隠した。花藻はそんな真木に片時も離れずに寄り添っていた。
数日が経ったある夜、痛みの波が一時引いたらしい真木が花藻を呼んだ。
「戦に出かける前、ひとつ心残りがあったのだ。聞いてくれるか、花藻」
「ええ、もちろんですとも。なんでございましょう」
花藻も毎晩寝ずの介抱で疲れ果てていたが、それを見せぬようににっこりと笑った。
「鎧を着付ける前に、お前を抱きしめておけばよかったと後悔した。お前が、あまりにかわいいことを言ってくれるから」
そう言うと真木は、片手を広げて花藻を見上げた。
花藻がそっと枕元に身を傾ければ、真木は、弱っているとは思えない力でそれを抱き寄せた。
「すまない。もっと、夫らしいことをしてやりたかった。花藻には世話になってばかりだ」
「何をおっしゃいますか。あなたさまは、他ならぬ私を側にと望んでくださいました。それだけで、私は幸せなのです」
「どうかそのまま、ずっと幸せでいてくれ。お前の望むように生きろ。お前は一人ではない。どうか」
「あなたさまのお側にこそ私の幸せがありますわ」
真木は、残してゆかねばならない妻だけが心配だった。この花藻は本当に真木のために全てを捧げていたからだ。
岩瀬には花藻を頼むと頭を下げた。きっと忍と共に、力になってやってくれるはずだ。
◇ ◇ ◇
翌日、真木のそばには大勢の人が集まった。
今際の際に、妻を頼むという言葉を再び遺し、真木又次郎はその息を引き取った。
花藻は真木が逝く瞬間を笑顔で見送った。真木が気に病まぬよう、涙を必死に堪えての笑顔だった。
骸を残して死出の旅に出た真木に、集まった人はすがって泣き、別れを惜しんだ。
真木又次郎もまた、花藻と同じように、牛久保城の多くの人に慕われ、可愛がられ、期待された若者であった。
墓所までの野辺の送りには長い列が続いた。
墓所まで遺体を担ぎ、故人を悼む人の数だけ列をなして歩くのが当時から近代まで続いた弔いの在り方だった。
墓所は本ノ原に決めて荒垣をつくり、埋葬した場所に印として松が一本植えられた。
年月が過ぎるにつれて松は大樹となり、この墓地付近一帯は一本松という地名で呼ばれるようになる。
一本松はこれ以降、真木の一族が葬られる地の名ともなった。
「法名は、浄賢信士か。正直がすぎる又次郎にはぴったりの名ではないか」
岩瀬の涙ながらの軽口が冬空にとけていく。
忍は岩瀬に寄り添いながら、墓の前にたたずむ花藻の背中を見ていた。
岩瀬は、真木から花藻を頼むと重ね重ね頼まれたことを忍に話し、忍もうなずいた。
誰よりも愛情深く責任感の強すぎる花藻は、野辺にうつろう花の影のようで、今にも風に吹かれて消えてしまいそうに見えた。
決して花藻を一人にすまいと、忍は毎日隣の屋敷に顔を出し、葬式のために集まっていた人々ともに屋敷の片付けや家事を手伝った。真木家の使用人とも話をし、花藻に異変があれば伝えるようにと言い含めた。
「忍、そう心配はいらないわ。私、落ち着いているもの」
「花藻、あれから泣いていないだろう。悲しいはずなのに。どうか、この親友に思いの丈を話してよ。あたしを頼ってほしいんだよ」
大丈夫、平気よ、と笑って繰り返す花藻に、忍は何度も何度も声をかけた。
夜は屋敷に帰り、今度は夫、岩瀬に寄り添った。
無二の親友を失い哀しみにくれる彼の、ただこぼれ落ちる涙と言葉を受け止め続けた。
そんなある日の未明、突如として岩瀬の屋敷に真木家の者が転がり込んできた。
「岩瀬さま、奥方さま。うちの奥方さまが、花藻さまがいらっしゃらないのです。こちらにみえておりませんか」
飛び起きた岩瀬と忍は、自邸の者も叩き起こして捜索に加わった。
屋敷や城の者達に、真木の一族や花藻の両親、そして忍の実家の者達までもが加わって必死で探し回った末、花藻が見つかったのは、真木の墓の近くにある古井戸の底だった。
◇ ◇ ◇
花藻が死んだ。
あたしは、どうして止めてやれなかったんだろう。
あの子は、真木さまを一人で逝かせるような子じゃなかった。
真木さまもそれを分かっていたから、あたしら夫婦に託したんだ。
「あの人ったらね、寂しい、寂しいと言って戦に行くのを渋るのよ。ついて行って差し上げたかったわ」
夫達が戦に出ている間、なにげなく惚気を言って笑っていた花藻の姿が目に浮かぶ。
いつもは楚々として淑やかに見えて、心の奥底では苛烈なくらいに真木に焦がれているのが花藻という娘だった。
あたしの言葉や想いは届かなかった。
あたしのそばを選んではくれなかった。
真木さまに合わせる顔がない。
あの子を守れなかったあたしに、価値など…
「忍、忍。お前まで心を遠くにやらないでくれ。俺を置いていくつもりか」
岩瀬の言葉にはっとする。気付けば岩瀬の腕に包まれ、強く抱きしめられていた。
目から涙があふれ出てくる。友を失った悲しみがどっと波のように押し寄せてくる。
忍は声を上げて泣き、岩瀬はその涙が落ち着くまで忍に寄り添いつづけた。
◇ ◇ ◇
花藻の弔いが終わった数日後。
忍を一人にするなと家の者に厳命した岩瀬は、一日屋敷を留守にした。
「うちのお母まで呼びつけるなんて、旦那さまも心配性なんだから」
「ふふ、あんたの旦那はいい男だよ。いいから、あんたは少し休みなさい。寝かしつけてあげようね」
「嫁に出た娘を子ども扱いすんじゃないよ」
逆らってはみたものの母の圧力はすさまじく、忍は強制的に床につかされた。
実際のところ心身ともに疲れ切っていた忍は、岩瀬が帰るまでこんこんと眠り続けることになった。
何やらドタドタと騒がしい音に目がさめて起き上がると、いつの間にか母親の姿はなく、代わりに岩瀬が部屋のふすまを勢いよく開けた。
「忍、俺は出家する」
「はあ、何を、気でも触れたんですか」
開口一番あり得ない言葉を吐いた岩瀬に、忍は思わず素で返してしまった。
「俺がどうかしているのなんて今更だ。なに、又次郎にした口約束を守ってやろうと思ってな」
岩瀬は、真木夫妻をねんごろに弔うため、堂を立てようなどと言い出した。
「またこの人は、冗談か本気か分かんないこと言って…。大体、旦那さまだって重臣を担っていく立場でしょう。そんなことを殿、康成さまがお許しになるとでも」
ぴっ、岩瀬は康成直筆らしい書状を取り出した。
「殿も真木贔屓だったのでな。お前が弔いたいなら止めはせんと、さらには建立の足しにしろと金も頂いた。花藻殿に渡すはずだった遺族への見舞い金だ」
「なっ、それは真木家か花藻の実家にでも渡すべきじゃ…」
ぴっ、岩瀬は手の平を差し出して忍の言葉を止めた。
「花藻殿のお父上には話を通した。最近どこぞの商家が支援くださるせいで羽振りがいいから金はいらんと。憐れな娘のためになるならと追加の金までいただいた。真木の家でも同じ話をしたら、一族郎党涙を流してさらに金を積まれた。これでは建てぬわけにもいくまい」
花藻の家も、真木の家も、どちらも情に厚いお人好しばかりの家だ。
非業の死を遂げた夫妻のためにとこの舌の回る男が演説などしたら、そのような結果になるのは当然に思われた。
「まず、大聖寺の和尚に頼んで修行をつけてもらうつもりだ。俺は武士を辞めて法師になるが、忍はどうする」
「あたしは…」
まさか本当にお堂を建ててしまう気なのかと、混乱したままの忍は言葉に詰まった。
「忍よ、言っておくが、泣き暮らすために建てるのではないぞ。又次郎にはな、ここで死ぬなら派手に祀ってやるぞと脅したのだ。それなのに死んだ又次郎が悪い。せいぜいあいつがあの世で慌てふためく姿を想像しながら面白おかしく菩提を弔ってやるのだ。訪れた参拝客には、あいつかどれだけ馬鹿正直で、生真面目で、お人好しであったかを語り尽くす。忍は、同じように花藻殿がいかに素晴らしいお人だったかを語ればいい。どうだ、名案だろう」
花藻殿を幸せにすることに心血を注いでいた忍ならば適任だ、と岩瀬はうなずく。
建物や本尊の見目は、花藻への想いを込めて忍の好きなだけこだわればいいとまで言った。
「お前は、花藻殿を忘れなくていいのだ。俺も真木を忘れない。難しく考えずともいいだろう。あいつらが盆や彼岸で現世に帰ってきたときに、また四人で集まれる場所を作っておいてやるだけだ。そのときは、またかつてのように団子を囲んで語らおう」
そう言われて、忍はふと思いいたる。
忍は、無理矢理にでも花藻達のことを頭から追いやろうとしていた。
これからは夫一人を支え、寄り添うことだけを考えようとしていた。岩瀬には忍が必要だ。
それに、忍と花藻達が過ごした年月より、岩瀬と真木が幼馴染として過ごした年月の方がはるかに長い。岩瀬のつらさを思えば、自分の悲しみや喪失感は後回しにすべきとさえ思っていた。
自分の心のきしむ音には背を向けて。
岩瀬は、過ごした年月などで想いの深さが決まるとは思わない、と忍に言った。
「お前は、花藻殿のために生き、今度は俺のために生きようとしてくれている。それは嬉しい。だが、お前もあの花藻殿と性分が合うだけあって情が深い。花藻殿のことはもちろんだろうが、お前は真木のことも人並み以上に悼んでくれている。年月が浅いからといって、俺の哀しみと何を比べられるだろう。俺は、そんなお前だからこそ、真木と過ごした記憶を分かち合いたい。代わりに、俺はお前の中にある花藻殿の記憶を分かち合おう。ともにあの二人を想って、死が別つまでを過ごさないか」
岩瀬は、そう言ってすがるように忍の手を取った。
真木と花藻を忘れなくていい。あの四人での楽しい時間を終わらせなくていい。
目の前の岩瀬が、そのための場所を作ろうと言っている。
この優しくお節介な夫はもしかすると、妻の哀しみに寄り添うだけのために、ここまでの事を考えてくれたのかもしれない。
ずっとそばにいる、俺を頼れ、という音にならない声が聴こえる。
忍は、静かに涙しながらうなずいた。
◇ ◇ ◇
結局、仰々しい堂を建てるような余裕はなく、ささやかな庵を建てることに決まった。
今日下見にやってきた土地は本ノ原の四ツ谷にあった。岩瀬によれば、忍の父がちょうどいい土地があると紹介してくれたのだという。
「あのじじい、集まるお布施でも狙ってんじゃないだろうね」
「はは、お父上は娘が世話になったという、神か菩薩さまに信心を寄せておられるだけだぞ」
忍の父母は、忍がいかに花藻に憧れ、大事にしていたかをよく知っていた。だからこそ、娘の夫で出世頭だった岩瀬が、いきなり武士を辞めて出家するだのと言い出しても止めなかった。
娘の心に一生をかけて寄り添うと決めたこの男に、深く感謝さえしたのだった。
「親戚に袖の下まで出させたのに、申し訳なかったな」
頭をかく岩瀬に忍がそっと寄り添う。
「いいんですよ。お父はやり手です。きっとあたしらのことも美談として牛久保中に広めて、岩瀬のお方々が下手な文句も言えず、それどころか寄付でもしなきゃ体裁が悪いような空気にでもしちまうことでしょう。あたし、親には本当に甘やかされてんです」
「そうか。それはなかなかの重責だな。最低限、不自由だけはさせないよう節制せねば」
素直でない軽口を叩く妻に、己をみている気分になった岩瀬だった。
◇ ◇ ◇
岩瀬林之助と忍の夫妻は、その固い意志を貫いて仏門に入り、真木夫妻の菩提を弔うのに一生を捧げた。
岩瀬と忍が亡くなった後は、この話を語り継ぐ町民達によって四人が同じ庵に祀られ、供養されることとなった。
このときに建てられた庵は、その二百年ほど後の世では能仁堂と呼ばれるようになった。現在、その跡には小さな祠がつくられ、供養が続けられている。
真木の墓に由来する一本松と、花藻が身を投げたことに因んでついた古井戸という地名は後世まで字として残った。
墓所や古井戸の跡などは土地開発によって失われてしまったが、真木又次郎、岩瀬林之助、花藻、忍の四名の恋の物語は、現在まで有志によって語り継がれている。
あとがき
真木又次郎、岩瀬林之助、花藻、忍の四人は実在の人物です。
ですが、この小説に描いたような性格ではなかっただろうと思います。
これはあくまで、現代に生きる作者が描いたフィクションですから。
史実のうちで真実と思われるのは、
上記の四人が実在したこと。
真木と岩瀬が幼馴染で、牧野家に仕える侍だったこと。
花藻と忍という女中が牛久保城にいたこと。
真木と花藻、岩瀬と忍が同じ時期に結婚したこと。
真木が浜松方面に出陣し、帰陣の途中で負傷したこと。
真木が亡くなり、花藻が古井戸に身を投げたこと。
一本松、古井戸という字が後世に残ったこと。
岩瀬夫妻が真木夫妻の死を悲しみ、庵を建てて供養したこと。
諸説あるのが、
岩瀬が真木を抱えて牛久保に帰投したこと(現地で亡くなったという説あり)
長谷寺観音堂で四人が意気投合したこと(真木と花藻が観音堂の縁日にまぎれ駆け落ちしたという説あり)
ちなみに、花藻と忍の素性は不明ということになっています。
どの資料にも記載がないのです。
彼女らの身分はもちろん、裕福であったか、貧乏であったかもわかりません。
まあ、どこぞの姫でなかったことは確かでしょうが。
この辺りは作者による完全なる創作です。
以下、作者の考察です。
真木夫妻のために生涯を供養に充てた岩瀬夫妻は、とにかく真木夫妻推しだったのだろうと思います。
なので、岩瀬と忍をとにかく強火な又次郎推し、花藻推しとして描きました。
古井戸に身を投げた花藻は、苛烈な想いを秘めた、愛情深く、大事な人へ尽くすことでしか生きる意味を見出せない人物として描きました。
真木に関しては、どこか放って置けない、そんな人物を思い描いています。
武者として有望なはずなのに、優しくて、正直者で、少しだけ抜けていて、寂しがりで。
花藻も、岩瀬夫妻も、きっとそんな真木又次郎を慕っていたのでしょう。
これは現代人向けのフィクションですので、
当時の結婚観や、ジェンダー認識からはかけ離れた描写もあります。
しかし四人は当時の牛久保を賑わせた有名な恋愛結婚カップルなのでしょうから、
身分や性別を超えた尊敬があったはずだと作者は思っています。
ちなみに、岩瀬氏の親戚がちょっと意地悪なのは事実無根ですので、
岩瀬氏の末裔の方々には先に謝っておきます。ごめんなさい。
能仁堂の跡地は、現在「能仁堂公園」になっています。
祠のお参りは自由にできるはずですので、気になった方は「豊川 能仁堂」で調べて行ってみてください。
彼らの魂が、幸せであるようにと願っています。