星の欠片
今日も風が灰を巻き上げ、見えないどこかから降り積もる新たな灰が絶え間なく舞い落ちる荒野だった。ここは、一面に広がる灰色の大地が、周囲のすべてを覆い隠していた。
ユークレースは金具で補強された長靴を履いて、灰色の世界に踏み出した。そこでは道と畑の境目すら曖昧で、すべてが灰に埋め尽くされている。進むたびに足元がぼんやりと沈んでいく感触が、長靴越しに伝わってくる。
ユークレースは軍帽の庇を少し上げて視界を広げた。
同時に帽子の中に畳み込んでいた髪の毛が一房漏れ一瞬金色に輝いたあと付着した灰に埋もれた。
ユークレースは舌打ちした後に灰世界に目を向け、静まり返った灰色の景色に見とれた。
世界は滅ぶのかもしれない。
灰が世界を埋める様子はこんなにも美しいのだから。
だが口をついて出た言葉は現実的なものだった。
「やれやれだよ。こんなに降り積もってしまうなんて。この灰はいつまで降るんだ。いい加減嫌になる」髪の毛に張り付いた灰を手ではたき落としながら不快感から不満を口にした。それから遠くに連なる灰色の丘や木々を眺め、空を覆う厚い灰雲を仰ぎ見た。
心の何処かで"終わりはない"と薄々気づいていた。
だが、認めてしまうのは恐ろしかった。
なんにだって永遠はなくて、全て物事には終わりがあるのだとしたら、絶え間なく灰が振り続け風が巻く度に呼吸困難になるほど空中に満ちる灰は始まりでなく、"終わり"側で起きる現象のように思えた。
だからすぐに考えるのをやめた。
降りしきる灰が心のなかに入り込み情感までも灰色に埋まってしまう気がした。機能不全の世界にあって人の心まで亡くしてしまったらそれはもう人間とは言えないじゃないか。
「考えても解らないことを考えたってしょうがないのさ」
彼は考えを振り払って呟いた。だがそれも世界の"終わり"側の真理に感じられてユークレースはやれやれと首を振った。
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風は止むことを知らず、灰は地上に降り積もっては風に巻き上げられ、再び空中へ舞い戻り、何度も繰り返すことで、荒野を灰色に染め上げている。風が運ぶ灰は、空気中に散らばっていく。
ユークレースは時折咳をした。
「灰混じりの空気で肺が炎症を起こすなんて、洒落にもならない」
自嘲しながら呟いた。
我ながらつまらない駄洒落だがどうせ独りきりだ、聞くのも笑うのもあきれるのも自分だけ。
そう考えると安堵より孤独感が募った。
灰は降り続けて、世界は灰色に染まっていって、ぼくはたった独りで"終わり"側の景色に佇んでいる。
それが現実だった。ユークレースは無性に寂しくなり目頭が熱くなった。
一面見渡しても灰色一色だった。ここに星の欠片は無いようだ。ユークレースは別の場所を探すことにした。降灰によって視界を閉ざされているので何もかも勘が頼りだった。
「またこんなに灰が降ってくるとは思わなかった。この場所に星の欠片があるとは限らないけど、見つけたら確実に持ち帰らなきゃ。あの煌めきは灰の中でも目立つから見逃すことはないはずだ」
自分に言い聞かせるように話し続けた。
降りしきる灰は一時も止むことがなく視界の一切を閉ざし、地上のあらゆるものを灰色に埋めていく。
そのうち街も都市も国も大陸も何もかも知りうるものは全て過去までひっくるめて一切合切、灰の下に沈んでいくんだろう。
見慣れたとはいえ、星の欠片は砕けた岩の破片で、普通の石ころと形状がほとんど変わらない。所詮は空に浮かぶ岩の、そのまた一部でしかない。だが星の欠片は独特の光を放っている。それは虹のすべての色を混ぜた輝く黒に自然界に存在しない準次元の劣化光が混じった色で、人の瞳には僅かな熱量を持った美しい蒼い炎として映る。だからユークレースは視界を確保するためにスコープを着けずに裸眼で行動する。
「それにしたって息苦しくて、嫌になる」
防塵用途のマフラーを鼻に付くまで引き上げているが、息苦しいことに変わりはない。
だが灰を吸い込むと咳が止まらなくなって星の欠片を探すどころじゃなくなってしまう。
「スピカも苦しんだんだろうか」
そう思うとユークレースの気分は沈んだ。
陰鬱な思いから目を背けた先に蒼い炎の揺らめき立つ影を捉えた。彼は目を疑いながら、その輝きに向かって足を進めた。
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ユークレースは深呼吸をして、息を整えた。そして、蒼い陽炎の見える方向に慎重に進んだ。
彼の足音は灰に吸い込まれ、何も音を立てずに進んでいた。
しばらく進むと灰に覆われた地面から、蒼い光が反射している箇所が見つかった。
ユークレースは灰の舞い散る中をしっかりと目を開き、光の反射源を追跡した。その間、彼の足元の灰が微かに揺れる度、静かな舞いが繰り広げられていた。そして、視線の先に星の欠片が転がっているのを見つけた。
灰の中でその煌めきはあまりにも異質で、まるで宇宙の果てからやってきたかのように感じられた。ユークレースは手を伸ばし、その星の欠片を慎重につかんだ。それは手のひらに重みを感じるほどの存在感があった。
「あーあこんな細切れになって。吹き飛んで木っ端微塵になってしまってこんなに広いところにあっちこっちに散らばって灰に埋もれた欠片を拾い集めて回るだなんて我ながら狂気の沙汰だね」
その状況の非日常さに心が揺れることを感じた。
採取した星の欠片は拳大のものだった。蒼く光っていなければ灰に埋もれているその辺の石ころとの区別なんか付きっこない、何処にでもある形状の、ただの石ころにしか見えなかった。握るとほんのりと暖かい。地上に落ちた際に生じた膨大な摩擦熱を未だに保持しているかのようだった。ユークレースはその暖かさに、かつての思い出と共に心が溶けるような感覚に包まれた。
ユークレースはため息をつき、だがある種の達成感を感じていた。
「こんなに広いところに散らばっていると、星の欠片を見つけるのは本当に大変で嫌になる」
でも、見つけた時の感覚はたまらないんだ。この微かな煌めきが、この荒野で一番美しい光景なんだから。
ユークレースは握った星の欠片をためすがめつし、蒼い陽炎の揺らめき立つ様にうっとりと見入った。神秘的な蒼い炎のゆらめきを眺めているときだけユークレースは灰が降り積もるだけの陰鬱な日常を忘れることができた。それはまた決して戻らない時間に針を戻す追憶の時でもある。彼の心はかつての光り輝く日々に浸り、その美しさに懐かしさを感じた。
「なんて流麗な影なんだろう。スピカが見たらなんて言うだろう」
その時風が吹き灰が巻き上げられた。口鼻を守るためにマフラーを引き上げたユークレースはふと空を見上げた。
陽が傾いた空は真闇で、星が無かった。夜空は地上の灯を吸い込むだけで煌めきの一つも返さない冷えた真空だった。
「星が落ちる前はこんな風じゃなかったんだ」
星が地上に落下して世界中に灰を撒き散らす前は、ここは彼方の稜線まで緑の広がる草原だった。
人は緑の眩しい草原に囲まれた小さな村に住んで、みんな小さな頃からずっと一緒に過ごしてきた顔見知りだった。その頃の彼らの笑顔が、ユークレースの脳裏に浮かんできた。
ユークレースは打ちのめされたように表情が曇り、輝きの一つもない完全な闇と凍りついた静寂に覆われた夜空を凝視した。
「なーんにもない。こんなに単調で目のとっかりもないただたつまらないだけの空。ぼくは寂しいとは思わないけどさ、こうまで変化のないものは見ているだけじゃ欠伸が出る。まるで物語のないシネスコープだよ」
ユークレースは眠そうな顔でかつての色彩に溢れた夜空を懐かしんだ。
ユークレースは過ぎ去った昔日の記憶を引っ張り出し、二度と戻ることのない幸せを想った。過去にはまだ色彩や物語があった。
そこにはまだ灰は入り込んではいなかった。
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「ねえユークレース、お星さまはどうして落ちてしまったのか知ってる?」
スピカがユークレースに尋ねる。その瞳はキラキラと輝いていた。
「知らない。星はどうして落ちたんだい?」
ユークレースは首を傾げながら問い返した。興味がある様子だった。
「お星さまはね、お願い事を聴きすぎた所為で落ちちゃったんだよ」
スピカの顔に少し悲しみが浮かんだ。
「願いごと?お祭りでぼくらが星に願うあの?」
そう訊ねると、スピカの目が大きく見開いていた。
「うん、人がお願い事をすると星はそれだけ重くなるんだ」スピカは説明した。その声は真剣だった。
「一回のお願いでどれだけ重くなるの?」興味津々で訊いた。その目に好奇心が宿っていた。
「願いの内容によるかな?サーモンパイのチーズいっぱいにして下さいくらい軽いのだと全然軽いままだけど、世界中のお金がほしい、土地がほしい、とかの大きなお願いはそれだけお星さまを重くしてしまうんだ」
スピカの口調は柔らかく、しかし確信に満ちていた。
「じゃあ星が落ちたのは世界中の人が大きな願いを掛けたから?」
ユークレースは推測した。表情は真剣だった。
「世界中の人が、とても沢山のお願いを幾つも幾重にも掛けたからお星は重くなりすぎて落ちちゃったんだ」
「それでここに落ちてきたって?」
「ここにも落ちてきたし、西の空のお星様は西の地に落ちたし、北のお星様は北、南のお星様は南に落ちて、中央のお星様はそのまま垂直に落ちたんだ」
「星は気の毒だね」
ユークレースは同情した。目に哀しみが宿っていた。
「可哀想だよ」
スピカも同意した。話し続けて少し疲れたようだった。肩が微かに落ちていた。
「ねえユークレース」とスピカが再び話を振った。大きく潤んだ瞳がユークレースをじっと見つめていた。
「なんだい」とユークレースは答えスピカに笑顔を向けた。
「お星さまは疲れちゃったんだ」
スピカは寂しそうに言い、寂しそうに笑った。表情は哀愁に満ちていた。
ユークレースはスピカの儚げにさみしげに微笑むのを見て胸が張り裂けそうになった。
そんなユークレースを不思議そうに眺めていたスピカはいいことを思いついたのか頬を上気させた。頬が林檎のように紅くなった。
「お星さまを空に戻してあげることは出来ないかな」
スピカが瞳を輝かせ興奮した調子でユークレースを見つめた。ユークレースは考え込んでいるようで、しばらくしてから口を開いた。
「空に?」
と尋ねると、スピカは微笑んで頷いた。
「地上に落ちたお星さまはお願い事を下ろして今は身軽になってるはずだよ。軽くなったのなら昔みたいにまた夜空に戻って綺羅綺羅光ることができるんじゃないかな」
ユークレースは納得したように頷いた。
「そうかもしれない」頷いて肯うと、スピカはさらに続けた。
「きっとそうだよ」
微笑んでみせた直後にスピカは咳き込んだ。こんこんと胸から発せられる音は風邪の時に発するいつもの咳とは違っていた。それはまるで胸の奥に潜り込んだ悪意が中身を食い尽くして外に這い出ようとしているかのように聞こえた。ユークレースはスピカの咳き込む姿を見て、心配そうな表情を浮かべた。スピカも自分の状態に気づいているようで、苦しそうに息を整えながら、ユークレースに向かって微笑みかけた。
「もう寝るんだ、星を探すのも戻すのもちゃんと体を治してからでなきゃ」
「うん。おやすみなさいユークレース」声音には披露が滲んでいた。
「おやすみスピカ」ユークレースは優しく返した。
ユークレースは咳をした。風に撒かれた灰を吸い込んでしまったから。こんこんという咳の音は思い出の中のスピカのものに似ている。色づいた思い出はまたすぐに灰に埋もれてしまう。ユークレースはしんしんと降り積もる灰を踏み潰した。
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灰が降り積もる中泳ぐようにしてユークレイスは家に戻った。彼の足取りは重く、灰の中でため息がこぼれた。そして集めた星の欠片を手に、納屋に足を踏み入れた。納屋の扉を開くと、どこからか湿った空気が漂ってきた。
暗闇の中、古びた作業台が見える。ユークレイスは目を凝らし、周囲を見渡した。この納屋は以前は両親と一緒に畑を耕すための農具を収納していた場所だった。古い農具が壁にかかっていて、彼の心に昔の思い出がよみがえった。
ユークレイスは手早く、星の欠片を修復するための道具を取り出した。道具は古びていたが、まだ使えるものばかりだった。そして星の欠片を手に取り、糊を使いながら欠片を組み合わせていった。彼の指先は慎重で、熟練した動きで欠片をつなげた。
時折ユークレースは咳き込んだ。
こんこんと胸から発せられる音は、風邪の時に発するいつもの咳とは違っていた。それはスピカの咳の音によく似ていた。だがユークレイスは咳をしても作業を止めることはなく、スピカのことを思い出した。スピカの笑顔や声が心に浮かび、ユークレイスは作業に集中し続けた。
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ユークレイスはスピカの様子を見ながら、心配そうに頬杖をついていた。スピカの発する熱気がユークレイスの頬を撫で、その熱さが空間を包み込む。部屋の暗さが彼らの心を沈んだままにしており、時折外から聞こえる風が、彼らの不安をさらに掻き立てた。深夜になると、スピカの咳き込む音が深く響くようで、そのたびにユークレイスは心臓が震えた。彼の目には涙が浮かび上がり、言葉にならない悲しみがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。
ユークレイスはスピカの側に座り、額を撫でながら、薬が効くようにと祈り続けた。祈りは、静かな夜の星の光の欠けた闇に吸い込まれていくようで、空しさが残るばかりだった。どんなに祈ってもスピカの咳は酷くなるばかりで、徐々にスピカの体は衰弱していった。弱々しい息遣いが聞こえる中、小康状態になったスピカは瞼を開け潤んだ瞳をユークレースに向けた。その瞳には、かすかな希望と切なさが宿っていた。
「ごめんね」
スピカの弱々しい声は今にも消え入りそうで、それがユークレースを一層不安にさせた。その言葉は、心に深く刻まれ、消えない痛みとして残った。
「どうしてそんなことを云うんだ。スピカは病気を治すことだけ考えていればいい」
ユークレイスの声は、力なく震えていた。その心には、どうすればスピカを救えるのかという焦りが渦巻いていた。
「うん」
「なにか食べたいものはない?」
ユークレイスは、スピカに何かできることはないかと切ない気持ちで尋ねた。
「ありがとう。でも欲しくないんだ」
「食べなきゃ、治らない」
ユークレースは恐る恐る口にした。言葉にすることで望まぬ未来を引き寄せてしまうような感じがした。彼の心には、言葉が重くのしかかり、苦しさを増していった。
「うん、お腹が空いたらお願いするね」
「欲しくなったらいつでもいうんだ、すぐに用意するから」
スピカは静かに目で頷いた。その瞬間、顔にはほんのりとした笑みが浮かんでいたが、それはやがて消えてしまうかのように脆かった。
「星がない夜空は寂しいね」
スピカは灰のこびりついた窓からかろうじて窺える夜空に目を遣り、ぽつんと言った。
「ごめんね」
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ユークレースは、星の欠片を丁寧に接着し終え、彼の手によって再び星の形を取り戻した。その大きさは犬の頭ほどで、彼はその星を抱えて納屋の外に出た。星の表面は美しい輝きを放っており、何か神秘的な力を感じさせた。溜め込んだ願い事を捨てたからだろうか、星はとても軽かった。これなら用意した火薬の量を気にすることもないとユークレースは安堵した。
納屋の外に出て少し歩くと、灰に埋もれた打ち上げ台があった。ユークレイスは星をその打ち上げ台に設置し、火をつけるための道具を取り出した。火が灯り、燃え盛る炎が星に迫る様子にユークレースの胸が高鳴った。とうとう火が火薬に接触し、パーンッという乾いた破裂音がして星は一直線に夜空に打上げられた。
星はまるで自分の居場所を探しているかのように、少しの間夜空を彷徨っていた。東の夜空、西の夜空とあちこちふらふらと移動し、やがてあるべき場所を見つけてそこに定まった。星は空に浮かび、静かに蒼く輝く光を放っていた。
ユークレースは茫洋として虚ろな瞳で星を見仰いだ。
「あの星がきみがいる場所からも見えればいいのだけど」
その時、風が灰を運んできて、ユークレースの喉に刺さるような痛みを引き起こした。
ユークレースはこんこんと咳の音を立て、そうして夜空を見上げながら立ち尽くしていた。