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001.執行当日

 その日の朝その男がいつものように小さな洗面台の前で歯を磨いていると、複数の足音が近付いてくるのがわかった。普段のその時間、そのような足音が聞こえることはなかった。

 その足音の数は100人や200人を超える風に聞こえた。しかし実際にはそれほど多くない。

 金属の扉が開錠される。東京拘置所の刑務官4人が畳3畳とトイレだけがある独房に入ってくる。4人全員が185センチを超える大男で武道の有段者だ。狭い独房が殊更窮屈に感じられる。

「出房!」

 先頭の刑務官が緊張感の伴う大きな声でそう言った。

 男は歯ブラシを持ったまま身動きが取れずにいた。口の中にはまだ泡があった。

 もしこの歯ブラシを洗面台に叩き付けて割り、その即席の鋭利な凶器で4人の首を突き刺し殺害することは可能だろうかと考える。

 歯ブラシに力を加えても綺麗に割れず、へし曲がり、鈍い白色になるだけだった場合、凶器は手に入らない上に抵抗の意志ありとみなされ取り押さえられるだろう。

 ならば歯はどうだ? 磨いている途中の歯で、できればそんなものを噛みたくないのだが、刑務官の首に噛み付き4人殺害することは可能だろうか? おそらく不可能だ。1人を襲っている間に他の3人に取り押さえられるだろう。

「連行! 連行!! 連行ーーーッ!!」

 男の殺気を悟ったか否か4人の刑務官は男を取り囲み有無を言わせぬ強引さで外に連れ出そうとする。

 刑務官の隙間を縫って、自分の部屋に置き去られるいくつかの慎ましい私物を眺める。節約して使ってきた、ちり紙、便箋。それらに対し別れを惜しむ僅かな時間さえも与えられない。口をゆすぐ時間も与えられない。靴を履かされ、房の外へ連れ出される。

 その長い廊下には5メートルから10メートルほどの間隔に1人ずつ刑務官が配置されている。通常、収容者の移動の際にこのような厳重な体制は敷かれない。万が一にも備える鉄壁の脱獄防止措置。刑務官4人を殺害あるいは行動不能にしたとしても、この防衛網を突破し外に逃げるのは不可能だったかと肩を落とす。

 だが狂ったように大暴れすればどうだろう?

 計画は中止、または延期されるのではないだろうか?

 後ろからせっつかれるままに、大人しく目的地へ歩かされるのは自分らしくない気がする。

 だがこれまで男は弁護士の助言を無視し、控訴も再審請求もしてこなかった。その理由は早く終わらせたかったからだ。延命のための遅延行為を潔しとしなかった。もう早く終わりにしてくれと泣き濡れる夜も1回や2回ではなかった。

 だがしかし実質的に、終わりの運命を悟ると、全く気分が優れなかった。

 もし仮に東京拘置所の敷地外へ逃れたとしても、脱獄のニュース速報に触れた国民は常に怯え、警戒し、目を光らせる。ゆえに未来永劫、この国のどこにも安心できる居場所は存在しえない。

 男は立ち止まる。

 長い廊下の突き当りにエレベーターホールがある。

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