第六話 ナーゼル伯爵の憂慮
カランツ・ナーゼルはその齢も既に六十も半ばに到達していた。その高齢にあって彼はまだ伯爵としてナーゼルの地を治めていた。
本来なら引退して後継に譲ってもよい年齢なのだが、その継ぐべき息子が数年前に彼の身重の妻とともに馬車の事故で亡くなっていたのだ。
──皮肉なものだな。為政者の行うべき街道整備の遅れが為政者を殺したのだから。
カランツは何とか整備の行き届いていないナーゼルの街道を改善しようとしていたが、街道の整備は国が行うべき大事業だ。とても一領主が早々に完遂できるものではない。
そして、街道の整備不良が原因で息子夫婦が事故に遭い他界した。
せめて息子たちの弔いにと、カランツはこの歳になるまで街道整備に奮闘してみたが、何とも芳しくはない状況だった。
──国はこんな田舎のことなど気にも留めないからな。
国の援助は乏しい。街道の整備は国家の一大事業である。ナーゼルだけの財政ではこの大事業の経費を賄うことは難しかった。
奢侈におぼれる王都を仕事で訪れる度に、カランツは怒りとも遣る瀬なさとも思える感情を抱いてしまう。彼はそんな蟠り抱えて現在に至る。
泣きたくなるような現状にありながら、追い討ちを掛けるように甥のシュタイマン・ファルネブルクが廃嫡した自分の息子を彼に押し付けてきたのだ。
一族の中でも問題となっている廃公子レイマン・ファルネブルク。その扱いはデリケートな問題だ。ここで、彼を嫡子として受け入れた場合、カランツがシュタイマンを擁護したと一族から捉えられかねない。
では追い返すか?
それではシュタイマンがどのような行動に出るか分かったものではない。最悪の事態も考えなければならない。シュタイマンがそこまでするとは思えないが、レイマンを事故死に見せかける可能性も否定はできないのだ。
それでは追い返してレイマンを保護しなかったカランツにまで非難が及ぶことも考えられたし、カランツも心情としてもレイマンのことは何とかしてやりたい。
レイマンを受け入れても、受け入れなくても、何方にしても被害を受けそうな状況にカランツは頭を抱えた。
シュタイマンを目の前に厄介事をもちこみよって、と吐き捨てたくなる衝動を抑えるのにかなりの自制心を必要とした。
だが……
人間万事塞翁が馬。
連れてこられたレイマンは見たカランツは彼が十分に見どころのある少年だと感じた。
カランツは息子夫婦を亡くし、厄介事を持ち込まれるという不幸と不運に見舞われた。レイマンもまた母を亡くし、嫡子から引き摺り降ろされ、王都を追われるという不幸と不運に晒されている。
──お互いの不幸と不運が重なり、幸福や幸運に転ずることもあるやもしれん。
カランツは腹を括った。レイマンを嫡子として受け入れる。例え一族全員が責め立てようとレイマンをナーゼルの領主として立派に育てあげようと。
その決意から一年が過ぎた。
後継として受け入れたレイマンは、この一年間あまり外に出ず、人との関わりを断つような生活を送っていたが、代わりに勉学に励む日々を送った。
最初はその在り方に眉を顰めたカランツであったが、もともと才能があったのだろう。開花した能力は大人をも唸らせる程で、あまりに優秀な義理の息子にカランツも舌を巻いた。
自分が見込んでいた以上の少年であったことは嬉しい誤算だった。しかし、全くの懸念がないわけではなかった。
実父の裏切り、貴族子女の変、家人達の冷遇。これらの体験によりレイマンは人を信用できなくなっており、何処か他人を寄せ付けない雰囲気を纏うようになっていた。
「おはようございます。レイマン様」
「ああ、おはよう」
ナーゼルの屋敷でも家人に対して驕慢な態度をとることはなかったが、挨拶にも言葉を返す程度でそれ以上は関わろうとしない。人を近づけまいと何処か壁を作っているようだった。
外にもあまり出ることのない彼は、当然だが人との付き合いが殆どない。何かに取り憑かれた様に学問に勤しむレイマンは優秀になればなるほど、才能を開花させればさせるほどに、その内側に暗い情念の炎が強くなっているようにカランツには思えた。
カランツはそのレイマンの状態に危機感を覚えた。内に憎しみを溜め込み、外を見ようとしない彼の抱える闇は思ったより深い。冷たい表情を他人に向ける今のレイマンを見て、カランツはこのままではいけないと思う。
少年期の経験は人生において貴重なものだ。この聡慧な少年の二度とない貴重な春秋を、あの恥知らずな男への憎しみで食い潰されることはあってはならない。
だが、これは言葉を尽くして説諭しても理解できるものではないし、納得もできないだろう。ともに経験を重ねてくれる同年代の友人が必要だ。それでこそ本当の意味で心に巣くう闇から、レイマンを解放することができる。
カランツは近隣でレイマンと釣り合う貴族子息を探した。しかし、残念ながら同年代の子息で彼と付き合える程の見どころのある者はいなかった。
「隣領のヴィーティン子爵の娘?」
「はい。エリサベータ様でございます」
レイマンの良き友人を探しあぐねていたカランツに家人が一人の令嬢の噂を持ってきた。
「できれば同性が良かったのだが」
「ですが、近隣の貴族子女の中でエリサベータ様以上のお方はおりません」
エリサベータ・ヴィーティン。
齢九歳にして、その妖精の様な可憐な姿から将来は絶世の美女になることを思わせる童女。更に特筆すべきは姿も美しいが、その心根はそれ以上に美しい。
日頃より朗らかな態度、分け隔てなく家人に接し、恤民の心も篤い。凡そ九歳児とは思えぬ評価だ。
しかも、ただ優しいだけの性分ではないようで、これまた童女とは思えない逸話があった。
ある時、自領で貴族令息が領民に無体を働いていたところに通りがかった彼女は領民を守るためにその貴族令息に敢然と立ち向かった。
自分よりも遥かに年齢も体格も上の相手に、恐れもせず泰然と言い負かし追い返したというのだ。並みの胆識ではない。
「本当にその娘は九歳児なのか?一桁年齢を間違っているのではないか?」
「私も随分と驚きまして調べましたが、年齢は九つで間違いないようです」
信用のある家人の言であった。間違いはないのだろう。
「分かった。他に優れた人物もいないのだ。ヴィーティン子爵に打診してみよう」
カランツは早速ヴィーティン子爵にレイマンとエリサベータとの交友を願い出た。ヴィーティン子爵からは直ぐに諾の返事がやって来た。
そこで、レイマンを自室に呼びよせて、エリサベータの件を伝えたのだが……
「ヴィーティン子爵令嬢ですか?」
エリサベータ・ヴィーティンの来訪について話しを聞いたレイマンは顔を顰めた。カランツはレイマンのあまりに予想通りの反応に苦笑いした。
「ああ、レイの相手にちょうどよいと思ってな」
「相手……ですか」
表情を消したレイマンはナーゼル伯をじっと見詰めて言葉を待った。
「ナーゼルにはレイとちょうど釣り合いの取れる貴族子弟がおらんからな。貴族は人と接することを忘れてはならんよ」
「貴族子女の相対など不要と思われますが……父上がそこまで仰るのでしたら」
不承不承に答えるレイマンの態度にカランツは深く嘆息した。




