第四十話 蒼玉の諦念
ナターシャが屋敷を一瞥して馬車に乗り込むと、御者が馬を進ませる。馬車はそのまま屋敷を出ると走り去っていった。屋敷から離れ去っていくその馬車を窓からカーテンの影に隠れてエリサベータはじっと眺めていた。
エリサベータは目を瞑ると、その瞼の裏に浮かぶのは、先程まで横で自分を気遣い叱咤してくれた赤髪の親友の姿。彼女は美しいだけではなく活発で魅力に溢れた令嬢だ。そんな親友を頼もしくも、誇らしくも思ってきた。その気持ちは変わらないが、今ではその中に妬ましいと思う黒い感情が混じっている事を自覚できる。
──私はなんてあさましいの。
エリサベータは自分の顔が他者と比べて美しいのは理解していた。だが彼女はずっとその事に無頓着であった。そんなものは人格や品性に優るものではないと考えていた。そして、それはレイマンとの関係に影響するものでも無いと思っていた。
だが、顔を歪に変えられてエリサベータは初めて知ったのだ。
他者への嫉妬を……
他者への羨望を……
その醜い感情を……
そして、恐れた。
最愛の人が自分をどの様に見るのか、どの様に感じるのか……
憐れむのか……
嫌悪するのか……
自分を厭うのか……
レイマンへの慕情が募るほど、彼から向けられる負の視線を想像してエリサベータは苦悶する。
怖い、恐い、こわい……
レイマンから拒絶される事を想念して、エリサベータは胸をぎゅっと握り締めた。
胸が苦しい、痛い……
エリサベータは恐る々々姿見に目を向けた。
今までの事が全て悪夢で、夢から醒めて元の綺麗な顔に戻っていないか……
そんなありもしない一縷の望みを抱いて。
しかし、そこに映るはやはり恐ろしく醜い異貌。
左に残された美貌が一層に醜貌を引き立てエリサベータを苛め、過去の自分を想起させて、悲しみをより深くさせる。
いっそのこと全て醜く変えられていた方がよかった。
だが残された美しい面が執着を呼び起こす。元の顔への羨望が捨てきれない。
醜い!
顔よりも心が醜くなる。
このどす黒い感情は……
このドロドロとした汚れた思いは……
これは本当に自分の心なのだろうか?
黒く、暗く、闇へと堕ちる自分の心にエリサベータは愕然とした。
羨望に、嫉妬に、憎しみに染まる自分の感情にエリサベータは沈み悲しみ、恐れ慄いた。
だから一人でいることがとても辛い。
孤独から想い人の顔が脳裏に浮かぶ。
そして彼の事を想えば想う程に切なく、恋しく、愛おしくて……
「レイ様……会いたい……会いたいの……」
最愛の男性の姿を想うと、耐え難い苦しみと寂しさと共に、胸の中で微かに温かく、小さく灯る光をエリサベータは感じた。
だが……
「会えない……会ってはいけない……」
会えばせっかくファルネブルク侯爵を継承できるようになったレイマンの足を引っ張ってしまう。
「それに……」
エリサベータは己の右の顔に手を当てた。
手に当たる感触は左の艶やかな肌とは違う、腫れた様に膨らみ老婆のように枯れた肌。
鏡に映るのは見苦しく変化した己の顔。
レイマンがこの顔に嫌悪したら、自分はどれ程に心が痛むだろうか。
レイマンにこの顔を拒絶されたら、自分はどれ程に絶望してしまうだろうか。
愛しい人に嫌われたくない、避けられたくない、疎まれたくない。
だからレイマンへの恋慕が強くなるほどに、彼に醜顔を見せることへの恐怖もまた強くなった。
「レイ様……大好き……愛しています……」
カーテンを握りしめて、エリサベータは最愛の人がいるであろう王都の方角を見詰めた。
「寂しいの……レイ様に会いたい……」
エリサベータは悲嘆に暮れ、その場で崩れ落ちて、己を掻き抱きながら涙を流した。
「だけど……私はもう……」
呪いを掛けられても変わらなかったエリサベータの綺麗で澄んだ青い瞳。
しかし、今はもう左も右も輝きが失われて、くすんでしまっていた。
その瞳には最早一条の希望の光も現れることはなかった。
その日、エリサベータは全てを捨てて修道院へ入ることを父母に告げた。




