第三話 ヴィーティンの蒼玉
「まだまだ寒いねぇ」
四十過ぎくらいだろうか。ヴィーティン領の領都にある商店の一つで恰幅のよい中年の女が店を開ける準備をしていた。
寒い、寒い、と口ずさみながら、寒さに悴んだ手に吐く息が白い。
「お早うございます、おばさま」
突然かけられた挨拶。その声は子供の高いものであったが、同時に透き通った心地のよい音色でもあった。驚いた中年の女性の腰元あたりで、キラキラ光る白銀の長い髪が舞った。
「エリサベータお嬢様!」
その正体に気がつき、中年女性は更に驚いて声を上げた。そこにいたのが、ここヴィーティンを治める領主の娘、エリサベータ・ヴィーティンだったからだ。
この領主の娘が他の貴族令嬢とは趣の異なる少女であることは、この領都に住む者なら誰もが知っていることだ。
彼女は凡そ貴族令嬢とは思えない破天荒な行動をとるのである。もっとも、ヴィーティンに住む庶民にとって、それは歓迎すべきものであった。
当然、この商店の女性もそのことは知っていた。しかし、幾ら彼女が破天荒な令嬢だとしても、流石にこんな早朝に街中に現れるとは露程も思わなかったのだから、この商店の女が驚嘆するのも無理からぬ事だ。
さて、彼女がどれくらい破天荒かと言えば、それは九つと幼い身の彼女が既に持つ幾つもの逸話に現れている。
孤児院への慰問、街中の商店への訪問、更には、その先で孤児にも庶民にも気安く声を掛ける。これだけでも、このクロヴィス王国では大問題だった。何故なら、この国は周辺諸国と比べて封建主義が根強いからである。
この国の王族は神の如き雲上人であり、貴族でも基本的に高位の者しか拝謁できない。貴族も同様で、庶民の前に無闇に姿を晒す事は通常ありえないのだ。
庶民の側も偶に現れる貴族やその子弟達は、自分達に居丈高に接し、強権でもって苦しめられることも屡々であったから、寧ろやって来ないで欲しいと思っていた。
故に、エリサベータの行いは、他の貴族からは眉を顰められる振舞いで、貴族令嬢としては褒められたものではなかった。
そんな幾つもの逸話を持つエリサベータだが、中でも特に凄かったのは住民達が勝手に名付けた『オルトリヴィ伯爵のドラ息子事件』であろうと商店の中年女は思い返した。
その日は今日とは真逆にとても暑い夏の日であった。
この様な夏の暑さが堪える時期には、北にあるこのヴィーティン領は避暑地として多くの貴族達に利用されていた。その日も当然のように他領の貴族やその子弟が多く訪れていた。
その中に貴族子弟の一人にオルトリヴィ伯爵の嫡子マングストという人物がいた。
彼は父親のオルトリヴィ伯爵と共にヴィーティン領内に持つ湖畔の別荘へ訪れていたのだが、従者を引き攣れ町中へ降りてきた時に騒動を引き起こしたのだ。
マングストは若く美しい町娘に目を付けた。そしてあろうことか難癖をつけてその娘を攫おうとしたのだ。この騒動に周囲に人垣が出来たが相手は貴族の子弟である。誰も助けたくても手が出せず固唾を呑んで見守った。
「いや、お放し下さい!」
「黙れ、お前の犯した粗相の代償を払ってもらう!」
その男は無理矢理に連れて行こうと、娘の腕を強く握り引き摺って行こうとした。
「お待ちください。娘は、どうか娘は……」
「どけ、じじい!」
娘の父親と思われる男がマングストに縋りついたが、彼の取り巻きの家人達が足蹴にして追い払う。誰もが娘の悲運を憐れみ、そしてマングストに対する怒りを持ったが、誰も動くことができなかった。
「何をなさっているのですか」
その中で、彼らを制止する声が掛かった。静で落ち着いた、涼やかな声。だが、良く通り、威のあるそんな声だった。女性のものであることは間違いない。マングストを含め全員の視線が声の主に集中した。
そこに居たのは、まだ幼い少女だった。白銀の髪に澄んだ青い瞳。陶磁器の様に白い肌と整った顔。まるで精巧な人形の様に美しい少女に見た者は全て息を飲んだ。
エリサベータだった。彼女は娘の腕を掴むマングストを見て眉根を寄せた。
「貴方はオルトリヴィ伯爵の方ですね」
「だ、だからどうした」
自分よりも遥かに歳下の少女の人間離れした美貌にマングストは飲まれてしまった。
「その女性は我が領民です。無体を働くことはお辞め下さい」
「なんだ、このガキは!」
マングストの家人が熱り立つ。成人男性が数人に対してまだ十にも満たないだろう少女が一人。誰の目にもこの勇敢な少女が悪漢のような貴族達に酷い目にあわされるとそう思った。
しかし、少女は臆する事無く凛とした態度で男達の前に立ち。そのサファイアの様に美しく澄んだ輝きを持つ青い瞳でマングストを射抜いた。
相手は取るに足りない少女である。恐れる必要なないはずだった。
だが、その少女はあまりに美しかった。それは相貌だけではない。澄んだ輝きの瞳も、その真っ直ぐ屹立した姿勢も、男達に怯えることなく自然体の所作も。そしてなによりも自分よりも強いものへ立ち向かうことのできる心根が、あまりに美しい。
だからマングストも、その家人も、いや周囲の観衆もまた、この少女に何か触れてはいけない神聖な気質を感じ取って、誰もが声を発することを忘れ、まるで時が止まってしまったかのうようだった。
「私はヴィーティンの領主アムガルト・ヴィーティンの娘、エリサベータ・ヴィーティンと申します」
しかし、少女はマングストや周囲のそんな様相にも気を留めずに、マングストに名乗りを上げた。
「ヴィーティン子爵のところの!?」
「マングスト様、少々拙いのでは?」
「ここはいったん引き揚げて……」
「なんだ。たかだか子爵家の令嬢ではないか」
マングストの家達がさざめき合ったが、当のマングストはエリサベータの正体に気付くと逆に不遜な様子を見せ始めた。
「俺はマングストだ。オルトリヴィ伯爵家の嫡男だぞ。子爵令嬢ごときが口出しとは無礼な!」
「無礼とは礼を外れた振る舞いのこと……」
「そうだ俺の家は伯爵家、お前の家は子爵家だ。どちらの爵位が上かは明らかだ!」
マングストはふんっ、と鼻を鳴らして、自分より身長の遥かに低いエリサベータを馬鹿にするように見下ろした。だが、エリサベータは全く意に介さない。
「爵位の上下は関係ありません。この地はヴィーティンの領地であり、この者はヴィーティンの民。その地の領主に何の相談もなく領民に無体を働くことこそ無礼ではありませんか」
正論である。だが、その正論を非力な少女が大人達に囲まれて、爵位が上位の家の者に対して堂々と述べることなど果たして如何ほどの胆力があればできるのか。
「貴方は自分の領地で自分の領民が、他領の侯爵家や公爵家の者に狼藉を働くことを是となさいますか?」
エリサベータは終始、声を荒げることなく静かに淡々と相手に言葉の剣を突き付けていく。
「そ、それは……その娘が俺に粗相を働いたからだ!」
「ならば私の父にその旨を抗議されるのが筋ではありませんか?」
ぐっ、とマングストは言葉を詰まらせる。当たり前である。難癖をつけただけなのだ。領主に申し立てを行えば調査されてしまい、自分達の非が明らかになる。
「そ、そこまでは……」
「そこまで?これは異な事を仰います。勝手に他領の領民を連れ出そうとすることは重罪です。これは国法に定められていること。父への抗議以上の所業ではありませんか?」
これはどこの国でも同じだ。領民を勝手に奪ったり移住させたりすれば、領主にとって所領の治世に関わる。国主からしても国の管理に弊害を生じかねない。大抵は法で取り締まられている。
「くっ、お前たち行くぞ!」
分が悪いと見たマングストは這々の体で、その場を逃げ出した。その後ろ姿を見送ったエリサベータは、腰を抜かして地べたに座っていた拐かされそうになった町娘に手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
エリサベータが彼女の手を取った瞬間、固唾を呑んで見守っていた周囲の領民達の時が突然動き出した。大きな歓喜の歓声が沸いたのだ。それは全てエリサベータを讃えるもので、まるで町中に響き渡るかのようだった。
この時、今までずっと静謐な態度を見せていたエリサベータが、初めて少女らしい戸惑いの表情を見せた。
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