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第十五話 湖畔のアイリス

 王都で父や友人、家人達の裏切りという仕打ちを受けたレイマンは人間不信に陥っており、ナーゼルに来てからのこの一年、人を寄せ付けなくなっていた。


 それがエリサベータと関わるようになってから劇的に変化が見え始めた。


 冬の氷の様に冷たく硬化していた彼の顔つきが、本来の温暖な柔らかい表情に変化していく様に、ナーゼル家の家人もほっと胸を撫で下ろした。


 これが恋のなせる業であろうか。


 レイマンは初めの頃、エリサベータの美しい容姿に魅了されていた為に彼女と逢うと随分と緊張していた。しかし、彼女との会話を重ねていくうち、普通に接することができるようになってきていた。


「エリサ!」

「まあ、レイ様!今日は如何(いかが)なされたのですか?」

「少し散策でもどうかと思ってね。迷惑だった?」

「とんでもございません。とても嬉しく思います」


 今ではレイマンもこんな誘いの文句を自然と口にできる。


「エリサにこれを」

「まあ!カーネーション。素敵……」


 白いカーネーションの花束を差し出すと、エリサベータの顔が(ほころ)んだ。


「とても嬉しいです」


 エリサベータの喜ぶ姿に、レイマンの表情も柔らかくなる。


 最初にピンクのガーベラを花束(ブーケ)にして持参して以来、彼はエリサベータの元に訪れる際によく花を贈るようになった。


 二回目の訪問時にはピンクと白のアスチルベを、前回はリナリアだ。そして、今回は白いカーネーションの花束(ブーケ)……


 恋の訪れ……

 この恋に気付いて……

 純粋な愛……


 エリサベータは花を受け取りながら、ちらりとレイマンの綺麗な顔を盗み見た。


──偶然でしょうか?


 ディノとカティナの仕込みに気付かぬレイマンは、エリサベータの喜ぶ姿に微笑むだけであった。


 彼女は自分ばかり意識しているのかと頬を赤らめた。


「近くに涼める湖があるらしい」

「そうなんですの?」

「景観も素晴らしいと聞いた。そこまで行ってみないか?」

「喜んで!」


 小さな紳士がエスコートを申し出ると、小さな淑女は微笑んでその腕に手を添えた。そんな二人の愛らしい姿に、お互いの家人が相好(そうごう)を崩した。


 湖畔まで歩いて小一時間ほど。


 太陽の光をいっぱいに浴び、キラキラと湖面が輝いていた。水辺には木々が自生し、その日陰にアイリスがひっそりと咲いていた。


「思ったよりも距離があったな……エリサ疲れただろ?」


 レイマンの(いたわ)りの言葉に彼女は軽く首を振る。


「これくらいなら大丈夫です」

「そうかい?僕は少し疲れたかな。あそこの木陰で休もう」


 何気ないレイマンの気遣い。レイマンは自然と他人を思いやれる所がある。いつもの彼の小さな優しさがエリサベータには嬉しい。


 小さな事を大事にし、積み重ねる。簡単なようで、それがどれ程難しいことか……


 強い日差しを避けるため、レイマンはエリサベータを木陰の一つに(いざな)い、家人が用意してくれた敷物の上に腰を下ろした。


 木漏れ日が湖面に反射し、その光がエリサベータを包む。

 初夏の風が湖面を吹き抜け、木陰で休む二人に涼を運ぶ。

 揺らいだ湖面が、光を散乱させて生まれる小さな煌めき。


 その瞬きは水辺の白いアイリスを幻想的に装飾し、エリサベータの心を打つ。


──綺麗なアイリス……


 エリサベータは隣に座るレイマンをチラリと伺う。


 彼女がナーゼルへ来てからまだ日が浅い。レイマンとの会って話す機会も多くはなかった。だが、彼との僅かな会話の中でその為人(ひととなり)は雄弁に語られていたとエリサベータは思う。


 エリサベータは再び風に揺れるアイリスを眺めた。


──アイリス……『信じる心』


 彼ならば自分を理解してくれる。


 そう信じたい……


「レイ様……」


 呼び掛けて見詰めてくるエリサベータに彼は優しく笑いかける。


「実はお願いがあるのです」

「エリサがお願いなんて珍しいね。いったいなんだい?」

「私は領地の孤児院を援助しております」

「うん。貴族の振る舞いとして立派だね」


 エリサベータは一拍置いた。

 彼女は少し緊張していた。


「それでナーゼルの孤児院にも同様にと考えております」

「エリサ……それは領地を治めるナーゼル家の仕事だよ」


 他領の孤児院への寄付はその地を治める貴族にとって喜ばしい事ではない。満足に自領の統治もできていないと言われているようなものだからだ。


「私が行いたいのは寄付ではなく慰問なのです」

「慰問?」


 聞き慣れない単語にレイマンは目を瞬かせた。


「孤児院を直接訪問するのです」


 レイマンはエリサベータの言っている内容が理解できなかった。


 このクロヴィス王国は周辺諸国と比べて封建主義が根強い。その為、この国の王族、貴族は神の如き扱いである。王族は神の如き雲上人であり、貴族でも高位の者しか拝謁できない。貴族も同様で、庶民の前に無闇に姿を(さら)す事は決してしない。


 先進的な近隣諸国の中には、既に慰問が風習に根付いている国もあったが、それを知ったこの国の王族や貴族はいい顔をしなかった。


 それは王族の神としての地位を貶めるもので、封建社会を脅かすものであったからである。だから当然、貴族達は自分の子供達にこのような振る舞いを教える筈もなく、レイマンもまた聞き及んではいなかった。


「慰問というのは、不幸に心痛めている者、苦労に喘いでいる者、そういった世俗の者たちを見舞い慰撫(いぶ)する事です」

「……」


 レイマンは顔付きは厳しいものになったが、エリサベータの話を黙って傾聴していた。その様相にエリサベータは少し不安を覚えながらも話を続けた。


「ヴィーティン領の孤児院にも慰問しておりました」

「ナーゼルの孤児院へも慰問したいと?」

「……はい」


 エリサベータはその美しい青の瞳を不安で揺らしながら、レイマンをじっと見詰めた。だが、その不安をよそにレイマンはにこりと笑った。


「分かった。行こう」

「え!?」


 即答だった。


「あの……宜しいのですか?」


 恐る恐る尋ねるエリサベータ。まさか考えもせずに返事が来るとは思わなかった。そんな彼女の姿にレイマンはしてやったりといった感じだ。


「ははは!今回は僕がエリサから一本取れたようだ」


 歳下の幼いエリサが成熟した大人の様で、レイマンは気後れした気持ちを抱えていた。それが今回はエリサの意表をつけたようで少し楽しげだ。


「エリサのその行動は、クロヴィスの貴族として褒められたものではない。だから正直に言えば僕にはその行動の意味が分からない。だけど……」


 柔らかい表情のままエリサベータを見つめ返すレイマンの述懐に、彼女は少し不安気ながら黙って耳を傾けた。


「僕は君がとても凄い人だと知っている」

「私はレイ様に言われる程のことは……」


 エリサベータの否定をレイマンは手を挙げて止めた。


「学問では(まさ)っている自信はある。だけど僕はエリサには敵わないと思ってきた」


 今度は何も言わずエリサベータは黙ってレイマンを見詰めて言葉を待った。


「能力で優っていながら敵わないのは、君の人としての品格が、心のありようが大きく優っているからだと気がついた。だから……」


 レイマンはエリサベータの両手を優しく取り上げて包み込む。


「僕は君の見ている景色が見てみたい。僕も君の知る世界を知りたいんだ」

「レイ様……」


 エリサベータは胸がいっぱいになって何も口にできなかった。


 レイマンは自分の理解の及ばない事でも排他せず、きちんと見極め自分の中で消化しようとしてくれている。それは決して簡単な事ではないとエリサベータは理解していた。


 これはレイマンのエリサベータを想う強さ。

 エリサベータは自分の予感が正しかったのだと確信した。

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