第九話 蒼玉の出立
ナーゼルの領都までは、ここから馬車で一日以上は掛かる。遠くもないが気軽に往復できる程には近くはない。その為、彼女は暫くの間はナーゼルで暮らすことにした。
その為すぐには出立せず、エリサベータはヴィーティンを離れる知らせをナターシャへ送ったり、ナーゼルでの暮らしの準備をしたりしながら一週間ほどを領内で過ごした。
そして準備に追われ気がつけば、エリサベータがナーゼル領へ出立する日がやってきた。
「エリサ、いってらっしゃい。体には気をつけるのよ」
優しい母マレジアの柔らかい抱擁を交わし、エリサベータはにこりと微笑んだ。
「秋までには戻ります」
「もう少し早くに帰ってこれないのかしら?」
エリサベータの挨拶にマレジアは不服そうな顔をした。
無理もない。まだ幼い愛娘が半年も別の領地で暮らすのだ。アムガルトは苦笑いした。
「マレジア。その件については散々話し合っただろう?」
「お母様。ナーゼル伯爵様は温和で人格にも優れたお方と聞き及んでおります。ご心配には及びません」
まだ何か言いたそうなマレジアに、エリサベータも少し苦笑した。
「エリサの事だから問題はないと思っているが、一応これを渡しておく」
アムガルトはエリサベータに書類の入った封筒を手渡した。
「馬車の中ででも読んでくれ」
「これは?」
アムガルトから厚みのある封筒を渡され、エリサベータは不思議そうにそれを眺めた。
「レイマン・ナーゼルについての調書だ」
アムガルトは王都でのレイマンの事は知っていたが、廃嫡後に彼がどのような変遷をたどってレイマン・ナーゼルとなったかの情報を持ってはいなかった。
そこで、このエリサベータが準備に使っていた一週間の内にレイマンについて調査をしていた。その内容を確認してアムガルトはレイマンの境遇には同情したが、同時にナーゼルでの彼の言動に少し彼を買い被っていたとも感じていた。
果たしてこの報告書を読んで、この九歳とは思えぬ聡い娘は彼をどう思うだろう。
そんなアムガルトの視線を受けていた当のエリサベータは、その封筒をじっと凝視していたが、やがてアムガルトに顔を向けるといつもの花が咲くような笑顔を見せた。
「お父様。私の為にお骨折り頂きありがとうございます」
深々と頭を下げたエリサベータは、再び父母に笑顔を見せてから馬車に乗り込んだ。
愛する両親に見送られながら、エリサベータの乗る馬車はナーゼルへ向かってゆっくりと進み始めた。
「エリサ!何かあったら直ぐに帰ってきていいのよ」
最後まで往生際の悪い、だけれども自分の事を深く愛してくれている母の言葉にエリサベータは窓から身を乗り出して手を振って応えた。
「行ってまいります!お父様!お母様!」
これにはアムガルトもマレジアも驚いた。確かに色々と破天荒な事をしでかす娘だが、それ以上に淑女としての教育の行き届いた落ち着きのある少女だ。間違ってもこの様なお転婆な真似はしない。
これも隣領スタンベルグの令嬢の影響だろうかとアムガルトは苦笑いしたが、普段から大人びた娘の子供らしい一面を見ることができて、寧ろ嬉しくなった。
アムガルトとマレジアは愛する娘の馬車の姿が見えなくなるまで門前でじっと佇んでいた。
馬車はゴトゴトと音を立て、エリサベータを揺らしながら街道を進む。ナーゼルと同様に田舎の一地方であるヴィーティンもやはり街道の整備は遅れているようであった。
「明日の昼にはナーゼルのお屋敷ね」
ふとエリサベータが呟くと、共に馬車に乗った侍女のツェツィアと従者のエトガルが頷いた。この2人はエリサベータについて来てくれたヴィーティン家の家人だ。ナーゼルではそのままエリサベータの世話係となる。
「はい。昼過ぎに到着するナーゼルの領境の町で一泊いたします」
歳の頃が二十になろうかというツェツィアが口を開いた。
「流石に今日中に到着するのは無理ですか」
「不可能ではありませんが……」
四十前後くらいの従者エトガルが困ったように笑った。
「エリサベータ様は馬車での旅に慣れておりませんし、強行してもナーゼルの領都に到着する頃には夜になっておりますよ」
「そうですよね。夜分遅くに来訪しては、ナーゼル領の皆様にご迷惑ですよね」
エリサベータは迂闊な自分の発言に少し気落ちした。
「初めて領都の外へ行くので、少し浮かれていました。申し訳ありません」
エリサベータは馬車の窓から外を眺めた。
「急ぐ旅でもないものね。知らない土地を楽しみながら進みましょう」
窓から外を眺めていたエリサベータが空を見上げれば、雲一つない快晴だった。
「朝は寒かったけど、太陽が顔を出しているお陰でポカポカして暖かくなってきたわ」
その天気と同じように晴れやかな愛らしい笑顔に二人の家人も思わず微笑んだ。
「明日も晴れるといいな」
誰にともなくエリサベータは呟いた。
燦燦と輝く太陽の光が街道を明るく照らし、エリサベータ達を乗せた馬車はナーゼルへ向けてゆっくりと進んで行った。




