光波
すごく優しい人だった。その人でわたしは初めて綺麗なキスをした。
地元の友達とか、大学で仲の良かった少ない友人は、みんな元彼の話とかしないんだけど、わたしは誰にでも話してしまう。それくらい忘れられない人だった。
その人と初めて話したのはいつだったかな?思い出すと少し身体がだるくなるような気もするんだけど、日記みたいな文章を書く時くらいはしっかり思い出して、描写したい。
芸大に入ってすぐのことだった。わたしは昔から好きだった静物画を描くために油絵を専攻してて、彼は彫刻を専攻してた。出会わなそうなわたしとその人だったけど、サークルの新歓で偶然席が隣になってすごくたくさん話をしたんだ。
その日は新入生もみんなお酒を飲んでいたかもしれない。だいぶ年季の入った和風居酒屋で、ちょっと埃っぽいし、お通しの大きなサラダに乗ったクルトンは、油っぽくてあんまり美味しくない。少し憂鬱な気分だったと思う。
周りで騒いでる先輩とかもちょっと鬱陶しくて、生理中ってのもあって、アルコールの匂いとか靴下の匂いとかすごく嫌だった。10数人程度のめちゃ小さな集まりだけど、ストレスは大きいです。みたいな。
わたしは身体も弱いし、お酒は飲めないし、趣味も暗かったし「わたし馴れ合うのとかまじで無理です」的オーラを頑張って出して、なんとかお酒を飲ませようとする学生達をいなした。面倒臭いやつだったんだわたしは。
そんなことだから、うまくみんなと打ち解けられなかったんだけど、その彼は酔ってたのかしつこく話しかけてくれた。
先輩で趣味は音楽。黒いシャツにバンドのロゴが入ってて妙に垢抜けてるというか、遊び慣れてる感じ。身長は172cmで体重は覚えてないけど確か69kgとか?そうだ“ロック”。馬鹿な人でなんでもゲラゲラ笑うというかそんな人。
あんまり異性と喋るのも嫌で、内向的というか塞ぎこむ感じの女の子だったわたしに色々質問してくれて、なぜかわたしもその人とは自然に話せた。場のノリみたいなのは当然あったと思う。でもちょっとちがう感じ。
他愛のないことをよく聞いて笑ってくれる人だった。趣味はって聞かれて、モンブラン食べることって言ったら笑うし、好きなタイプはって聞かれて、黙っててすごく無愛想でカッコいい人って言ったら泣きながら笑ってた。
うざすぎるなーと。思ってたけどわたしも気づいたら笑ってて、それがやっぱりうざかった。わたしから聞いてもないのに勝手に分析しはじめて、痛い子とか。少女漫画描きたくて芸大入ったんだ?とか言いはじめる人。なんかうけるというかそんな人だったんだ。
月並みな表現?なんだけど外は少し肌寒くて、手垢で汚れた居酒屋の窓の外で小雨が降ってた。西の方角の郊外から雷が鳴って、雨足が強まる前というかそんな時。一際大きな雷の音が鳴って、停電した。
居酒屋のおかみさんは、すぐ宴会部屋の畳の部屋にきた。普段、ご主人のおじさんバンドが使ってるでっかいブラックライトを非常用のバッテリーに繋いで急場しのぎで点けたの。
そしたら彼の黒いバンドTシャツがブラックライトに当てられて感光してて。その緑の光がハムスターみたいだった。わたしも流石にめっちゃ笑って、さっきまで垢抜けて少しはかっこいいと思えてたその人がすごく可愛く見えたんだ。
気づいたらわたしの黒いブラウスも少し透けて光ってて、下着のラインがクラゲみたいになってた。みんなに見られてる気もしたし、白い下着つけてたのわたしだけですごく恥ずかしかった。普通に死にたくなった。
でも彼が笑わずに、すぐハムスターのシャツを着させて、すごく心配そうな困った顔で「大丈夫だよ」って言ってくれたとき、馬鹿みたいにちょろいけど大好きになった。今書いてたら、これこそ死にたいって感じなんだけどね。
それから連絡先を交換して、二人とも暇な日はわたしの実家のある横浜で遊ぶことが増えた。東京方面であんまり遊んだことないから気遣ってくれたんだと思う。
最初は何を話していいか分からなかったんだけど、彼がしてくれたようにわたしも色々質問して、勉強した。
海の見える丘公園とか、赤レンガ倉庫とか。みなとみらいの近くの美術館とか。そういうところで二人でずっと話したんだ。
もう一人にくっついちゃってもおかしくないくらいお互いのことがわかって嬉しくて、たまに泣いた。わたしじゃだめかもなーって。
それから半年たった秋。肌寒くて、海の風が強い夜景の綺麗なコスモワールドのジェットコースターに乗った。見えるものは見慣れたビルとカップルばっかり。
絵文字でいえば「ぴえん」なシチュエーション。まあ付き合ってないからそう思ってただけで、深いところの気持ちはそんなことなかった。嬉しかった。
“カップル”だって周りが視線で認めてくれた気がしたんだよね。
すごい風が強いから稼働しないかなと思ってたジェットコースターのシートで、風の音で掻き消されるような「付き合おう」って彼の声がした時、ちょうど急降下。
叫べなかった。怖くなくなった全部。
そこから縦に揺れ横に揺れるシートをすごいぎゅっとして、飛ばされないようにお願いした。神様は信じてないけどなんかそういうものに。
ジェットコースターの揺れながら急減速するゴールの乗降場に着くまでのGが、無限に感じる。今でもそこにいるんじゃないかと思うほど無限の時間があったんだ。
でもファンタジーじゃないからやっぱりそんなことなくて、素直に降りて預けたロッカーから荷物を取って、何もいえずにぼーっとした。どっかに心が置いてかれちゃったみたいに。
気づいたら手を繋いだまますぐ近くの海沿いの橋にいて、ベンチに座ってる。気化熱で体温を奪われて少し震えてた。
橋のそばから伸びる、少し早めのクリスマスイルミネーションが乾きはじめた空気のなかを飛び越えて海面に反射していた。
水中に投影された摩天楼の虚像は、無粋な屋台船の船曳に轢かれて滲んで。滲んでたんだ、綺麗に水っぽく。
「泣かないで」
そう言われてやっぱり泣いてたんだと、ちょっとダサいなーと思ったけど、限界で。嬉しくてどうしようもなくなって滅茶苦茶に泣いた。たまに振り向くカップルさん達や外人、ランニングしてる人達がどうでもよく見える。
本当に好きすぎてつらいなと思った。
わたしもまだ若かったから、キスしてって駄々をこねて忘れられない小さなキスをした。その人と初めてする甘いキス。まだ返事もしてないのを忘れるほど好きだったんだ。
浮いてたような二人がたぶん、人混みに馴染んだ。
海面の波が緩く光って溶けるようなそんな人だったんだ。