ep.116 とっとと生きてみろ
「あの時の姿にそっくりですね。参考にしたんでしょうか」
セズナが横から興味深そうに覗き込んでいる。
「どうやらそうみたいだな。結局は借り物の姿だったというわけか」
「父は、魔族の王に傾倒している節がありました。だからかますます強さにもこだわるように。そこから実験で満足のいく結果が出ずに苛立つことが多くなり、館ごと燃やしてしまったこともあります」
不死身だけでは飽き足らず、かつての大敵に美学を見いだしたのか。それとも背後に何らかの理由があったのか。
「きっかけはおそらく国策としておこなっていた組織的な植民計画。他国へ侵出するにはもっと力が必要だと言っていたのを耳にしたことがあります」
「世界征服でもするつもりだったのか」
「……いえ。そんな雰囲気ではなかったのですが」
少なくともそのせいで戦争に関する噂が流れていたのは間違いないだろう。
「もしかしたら、焦ってたのかもしれない」とセズナが横から口を挟む。
「どうしてだ?」
「森が瘴気によって完全に侵食されてしまったら誰も住めなくなる。地面は荒れ、植物も枯れて、魔素も枯渇してしまう。そうなれば不死身の術にも支障をきたすでしょう」
代償なのだろうか。ビザールの禁術は無尽蔵に瘴気を生み出していた。森が浄化できる量を超えて。だから禁足地が増え続けて、それを案じた彼女の両親は直談判に行ったのだ。
「本体を移す次の場所を探していたのかもな。手近な候補地が見つからず、国外にまで手を伸ばさざるを得なくなった。あの森が使い物にならなくなる前に」
「そうならなくて本当によかった……。これでみんなも居場所を失わずに済んだ」
森を追われるというのはエルフたちにとっても絶望的。また決死の覚悟で放浪の旅に出なければならないからだ。
「だが、元に戻るまでにはかなりの時間がかかるだろう」
「はい。森は大きく傷つき、私たちの花も枯れました。これから少しずつ復興していくことでしょう。そうしていずれは元通りの姿に」
セズナはどこか他人事ふうに語って、再びその目を弟に向けた。
「もしここが辛くなったら、森に行って。みんなにはもう伝えておいたから、きっと受け入れてもらえると思うわ」
「私が……エルフとして?」
混ざり者の彼は目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「ありがとう、姉さん。でもまだやらなければいけないことがたくさんあるから」
「ルドル。無理はしないで」
「分かってるよ。けれど加担したからにはちゃんと最後まで責任を取るべきだ。……きっと私はそのために生まれてきたのだから」
ある時から自分が望まれぬ出生であることを悟ったルドル。全てを背負い込んで尻拭いをすることがこの身に紐付けられた運命であり罪なのだと。そう思っていた。
子は親を選べない。そしてその出自も。
「そんなことない。あなたは自分の人生を生きられる。いつからだって遅くない」
「……姉さん、でも私は」
「あなたは私にとってかけがえのない大切な弟よ。どんな生まれでも、過去に何かあったとしても、あなたが何を思っていても、周りが何を言っても、そこだけは絶対に揺るがない」
被せるようにしてセズナが言い切ると、ルドルは思わず泣きそうになって顔を背けた。
「……すみません。疲れのせいで涙脆く……」
「いいのよ。別に泣いても」
「……いえ」
小刻みに震える唇。どうにか涙を堪えようとするが勝手に溢れてくる。ルドルは腕で涙をぬぐってから向き直ったが、また溢れ出てきた。それをぬぐっても、また。
「我慢しないでいいから」
セズナは彼に寄り添ってもう一度抱き締めた。
嘆きの悲境。ヒトでもなければエルフでもない。それでいて愛を知らぬまま罪の意識に苛まれて生きてきた男は自分自身を否定し続けて、喜びや幸せといった類のものを感じてはいけないのだと思い、それを許さなかった。
「――お前の価値を決めるのはこの世界じゃない。お前自身だ。分かったら、とっとと生きてみろ」
そう言い残してセンリは部屋から出ていった。後ろ手に扉を閉めると、大の男が子供のように泣きじゃくる声が聞こえてきた。
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静かな夜更け。部屋から明かりが漏れている。それはまだ起きているセンリが本を読むために使った魔術の光だった。頭上で小さく上下左右に揺れ動いている。
不意に扉が何度か優しく叩かれた。返事を待たずして開き、そこからヒトではないエルフの、見知ったセズナの顔が現れた。するりと中に入って後ろ手に扉を閉める。
「――まだ起きていたんですね」
「こんな夜更けに何の用だ」
本に視線を落としたままセンリは聞く。来訪者を気にしている様子はない。
「どうしても感謝を伝えたくて」
「俺は自分の目的を果たした。ただそれだけだ」
「相変わらず皮肉っぽい。素直になれないんですね」
セズナは小さくため息をついてゆっくり歩み寄ってくる。
「あの時、あなたを信じてよかった。どうなるか不安だったけど、決して屈しないその姿を見ていたら、私の中にも抗う勇気が湧いた。こう言われるのは嫌かもしれませんが、かつて世界を救った勇者たちのような、そんな希望を与えてくれました」
「よく喋るエルフだ」
「お喋りエルフはお嫌いですか……?」
言いながらセズナは服を脱いだ。今まで誰にも許したことがない全てが露わとなる。透き通るような青白い肌がかすかに紅潮し、蒸れた革製の長靴を脱いでベッドに上がる。
「あなたのことがもっと知りたくなった。その奥深くまで」
女は男の読んでいる本をそっと取り上げて邪魔にならない脇に置いた。そして優しく手を重ねるとまたがり、心の中へ沈み込むように身体を寄せて、そのままゆっくり押し倒した。
「今夜は悪夢ではなく、きっと良い夢を」
上から熱い吐息が男の顔にかかる。有無を言わせずに薄紅色のぽってりとした唇が下りてきた。
触れてほのかに、あの花の香りがした。
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心が満たされるような優しくも荒々しい温もりを感じて、もうすぐ夜明けのあたり。
「――あの契約ってどうなるんですか」
ベッドの上、白い布にくるまったセズナがふと尋ねた。感情に淡かったその瞳は潤んでいて、前よりも親愛なる人間味を帯びていた。
「ここを離れるなら、ほとんど意味がなくなってしまうような……」
「意味はある。いつか、孤独に彷徨う亡霊の拠り所にはなるかもしれない。縋るものを失った人間は何をしでかすか分からないからな。こんな呪われた力を持っているならなおさら」
裸のセンリが上半身を起こして答える。自身の掌をじっと見つめて。
「……その力って、使い続けると何かあるんですか?」
「呑み込まれる、という話だ。かつての魔族の王のように」
大災厄の主が異世界から来訪した人間だったというのは世界中に広く知れ渡っている事実。有していた力に呑み込まれたという話はあまり知られていなかった。
「……知りませんでした。じゃあ、魔族の王はそのせいでこの世界を……」
「正直なところ何も分からない。ただ力に呑み込まれて己を制御できなくなったから暴走していたのか。それとも何らかの強い思いがあって、この世界に牙を剥いたのか」
どういうきっかけで魔族の王がそうなってしまったのかは後世にきちんと伝えられていない、まさに歴史の闇とも言えるものだった。
昔から歴史は勝者によって記録される。世界中の多くを苦しめた人類の敵であり大敗者の境遇など吟味されずに、悪いところだけが抜き出されて、煮詰められていく。真実を知ろうとする者などいないに等しかった。
かすかに震える掌。怒りでも恐怖でもない。この血に、この力に、翻弄されて数多くの大切なものを失ったことへの深い悲しみ。
「大丈夫。あなたはそうなりませんよ、きっと」
彼女の伸ばした白い手が彼の掌を優しく包む。血の通ったその温かさは、まだ自分には確かな人間性が残されているのだと男に改めて思わせた。