ep.110 闇の中に囚われ続けろ
「――だが今は違う。あの時の未熟さは消え、私は成熟した。もはや恐るるに足りず」
ビザールは独り言のように話しながら木々の合間を縫うようにして動き回っている。
「さっきから何をブツブツと喋ってる」
耳を傾けずとも勝手に入ってくる彼の意味不明な話。センリは呆れつつも油断はせず冷静に攻撃を捌く。
突風の戦斧。
ビザールが身軽に跳ね上がった直後、上方から吹き出した強風が斧の形を成して振り下ろされた。速いが動きは単調。造作もなく避けられるとセンリが思った矢先、足に木の根が絡みついた。矢継ぎ早に伸びてきた蔦で利き手をからめ取られる。
刹那的に機転を利かせて魔術障壁を攻撃点に集中。風の斧を受け止めながらその余波を利用し、器用に身をよじって木の根と蔦を切り離して脱出した。
踏み外しが死に直結する。魔術師同士の狭小でいて高密度の戦い。
前方。唐突に出現したビザールが迫ってくる。センリは鞘から剣を抜くようにして手を揺らした。煌めく漆黒の掌から伸びた破壊の煙霧が自身の鼻先をかすめる。
「――決着をつける時だ」
ビザールの声。センリは一瞬だけ視線を下げて自らも攻めに入った。地面を踏み、落ち葉を巻き上げ、ぶつかるというところで、膝を曲げ、頭上を軽やかに飛び越えた。
着地し、地を蹴って、さらに前へ飛び込みながら、破壊の掌を何もない空間に向けて振り抜いた。
虚空に消えた手首の先。そこを中心として波紋状にじんわりと景色が変わっていく。
「――あっ……あ……」
現れたのは別のビザールだった。心臓部に掌が突き刺さっている。
「さすが完璧な幻影だったが、落ち葉が巻き上がらなかった」
わずかな綻び。単純な見落とし。さきほどのビザールは幻影だった。囮を使い、本体はすぐ後方で機を窺っていたのだ。
「まッ、だ」
センリは力を込めて一気に破壊。それ以上は喋らせなかった。
地べたを這いつくばっていた者だからこそ気づいた足もとの忽せ。生きとし生けるものを蔑ろにしてきた雲の上の人間には分からぬ爪の垢だった。
次が来ないことを確認して、とりあえずセンリは己だけで目前の禁足地へ向かった。周辺を探し、張られた縄を見つけてその向こう側へ。進んでいくと、大きな骨塚が現れた。
セズナたちが当たりを引くことも考慮に入れて骨塚の周りを探し求める。
「……外れか」
けれど目ぼしいものは何もなく帰ろうとした矢先、塚の上から何かが落ちてきた。頭骨に当たって何度も軽快な音を鳴らしながら下のほうへと。
片膝をついてそれを拾い上げると、凝った意匠のブローチだった。
「どこかで……」
見たことのある飾り。世界樹の枝を象った鋼の金具に緑色の宝石が埋まっている。
ふと顔を横へ向けると、視線の先に何やら沼らしきものが見えた。
センリはブローチを懐にしまい、何かに導かれるようにしてそのほうへ。
実際に近づいてみると、やはり沼だった。さほど大きくはないが、ひどく濁っていて底は見えない。これがいわゆる底なし沼というやつだろう。
不意に眼帯の裏が疼いた。その拍子で目線が下へいく。沼のほとりに何の変哲もない石があった。何気なく近寄って見てみると、表面に乾いた泥が付着していた。目を凝らせば、どことなく足形のようにも見える。
改めて沼のほうへ目をやるが、特に変わったところはない。ただここへわざわざ踏み入るような馬鹿はいないと思えるだけの静かで危ない場所。
「…………」
センリはじっと見つめている。喉奥に小骨が刺さったような違和感を抱えて。
環境のせいで上手く感じ取れないが、あえて意識を限界まで集中してみた。すると浮かび上がってくる極小の揺らぎ。景色の一点が、ごく短い間だが欠けてから元に戻った。何かがおかしい。
あろうことかセンリは馬鹿の真似をして沼に踏み入った。足に絡む、引き摺り込まれるような感覚。そこからさらに違和感を覚えた一点に向かって勢いよく飛び込んだ。
「――ッ」
ストン、という音が今にも聞こえそうな感触でセンリは落下し、どこかに着地した。服はひどく汚れたが気にしていない。見上げると丸い外の景色が見えた。
沼の底というよりは井戸の底に近い感覚で、壁の手触りから巨木の樹洞を思わせた。
薄暗い闇の中、奥へ進む道が見えてセンリは歩いていく。泥だらけの格好で。緩い上り坂を進んでいった先に、外への明るい出口があった。
その出口の向こうは、苔生した新緑の景色が際立つ美しい場所だった。時が止まったような穏やかさ。幻想的な姿の動物たちがいて、目と鼻の先に自然の洞穴があり、見知った男が立ちはだかっている。この場の優美さにそぐわない雰囲気で、センリは口の中の土を唾とともに吐き捨てた。
「……かつての勇者の子孫とは思えん、下劣な獣め」
「獣で結構。だいたい、お前にだけは言われたくないがな」
「どうしても、私を殺すというのか」
「当然だ。俺はお前を見逃した先代ほど甘くはない」
「七賢者に手を下せば、この世界を敵に回すぞ」
「上等だ。相手になってやる」
勇者と賢者の問答は平行線を辿り、決して交わらない。そのことはすでに互いが分かっていること。
「ここへ至るのがお前でさえなければ……」
深く無念を抱いた表情で男は言った。そこにさきほどのような力はもはや感じられない。
「邪魔だ。どけ」
センリはその力で情けなしに男を破壊し、洞穴の前に立った。
「……これは」
洞穴の入り口には魔術障壁が張られていた。強力なんてものじゃない。長い年月をかけて何百何千も張り継がれたまさに鋼の要塞。術者本人すらも一度入ったきり出てこられないほどの強固さである。
密接に重なり合った一枚一枚の障壁はそれぞれ別の術者のもので、おそらく彼が乗り移った成熟体がここを訪れては継ぎ足していったのだろう。高純度・高濃度の魔素が漂うこの地だからこその為せる技。
ここでようやく彼がセズナたちを無視して行かせた理由が分かった。仮に彼らがここへたどり着いても文字通り何もできなかっただろう。
あまりに強力で破るには途方もない時間がかかる。様々な術者の障壁が入り混じっているので、上手く波長を合わせて通り抜けるという裏技的技法も使えない。
だがセンリには手がある。この世の法則に叛いて破壊するその力が。
「この因縁に先ず終止符を打つ」
漆黒に煌めく掌で、そっと触れた。ただそれだけなのに、長い年月を経た鋼の要塞は見事に瓦解した。途端に桁外れな量の瘴気が溢れ出してきた。
センリはとっさに腕で庇い、魔術で防護した。少し落ち着いたところで中に踏み込み、眠る本体のもとへ。暗いので光を灯し、岩肌を触りながら先へ進んだ。
感覚として下りながら、角を曲がると突如として広い空間に出た。光を掲げると、その姿が露わになった。
巨大な心臓だったのだ。目を見張るほどの。
天井からぶら下がり、血道のような管が至るところに張りついていて、音を立てながら脈打つ腐食した赤の肉壁を確かに支えている。岩壁にはいくつも横穴があり、噴き出す瘴気の一部がそこへ吸い込まれるようにして逃げていた。
「これが本体か。お似合いの姿だな」
言ってセンリは片手を振るう。飛ばした衝撃波が心臓を真正面から切り裂いた。赤黒い体液を噴いて、緩やかに鼓動が停止。中からずるりと滑るようにして何かが出てきた。
「……ぁ、ぁ……」
粘着質な薄い膜から骨と皮だけになった人の老体が這い出てくる。
「……しにィ、たクなァ……いィ……」
しゃがれた声で喋る男。これが当時から生き長らえていた、本当のビザールだった。
「……こワいィ……たスけてェ……」
這いずってセンリから逃げようとする。いや、死そのものから逃げようとしていた。治癒魔術を極めるきっかけは痛みへの恐怖。そして、不死身の原点は死への恐怖だった。
「い、いやだァ……! やだァッ……!」
センリの足もとが見えると、生を渇望する亡者はしわがれた叫びを上げた。
「あぁアあぁァあぁアッッッあ……!」
「……他人の生を貪りすぎたお前は……」
センリは見下しながら男の頭に片足を載せて、
「――未来永劫、闇の中に囚われ続けろ……ッ!」
ぐしゃっと、一息に踏み潰した。
「…………」
永遠の沈黙。不死身の男が思い描いていた次の千年が訪れることはもはや、ない。
鼓動の音が途絶え、排出していた瘴気が止まった。センリは男の軌跡を消すようにその掌で全てを破壊し、一度も振り返らずに洞穴を去った。
森を覆っていた瘴気が晴れるにつれて魔物の気配が消失していった。本体を探していたセズナたちはふと枝葉の合間から空を見上げて、全てが終わったことを悟った。
集落の人々も同様に災いが去ったことをそれとなく察し、緊張の糸を解きながら周囲を注意深く窺い、おもむろに耳を澄ました。すると、ほら。
森の息吹が、聞こえる。元気な産声とともに。