ep.109 あの時と同じ光景だ
周囲を漂う赤黒い瘴気はさらに濃くなり、魔物の鳴き声が集落の間近まで迫っていた。
万が一のことを考えてセンリが集団の先頭に。そのすぐうしろで案内役のセズナが指示を出す。それを守るようにしてハヴァマ率いる有志たちが控えていた。
木陰から魔物が容赦なく次々と襲いかかってくる。センリは前方だけに集中して、あとは全て後方の戦士たちに任せた。
腰抜けと呼ばれた彼らだが、今や名誉挽回の機を虎視眈々と狙う不屈の狩人と化した。眼光鋭くその手の武器を振るって、ただの1匹も討ち漏らさずに前進している。もはやそこに恐れはなかった。
「なん、だ、これは……」
囲われた縄の先。最初の目的地で人骨の塚を目の当たりにしたエルフたちは口をあんぐりと開けて驚いていた。
単なる塚だと思われていたが、元々はかなり深く掘られた大きな穴に廃棄されていたことが分かったのだ。つまり穴がいっぱいになってしまったから、その上に高く積み上げられていった。
こんなものが残り8つ。これでは人食いの種族と声高に叫ばれたとしても仕方がない。それがエルフの在り方だと頑なに主張していたハヴァマも、暴食の跡が残る節操のない光景に辟易し、大いに失望しているようだった。
骨塚の周辺をくまなく探して何の異常もないと全員が判断すれば、それ以上こだわらずに次の場所へ。
それを2つ目、3つ目、4つ目と同様に繰り返していく。そうしてもうすぐ5つ目に差し掛かるところで、
『異種族を従え、かつての勇者気取りか』
近くから声が聞こえた。少し違和感はあるが、それはまさしくビザールのもの。
「出てこい。いるんだろう」
『くだらん遊びはもう終わりだ』
スッと木々の合間に人影が見えた。瘴気交じりの濃い魔素が作り出す感知能力殺しの空間。さすがのセンリも警戒して態勢を整える。
「合図をしたら俺を置いて別の場所へ行け」
『そんな真似をせずともよい。用があるのはお前だけだ』
「どうしましょうか」セズナが小声で問う。
「……行け」
周囲の様子を見てセンリが一言。セズナたちは慎重な足取りで次の進路を定める。その最中にハヴァマが振り返って言った。
「契約とは両者がいて成り立つものだ」
含みのある内容。『死ぬな』とも『守れ』とも取れる彼らしい表現だった。
そのままセズナたちは別の骨塚へ向かった。何事もなく、すんなりと。
「まだずいぶんと余裕があるんだな」
センリは皮肉交じりに返した。それに対してビザールは笑った。
『元よりやつらには何もできぬ。たとえ全てを知っていたとしても、な』
声はだんだん近づいてくる。そして、木陰からその姿を現した。
「人型成熟体の傑作。まさかこれをお前に晒すことになるとは。これは運命か。いや、宿命と言ったほうがいいかもしれんな」
目にしたのは背のすらっとした若かりし頃のビザールだった。服は教徒の正装ではなく先の大戦時に着ていたものによく似た意匠。声に違和感を覚えていたのは声帯も若返っていたからだろう。
「ここでは、お前はあの時のような粗雑な戦いはできん」
「それはお前もな。お互い様だ」
地形を変える大規模な魔術の行使は双方にとって深手になりかねない。ビザールにはおそらく眠る本体が、センリには契約したエルフたちが。勢い余って巻き込む可能性がある。
「ここは一つ、原始的な戦いといこうではないか」
彼の言う原始的な戦いとは太古の時代、まだ魔術が体系化されていなかった頃の未洗練な戦い。詠唱はなく、今では子供でも使えるような初歩的な魔術の発動にも苦労していた。
ビザールが優雅に手を構える。一拍、置いて。視線の残像が横へ流れた。
火炎の鋭爪。
深い瘴気の向こうから懐へ飛び込んできたビザールをセンリは紙一重で避けた。すれ違いざまに燃え盛る爪が魔術障壁ごと切り裂いて、わずかに触れた袖口を焦がした。
「――ッ」センリが舌打つ。
妨害の如く透明な霧がかかって気配を感知しづらい領域。加えて相手の魔術は素朴に研ぎ澄まされている。一点の曇りもないほどに。
「この圧縮された戦いの感覚。聖地での試練のようだ」
すでに姿はなくビザールの声だけが聞こえてくる。右に、左に、周囲を飛び回りながら。
氷柱の暴雨。
茂る木々の奥から小さな氷の槍が横薙ぎに大群となって押し寄せた。張り直した障壁に点々と穴が開く。魔術は完璧に御されていて、驚くべきことに威力は化け物の時と遜色ない。
センリは反撃に出る。
本能と経験から導きだした読みで、全身を内側から押す。横へ倒れるように見えたのはほんの一瞬で、詰め寄ってきたビザールに対して切り返しの一撃を、漆黒に煌めく掌を放つ。
剣戟ノ掌を警戒した身のこなしで華麗に回避するビザール。しかしながらセンリも伊達に場数を踏んではいない。軸足から急速に転回して武術の達人の如く振る舞い、二の手を放った。その指先が障壁の膜を突き抜け、相手の腕を引っかくようにしてかすめた。
軽い舌打ち。ビザールは瞬時に肩口から腕を切り落として、新しい腕を生やす。地面に放られた前の腕はすぐに破壊されて霧散した。
やはり力のことを知っているぶん対処が早い。だが急所に近ければ一撃必殺の契り。その緊張感のためか賢者は無意識に冷や汗をかいていた。
「……あの時と同じ光景だ」
ビザールはそっと呟いて当時のことを鮮明に思い出した。
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「――ふざけるなよ」
魔族との大戦の真っ只中。在りし日の七賢者ビザールは人気のないところへ連れていかれ、急に突き飛ばされた。尻もちをついて顔を上げると、そこにはセンリによく似た風貌の男がいて静かにこちらを見下ろしていた。
「いきなり何をする」
「何を、じゃないだろ。お前のふざけた実験のことだ」
「実験……? 治癒魔術の研究のことか? それなら誤解だ。たまに敵の亡骸を使うこともあるが、それは対抗手段のためのもの。決して裏切ろうとしているわけじゃない」
ビザールは必死に釈明したが、男は深い落胆の息をついた。
「そうじゃない。俺が言いたいのは、人間を使った実験のことだ」
「……人を使った実験はみなの承認を得ている。そうでなければ治癒魔術は進歩しない。まさかそれを咎めるためにここへわざわざ連れてきたのか……?」
「承認はされた。が、条件があったはずだ。生身の場合は本人の承諾を得ると」
「その通りだ。だからこそそれに従い、こうして被験者探しに苦労している」
「……本当か?」
男の鋭い眼光がビザールを貫いた。背筋が凍りつくような余韻を残して。
「ちゃ、ちゃんと承諾を得ている。誓ってもいい」
すると男はしゃがみ込み、顔を目と鼻の先まで近づけて、
「……お菓子をあげるから、楽しいことをするから。そんな言葉で子供たちをかどわかしていたそうじゃないか」
ビザールへ悪魔の面構えで語りかけた。言われた当人は瞳孔を広げて声を失う。
「まさかそれを『承諾を得た』と言い張るつもりじゃないよな? お前のようなやつは俺の世界じゃ重罪人だ。死刑か、良くても永久に牢獄から出られない」
「こッ、これはっ、いずれ世のため人のためとなる研究だッ。完成すれば、もう誰も死を恐れることはないッ、不死身の兵団がっ、この長きにわたる戦争を終わらせるッ! 崇高な理念には犠牲が付き物なんだッ! 分かるだろッ、なあァッ!?」
派手に唾を飛ばしながらビザールは震えた声で訴える。しかし、
「……子供を生きたまま解体するのが崇高な理念なら、俺はそんなもの一生理解しなくていい……!」
男は殺意に満ち満ちた双眸を向けてから離れ、顔をぬぐって立ち上がった。
「今はまだ、多くの人々がお前の助けを必要としている。だからこの場で殺しはしない。だが、覚えておけ。二度目はない。その時は味方であろうが容赦なく殺す。分かったな」
事実として彼の治癒魔術は味方陣営の立て直しに大きく寄与し、多くの命も救われていた。そのことで男は最後の情けをかけたのだ。ところが、
「――ふっ、ふざけやがってェッ!」
激昂したビザールは踵を返した男に向かって攻撃を仕掛けた。光の刃がその首を捉えたが、寸前でいともたやすく破壊された。
「お前に、理解できるものかッ……! この世界に属さぬ亡霊の分際でッ……!」
振り返った男に向けて暴言を放つビザール。今度は明確な殺意を持って踏み出した。
高速詠唱からのしたたかな一撃。両者がぶつかり合い、漆黒の閃光が小さく跳ねた。
「――ッ!!」
反撃を受けて腕にかすり傷を負ったビザールはすぐに治癒魔術を使ったが、効き目がないことに驚愕した。
「これが、破壊の力か……ッ」
戦場ではたびたび目にしていたが、その身に受けたのは初めてだった。
「手加減はしたが触れれば終わりだ。死にたくなければさっさと腕を切り落とせ」
「こんなものッ、私の力ならば……!」
助言を無視してビザールは魔術を使った。自信があった。たとえ不可侵の力とされていても今の実力なら反故にできると。
しかしながらそれは甘い考えだった。全身全霊の力でも一向に効き目を現さない。破壊の侵蝕は止まらず、みるみる進行していく。
「あァああァッ!!」
この時ビザールは生まれてはじめての絶望的な恐怖を味わった。七賢者の座を手にして何でもできると信じていた自分の鼻が折られたような、覆し難い現実を突きつけられたような気がした。
「――ふゥッ」
ビザールは反吐が出る思いで手遅れになる前に自身の腕を切って落とした。彼の助言に従って。
「はあ……はああ……あァ……」
切断した腕が目の前で破壊の渦に呑み込まれていく。それを見ながら破壊の男は再び掌を構えた。
「やはりお前はここで」
「――敵襲よっ! みんな急いで戻ってきてっ!」
ふと聞こえた女の高い声が男の行動を中断させた。そのまま何も言わずに走り去っていく。
「……く、そがァッ!!」
その場に残されたビザールは、独り悔し涙を流しながら片腕で地面を激しく叩いた。何度も、何度も。怒りのまま一心不乱に。
「ぜっ、たいに許さんからな……! この屈辱は、いつか必ず……ッ!」
この日、相手の足の裏を舐め上げるような辱めを味わったビザール。そして心に誓った。この戦争が終わったら必ず目に物見せてやる、と。