ep.101 あなたに賭けてみます
センリはスッと手の力を抜いてセズナを解放した。彼女は四つん這いになって唾液交じりに激しく咳き込んでいる。しばらくするとだんだん落ち着いてきて話せるようになった。
「……だから、教えてくれなかったんですね。襲撃のこと」
「教えていたらどうした」
「私は行きませんでした。裏切ったと思われたくないから」
「誰をだ?」
「……ビザールを」
彼女ははっきりとその名を口にした。そこに魔術的な呪いはかけられていないようだ。
「お前が、何のために?」
大きな疑問。遠く離れた森に住むエルフの彼女にどんな関わりがあるのか。
「それは……」セズナは口ごもった。
「何をためらう。呪いでもかけられているのか?」
彼女はおもむろに体勢を変えた。四つん這いから横座りへ。静かに顔を上げて、言いかけてはやめるを何度も繰り返した末にようやく話した。
「……言ってしまえば呪縛のようなもの。私は、私の大切な家族のためにあなたたちのことを密告していました」
「家族、とは?」
「この世でたった一人の弟。ルドルです」
「――ッ。待て。どういうことだ?」
さすがのセンリも混乱する。彼はビザールの息子でありながら彼女の弟でもある。
「種違いなんです。私とルドルは」
要は異父姉弟ということ。姉のセズナは純血のエルフで、弟のルドルはヒトとエルフの混血児だったのだ。
「なぜ?」
そんなことになったのかセンリには理解できない。純粋に愛し合ったなど絶対にありえないと分かっているからだ。
「ある時、私の母は父を連れてアドラシオの首都へ行きました。直談判すると。内容は分かりませんが、とても怒っていたのを覚えています。それからしばらくしても一向に戻らず時が経ちました。そしてある日、ヴァフスルー長老から手紙を渡されました」
その時の場面が彼女の心の中に甦る。
「私宛ての手紙で『お前の家族が待っている。一人で来い』と書かれていました。場所も記されていて足を運ぶと、そこはヒトのお城でした」
「それもこの首都だな?」
「はい。待っていると、恰幅のいい男と一緒に……小さな男の子がやってきました」
ビザールと幼いルドル。初めて出会った時の光景が鮮明に浮かぶ。
「私の両親はもう死んだと。そしてその子が母との間に生まれた遺児であることを告げられました。怒りに震えましたが、その時まだ相手が誰なのかよく分かっていなかった……」
見るだけで吸い込まれそうなほどの圧倒的な恐怖の奔流に支配される。面しているのはただの人間ではない。七賢者の名を冠する人智を超えた存在だった。身動きはおろか呼吸すらもままならず当時のセズナは何も言うことができなかった。
『おねえ……ちゃん?』
緊迫した状況にもかかわらず駆け寄ってきた幼い弟がその天真爛漫な瞳で見上げた。
『エルフは家族をとても大切にすると聞いたことがある。ならばそのために尽くすのは本望であろう』
種族としての弱みを突くような下卑た行為。こうしてセズナは彼らの手駒になったのだった。
「……一目見た時から分かりました。血の繋がりを。だから見捨てようと思っても、やっぱり。どうしてもできなかった。憎むべきヒトの、穢れた半身を受け継いでいたとしても……」
以前センリがヒト嫌いの理由を尋ねたことがある。その時、彼女はちゃんと答えずに何かを暗に伝える言い回しで問いかけた。それが示していたのはおそらくこのことだったのだろう。
「やつらの手下になって何をしていた?」
「特別なことはしていません。森の様子や集落の内情を逐一報告していました。たまに森から出ては使いの者に便りを渡して。アガスティアの一団が来ると分かってからはあなたたちを監視するようにと。特にあなたを」
ルドルは彼のもとに残り、セズナは森に返された。この時からすでに将来を見据えてお互いが人質として機能する状況が作り出されていた。
全ては男の手のひらの上だった。
「ルドルとは頻繁に顔を合わせていたのか?」
「いいえ。年に数回だけ。この街か、森の近くの町で。いつもビザールと一緒に」
その日は、安否を確認したり話をしたりすることができる貴重な機会であると同時に、家族愛に寄生した呪縛をきつく結び直す日でもあった。お互いに人質であることを改めて思い知らせるような、そんな惨い意図を孕んで。
「いっそのこと……」
呪いの魔術がかけられていれば諦めもついたのにとセズナは思っていた。自分が何かを仕出かせばその矛先は弟に、そして次はきっと森の仲間にも向くと。まさに生かさず殺さずの状況に長年、身をやつしていたのだ。
「実は、館の存在に近づいてからは隙を窺って始末するように言われていましたが、どうも、あなたは一分も隙を見せてはくれなかった」
思考実験を何度繰り返しても手を下す前に首が飛ぶ。その実、読書の合間に彼女はそんな物騒なことを考えていた。
「そもそもなぜお前の両親は直談判しに行った。それがなければ、こんなことにはならなかったかもしれない」
「分かりません。でもいつの日だったか、両親の会話を立ち聞きした時に気になることを言っていました。あの男との約定はもう終わらせるべきだって」
「約定か」
センリは考える。それが関係しているとしたら不履行になり得る出来事があったのかもしれない。が、新たな疑問が湧いてくる。
「あいつと契約を交わすお前の両親は何者なんだ?」
「両親はあの集落を治めていました。平たく言えば、元々は母が女王の立場にいました。後を継がれたフィヨルダ様は私の叔母にあたります」
フィヨルダは初めから女王だったわけではなく失踪した姉の後任者だった。
「どうりで対応が違ったわけだ」
一介の住民にしては他と扱いが異なることを以前から不思議に思っていたセンリは納得した。他にも何か聞き出せることがないか考えていると、不意に物音がした。
「……これは客だな」
宿舎に踏み入った敵の気配を感じ取り警戒するセンリの前で、
「では私はここで命を絶ちます」
セズナは自決しようとした。
「馬鹿か。何を言ってる」
「館の襲撃に参加し、あなたに全てを話した。あの男が見逃すわけがない。いずれ必ず気づかれます。だからせめて、ルドルには迷惑がかからないように……」
「お前が死んでも、それは追い詰める材料になるだけだ。おおかた仇討ちに走って、返り討ちにあうのが落ちだろう」
「ならどうすれば……」
「禍根を断つのさ。お前の弟は側近として長年重宝されていたようだな。ならば物の弾みで殺されることはないだろう。必ず脅しの道具として使ってくる。その時にお前がこちら側へ引き込め。機会も決断も一瞬だ」
「それはつまり……」
セズナが息を大きく吸って目を見開いた。
「捨てる命なら、俺に寄越せ」
センリは彼女へ手を差し伸べた。首を絞めたほうとは逆の手で。
セズナは迷いを見せる。果たしてその手を取ってもいいのか。呼吸の音に比例して徐々に手が引っ張られていく。しかしながら直前で止まった。指先が内側へ曲がり、スッと引っ込める。
答えは拒絶。そういうふうに見えた。
「――いたぞッ!」
こんな時に場をわきまえずお客様が乱入してくる。ところが、彼らは不自然にも立て続けに死んでいった。
目を凝らせば、いつの間にかそこら中に魔術の糸が張り巡らされているではないか。息つく暇もなく最後の1人が一糸両断にされた時、彼女は指先から糸を切り離しておもむろに立ち上がった。そして、
「……あなたに賭けてみます」
今度こそ、その差し出された手をしっかりと握り締めた。