(四) 始の三人
雨が降る。火事が起きる。雷が落ちる。
獣夢の発生は、それら自然現象となんら変わらない。ただ、現象として、ある条件が揃うと発生するにすぎない。
その条件というのが、世界の乱れである。世界の秩序が崩れると、災いを象徴するように獣夢は湧く。そして、その災いに応じた行動をとる。
たとえば、世界が干ばつに襲われれば、貴重な水を吸いとってしまう。世界が飢餓に見舞われれば、数少ない食料を食い荒らしてしまう、というふうに。
そのため、今回観測できた特徴《悪夢の霧》を逆算すれば、おのずと世界に起きている災いの正体は解き明かせる。理屈のうえでは、そうなる。
だが、このときのぼくたちは、まだ真相にたどり着ける段階ではなかった。
災いの正体は、ぼくたちの楽観的な想像を、はるかに上回るものだった。
〇
図書塔事変の後、ぼくたちはその足で、予言者・ガァガルのもとへむかった。
ユキいわく、ガァガルの予言は百発百中。また、大巫女の古い友人でもあるらしい。
ガァガルは、湖の中央に浮かぶ小島で、動植物たちと共に暮らしていた。いや、暮らすというよりは、完全に同化していた。
島には、一本の大木が生えている。その根元に座りこみ、彼は無数の蔦に覆われていた。肩や腕には、小さな花さえ咲いていた。頭には、鳥が巣をつくっていた。
ぼくは最初、その人物が生きているとは、とても思えなかった。
「きたか、旅人」開口一番、ガァガルはそういった。よく響く、しわがれた低音だった。
ぼくが伝説の旅人であることは、大巫女に説明した以外、誰にも話していなかった。ぼくが、ユキに頼んでとめたのだ。自分が、その旅人である確証を得るまでは、騒ぎを大きくしないでおこう、と。
だが、ガァガルは見破っていた。「待っていたぞ、旅人よ。いや、心配するな。きみが、本物の旅人であることは、だれよりもわしが知っている。安心しなさい」
「は、はい」国一番の予言者にそういわれては、頷くしかなかった。安心するかは、べつとして。
「ガァガル様、本日は折り入って相談が」
ユキの言葉を、ガァガルは遮った。
「わかっている。獣夢が発生したのだろう。わしは、図書塔に獣夢が現れることをすでに知っていた。だが、あえて知らせなかったのは、知らせずとも、きみたちが対処してくれることを知っていたからだ。そして、事実、きみたちは適切に対処してくれた」
「知っていたというのは、予言で、ですか?」ぼくは懐疑的に尋ねた。
「そうだ。わしは、無根拠に人や物を信じたりしない。ただ、己の予言に従う。だから、今日、こうしてきみたちがわしを訪ねることも知っていた」
北の国にむかえ、とガァガルは言い切った。
「指針を授かりにきたのだろう。北の国にむかうのだ。そこに、世界の災いをとめる手がかりはある」
「北の国、というと」ユキは、難しい顔つきで尋ねた。「プレラントですね」
「別名、バカの国」サンが吐き捨てた。
「快楽の国です」ユキが、訂正した。「そこに、手がかりがあるのですね、ガァガル様?」
「そうだ。だが、具体的なところまでは、わしにもわからん。新しい予言が降りてきたら、そのつど伝えることにしよう」
「はい、よろしくお願いします」
ぼくたちは、揃って礼をした。
それきり、ガァガルは目を閉じ、動かなくなってしまった。まるで、自身が動植物の一部であるかのように、その沈黙はまったく自然に溶けていた。
彼の眠り顔は、このうえなく穏やかだった。
同日、ぼくたちは再び、クレア・フラハ寺院を訪れた。大巫女に会うためだ。
時は黄昏。橙色の斜陽が、静謐なホールに射しこんでいた。
「なるほど……」事の顛末を聞いた大巫女は、ゆったりと頷いた。「ガァガル殿がそう助言してくれたのであれば、従うのが吉でしょう。アメさんのコンディションが、回復しきっていないことは気掛かりですが。国の外へ出ることを、正式に許可します」
「明朝、出発いたします」ユキが、代表していった。「今回の災いは、ひどく大規模なものと予想されます。一日でも早い解決が望まれるはずです」
「急な話だなあ。おれ、起きられる自信ないぞ」サンが不満を垂れた。
「大巫女様、許可して頂けますか?」ユキは、無視して続けた。
「ええ。しかし、あなたたち三人だけというのは、些か心配です」
「ガァガル様は、三人だけでプレラントを目指すよう、指示なされました」
「え?」ぼくは、ユキをみた。
ユキは、ぼくと視線を合わせなかった。「僭越ながら、ガァガル様の予言には、逆らわぬほうが良いかと存じます」
「ガァガル殿が、そういったのですね?」
「はい」
「そうですか」大巫女は、ユキをじっとみつめた。「わかりました。あなたの意志を尊重しましょう」
ただし、と大巫女は続けた。
「まったく関係ありませんが、私は従者をひとり、プレラントにむかわせます。たまたま、頼みたい用事がありました。出発は、明朝です。偶然にも、ユキたちとタイミングは一緒ですが、アメさんを護衛するわけではないので、ガァガル殿の予言に反することはありません。あくまで、たまたまです」
「大巫女様」
「異論は認めません。ユキたちの旅は邪魔しないと、約束します。干渉は、必要最低限です。もっとも、干渉というよりは、偶然にも遭遇するといったほうが正しいですが。姿は隠させますので、気を遣わなくて結構です」
要は、監視役をひとり同行させるというのだ。
ユキは、渋々と頷いた。「かしこまりました」
「くれぐれも、気をつけてください」別れ際、大巫女は手を合わせた。「あなたたちに、クレア・フラハ母神のご加護があらんことを」
ぼくたちは、ホールを後にした。
ホールを出た廊下で、ぼくは尋ねた。「どうして、嘘をついたの?」
「三人だけの時間を、だれかに邪魔されたくなかったんです」ユキは、口元に笑みをつくって答えた。顔の半分が、夕陽の影に隠れていた。「たとえそれが、大巫女様の遣わされた人物であろうとも。三人だけの時間が、私は好きなんです」
「ああ、そういうことか」ぼくは、納得したふりをした。
サンは、退屈そうに欠伸を噛んでいた。
急遽国を出ることが決まり、ぼくたちはユキの家に帰ってから、ばたばたと旅の支度を始めた。サンタ・ルピアとプレラントは、徒歩に換算して約五日分の距離がある。旅の必需品を、ぼくたちは念入りに、かつ過不足なく準備した。
たった十日間の滞在だったが、ぼくはこの国が好きになっていた。
雨の森、青い空。
小人の部屋、つみきの家。
風車、大聖堂。
花園、図書塔。
大巫女、ガァガル。
サン、ユキ。
様々な風景と顔が脳裏を去来して、荷物をまとめるあいだ、ぼくは少しだけ胸がしめつけられた。もうちょっとでいいから、この国で平和な日々を過ごしたい。そんな、わがままな自分が、心の片隅で声をあげていた。
旅の前夜、ぼくたちは最後の食卓を囲んだ。
いつもと変わらない、穏やかな空気が流れていた。
「ねえ、ユキ」そんな中、ぼくは思い切って尋ねた。「両親のことだけど」
「はい」ユキは、いつもと変わらない顔で、ぼくをみた。
「事故だったの?」
「いいえ」
「病気?」
「それも、ちょっと違います」ユキは、首を振った。「アメさんに隠し事をするつもりはないですが、まだ私のなかで、整理がつけられていないのです。いずれ、お話します。それまで、待っていてください」
「デリカシーのないやつだ」サンが、音を立ててコップを置いた。
「ごめん」ぼくは、謝った。寺院でのユキの態度が、引っかかっていた。もしかして何か関係あるのかも、と邪推してしまった。
「ごめんなさい」ユキも、謝った。「中途半端ですよね。私たちは、苦難を共にするチームです。隠し事などせず、本来であれば、すべてを共有してしかるべきです。アメさんが気にされるのも、仕方ありません」
「いや、いいんだ。ぼくの、考えすぎだ」
「アメさん」
「なに?」
「どんなことがあっても、私を嫌いにならないでくれますか?」
「もちろん」ぼくは、即答した。
「本当ですか?」
「本当だよ」
「よかった」ユキは、笑った。やっと、心から笑ってくれたようにみえた。
「なんかシンキクセェー!」サンが、素っ頓狂な声をあげた。「明日から、世界を救う旅にでるんだぞ。いわばおれらは、救世主様ご一行だ。スタートからそんな調子で、どうするんだよ。もっとテンションあげてけェー!」
「たしかに、そうだね」ぼくは、サンの明るさに助けられた。
「たしかに、そうですね」ユキもたぶん、同じことを思っていた。「各々、飲み物を手にとり、立ってください。景気づけに、乾杯しましょう」
ぼくとサンは、いわれたとおり立ちあがった。
「いいですね?」ユキが、ぼくたちの顔を見回した。「出発は、明朝。私たちはガァガル様の予言に従い、災いの原因を解明すべく、北の国・プレラントを目指します。決して、気楽な旅ではありません。しかし、私たちなら必ずやり遂げられます。一人でも欠けたら、駄目です。三人一緒だから、やり遂げられるのです。チーム一丸となって、頑張りましょう。よろしくお願いします」
「カンパーイ!」サンが叫んで、ぼくたちは一斉にコップを差しだした。
「あ、こぼれた」
「勢いが強すぎです」
「あはははは」
気がついたら、場は笑い声に包まれていた。
ユキの言葉通り、三人なら、どんな逆境にだって打ち勝てる。そんな気分になっていた。
こうして、幸福の国、最後の夜は更けていった。
〇
その晩、ぼくは夢をみた。
図書塔でみた夢と同じだ。
真っ暗闇の奥で、
だれかが泣いていた。
泣いているように、感じた。
たすけて、たすけて、と
訴えているように、感じた。
顔は、わからない。
声も、反響していて
正体がつかめない。
それを聞いていると
ぼくはとても、哀しくなる。
いやな夢だ。
ぼくは、感覚しかない夢のなかで
耳をふさぐ。
目をとじる。
ひたすら内に閉じこもって、
涙がとまるのを待つ。
しかし一向に、涙はとまらない。
そんな夢だった。