(三) 塔の異変
充実した時間ほど、経過は迅速だ。
もちろん、体感としての話である。実際のところ、時間は伸縮しない。
だが、ぼくはその感覚に、一抹の寂しさを感じずにいられない。充実すればするほど、終わりもまた早い。
夢と現実の境界を曖昧にする要因は、ひとつここにある。
それだけ、ぼくたちの日々は満ち足りていた。
毎日が、冒険の連続だった。
〇
それは突然、ぼくたちの前に姿を現した。
共同生活十日目。
ぼくたちは、休日を利用して、西の図書塔にきていた。建物が、見あげるほど縦に長く、渦を巻くようにねじれているため、そこは図書“塔”といった。人の思索思考する様を、ねじれとして表現しているのです、とユキは教えてくれた。なるほどと思う一方、あんまりねじれてしまっては、思索の途中で真ん中からぽっきり折れてしまうのではないかと、ぼくは心配になった。
塔の内部は、圧巻の一言だった。弧を描く壁面にずらりと書架が並び、所狭しと本の背表紙が顔を覗かせていた。書架は大きすぎて、足台のうえで背伸びをしても、一番高いところまで手が届きそうになかった。
いってみれば、風玉を起こす前提の構造だった。
「どんな本をお探しですか?」
係員の質問に、たとえばユキなら「教養を深める本」、サンなら「とにかく笑える本」、ぼくなら「係員さんおすすめの本」とこたえる。すると、それに応じた数冊をピックアップして、風玉ですいすいと運んでくれる。係員は、どこにどんな本があるのか、すべて把握しているようだった。ぼくには、絶対に真似できない記憶力だった。
一通り読んでから、気分転換に、塔のなかをひとりで散策した。壁面に沿った螺旋階段にも、無数の書架がぎっしり並んでいた。それに見惚れていると、気がついたら、人気のない、薄暗いスペースに迷いこんでいた。それも、ちょっとした探検みたいで、ぼくはわくわくした。
そのときだった。
奥まった位置にある書架の陰に、気配を感じた。かすかに、物音がしたのだ。ぼくは、直感的に、小さな子どもが隠れているんじゃないかと思って、気配の位置を確認した。
そして、目が合った。
それは、直径五十センチほどの球体で、ふさふさした豊かな毛並みに覆われていた。色は、赤。ちんまりとした手足。顔のパーツは、どこか愛嬌のある猫のよう。
最初は、まんまるに太った、猫のぬいぐるみかと思った。
まぬけな顔のぬいぐるみだ。
それが生き物だとわかったのは、それの口から、甲高い鳴き声が発せられたときだった。
「ミィ!」
ぼくは、びっくりして後ずさった。その拍子に、書架に体がぶつかり、本が何冊か落下した。
「ミィ! ミィ!」
それは、威嚇するような鳴き声をあげながら、身軽な動作で室内を跳ねまわった。まるで、丸いボールが、壁と壁のあいだを跳ね返っているような、めちゃくちゃな暴れかただった。おかげで、書架は倒れ、本の山が乱雑に散らばった。静寂が、一瞬にして喧騒に塗り替わった。
ぼくは、頭を抱えて、部屋の隅に避難した。そこへ、騒ぎを聞きつけたユキとサンが、押しあうように駆けつけた。
「アメさん、これはいったい……」惨状を目の当たりにして、ユキは愕然と呟いた。
「おい、あれ!」さきに気づいたのは、サンのほうだった。「みろ、獣夢だ!」
ぼくは、それに聞き覚えがあった。クレア・フラハ寺院で、大巫女も口にしていた言葉だった。
獣夢。それは、とても説明が難しいのだが、要は<災いの現象>そのものだった。獣夢が、災いを呼ぶのではない。世界に災いが起こり、治安が乱れると、二次災害的にある自然現象が発生する。獣の見た目をした生命体(正確には違うかもしれない)が、どこからともなく現れる。その現象自体を指して、獣夢と呼ぶ。
そのため、図書塔にいきなり獣夢が発生したのは、まったく自然の摂理だった。地震が突然起こるのと、理屈は一緒だ。獣夢の発生は、ゲリラ的で、時と場所を選ばない。
このとき発生した獣夢は、鳴き声のとおりミィといって、比較的実害の少ないタイプだった。しかし、突然の事態に慌てたぼくたちは、たった一匹のミィを相手にかき乱された。
風玉で捕まえろ、とサンが怒鳴り、ぼくは奮闘した。だが、ミィのほうがはるかに素早かった。ぼくの風玉を避けて、ミィは悪びれた様子もなく、自由気ままに部屋中を散らかしてまわった。
「このやろう、ちょこまかと!」
サンが、怒り任せに風玉を放った。風は、形状をイメージすることで、ある程度自由に変質させられた。このとき、サンの放った風玉は、対象を捕らえることに特化した、細い錐状だった。
やっと、ミィの短い足を、風が捕らえた。動きが鈍くなった。ぼくは、そのチャンスを逃さず、大きな風玉を起こすと、すっぽり確実に包みこんだ。
「強い衝撃を与えると、獣夢は消える」
サンにいわれて、ぼくは捕まえたミィを持ちあげた。やはり、風船を持ちあげるみたいに、重量は感じなかった。そして、壁にエイヤッと投げつけた。
パチンッと割れる音がして、獣夢は消えた。
一瞬だった。
まるで、最初からそこには何も存在していなかったかのように、塵のひとつも残らなかった。ただ、手のつけようがないくらい散らかった本の山だけが、獣夢の発生を主張していた。
「ナイスコンビプレーです」ユキが、手を叩いた。
「ありがとう」ぼくは、へとへとだった。
ほっとしたのも束の間、部屋の外から悲鳴と、騒々しい物音が響いて、ぼくたちを驚かせた。まさかと思いそちらへ向かうと、悪い予感は的中した。
色とりどりのミィが、塔内のいたるところに大量発生していた。赤、青、白、紫、黄、茶、水玉、ドット、ツートン……いったい何種類いるのか、ぼくの目では数えきれなかった。まんまるのミィが好き勝手に跳ねまわる様は、色彩豊かな風船の海に似ていた。しかし、決して喜ぶべきものでないことは、図書塔利用者たちの悲鳴と、ミィの耳をつんざく大合唱を聞けば、明らかだった。
もう、本当に、めちゃくちゃだった。
「ミィミィミィミィミィミィミィミィミィ」
ぼくたちは、係員と協力して、片っ端からミィを捕まえていった。捕まえては、消す。捕まえては、消す。それを、ひたすら根気強く続けていった。
人によって、風玉の扱いかたは異なった。サンは猪突猛進型で、ミィの群れに単身つっこんでは、ぎゃあぎゃあわめきながら手当たり次第に捕まえた。いっぽうぼくは、サンほど機敏に動けないので、ひたすら大きな風玉を起こしては、それを振り回していた。修行のおかげで、ぼくは人より、いくらか大きな風玉を起こせるのだった。
ぼくが、二十匹目を消したとき、隅の一匹が窓から飛びだした。そのまま国の中央部目指して、逃げていった。ぼくは、そのあとを追おうとして、窓枠に足をかけた。そのとき、頬を鋭くかすめるものがあった。ユキの放った、風の矢だった。
矢は、逃げるミィにぶつかると、瞬時に体を包みこんだ。もう一発。ユキが再び矢をあてると、その一匹もぽんと消えた。
「終わりましたね」ユキが、額の汗をぬぐった。
その背後に、真っ黒なミィが、音もなく忍び寄っていた。
ぼくは、声をあげるより先に、ユキを庇った。
黒ミィが、ぼくのうえにのしかかった。ほかのミィと違って、そいつはやけに凶悪な表情をしていた。
ぼくの鼻先数センチで、獰猛な獣の歯をがちがち打ち鳴らした。
噛まれまいと抵抗していると、視界がぼんやり暗くなった。ミィの口から、暗黒色の霧が漏れたのだった。吸うな、という誰かの叫び声で、ぼくは咄嗟に息をとめた。
少量、鼻に入りこんだ。
ふ……と、意識が遠のいた。
「このやろう!」サンが、黒ミィを蹴って、ぼくの体から引きはがしてくれた。そして、風玉をあてた。
今度こそ、図書塔は静寂をとり戻した。
「大丈夫ですか」ユキは、泣きそうな顔で、ぼくに駆け寄った。「ごめんなさい。アメさん、私のせいで危険な目に」
「いや、大丈夫だよ。心配しないで」ぼくは、少し強がった。
「危なかったなあ。おれが助けるの遅かったら、おまえも<夢>にとり憑かれてたぞ」サンは、腕を組んでぼくを睨んだ。「この、ばか。油断するな」
「うん、ごめんね。ありがとう」ぼくは、サンに頭をさげた。
獣夢の、真の恐ろしさはここにある。黒ミィが口からだした、暗黒色の霧。これを吸いこんでしまった者は、永遠に覚めることのない悪夢に閉じこめられてしまう。
それも、その当人にとって、一番最悪の悪夢に。
ぼくが、一瞬だけみた夢は。
だれかが、しゃべっていた。
たすけて、たすけて、と。
なにかを、訴えかけていた。
真っ暗闇のなかで。
たぶん、ひとりで。
顔は、わからない。
声も、反響していて、よく聞こえない。
そんな、抽象的な映像だった。
「それにしても、獣夢め、好き放題やってくれたなあ」
夢の余韻に浸っていたぼくは、サンの声で自分をとり戻した。サンのいうとおり、辺り一面、竜巻が通り抜けたみたいにひどい有様だった。ミィの仕業であることに変わりはないが、ぼくやサンも、ミィを追い払うためにけっこう暴れたので、申し訳ない気持ちになった。
「なあに、心配いらないよ」若い係員が、指輪を掲げた。ぼくたちと同じ、翠の宝石が光った。「我々も、だてにこの仕事を任されてるわけじゃない」
係員が風玉を起こすと、倒れた書架は起きあがり、散乱した本は元のあるべき場所へと戻った。その場にいた全員が、係員に拍手を送った。係員は、得意満面だった。
ところが、ユキの表情は暗かった。「国の内部で、これだけ多くの獣夢が発生するなんて、通常ならありえません。事態は、私たちの想定以上に深刻なようです」
「考えすぎじゃねえの?」サンは、楽観的にいった。
「いいえ。獣夢の量は、災いの大きさに比例します。つまり、私たちの知り得ない水面下で、過去にない規模の災いが進行している可能性があります」
その証拠がアメさんです、とユキは断定した。
「千年に一度、荒れた世界を救うため、旅人は天から訪れる。つまり、アメさんの存在こそ、世界が災いに侵されていることを裏づける、確固たる証拠といえます」
「どうしたらいいの?」ぼくは、弱気になった。
「私に考えがあります」ユキは、強気に応えた。「明日、さっそく出かけましょう」
「出かけるって、どこへ?」
「決まっています。冒険です」
サンが、フハッと変な声をあげた。
ぼくは、軽い眩暈をおぼえた。