(一) 夢の旅人
遠い昔の記憶と、いつか夢でみた景色の区別が、ぼくにはつかない。
どちらも現実離れしているという意味では、まったく同じとさえ思う。
ぼくにとっては、現実の出来事と夢物語のあいだに、境界がない。
いや、きっとだれにも、明確な線引きなど定義できない。
だからこれから記すのは、ぼくの遠い過去の記憶であり、偽りの記録だ。
真実かどうかは、筆者であるぼくにも分からない。
だが、きっと、真実だ。
そう信じている。
〇
初めてその世界で目覚めたとき、ぼくは雨で溺れそうだった。暴風雨が吹き荒れるなか、水の溜まった地面に突っ伏していた。窒息手前で意識をとり戻したのは、幸運だった。
ここはどこだろう? 当然の疑問とともに、現状を把握しようと努めたが、酷い頭痛に邪魔された。体も重く、怠かった。風邪をひいていたのだ。長時間、雨に晒されていたのだから当然である。周囲は鬱蒼と茂った森で、そこに真一文字に延びる土の道に人影はなく、孤独だった。そのうえ、空は暗黒の雲に蓋をされていて、灯りのひとつもない。どこか遠くで、獣の唸り声めいた雷鳴が轟いていた。
ぼくは、なんとか体を起こすと、ぬかるんだ道を慎重に歩いた。もちろん、星もみえず、方角なんか分からない。ただ、自分の命を救うために、避難できる建物を探した。無我夢中だった。
その途中、二人の少年少女に助けられた。驚くべきことに、二人は空を飛んで現れた。飛行機に乗って現れたのではない。本当に、生身のままふわふわと宙に浮かび、それから、あろうことかぼくを抱えて森の木々を飛び超えてみせた。暴雨に晒されていて、安定して飛ぶのは厳しそうだったが、人間業でないことに変わりはなかった。
ぼくは、再び気絶した。
次に目覚めると、ベッドの上だった。そこは、ぼくを助けてくれた、少女の部屋だった。まるで絵本に出てくる小人が住むような、木目調の質素な部屋だ。とても可愛らしかった。
窓から差し込む光が、危険な夜が過ぎたことを教えてくれていた。
ぼくを寝ずに看病してくれた少女は、ユキ。
ぼくを寝ずに看病してくれようとして、けっきょく力尽きた少年は、サン。
と、それぞれ名乗った。
二人とも、見た目は中学生くらいだが、年齢以上にしっかりとした言葉遣いと物腰で、ぼくを驚かせた。どうやらここは、日本ではないことを、このときぼくは悟った。二人とも、明らかに服装と容貌が日本人のそれではなかった。どちらかといえば、英国人の血が混じってそうだが、確信はもてなかった。しかし、話している不可解な言語を、不思議とぼくは理解できた。本当に、不思議としかいいようがなかった。
「ここは、どこなの?」ぼくは、当然の疑問を口にした。
「サンタ・ルピアです」ユキは、当然のように答えた。「お待ちしておりました、旅人様」
「旅人?」
「おいおい、ユキ。こいつ、何もわかってねえぞ」サンが、割って入った。「人違いなんじゃねえのか?」
「人違い?」
「こら、サン。旅人様に失礼でしょう。謝りなさい」
「いやなこったー」
ユキが窘めるのに、サンは聞く耳をもたず、ぱたぱたと部屋中を行ったり来たりしていた。このときは、ぼくも面食らってしまったが、二人の関係性はいつもこうなのだった。いわばユキがしっかり者の姉で、サンが生意気盛りの弟。しかし、本当の姉弟ではない。
「サンタ・ルピアって?」
「私たちの住む、国の名前です。大陸でもっとも治安が良い国なので、《幸福の国》とも呼ばれています。私はここで、見習い巫女を務めております」
「万年見習い巫女な」
「口を慎みなさい」
「いやなこったー」
「待って、話がまったくみえてこない」ぼくは、混乱の渦中にいた。「幸福の国? 巫女?」
「きっと、旅人様は疲れています」ユキが微笑んだ。「そのうち、すべて思いだすはずです」
「思いだすもなにも、いっていることが……」
唐突に、自分が何者かも、思いだせないことに気がついた。
おまえの名前は今日からアメだ、とサンがいった。
「雨のなかにいたから、アメ! ぴったり!」
記憶が戻るまではそう呼ぶ、ということで話がまとまった。
ユキの準備してくれた食事(とても柔らかい魚・苦みのある薬草)をとりながら、ユキの話してくれた事情によると、ぼくの置かれた立場は非常に複雑だった。まず、何度も繰り返すが、ここは日本国ではない。地球のどこでもない、まったくの別世界である。そこに、なんの因果か、ぼくは落っこちてきてしまった。『落っこちてきた』というのは、サンの表現だ。昨晩、ユキとサンはふとした拍子に空を見上げ、空から流星のごとく落下してくる光体を発見した。
それが、ぼくだった。
ユキたちの住む大陸には、昔から語り継がれる伝説がある。その伝説というのが、ユキのいう「旅人」である。いわく、千年に一度、大陸の秩序乱れる頃、世に安寧をもたらす旅人が空から舞い降りる、らしい。その人物というのが、ずばり、天空から落っこちてきた、ぼくだという。
旅人が行き倒れては困る。そう危惧した二人は、光体の落下地点に急行した。そして、瀕死のぼくを発見した。
悪い冗談だと思い、最初ぼくは否定したが、ユキの眼差しは真剣そのものだった。
「こうしてお会いできる日を、一日千秋の想いで待ち焦がれておりました、旅人様」
その言葉に、嘘はなかった。
「そんなに秩序が乱れているの?」ぼくは、妥協した。「仮にぼくが旅人だとしても、ぼくに国を治める力はないよ」
「その力を、いまから授かりにいきます」
「どこに?」
「クレア・フラハ寺院です」
「はあ」
サンの服を借りて着替えると、さっそくぼくたちは家をでた。ユキの自宅は、様々な緑の生い茂る広大な森に、ぽつんと立っていた。三角の屋根が赤くて、外壁は乳白色で、子どもの設計したつみきの家みたいだった。
どの方角を目指して歩くのだろう。そう思っていると、ユキが、右手の人差し指を空に掲げた。指には、小さな小さな翠色の宝石が光る、指輪がはめられていた。
「さあ、いきましょう」
ユキの号令と同時に、宝石の赤みが増した。ユキの長い髪が、さあと靡いた。宝石を中心に、風が発生しているのだと、ぼくは少し遅れて気づいた。風はみるみるうちに強くなり、やがてユキの体を軽々と宙に浮かせた。ぼくが唖然としているのが面白かったのか、ユキは、悪戯っぽい笑顔でくるくると空を舞ってみせた。
「さあ、旅人さんも、はやく。風玉を起こしてください」
「そんなのできないよ!」ぼくは、当然の反応をした。
「やっぱり、偽物なんじゃないのか?」サンが、訝し気にぼくを睨んだ。
「ごめんなさい。ちょっと、からかいたくなったんです」地上に降りたユキが、指輪を近くでみせてくれた。「この指輪で起こす風を、風玉といいます。サンタ・ルピアに住むほとんどの住人は、風玉を活用して、日々の生活を営んでいます。私たちが生きるうえで、風は欠かせない資源ですから。これは、体の一部みたいなものです」
「へえぇ、便利なんだね」ぼくは、素直に感心した。「風を自由に操れるんだ」
「風を操る、というよりは、風と共生する、といったほうが正しいです。もともと、サンタ・ルピアは風の一族と呼ばれていました。使役ではなく、対等。それが、種族繁栄の基礎と考えられていたのです」
「なるほど」
「伝説によると、旅人は大陸の外より旅をする、とされています。なので、アメさんが風玉を起こせないのも、道理です。しかし、風を起こせないと、ここでは生活できません。とりあえず、クレア・フラハ寺院にむかいましょう。私に捕まってください」
ぼくは、ユキと手をつないだ。ユキの指輪が光ると、どこからともなく風が渦を巻き、ぼくたちの体を浮かびあがらせた。あっというまに、森の木々より目線が高くなった。自然と、お腹の底から笑いが漏れた。
「す、すごい。魔法みたい」
「こんなのフツーだ」ぼくたちの後を、サンもついてきた。「風がない生活なんて、考えられない」
「少なくとも、ぼくのもといた世界では、ありえなかった」
「世知辛いところだったんだなあ」サンは、心から同情しているようだった。
「うん、間違いない」ぼくは、大きく頷いた。
とにかく、空の旅は解放的だった。見渡す限り連なる木々と、時折隙間から覗くつみきの家を高い位置から見下ろすのが、非常に新鮮だった。全身を包む風は、文句なく快適だった。風に質感があることを、ぼくは初めて知った。恥ずかしながら、口元が緩みっぱなしだった。
森のなかには、つみきの家以外にも沢山の建物があった。用途の分からない、前衛芸術を思わせるへんてこな建造物も多かった。二番目に多いのは、風車だった。等間隔で立ち並び、規則通りに巨大な羽をぐるぐると回していた。あれで地下水を循環させ、食物を育てているのです、とユキが教えてくれた。
一見しただけで分かった。この国と国民は、満ち足りている。
幸福の国という別称が、ぼくはようやく腑に落ちた。
「到着です」
ぼくたちは、曲線だけで形成された、背の高い建物の前に降り立った。国で一番身長の高い建物です、と紹介するユキは、とても誇らしげだった。
これまた背の高い女性に、ぼくたちは寺院の奥へ案内された。寺院の内部は、壁も天井も潔癖すぎるほどに、真っ白だった。静謐で広大な空間が、果てしなく続くようにぼくを錯覚させた。
長い廊下を何度も折れ曲がり、つきあたりの両開き扉を抜けたその先が、寺院の最奥部だった。その部屋は、部屋というより吹き抜けのホールで、高すぎる天井に設置された無数の採光窓が、暖かな陽光をホール中に注いでいた。足元には、深紅の絨毯。絨毯の延びる先には、階段。その高いところから椅子に腰かけ、ぼくたちを迎え入れる瞳と、目が合った。
「ご機嫌麗しゅうございます、大巫女様」
かしずくユキとサンに、ぼくも見倣った。
ゆったりとした衣服に身を包んだ大巫女も、ゆったりと頷きを返した。
大巫女は、見習い巫女・ユキの師匠であり、クレア・フラハ寺院を統括する司祭者だ。ユキ直属の上司、と言い換えてもいい。見た目は若いが、所作が若くない。年齢不詳である。さらにいえば、実のところ性別も、ぼくは知らない。綺麗な女性のようでもあり、綺麗な男性のようでもある。サンタ・ルピアにおける巫女とは、女性に限った官職ではない。
ユキは、ぼくが伝説の旅人であることを、端的に説明した。
「なるほど、あなたが……」大巫女の瞳は、慈愛と憂いを帯びていた。「こうしてお会いできること、大変光栄におもいます。しかし、申し訳ありませんが、私は病に侵されている身。ひとりで動くこともままなりません。高所から見下ろすことを、どうかお許しください」
「いえ、そんな」ぼくは、恐縮した。「そんな、大した者でもないですから」
「オーラがねんだよな、オーラが」サンが、脇腹をつついた。「マントも羽織ってねえし、光る剣も持っちゃいない。なんか冴えないやつだ」
「いい加減にしなさい」ユキが、顔を赤くした。
「いいチームになりそうですね」くすくすと、大巫女は笑った。「現在、この国は幸運にも秩序が保たれています。しかし、国の外に一歩でれば、安全は保障されません。とくに、隣国のバルグに不穏な動きがみられます。獣夢を利用して、なにか良からぬことを企んでいるようです」
「ジュウム?」
「ともあれ、アメさんはまだ記憶が戻っていないご様子。しばらく療養に努めてください。そのあいだ、身の回りのお世話はユキに一任します。いいですね?」
「は、はい」ユキは、高い声をだした。「謹んで仰せつかります」
「では、最後に」大巫女が、右手の杖を差しだした。柄の部分に、大きな翠色の宝石がはまっていた。「旅人の入国を祝して、私から贈り物です」
ぼくが手を差しだすと、杖の宝石が眩いほどの光線を発した。
一瞬、視力を失う。
気がつくと、ぼくの人差し指にも指輪がはまっていた。ユキと同じものだ。
「これで、アメさんも風を起こせます。詳しいやり方は、ユキに教えてもらってください。期待していますよ」
最後の言葉は、ユキに向けられたものだ。
「はい!」ユキは、嬉しそうだった。
入国が正式に認められ、二人がホールを出たので、ぼくもそのあとを追おうとした。
「アメさん」
そのとき、大巫女に呼び止められた。
「ユキのこと、よろしくお願いします」
なにをお願いされているのか、ぼくは分からなかったが、
「はい」
助けられた恩があるので、頷いた。
「ありがとう」大巫女は、微笑んだ。「あの子から、目を離さないであげてくださいね」
そのときの笑顔が、とても印象的で。
なにかが、ぼくのなかで固く結びついた。