電車の扉が開くまで
電車の扉が開くまで
藍川秀一
頭の中を直接、トンカチで叩かれたかのような頭痛が僕を襲っている。ただ単純な二日酔いではあるが、今までに感じたことのない痛みが頭の中に存在していた。自分自身の限界は理解しているつもりではあったが、どうやら飲みすぎたらしい。会社の先輩に乗せられたこともそうだが、大して強くもない酒をカバカバといきすぎた。
相変わらず頭は痛い。それでも、会社へと行かなければならない。それは生きるためであり、義務であるという。生きる理由とは何かと聞かれてもきっと答えることはできない。それでも自然と体は起き上がり、会社へ行くための準備をする。冷たい水を顔にあてることで無理やりに目を覚まし、ワイシャツへと袖を通す。スーツを身につけるがどうも体になじまない。朝食を軽くとってから、足を引きずり、玄関から外へと出る。鉄の階段を一つ一つ降りるたびに、音が直接頭へと響く。駅までの五分間はまるで砂漠を横断しているような気分だった。駅へとたどり着き、電車へと乗ってからは揺れる車内で押し寄せてくる吐き気に耐えなければならなかった。そうしていくつかの試練を乗り越え、遅刻せずに会社へとたどり着く。頭痛は少しだが引いていた。
仕事にならないだろうと、自分の中では思っていたが、以外にもスムーズにやることは終わり、定時に帰路へとつく。夕日が沈むのをホームのベンチから眺めていた。疲労しているせいか睡魔が襲って来る。僕はいつの間にか、目を閉じていた。
「おーい、次で終点ですよ〜」
声を聞き、自分が寝ていたことに気がつく。
「こんなところで寝ていたら、追い剥ぎに会いますよ〜」
目の前には女性がいる。彼女の顔には見覚えがあった。そして、考えるよりも先に答えが出て来る。彼女は、小学生からの幼馴染だった。
「なるほどね」
僕はベンチから立ち上がり、背筋を伸ばす。
「この駅も懐かしいねぇ〜」
「僕は毎日のように見ているけど、君にとっては懐かしいものだよね」
「そりゃ十年ぶりだもの。懐かしくもなるよ」
彼女はあの頃と変わらぬ笑顔を向けてくれる。曇り一つ無い、嘘のない笑顔だ。
「ねぇ、覚えてる?」
「覚えてるよ」
「まだ何も聞いてないんだけど」
照れくさそうに彼女はまた笑う。
「忘れたことなんてない。君が好きだったことも、この場所で告白したこと、いつも一緒にいたこと、同じ中学校に行きたくて、ガムシャラに勉強したことも、全部覚えてる。君のことを忘れたことなんてないよ」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ〜」
僕は、彼女の顔をまじまじと見つめる。
「何? 私の顔に何かついてる?」
「いや、君が大人になったらこんな感じなのかなって」
「フフフ、どう? 綺麗?」
彼女はその場で軽やかに回り、全身を見せてくれる。
「うん、綺麗だ」
「ありがと」
彼女はまた笑った。
最後の電車がやって来る。どうやら幸せな時間は長く続かないらしい。電車のドアが音を立てて開く。僕は電車へと乗り込んだ。そして、彼女の方へと振り返る。彼女は何も言わず、笑ってくれた。そして優しく僕を抱きしめて、
「さようなら」
囁くように彼女が答える。電車のドアがしまった。ドア越しに彼女の姿が見える。
僕は伝えることのできなかった気持ちを言葉にする。
「愛している」
電車が動き出す。彼女は大きく、大きく手を降っていた。声は聞こえないが、それでもなんと言っているのか、手に取るようにわかる。
僕も手を振り返す。こぼれ落ちる暖かな涙が、頬を流れていく。
彼女も、泣いていた。
「私もだよ」
〈了〉