魔法陣
ユーリエの家を出発し、日が沈みかけてきた頃、未だに恵菜は森の中を歩き続けていた。
異世界に来たばかりの時とは違い、恵菜は修行で何度も探索したことがあるため、森の中を歩くのには慣れている。
しかし、いくら慣れているとはいえ、この森は通り抜けるのに二、三日かかる程の広さがある。
そのため、どこかで野営をしなければならないのだが、流石に道のど真ん中で野営をするわけにはいかないため、現在は野営に適した場所探し中といったところだ。
「ん~、ここら辺でいいかな」
しばらくして、地面がむき出しの少し開けたスペースを発見し、早速野営の準備に取り掛かる。
この世界においては、一日以上街の外へ出る際には複数人が基本である。
複数人で野営を行う場合に、交代で火の番を行ったり、周囲を警戒したりすることで、残りの人が安全に休息を取ることができるからだ。
しかし、恵菜のように一人の野営ではそういうわけにはいかない。
ならばどうするのかというと、恵菜は地面に人が横になっても入る程の大きな円を描き、円の内側に沿って古代語で何かを書き始めた。
この世界には、魔法発動の手助けとなる道具が存在する。その一つが魔法陣だ。
魔法陣は円とその内側に書かれた古代語から成り、魔法陣に魔力を流し込むことで魔法が発動する。
書かれた古代語によって発動する魔法は異なり、魔法陣でないと発動できない専用の魔法も存在する。
また、魔法陣は一度発動すると、発動した人以外にも効果が及ぶ。
一見すると便利なものに思えるが、良いことばかりというわけではない。
詠唱して魔法を発動するのに比べて、魔法陣による魔法は発動までに時間がかかるため、戦闘中に魔法陣を準備することはほぼ不可能だ。
そして、魔法陣の最大のデメリットがその難易度にある。
古代語を書くことができなければ、魔法陣を作ることが困難なのだ。
魔法陣で魔法を発動させるためには、発動する魔法の詠唱術式に加え、魔力の制御もできるように古代語で記述しなければならない。
それらを組み合わせた術式は非常に複雑であり、一朝一夕で身に着くようなものではない。
そもそも、古代語による詠唱を習得するだけでも時間がかかるのだ。
人と話すことはできても文字を書くことはできないという人がいるように、魔法は発動できても魔法陣を作ることができないという人は非常に多い。
見よう見まねで作成したり、魔法陣を丸々暗記したりするにしても、正しく作られた魔法陣に比べて安定性に欠ける。
このように一長一短な特徴を持つ魔法陣であるが、魔術師としての知識を持ち、全言語をマスターしている恵菜にとって、魔法陣のデメリットは作成に時間がかかることぐらいだ。
それでも、平均的な時間に比べれば早い方である。
現在恵菜が作っているのは、魔除けの魔法陣。
この魔法陣には、魔法陣の外側にいる魔物が無意識に魔法陣を避けるようになり、対象が魔法陣の内側を認識しづらくなるようにする効果がある。
しかし、恵菜が作成している魔法陣の効果は、魔物を避けてくれるだけではなかった。
恵菜は魔除けの魔法陣に、新たに別の効果を発動するための古代語を加え始める。
「これで……よし、できた」
しばらくして魔法陣が完成し、恵菜が早速その魔法陣に触れて魔力を流し込むと、魔法陣が淡い紫色に光り出した。
発動しているかどうか確かめるため、恵菜は魔法陣の外側から魔法陣を確認する。
魔法陣があるはずの地面は何の変哲もない地面に見え、意識していないと魔法陣の内側が認識しづらくなっていた。
恵菜が新たに加えた古代語は、魔物だけでなく人も同様に避けるようにするための術式である。
この森に他の人がいるとは思えないが、可能性が無いとは言い切れず、魔物だけでなく人も襲ってくるかもしれないと恵菜は考えていた。
そこで、魔法陣にアレンジを加えて人除けの魔法陣の効果も出るようにしてみたのだが、どうやら成功したらしい。
通常、完成している魔法陣に別の古代語を書くことはあり得ない。
成功時のメリットよりも、失敗時のデメリットの方が大きい事が多いからだ。
確かに、一つの魔法陣で二つの効果を得られるならば便利ではある。
だが、変に古代語を加えてしまうと、加えた古代語が完成した魔法陣に悪影響を与えてしまい、発動しなくなるどころか、最悪の場合暴発するという結果に繋がりかねない。
そのため、二つの効果を得たい場合は、二つの魔法陣をそれぞれ布などの上に描き、それら二つを重ねる方法を使うのが常識だ。
しかし、恵菜はそんな常識など知らないため、このような魔法陣一つに複数の術式を書くという荒業をやってのけたのである。
修行をしていた頃に魔法陣の存在を本で知った恵菜は、砂浜で何度も魔法陣の練習と実験をしており、魔法陣に二つ以上の効果を持たせることが可能なのも知っていた。
だが、魔法陣を模擬戦で使ったことはなく、日頃の修行はイルカと共に行っていたため、ユーリエは基本的にノータッチだった。
そのため、見る人によっては度肝を抜かれるであろうこの魔法陣の改良は、ユーリエですら知らない。
そんな自分の非常識さを分かっていない恵菜は、呑気に魔法陣の中へ入り食事の準備を始める。
恵菜は持って来た荷物の中から食料を取り出す。
ユーリエの家にいた頃と違って、食事は全て保存食だ。
ユーリエの家から近くの街までそれ程遠くない事、荷物が多すぎると旅の邪魔になる事もあり、調理器具の類はほとんど持ってきていない。
「う……やっぱり、美味しくない……」
干し肉に噛り付いた恵菜は、あまりの固さに一瞬食べ物なのかを本気で疑う。
ある程度覚悟していたようだが、やはり保存食は不味いらしい。
そもそも、旅の食事に求められるのは空腹を満たすことと栄養の確保であり、金に余裕のある貴族でもない限りそこに娯楽は皆無といっても過言ではない。
「調理器具はやっぱり必要かな~、でも荷物が増えるし、食材も日持ちするものじゃないとダメだし……」
だが、日本にいた頃もこちらの世界に来てからも食生活に恵まれていた恵菜にとって、食事が不味いというのは許し難いらしく、あれやこれやと食の改善策を考えていた。
この後、寝るまで悩んでいた恵菜だったが、結局良い方法が思いつくことはなかった。
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森に入ってから三日目の昼過ぎになって、ようやく恵菜は森を抜ける。
「やっと抜けた~」
明るい陽射しの下、恵菜は思いっきり背伸びをする。
特に肉体的疲労があるというわけではないが、今まで何度か魔物との戦闘があり、薄暗い森の中ではいくら進んでも木ばかりという同じような景色が続いていたので、精神的に疲れても無理もない。
森を抜けると後は近くの街まで一日もあれば着くため、明日の昼頃には街へ到着する計算になる。
早く街へ行ってしまいたい気持ちもあったが、恵菜は立ち止まって辺りを見渡す。
「――すごい」
恵菜の目に映ったのは、道の両側に広がる少し長めの草で覆われた草原だ。
地平線が見える程広い草原に風が吹くと、草が波打つように揺れ、草同士が擦れ合う心地よい音が響き、時折空を飛ぶ鳥の鳴き声がそれに合わさって聴こえてくる。
人によってはごく平凡な光景に見えるかもしれない。
だが、自然の少ない現代社会で育った恵菜は、目の前に広がる緑の大海原にまともな言葉が出てこなかった。
「……カメラを持ってないことが残念ね」
異世界へ来る時にカメラでも持って来ればよかったと後悔する恵菜。
しかし、そうなると神様への願い事がカメラを持っていくことになってしまい、異世界に来た瞬間フォレストウルフ達との記念撮影になっていただろう。
そんな余裕があったかは疑問だが。
しばらくその壮大な景色を目に焼き付けていたが、いつまでも見とれているわけにはいかない。
旅を初めて間もないにも関わらず、このような素晴らしい景色を見られたのだ。
この先どんなものが自分を待っているのかと思うと、恵菜はワクワクするのが止まらない。
「名残惜しいけど、先へ進みますか」
目の前の光景をずっと見ていたい気持ちを抑え、恵菜は草原の間を通る道を歩き出す。
この世界に来て初めての街、トランナを目指して――
現代っ娘の恵菜にとっては異世界の多くが新発見。
次話の更新ですが、恐らく明後日になると思います。
(最悪三日後という可能性もありますが、ご容赦ください)
行間を調整しました。(2023/7/2)