出発の日
恵菜とリアナが勝負を行う数日前。
とある石造りの部屋の中で、一人の人間が黙々と床に何かを描き続けていた。
部屋の壁や天井に窓はなく、石が組まれた壁からも一切光は漏れてこない。光が遮られた部屋にある照明は、その人物の手元にある蝋燭のみ。
しかし、何度もこの部屋で作業してきたのか、はたまた元から薄暗い環境での作業に慣れているのか、手つきはしっかりとしている。
「ついに……ついに完成だ」
しばらくすると、走らせていた手を止め、その人物は今まで自分が描いていたもの――魔法陣に直接手を触れる。
「これで、やっと、私の悲願が……」
触れている手の先から魔法陣に魔力が流し込まれると、魔法陣が暗く光り始めた。
「ははは! やったぞ、成功だ! ……おっと」
多数の人間が禍々しいと判断するであろうその光を見て、魔法陣を完成させた当の本人は満足げに笑う。徐々に魔法陣から発せられる光の強さが増していくが、何か効果が現れる前に魔法陣の一部を消してしまう。
「ふぅ、こんな場所で発動のはマズイからな。まぁ、私が作ったのだから完璧だとは思うが、念のために使えるかどうか一度試してみるとするか……」
どこか試すのに適した場所はないかと、手を顎に当てて考えて始める。そこで、ふと最近小耳に挟んだ情報が頭の中で浮かび上がってきた。
「そういえば、近々結構な規模の……そうだ、それが丁度いい」
どこかの店へ行った時に商人達が話していたことを思い出す。その時は特に利用価値のない情報だと思っていたが、今はその情報がその人物にとって最も欲しいものとなっていた。
「くっくっく……その者達に関係はないのかもしれんが、私の計画のため協力してもらうことにしよう」
不気味に笑いながら、その人物が部屋を後にする。先程まで書かれていた魔法陣は丁寧に消され、そこで何が行われていたのかを示すものは全てなくなっていた。
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宿の一室――恵菜が宿泊しているその部屋の中で、恵菜は自分の持っている荷物を全てテーブルの上に所狭しと並べていた。
「冒険者カードにお金、食材、ポーション……他には――」
目の前に広げられた荷物を、恵菜は一つ一つ確認しては収納袋へと入れていく。
「――最後にこれで……よし、準備バッチリ!」
全ての荷物を収納袋へ仕舞い、重さや大きさが最初とほとんど変わらないそれを首から下げる。
恵菜が今行っている事、それは旅の準備の最終確認だ。
ポーションが値下がったと薬師から昨日伝えられ、出発を今日にしようと考えた恵菜は、伝えられたその日のうちに旅に必要な道具を揃え、今日出発できるように調整していた。しかし、何か準備できていない物があっては困るため、遠足前の持ち物チェックと同じように、恵菜はこうして一つ一つ確認を行っていたのだ。
「意外と長い滞在になっちゃったなー……」
思い起こせば、最初の街だというのに次々と思わぬことが起きたものだった。
街に着いて冒険者となり、フェンリルに襲われ、一番新しいものとしてはリアナとの勝負があった。
普通の人であればそれだけでお腹がいっぱいになってしまうぐらいの出来事の量と質。だが、旅はまだ始まったばかりなのだ。
(ランドベルサ……どんな街なんだろう)
恵菜はランドベルサに関する詳しい情報を調べることはしていない。聞こえてきてしまった情報は仕方がないのだが、事前に情報があるのとないのとでは、実際に街を見た時の驚きの大きさに違いが出ると思っているため、敢えて詳しい情報収集をなるべく行わないようにしているのだ。
とはいっても、流石に街の位置や注意事項(トランナに来る時はしていなかった)ぐらいは調べている。そのため、恵菜がランドベルサについて知っていることは、トランナの北にある王都ということぐらいであり、街の特徴については他に何も知らなかった。
「さて、そろそろ行きますか!」
恵菜は部屋の中を見回し、忘れ物がないことを確認してから部屋を出る。そのまま一階へ下り、受付にいるナセルへ鍵を返しに行こうとすると、恵菜はナセルの他にもう一人受付にいる事に気が付く。
「タールさん?」
「おぅ、来たかエナちゃんよ」
そこにいたのは、普段は食堂にいることが多い――というより食堂以外では見たことがないタールだった。
「受付にいるなんて珍しいですね。どうしたんですか?」
「おいおい、お得意様の出発を見送るのは当然だろ?」
「お、お得意様って……」
お得意様と言われ戸惑う恵菜だが、実は宿に長期滞在する人というのは少ない。
街の住民はほぼ全員が自分の家を持ち、街から街へと移動することが多い行商人は短期間しか宿泊しない。長期に亘って宿泊する人というのは、他の街からやってきて拠点を構える冒険者であることが多いのだが、冒険者達は少しでも安い宿を求める傾向が強い。恵菜が泊まっていたこの宿はあまり高いというわけではないのだが、ここよりも安く泊まれる宿は他にもある。
そのため、ナセル達からすれば長期滞在の客というのは珍しく、恵菜は充分お得意様といえるぐらいの期間宿泊したことになるのだ。
「ウチは食堂の方は人気なんだが、宿泊の方はあまり人が来なくてな」
「はいはい。すみませんでしたねぇ、あたしの管理が上手くいってないせいで」
「待て待て待て! 別にお前が悪いなんて言ったわけじゃ――」
「はっ、どうだかねぇ」
必死に弁解しようとするタールの姿を疑う様に、睨みつけながら顎に手を当てて聞き流すナセル。ナセルも自分の持ち場である宿に人気がないのを気にしており、その地雷をタールは見事に踏み抜いたようだ。
「私はこの宿が気に入りましたけど」
「あら、嬉しいこと言ってくれるね」
恵菜の感想を聞いて、ナセルの顔に笑顔が戻る。例えお世辞であったとしても嬉しいのだろうが、恵菜は本心からその言葉を発していた。
「ナセルさんもタールさんも優しくて、食事も美味しくて、何よりお風呂があるのは最高です」
「ん? エナちゃんはお風呂が好きなのかい?」
「はい。宿にいる時は毎日入るぐらいに」
「ま、毎日!?」
冗談だろうと言わんばかりの表情のタール。
しかし、タールが驚くのも無理はない。この世界では風呂に入る習慣など根付いておらず、大抵の人(特に冒険者)は面倒臭がって湿らせた布で体を拭く程度で済ませてしまう。余程の物好きでもない限り、風呂に入るとしても数日に一回といった頻度なのだ。
「ほら、やっぱりお風呂が好きな人もいるんだよ」
「お風呂の素晴らしさを分かってないなんて、人生の半分は損してると思います」
だが、その余程の物好き二人から責められる形になり、局所的に少数派となってしまったタールは何も言えなくなる。相手が女性というのも影響しているのかもしれない。
「そ、それより、もう出発するんじゃないのか?」
「あ、そうでした」
このままではどんどん自分の立場が不利になる。そう判断したタールが話題を変えようと、恵菜に言葉を掛ける。
ナセルは未だにタールの事を睨んでいるが、咄嗟の話題転換にしては良い言葉選びだったらしく、恵菜はタールの言葉を聞いて早めにギルドへ行かなければいかなかった事を思い出す。
「ナセルさん、タールさん、ありがとうございました」
「こちらこそ、長い事泊まってくれてありがとね」
「毎日美味しそうに食ってくれる客がいなくなると寂しくなるな」
恵菜は借りていた部屋の鍵をナセルに返す。鍵を受け取ったナセルは長期の滞在に感謝し、タールは寂しさを紛らわすためか無理やり笑顔を作る。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。また来た時はよろしく頼むよ」
「おぅ! 気を付けてな!」
余韻に浸る間もなく、鍵を返した恵菜はすぐに宿の外へ出る。この場に留まりすぎていると、離れたくなくなる気がしたからだ。
そんな恵菜を、宿の二人は優しく送り出してくれるのだった。
実は出発前にもお風呂に入っていたりする。
次話は明後日に更新予定です。




