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後編:星の声

 彼女と会う三日前の昼下がり、昨晩の眠りを取り返すように眠っていた僕はやっと起きて、台所へ遅い昼食をとりに行きました。普段ならこんなことはしないのでなんだか妙な感じです。しかし、この日の妙なことはこれだけじゃありませんでした。台所へ近づくにつれて、なんだか甘い香りがしてきます。ホットケーキのにおいです。 一体誰が作っているのでしょう。僕はこっそりと台所を覗き込んでみました。そこに居たのは、満足げな顔をした兄でした。

 兄に言われるがままに食卓につかされた僕の前に三重に積まれたホットケーキが運ばれてきました。いつの間にかメープルシロップとマーガリン、牛乳の注がれたコップまで用意されています。

「あの、さ。これ、寝起きの人間に食べさせる量じゃないと思うんだけど。」

「そうか?育ち盛りの高校生ならこれくらいぺロリだろ?そうじゃなくても俺はこれくらい朝飯前だけどな。」

「育ち盛りはとうに過ぎました。あと一月ちょっともすれば大学生だって。」

「とにかく、食べちゃいなって。温かいうちに食べないともったいないお化けが出るぞ?」

そういうと兄はうらめしやぁ、とおどけてみせました。そんな兄を見ているとまともに相手をするのがなんだか馬鹿らしくって、僕は黙ってホットケーキを食べることにしたのでした。

 五つ年上の兄はごく一般的な大学院生、のはずだったのですが、兄が大学に行く姿を僕が見たことはあまりありませんでした。兄も「よほどの研究以外なら家でもできるし、何より教授たちが面倒だから最低限しか行くつもりは無い。」なんて言っていた気がするので家にいることの方が多かったのではないでしょうか。とにかく、兄はマイペースな人でした。

「珍しいじゃないか。お前がこんな時間まで寝ていただなんて。」

 兄が僕に話しかけてきましたが、さっきのやり取りでバカらしく思っていた僕は無視してホットケーキを食べ続けました。それでも兄はしつこく話しかけてきます。それでも僕が無視していると、兄は僕の顔を覗き込んでにやりと笑って言いました。

「前から思ってたけどお前、この頃少し変だぞ。なんだか、ふわふわ浮いているというかなんと言うか……ははーん。さ、て、は、恋わずらいってやつかな?そうだろ?」

僕は思わずホットケーキをのどにつめてしまいました。兄はそんな僕の様を見て、くすくす笑いました。


 牛乳を一気に飲んでホットケーキを流し込んだ僕を見ながら、兄は憎たらしい笑みを浮かべて話を続けます。

「そうか、お前が恋わずらいか。お前も大きくなったもんだ。……しかし、その割にはうかない顔してる。どうやら良くないことがあったと見た。何があったのか?ほら、この素晴らしい兄上に相談してごらん?」

 自分が話を聴きたいだけの癖に。しかし兄に相談してアドバイスをもらった方が約束の日までの準備をよりスムーズに行える気もします。背に腹はかえられません。僕は兄に約束の日の事と、それまでの準備について話す事にしました。

「うん。文通していた女の子と会う事になったんだけどね、その日までに彼女をがっかりさせない為にどんなことをすればいいのか分からなくって。例えば、服装とか。おしゃれなんてしたことが無いから、さ。」

「そうかそうか、この兄上に任せておけ。まずはそうだな……よし、着替えて来い。こんな時間までパジャマを着てるなんてだらしがないぞ。」

気づけば時計の針は四時をさしています。窓からは西日も差し込み始めました。僕は一度部屋に戻って着替えることにしました。

 着替えた僕の姿を兄はじっと眺めて、こう言いました。

「よし、それでいいだろう。」

この言葉を聞いたとき、少し腹が立ったのを覚えています。この馬鹿兄貴、適当な事言って。大事なことなんだぞ、そんな適当にものを言うな、と。そんな僕の心の内を見抜いたのか兄は僕にと尋ねてきました。

「普段着じゃ不満か?だったらお前はどういう格好がいいと思う?」

「例えば、テレビに出てるアイドルとか俳優さんとか。そういうイカした格好じゃないの?」

僕の返事を聞いた兄は眉をひそめて言いました。

「そうか。なあ、お前はその女の子に写真は送ったのか?」

「うん。」

「そうか。写真についてその女の子は何か言っていたか?」

「確か、思ってた通りの純粋で優しそうな人だって。」

「どうして普段着じゃ不満なんだ?」

「その写真の時は普段着だったから。折角会うんだから目一杯おしゃれな格好をしていった方が彼女も喜ぶんじゃないかな、と思って。」

「アホタレが。」

険しい顔でそう言い放った兄は僕の鼻先まで顔を近づけて、語気を強めてこう続けました。

「俺なら、裏切られた、と思うけどな。最後の最後にそんな馬鹿なことするなんて。」

「裏切られた、って。どうしてさ。」

「お前は今まで、その子にどう接してきたんだ?洒落た態度でか?それともキザな態度か?」

「そんなことしてないよ。ただ素直に、ありのままに接してただけ。」

「だったら格好も素直なありのままの服装でいいだろうが。最後の最後に上辺だけ派手に繕うなんてそんな馬鹿なことをする奴があるか。絶対にボロがでるに決まってる。」

 そう言うと兄は腕を組みながら椅子にもたれかかり、不機嫌な顔をして何も言わなくなってしまいました。

 確かに兄の言うことは間違いではないと僕は思いました。しかしそれは、決して兄の言うことに納得したわけではなく、出来る限りお洒落にした方がいいに決まってる、と心の底では思っても口に出していないだけのことでした。折角彼女に会える最初で最後の機会なのに何のお洒落もせずにに普段着で会うなんてみっともないと思っていたからです。

 結局僕は兄の言うことを無視して買い物へいくことにしましたが、その日はもう時間も遅く、買い物は明日にすることにしました。


 彼女と会う二日前、着替えを済ませてリビングへ行くと、テーブルの上に帽子がひとつ置かれていました。この帽子は見覚えがあります。それは兄の帽子でした。ひょいと持ち上げて見ると中には小さな紙切れが入っていました。

『お前はセンスが無いからどれだけお洒落しても無駄だよ。お洒落したいなら帽子くらいにしとけ、俺のを貸してやるから。』

 失礼な言い様でしたが僕はその時嬉しかったのを覚えています。わざわざ兄が僕のために帽子を貸してくれたのですから。

 僕は試しに帽子を被ってみました。鏡を見るとベージュの中折れ帽を被った僕がいます。なんだかくすぐったくて、なんだか自分じゃないような気がします。

「あら、それはお兄ちゃんの帽子じゃない。よく似合ってるわよ。兄弟って似るのねぇ。」

 洗濯物を干しに外へ出ていた母は僕を見るなりそう言いました。少し大きくなれたような気がして、少し嬉しかったのを僕は覚えています。

 それから僕は買い物へ出かけたのですが結局、服を買うのはやめにしました。兄の計らいを無駄にするわけにはいかなかったものですから。その代わり、僕はヘルツさんへのプレゼントのために万年筆を買いました。彼女が小説家を書き続けるうちはずっと使ってくれると思ったからです。僕のことをずっと忘れないでいてほしかったからです。今、思い返せば未練がましい男ですね、僕って。

 

 ついに彼女と会う前日になりました。僕は学校を終えて家に変えると着替えて、近所のスーパーマーケットへ行きました。彼女に食べてもらうおにぎりを作るための材料を買うためです。二月の終わりとは言え外はまだ寒く、待ち合わせの時刻は夜中の三時と遅いので彼女はきっと寒い思いをして待っていることでしょう。それに小腹も空いているはずです。だから、温かいおにぎりとお茶で少しでも寒さを和らげて、お腹を満たしてもらおうと僕は考えたのです。

 ヘルツさん、僕がおにぎりとお茶を持って行ったらどんな顔をするのかな、喜んで食べてくれるかな、お腹いっぱいだからって断るのかな。なんてことを作ってもいない時から考えたりなんかして、ワクワクしたりビクビクしたりしながら、僕は家路についたのを覚えています。


 ついに彼女と会う日がやってきました。笑おうが泣こうが今日が彼女に会える最初で最後の時、いままでの準備を無駄にしないように精一杯頑張らなければ、と初めのうちは思っていたのですが、その威勢は日が沈むまでしか持たず、日が沈んでからは上手くいくだろうか、最後の最後に彼女に嫌われたりしないだろうかなんて怯えて準備が全く進みません。頑張って作ったおにぎりだって、大きすぎたり小さすぎたり、不揃いで歪な形ばかりでそれはもう情けない出来で、お茶も水筒に入れる途中でいくらかこぼしてしまい、この調子で彼女に会ったところで上手くいくはずがないなんて悲観的な気分になったりもしました。着ようとしていた服も前日に着てしまって着られなかったりしてしまいました。

 そんな風にバタバタ準備を終えた頃には既に日付は変わっていて、零時四十分を少し過ぎた時間になっていました。あと少し、あと1時間二十分で約束の時間だ。ヘルツさんはどんな顔で僕を待ってくれているのだろうか。そう考えているとなんだか胸が苦しくて、じっとしていられなくて、挙句の果てに無意識に涙がこぼれてしまう始末。僕はそんな不安に耐えながら、ラジオを聴きながら、その時が来るのをじっと待っていました。


 1時二十九分五十七秒、五十八秒、5五十九秒……ついに家を出る時がきました。僕はジャンパーを着て、おにぎりの入ったタッパーと水筒を鞄に入れて、外へ出ました。外の空気は冷たく、澄んでいて、空では星がキラキラと輝いています。待ち合わせ場所の電波塔は家から20分ちょっとの場所にある山の頂上付近にあります。山と言っても低い山で登るのにはそう苦労はしません。僕は彼女を待たせてはいけないと思って、大急ぎで山頂へ自転車を走らせました。

 真っ暗な夜の闇の中をライトだけを頼りに自転車が登っていきます。低い山だと言っても傾斜が続くと結構な運動になるのか、寒さもいつの間にか感じなくなっています。僕は足に力を入れてペダルを力いっぱい漕いで山を登り、電波塔の近くにある公園にたどり着きました。ここから電波塔までは歩いて行きます。僕は兄の帽子をしっかりと被りなおして、ヘルツさんの待つ電波塔へと急ぎました。

 

 電波塔への道を歩いているときにふと、僕はある事に気づきました。空が異様に明るいのです。家を出た頃は何の変哲もない夜空だったのが、今では鮮やかな瑠璃色になるほど明るくなっています。そして僕は、それが星のせいだということに気づきました。なぜなら、空では星が、今までに見たことがないほど激しく輝いていたのです。星空はまるで深い海の底にこの世の全ての宝石を散りばめた様でした。 

そんなことを考えながら夜空を見上げて歩いていると電波塔のすぐ正面までやってきました。

「あの……金木犀くん、かな?」

 声のした方を見るとそこには一人の若い女性がいます。僕は彼女を見た途端、この人がヘルツさんだと直感しました。

「はい、僕が金木犀です。あなたが……」

「ヘルツです、こんばんは。こんな時間に呼び出しちゃったりしてごめんね。」

 ヘルツさんは緊張しているのか少しうつむきながら話しています。何度も文通してきたとは言え、実際に会ってお話しするのは緊張するのでしょう。実際、僕も緊張していて彼女の目を見て話すことが出来ませんでした。そういう訳で僕達はお互いにもじもじしながら、二言三言、他愛もない会話をして、近くの公園へ移動することにしました。

 公園に着いた僕達はベンチに腰掛けました。しかし、きちんと話そうと思っても、お互いの顔をチラチラ見たりして何か言おうとしても黙り込んだり、もじもじしながら他愛もない話をしてまた黙り込んだりして思うように話すことが出来ません。時刻は2時20分。時間は刻一刻と進んでいます。一体、僕はどうすればいいんだ。

 そう悩んでいたとき、僕は彼女のためにおにぎりを作ってきていたことを思いだしました。

「あの、さ……これ。寒いし、こんなに夜遅くだからお腹が空いてるんじゃないかなと思って。よかったら食べてくれないかな?お茶もあるよ。温かいの。」

 突然そう言いながらおにぎりを差し出された彼女は、おにぎりと僕の顔を何度か交互に見てから、無言で頷いておにぎりを受け取って、それを口にしました。そしてにっこり笑って、言いました。

「うん、美味しいよ。金木犀くんの作ってくれたおにぎり。」

 僕は天にも昇るような気持ちでした。頑張って作ったおにぎりをヘルツさんに美味しいと言いながら食べてもらえたのですもの。僕は目頭がきゅうっと熱くなって、泣きそうになったのを覚えています。そんな僕の気持ちを察してくれたのか、彼女は僕が落ち着くまで無言でおにぎりを食べ、お茶を飲んでくれていました。


 おにぎりのおかげで緊張が解けた僕達は色々なことを話しました。進学先の大学のこと、家族のこと、以前の手紙についての補足、言葉こそ少なかったのですがすごく幸せな気持ちでした。その中で僕はふと、星空のことを話題にしてみました。

「あのさ、不思議だよね。今日の星空。星が、いつもより激しく輝いてるみたいだ。」

それを聞いたヘルツさんはクスクス笑ってこう言いました。

「この星空を見て欲しくってこんな時間に君を呼んだんだ。綺麗でしょ。それに、耳を澄ましてみて。何か聞こえてこない?」

耳を澄ましてみると、どこからか鈴の音の様なものが聞こえてきます。もっと耳を澄ましてどこから音がするのかと探すと、それは空から聞こえてくると分かりました。

 驚き、戸惑う僕の顔を見て、ヘルツさんはまたクスクスと笑って話を続けました。

「これ、星の声なんだ。地上に届くことはもう殆どないけどね。ラジオがなかった昔はよく聞こえていたそうだよ。」

「どうして?」

そう尋ねた僕に、彼女は待ってましたと言わんばかりの顔で言いました。

「ラジオの電波がね、邪魔してるの。星の声を押し退けちゃうんだよね。だから、ラジオの電波が止まってる今の時間しか星の声が聞こえないんだ。」

 なるほど、知らない人もいるかもしれませんが民放のラジオ局は日曜日の深夜二時から五時まで、設備のメンテナンスのために放送を休止しているのです。だから普段は星の声が聞こえないのか、と僕は納得しかけました。しかし、そんな話を聞いた事はありませんし、そもそも星が音を発していると言うのが非科学的です。僕は彼女の言うことを信じられませんでした。なので、僕は彼女にもう一度尋ねました。

「その話、本当なの?そんな話、聞いた事無いし、それに星が音を出すなんて信じられないよ。」

 すると彼女は、唇を尖らせながら僕の問いに答えました。

「本当だよ。信じられないかもしれないけど、本当のこと。」

「本当に?」

「証拠はないけどね。証拠なんて要らないのにね、本当に聞こえるんだから。」

 僕はそれを聞いて、彼女にとても悪いことをしてしまったような気がしました。確かに星の声は本当のことです。だって僕は今、星の声を聞いているのですから。僕はすっかりしょげてしまいました。それに気づいた彼女は星空を見上げて言いました。

「信じてもいいんだよ、自分が見たり聞いたりしたものは。証拠なんて要らないよ。証明できたってできなくたって、君にとってあった事には変わりないんだから。誰にも信じてもらえなくても、君は感じたんだから。ね?」

 僕は何も言えませんでした。ヘルツさんもそう言ったきり何も言わなくなり、辺りには夜風に揺れる草木の音と星の声だけが静かに聞こえているだけなのでした。


 それから僕はヘルツさんと色々な話をしました。友達のこと、音楽のこと、そして将来のこと。ヘルツさんは小説家になりたい理由をこう話していました。

「私が小説家になりたいのはね、私が見たり聞いたり、感じたりしたことをみんなに伝えたいからなんだ。私、あまり話すのは苦手でね。でも、文章を書くのは好きだから文章はそれなりに書ける。だから私の思いを他の人たちに伝える為に小説家になろうって考えてるんだ。」

 そう話す彼女の顔を見ると、頬は少し赤くなっていて、目は夜空を反射しているかのように、らんらんと輝いています。そんな彼女を見て、ずっとこのまま彼女のそばにいたい、と思ったのを僕は覚えています。


 それから僕達は楽しくお話をしていたのですが、ふと時計を見たヘルツさんは悲しげな表情をして僕にこう告げました。

「四時五十二分……ごめんなさい、私そろそろ帰らなくちゃ。楽しかった。ありがとうね。」

「帰るの?送るよ、家まで。」

「ううん、大丈夫。一人で帰るから。」

「でも一人じゃ危ないって。」

「だめ。私の家、ここから遠いところにあるから、送ってもらったら金木犀くんがお家に帰れなくなっちゃうよ。」

「でも……」

「時間が無いんだ。急がなくっちゃ。じゃあね、また今度ね。」

 始発の電車に乗らなきゃ間に合わないところから彼女は来たのでしょうか。とにかく彼女は急いでいたようで、僕の言葉を強引に振り切ったヘルツさんは駆け足で公園を出ようとしています。

 走り去ろうとする彼女の背中を見て、僕は万年筆のことを思いだしました。僕は出せる限りの声で彼女を呼び止め、彼女に向かって走り寄りました。

「何?心配しないで。私、一人で帰れるよ。」

「違うんだ。これ、プレゼント。万年筆。」

 差し出した万年筆入りの箱を受け取ったヘルツさんは何も言わず、うつむきました。

「ヘルツさんが小説家になりたいって言ってたから。万年筆ならずっと使えるでしょ?その……忘れないで欲しいんだ、僕のこと。すっごく楽しかったよ、今までありがとう。」

「……ありがとう。」

 彼女の声は震えた声で言い、そして顔を上げました。その時僕は気付いたのです、ヘルツさんは泣いていたのです。それを僕に知られないように彼女はうつむいていたのでしょう。知らないうちに僕も泣いていました。

 それから、彼女は何も言わず、走り去っていきました。僕もしばらく泣いた後、家に帰りました。午前5時を過ぎた星空はいつも通りの、静かな空でした。


 それからしばらくは、大学へ行く準備のために色々と忙しかったのですが、準備も一段落し、何も予定のない日が出来たので、僕はヘルツさんの住んでいた町を訪ねることにしました。もしかしたら、彼女はまだそこにいるかもしれない。彼女に会えるかもしれない。僕はそんな淡い期待を持ちながら、その日が来るのを楽しみにしていました。

 数日後、彼女のいた町を訪ねる日です。僕は今まで文通して来た手紙を鞄に入れ、家を出ました。目的地は最寄の駅から電車で二時間程の露ノ原という山間の町です。僕は若葉色をした各駅停車の電車に乗って、露ノ原を目指しました。車窓から見える山々はすっかり春の装いをしています。


「露ノ原ぁ、露ノ原ぁー。お出口はぁ右側です。露ノ原ぁ、露ノ原ぁー……」

 露ノ原はとても静かな町でした。正午近くだというのに駅前の広場には二、三人ばかりの人影しか見えません。近くの食堂からは美味しそうな匂いが漂ってきます。花壇を埋め尽くす菜の花にはモンシロチョウが停まっていました。

 ここがヘルツさんの住んでいた、いや住んでいるのかもしれない町。もしかしたら彼女に会えるかもしれない。そう思うと僕はとてもドキドキしました。

 町の人達に手紙の住所の場所を尋ねながら、僕はヘルツさんのいるかもしれない町外れの高台までやってきました。高台からは川と花畑、そして大きな森が見えます。彼女の送ってくれた写真の風景によく似ています。僕は町の人に教えてもらった場所に行きました。

 高台を歩いて行くと、向こうに小さな洋館が見えます。この洋館の他には建物はひとつもありません。間違いない、彼女はこの辺りにいる。僕はその洋館に向かって急ぎ足で向かいました。

  

 洋館の門前へやってきました。しかし洋館はどこか様子が変でした。洋館は空き家になっていたのですが、最近に住人が出ていったという様子ではないのです。錆付いた門、雑草が蔓延る庭、つる草の絡まる外壁、廃屋とまでいかなくとも何年も空き家だったように見えます。

 これは変だぞ、そう僕は思ったのですが、町の人々が手紙に書いてあった住所を見て困ったような顔をしていたのを思いだしました。おそらく、彼らはここに人が住んでいないのを知っていたのでしょう。そうすると、ヘルツさんは手紙に嘘の住所を書いていたとも考えられます。僕は騙されていたのでしょうか。

 僕は他にも建物がないか、辺りを探し歩いて見ました。しかし、建物にはこの洋館しかありません。騙されたのか、僕はひどく落ち込みました。だったら、ここにいても仕方がない、さっさと帰ろう。そう思って踵を返したそのときです。僕は地面に何か棒の様なものが転がっているのを見つけました。それは空色をした万年筆でした。

 拾い上げて見ると、その万年筆はあまり汚れておらず、つい最近、ここに置いていかれたもののように思えました。でも、こんな所に誰が万年筆を忘れていったのでしょう。考えていると、僕の頭の中に彼女の顔が浮かんできました。そうだ、これはヘルツさんの万年筆だ、と僕は確信しました。あの夜、彼女の姿を見た時の様に、この万年筆がヘルツさんのものだと分かったのです。

 僕は万年筆を鞄に入れ、決意しました。絶対にヘルツさんを見つけて、この万年筆を渡すんだ、と。

  

 その万年筆を拾って、今日で三十年が経ちます。今でもヘルツさんを捜していますが、結局彼女を見つけることはできていません。彼女は今、どこにいるのでしょうか。

 五十歳も近くなった今、体の至る所が悪くなってきているので捜せる範囲も狭くなり、仕事が忙しくなってきている上、30年も前のことなので手がかりも殆どなくなり、僕はそろそろヘルツさんのことを諦めようかと考えています。

 しかし僕はヘルツさんにどうしても伝えたいことがあるのです。彼女のことを諦めるためにも、どうか僕の最後のわがままを聞いて欲しいのです。

 ヘルツさん、どこにいるかも分からない僕の初恋の人。どうか元気でいてください。これが、これだけが僕の最後のわがままです。

  最後に、公共の電波を使って長々と失礼しました。それでは、さようなら。

ラジオネーム 48歳の金木犀


 ――やっと書き上がった。私は万年筆を置いて、大きく伸びをした。

乙波(オトナミ)先生、書けましたか?乙波先生?」

 筆を動かす書く音が止まったのが分かったのか、編集担当がドア越しに声をかけてくる。

「書けましたよ。どうぞ、持っていってください。」

「わあ、ありがとうございます!これで家に帰れるぞ!ばんざーい!」

 狂喜のあまり小躍りしながら帰って行く編集を尻目に、私は冷めたカフェオレを飲み、机の隅に立てかけられた写真に目をやった。そこに写っているのは少し小柄で童顔の男の子。読書と音楽鑑賞が趣味の純朴なラジオ少年で、私の遠い思い出の人。

 彼とはあの夜以来、一度たりとも会えていない。あれから私は夢を叶えて、小説家になり、結婚もして子供も3人できた。けれども、その間も私はずっと彼のことが気がかりで彼の居場所を捜し続けていた。あの夜から30年が経った今でも、私は彼を捜し続けている。もっとも、居場所も何も分かってはいないが。

 きっと彼とはもう二度と会うことは出来ないだろう。けれども、この想いだけは彼に伝えたい。どこで何をしているのかも分からない彼へ、30年の時を経ても変わらない私の思いを伝えたい。だから、私はその思いをこの小説、『空色の封筒』にこめて、世に送り出すことにした。つまり、これは半分は本当の話なのだ。照れくさいけど、これが私にできる最後の手段だから。

 時計の針はちょうど2時を示している。窓の向こうを眺めながら、私は星空に祈った。彼が元気でいますように、と。窓の向こうの、まるで深い海の底にこの世の全ての宝石を散りばめた様な星空には、鈴の音の様な星の声が静かに響き渡っていた。

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