前編:空色の封筒
それは、僕が大学受験を間近に控えた高校三年生の時の出来事です。その頃の僕にとって、ラジオは一番の楽しみでした。と言うのも、僕は小さい頃から引っ込み思案で友達なんて殆どおらず、休みの日は一人で家で本を読んだり、音楽を聴いているような毎日だったからです。たまにふらふらと山や海へ出かけることもありましたが三年生になってからは受験勉強に追われる毎日でそんな暇は無くなり、僕は学校へ行く以外は外へ出ることはほとんどない、まるで引きこもりのような状態でした。そんな毎日の中で、ラジオは僕にとって、暗い部屋の中で外の景色が見えるただ一つだけの窓の様な存在でしたから、僕は毎晩、毎晩、さながら中毒患者のようにラジオを聴いていたのです。
五月のある夜、僕がいつものようにラジオを聴いていたときのことです。ラジオからは様々な話題が流れ出してきます。投稿者やその身内の失態、パーソナリティの方の読んでいる漫画、誰かの新曲。どの話題も僕の心の中の不安や、ささくれを取り去っていくのを感じていました。
そんな思いで僕がラジオを聴いていると、あるコーナーが始まりました。ラジオに自己紹介を吹き込んだテープを送って、ラジオを通じて文通相手を募集するというコーナーです。普段なら投稿者や応募者の自己紹介や名前、声を聞いて、この人は背の高さはこれくらいで、こんな声をしているのだろうな、と想像する程度で 真剣に聴いてことは無かったのですが、この時は違いました。それはヘルツと言うラジオネームの女の子の自己紹介が流れた時でした。
「はじめまして。ヘルツと言います。十八歳の高校三年生です。文通は初めてです。趣味は読書と音楽鑑賞、そしてラジオを聴くことです。文通をしたいと思った訳は、私と同じようにラジオを聴いている人がどういう人で、何を考えて暮らしているのかが気になったからです。こんな私と文通してくれるという優しい人はよろしくお願いします。」
僕はこのテープから流れる声を聞いて、胸が大きく、どくん、と鳴ったのが分かりました。高くて細い、透明感のある声。囁くような、優しい声。一目惚れ、と言っては少し変ですが、僕は声を聴いただけで彼女に恋をしてしまったのです。僕の頭の中は一瞬で彼女のことでいっぱいになりました。彼女の背は高いだろうか、低いだろうか。髪は長いだろうか、短いだろうか。顔立ちはどうだろう、可愛い顔だろうか、綺麗な顔だろうか。読書が趣味だと言っていたけど、どんな本が好きなのだろうか。音楽はどうだろうか。そんな考えが僕の頭でぐるぐると、ぐるぐると回り続けて、気付いたときにはラジオも終わり、外では朝日が昇りつつあったのでした。
次の日は平日だったので、僕は学校へ行きました。友達もいないし、部活動も委員会も参加していない僕にとって、学校と言うのは勉強するだけのなんともつまらないところでした。授業を受けている間はともかく、休み時間なんかは教室の窓から空を眺めるくらいしかすることはありません。晴れているときでも真っ青な空の中に雲が一つ二つ浮かんでいるだけの変化に乏しいつまらない風景です。曇りや雨の日なんかは全く、見られたものではありません。しかし、その日の僕は違いました。僕は昨夜のように、彼女についてずっと考えていたのです。彼女はどの教科が得意でどの教科が苦手なのだろうか。部活動はしているだろうか。委員会には参加しているだろうか。そんなことを考えていると、今まで退屈で仕方の無かった休み時間もあっという間に過ぎていきました。つまらない青空も、ずっと向こうに彼女がいると考えていると、青くて、深くて、静かで、まるでどこか遠い国の海のように輝いて見えたのでした。
その日の夜、僕はカセットテープを持ち出して、録音をしました。内容はもちろん、ヘルツさんに文通をお願いするものです。文通をするのは僕も初めてでしたが、彼女と文通がしたいと思うと何もせずにはいられなかったのです。
「はじめまして。僕はヘルツさんと同じ高校三年生の男子です。趣味もヘルツさんと同じで、読書と音楽鑑賞、ラジオを聴くことです。僕も文通をはじめようと思っていたところなので、初めて同士、文通しませんか。」
僕は彼女に宛てて、こんなことを言っていました。改めて思い返すと、なんて素っ気無いのでしょう。しかしこれには理由があります。本当は言いたいことがたくさんありました。しかし上手く言葉にすることができなくて結局、こんな無味乾燥な、つまらないものになってしまったのです。もし僕が時空を自由に行き来できる力を持っていたなら、僕はあの日の夜へ行って当時の僕に納得がいくまで何十回何百回と録音し直させていたことでしょう。ともあれ次の日、僕はテープを封筒に入れ、ラジオ局に送ったのでした。
僕がその夜に吹き込んだテープの声を再び聴いたのはそれから1ヵ月後のことです。ヘルツさんに文通を申し込んだ人は僕のほかにも何人かいたようですが、初めて同士の方がいいとパーソナリティの方の計らいで、僕は彼女の文通相手になれたのです。それを聴いた時、どれだけ嬉しかった事か。ヘルツさんと文通ができる、彼女と仲良くなることができる、電話だってできるようになるだろう、もしかすると実際に会う日だってくるかもしれない。僕は天にも昇るような思いでした。
彼女から最初の手紙が届いたのは、それから三日も後のことでした。たった三日じゃないか、とも思うかもしれませんが、手紙を心待ちにしていた僕には三日という短い時間の間に幾千年もの時が流れていたかのように感じられたのです。朝早く、郵便受けを覗いて手紙を見つけた僕は、急いで部屋に戻ってその手紙を読みました。そこにはこう書いてありました。
「はじめまして。私がヘルツです。よろしくお願いします。……緊張しています、文通は初めてなものですから。そちらはどんなところですか?空は青いですか?山は緑ですか?星は瞬きますか?月は満ちたり欠けたりしていますか?お返事待っています。
追伸 短い手紙でごめんなさい。本当は書きたいことがいっぱいあるのだけれど、頭の中でこんがらがっちゃって書けなくなって、書くのをやめちゃいました。
追伸の追伸 質問には答えなくても大丈夫です。
ヘルツより」
空色の封筒と便箋、弱めの筆圧でサラサラと書いたような文字、少し控えめな文章。僕が想像していたヘルツさんそのままの手紙でした。僕は手紙を読んだ後、どういう風に返事を出そうかと考えに考え、暫くしてから机に向かってペンを取り、返事を書きました。
「はじめまして、僕も文通は初めてなので緊張しています。そして、こうしてヘルツさんと文通ができると思っていなかったので、すごく嬉しいです。質問に答えましょう。空は青いです。山は緑です。星だって瞬きます。とは言っても、ごちゃごちゃした街の中ではどれもくすんで見えてしまっているのですが。あなたはどんな所にいますか。お返事を待っています。」
茶色の封筒と真っ白な便箋、妙に強い筆圧で書いた震えた文字、質問に答えただけの素っ気ない文章。思い返すと、なんとも情けない手紙です。この手紙を読んだ彼女はどう思ったことでしょうか。それでも、当時の僕にとっては精一杯のものだったのです。とにかく、僕は書き上げた手紙を内容の確認もせずに封筒に入れ、急いで近所のポストまで持って行きました。急いでいたのは彼女からの返事が少しでも早く届いて欲しかったというのも理由の一つでしたが、手紙を書き進めている内に、こんな手紙を受け取ったヘルツさんはどんな顔をするのだろうか、がっかりして返事を返さなかったりするんじゃないだろうか、と不安で押しつぶされそうな気持ちになってしまい、不安の種である手紙を早く手放してしまいたかったからでもありました。しかしそれは手紙を手放したところで解消されるわけではなく、結局彼女からの手紙が再び届くまで、この不安な気持ちは続いたのでした。
彼女からの二通目の手紙が届いたのは僕が手紙を出してから二日後のことでした。二通目の手紙も一通目と同じように空色の封筒と便箋に、流れるような文字で文章がつづられていました。
「こんにちは、お返事ありがとうございます。この前はあんな、おかしなお手紙を送ってしまってごめんなさい。手紙を出してからお返事を受け取るまでの間、もし手紙を読んだあなたが気持ち悪がって手紙を捨てて、返事が返ってくることがなかったらどうしようかと、ずっと心配でした。手紙が届いたと知らされたとき、どれだけほっとしたことか。私は今、そのときを思い出しながら手紙を書いています。あなたのいる所も空は青くて、山は緑で、星は瞬くんですね。よくよく考えると当たり前ですけれど。あんなおかしな質問に答えてくれてありがとうございました。部屋の窓から撮った写真を入れておきます。私がどんな所に住んでいるか分かるでしょう。この景色は私の大好きな景色です。
ヘルツより」
封筒の中には、一枚の写真が入っていました。どうやら彼女は田舎で暮らしているようです。川が流れていて、花畑と大きな森があって、その向こうには緑の山々が並び、青い空には小さな雲がぽつぽつと小船のように浮かんでいます。こんな風景がこの国にあったなんて。とても感動したのを覚えています。
それから、ヘルツさんと僕は手紙をやりとりしているうちに打ち解け、彼女について様々なこと知ることができました。彼女は高校でも成績優秀な生徒であること、文芸部に入っていること、園芸委員であること。春が好きだということ、小説家志望であるということ、ねこを飼っていること。そしてバターとはちみつのトーストが好きだということ。手紙の中身はたわいも無いものがほとんどでしたが、僕にとってはどんな小説よりも面白いものでした。思い返すとあれは、恋は盲目と言うものだったのでしょう。今、同じ話を彼女じゃない誰かに話されてもあれほど心が弾むことは無いでしょうから。
しかし、月日はそんなことをよそに流れていき、大学入試が近づいてくると僕は受験勉強だけで手がいっぱいになってしまって彼女へ手紙を出すのが遅れがちになり、しまいには手紙を出すことを殆ど忘れてしまっていました。それでも彼女は手紙を送り続けてくれていましたが、彼女の方もまた大学受験を控えて忙しかったのでしょう、手紙を送ってくることが少なくなり、しばらくすると手紙が来ることはなくなってしまいました。つまり、僕たちの文通は自然に途絶えてしまったのです、一月ほど前まではあれほど沢山の手紙をやり取りしていたのに。
一月の終わりから二月の始まりの頃でした。何気なく郵便受けを覗いた僕の目にあるものが飛び込んできました。それは僕宛の空色の封筒でした。もしやと思い差出人の名前を確認すると流れるような文字でヘルツよりと書かれていました。間違いありません。彼女はまだ僕のことを忘れないでいてくれていたのです。僕は喜びのあまり思わず飛び上がってしまいました。
「久しぶり。長い間お手紙を出せなくてごめんね。出したかったのだけれど、すっかり忘れてたんだ。大学入試はどうだった?希望の大学に合格できた?私は第一志望だった大学に合格できたよ。これでひとまずゆっくりできるかな。今まで我慢してた分の本でも一気に読んじゃおうかな。それても一人でどこかへ旅行へ行ったりとか?やりたいことは色々あるけれど、これまでできなかった分の文通もしたいかな。
ヘルツより」
手紙を読み終えたとき、僕はすぐさま机に向かいました。今まで眠っていた色々な思いがいっせいに目を覚まし、嵐のように僕の胸に押し寄せてきて、いてもたってもいられなくなったからです。
「僕こそ手紙を出せなくってごめんね。僕だって手紙のことは忘れてしまっていたから、君が謝ることなんてないよ。君から手紙が届いたとき、すごく驚いたよ。君から手紙が来なくなってしばらくしたとき、君と文通することはもう無いと思ってたから。だから、また君とこうやって文通できるのはとっても嬉しく思う。
希望の大学に受かったんだね、おめでとう。僕の方も上手くいったよ。第一志望の大学じゃないけれど見学に行ったとき、皆活き活きとしていい雰囲気の大学だったから楽しみだ。遠いところにある大学だから家を離れて一人暮らしをしないといけなくなったのが面倒だけどね。これから家を離れるまでの間、何をしてすごそうかな。後悔しないような、有意義な使い方をしないとね。」
手紙はこんな風に書いた気がします。気がします、なんて書いているのはその時、手紙をこう書いたということを僕ははっきりと覚えていないからです。なんせその時は、とめどなく押し寄せてくる思いを必死に頭の中で文章に纏めながら無我夢中で書いていたのですから。思い返せばよくそんな状態で書けたなと思います。
彼女から手紙が来たのはそれから一週間経った曇りの日のことでした。郵便受けに空色の封筒を見つけた僕は封筒を取り、急いで部屋へと戻りました。部屋に戻ると僕は一息ついて、封筒を開けました。そこには封筒とおそろいの空色の、いつもの便箋が二枚入っていましたが、それまでの手紙とは違うところが一つだけありました。折りたたまれた便箋のふちの部分がのりで貼りあわされている上にシールで留められていたのです。そのことに気づいたとき、嫌な予感がしました。これはきっとただ事じゃない、良くないことだ、と直感したのです。僕は机からカッターナイフを取り出し、この予感が外れていることを祈りながら、危なげな手つきで慌てて便箋を開き、文章に目を通しました。そこにはこんな文章が綴られていました。
「こんな面倒なことしてごめんね。でも誰かに見られたりするのが嫌だったから、許してね。大事な話があるんだ。すごく大事なお話。君との文通もこれでおしまいかもしれない。いや、これがきっと最後になると思う。
ずっと言えなかったんだけれど、実は今月の終わりごろに引っ越すことになってたの。それだけなら文通も続けられたんだけど、その引越し先が今いるところよりずっと、ずっと遠いところだから、文通はもうできないんだ。私だって、そんなことになるのは嫌だから色々文通を続けるための方法を探してみたんだけどダメだった。悲しいけど、この手紙が君への最後の手紙。もっと色んなことをお話したかったけど、そんなことを書いても、もうだめだよね。これで最後なんだから。」
あまりに突然な別れの訪れに僕は驚きの声すら出すことができませんでした。そして、手紙の内容を理解すると僕は床にへたり込んでしまい、それと同時に僕の頭の中に、初めて彼女の声をラジオで聴いた日から今までの記憶の数々がものすごい勢いであふれ出してきました。そして、僕は無意識の内に泣いていたのです。
日付が変わる少し前、やっと落ち着いた僕は再び手紙を読むことにしました。しかし何度読み返しても手紙の内容は変わるはずがありません。それどころか、涙に濡れたのと思いきり握られたことでぼろぼろになった手紙は僕にむごい事実を突きつけるばかり。僕はどうしようもない思いを抱えてベッドに座り込みました。その時、ベッドの隙間に何か落ちていることに気付きました。それはもう一枚の便箋でした。僕は急いでそれを取り出すと、あの話は嘘だったと書いてあってほしいと思いながら藁にもすがる思いで手紙を読みました。
「だから、最後に一つだけお願いがあります。今月の最後の日曜日の午前二時、地図に書いてる場所に来てください。最後に、あなたに会いたいから。
ヘルツより」
便箋には小さな地図が貼り付けられていて、電波塔を赤い線が丸く囲ってあります。その場所を僕はよく知っていました。そこは以前に何度も訪れたことがあった場所だからです。
僕は少し前と同じように、驚き、声すら出せませんでした。しかし、その後は全く違いました。だらりとしていた身体には力がみなぎり、僕の中に空いた穴がどこかから湧いてきた何かで満たされていくのを感じました。僕はたまらず立ち上がり、大きく伸びをして、机へと向かい彼女に会う日までの計画をたてました。約束の日を彼女のとびきりの思い出にするために、辛い思い出にさせないために。そして朝日が昇りだした頃、計画書を書き上げた僕は満ち足りた思いでベッドに入りました。約束の日の4日前の夜のことです。