第14話
うまくいけば……。
うまくいけば今日ですべてが終わる。
かならず契約をとって、今月中に会社を辞めてやる。
――そして最初からやり直す。
いちから就職活動して、ちゃんとした会社に入って、誰に言っても恥ずかしくない立派な仕事をするの。
そのためには、どうしてもあの男、内田を落とす必要がある。
今日中に落として、来週会社を辞めて、それで……。
暑いっ! 暑すぎる!
私は立ち止まり、ぎんぎんに燃え盛る太陽を睨みつけた。
どこなの、あいつの家は?
印刷された内田の住所をバッグから取り出し確認する。
あと五分ほどこの道を真っ直ぐに進めば、あの男の家が見えてくるはず……。
それにしても、なんだってこんな駅から遠く離れた不便な場所に住んでいるのかしら。
駅近だと家賃が高いから? 冗談じゃないわよ。
私をこんなに、こんなに汗だくにして……。
ああ、ああ、下着が透けちゃって、これじゃ丸見えだわ。
――悲劇だ。
悲劇としか言いようがない。
これも全部ハピネスと内田のせいだッ!
特に辻村とかいう女社長、ほんっとむかつく!
会社で顔を合わすたんびに『野口さん、契約は取れたかしら?』とか巻き髪をいじりながらほざきやがって、金のことしか頭にねえのかよ。
ったく、安っぽいキャバ嬢みたいな香水つけやがって、娼婦かお前はッ!
すこしは自分の歳を自覚しろっつの!
ああ、いらいらする、血圧が上がる。
いらいらしたら、よけい暑くなってきた。
――っていうか。
内田の家はどこなの?
視界には憎らしいほどの青空が広がり、民家と寂れたバイク屋それに背の高いマンションが立ち並び、その奥に小さな公園が見える。
私は現在位置と印刷した地図を交互に見比べた。
この辺よねえ……。
ってか、このマンションじゃないの?
グランプラザ、グランプラザ、っあ、やっぱりここだ!
へえー、けっこういいマンションじゃない。内田のくせに。
私は、ステンレス製の両開きドアを開けた。
涼しいー。
バックから少しぬるくなったお茶を取り出し、喉を潤した。
三○四、内田、三○四、内田、三○四……あった。
間違いない。あいつの家だ。
私はエレベーターのスイッチを押し、待っている間に書類を整理した。
会社案内、契約書、振込用紙、よし、ばっちり。
あとはこの身体と甘い言葉で籠絡するだけ……。
エレベーターに乗り込むと、じわりじわりと汗が、そして緊張が私の身体全体を支配した。
落ち着け、わたし!
落ち着くのよ。
今日で、今日ですべてが終わる。
これから始まる破廉恥な商談を必ず成功させて、このたとえようもない苦しみから私は私を解放するの。
目的はただひとつ。
契約を交わし、金を振り込ませること。
実にシンプルで単純な話なんだけど……。
どうやって説明、説得すれば……。
あの男に対して、どんな方法が一番効果的なの?
昨日、徹夜でフロイトの夢判断を読んでみたけど、難しすぎてさっぱり理解できなかった。
そもそも心理学なんて大学で専攻してないし、きっちりした理論とか私苦手だし、それに大学では一応体育会系女子で通ってて、本を読むより体を動かし……。
――三○四号室。
私は黒い扉の前で足を止めた。
ああ、最悪。最悪だ。
けど、もうこれしか方法がない……。
ブラウスのボタンを三つ外し、スカートを無理やり短くした。
私には専門的な知識もないし、社会人としての経験もない。
それなら、色香で強引に落とすしか方法はない。
大丈夫、ほんの少しの我慢だわ。
なんとかなるわよ、これくらい。減るもんじゃないし。
さあ、行くわよッ!
私は人差し指にありったけの力をこめた。
「ピン、ポン」
汗が、つうううっと背骨を伝うのを感じた。
私は小さく深呼吸をし、もう一度内田家のベルを鳴らした。
「ピン、ポン」
っえ、留守? まさかの留守?
ああ、こんなことって……。
嘘でしょ、ここまできて、こんな……。
お願いだから出て、出て頂戴。
「ピン、ポン。ピン、ポン。ピン、ポン」
ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ。
今日じゃなきゃ絶対ダメなのよッ!
今日ですべてを終わりにするって決めたんだから。
うちだあああああぁぁぁぁぁ。
「ピン、ポン」
「ドンドン、ドンドン」
まずい、まずい、まずい。まずい、まずい。
非常にまずい流れだわ。
くそっ、失敗した。
出る前に一本電話入れとけばよかった。
「ピン、ポン。ピン、ポン」
「ドン、ドン」
「はーい、今開けまーす」
今の声……。
たしかに男の声だった。
間違いない、間違いないわ。
あの声は、内田の声だッ!