第12話
「ただいまあ~」
――涼しい。
冷房の風が玄関まで届いている。
「お帰り。遅かったわね」
母が台所から、ぬっと、顔をだした。
「うん」
気のない返事をし、パンプスをシューズボックスに入れる。
「ご飯、食べるでしょ?」
「食べる」
「っあ、ちょっとでいいから」
洗面所で手を洗い、タオルで首元の汗をぬぐった。
ひどい顔……。
私は三面鏡に顔を近づけ、いろいろな角度から眺めた。
なんてひどい顔なの……。
きっと、疲れてるんだわ。そうに決まってる。
「あゆみぃ、刺身あるけどいるぅ?」
「なんの魚?」
「まぐろ!」
「いるう~」
私は、仕事着のまま、ソファーに身体をなげた。
――疲れた。
体が重い。脚が痛い。頭が痛い。
今後について、いろいろ考えなきゃいけないんだけど、今日はもうムリ。
暑さと疲労のせいで、頭のなか完全にフリーズしてる。
こういう時は、ゆっくり休むにかぎる。
仕事のことは、明日また考えよう。あの男については、そうね、寝る前に布団のなかでゆっくり考えよう……。
「あゆみ、できたわよ、いらっしゃい」
「は~い」
私は妹の向かいに腰をおろした。
あやかは、分厚い文庫本を読みながら黙々と箸を動かしている。
まぐろの刺身、冷奴、スコッチエッグ、サラダ、味噌汁。
ああ、だめだ、食欲がない。
なにも食べたくない。眠たい……。
「それで、あゆみ、仕事はどうなの?」
きたッ。私は心のなかで呟いた。
母は質問を続ける。
「順調なの?」
「うーん、まあまあかな」
ぞんざいに答える。
「なによ、まあまあって」
「今どんなことしてるの?」
「どんなことって……」
「外回りよ、そ・と・ま・わ・り」
つとあやかが顔を上げた。
ほんの数秒目が合う。
「外回りって、お父さんみたいに営業してるってこと?」
「っま、そゆこと」
私は、豆腐を口に運び、サラダに箸を伸ばした。
「なにやってる会社なの?」
「ちゃんと詳しく話してよ」
「なにって言われても……」
疑いを含んだ母のまなざし……。
とりあえず、てきとうに答える。
「いろいろだよ」
「化粧品とか、健康器具とか、まあいろいろ」
「そう、そうなの」
「なんだか心配だわ……」
「なんでよ」
「だってえ、あゆみに直接訊いても、はぐらかすじゃない」
「あゆみが毎日何やってるのか、母さん全然想像できなくって……」
あやかがちらっと母に視線を向け、すぐにその視線を本の文字列にもどした。
まったく、たまには家族の会話に参加しろっつの。
まあ、この話題を広げられてもそれはそれで困るんだけど……。
「あゆみ、ねえちょっと、聞いてるの?」
「聞いてます、聞いてます」
「母さんには、今度ちゃんと話すよ」
「今度っていつ?」
「さあね」
「この暑い夏が終わって秋がきたら……」
「なにそれ」
「まあ、とにかく、近いうちにちゃんと全部話すから」
「……」
「……」
ああ、めんどくさい。
なんの意味もない不毛な問答だわ。
私は戦場からの撤退を決意する。
「ごちそうさまあー」
「もう食べないの?」
「うん、ごめん、食欲ないの」
「――そう」
私は冷めた空気を食卓に残したまま席を立った。
「あゆみぃ、明日は会社お休みなんでしょ?」
「うん、休み」
「どっか出かけるの?」
「うーん、わかんない」
二階の自室へと続く階段をのぼりながら、あの内田というどうしようもない男について、漠然と考えをめぐらせた。
騙す女、騙される男……。
ただ、それだけのこと……。
それだけの関係……。