余談 三成の願い
関ヶ原で石田三成率いる西軍を打ち破った東軍は、すぐさま進軍
せずにしばらくは関ヶ原の地に留まっていた。
理由としては、
1、東軍から見て後方に位置する大垣城の西軍が未だに持ち堪えて
いたこと
2、中山道を進軍しているであろう東軍のもう一つの本隊、徳川
秀忠隊が到着していなかったこと
3、大阪城にいる毛利輝元の動きがハッキリと読めなかったこと
4、石田三成・宇喜多秀家などの西軍首脳の所在が、いまだに不明
だったこと
などが上げられる。
特に、4の石田三成たちの所在が分からなかったことが何よりも
大きく、捜索隊として豊臣恩顧の諸大名などを向かわせてはいたが
未だに成果が上がっていなかった。
「ええい!まだか!まだ見つからんのか!!」
関ヶ原の東軍本陣では、東軍の総大将である徳川家康の怒鳴り声が
響いていた。
「誠に申し訳ございません。四方に間者や捜索隊を放っております
ので、間もなく足取りも掴める筈、どうか今しばらくの御辛抱を…」
怒り狂う主の前で重臣の井伊直政・本多忠勝は申し訳なさそうに
片膝をつき頭を垂れていた。
一時は田中吉政の部隊が三成を発見、包囲した旨の連絡が入ってき
たが、包囲した洞窟には三成が変装に使ったと思しき粗末な衣服や
所持品が見つかっただけで、三成本人の姿を確認することは出来なかった。
「喧しい!吉政といいお前らといい、いつまで落ち武者程度に時間を
掛けておるのだ!急いで行かねば大坂は元より佐和山城とて落とせなく
なってしまうわ!」
既に関ヶ原の戦より既に3日、本来であれば三成の居城・佐和山城を
落し、大阪城に向かい進軍をしているはずであった。
しかし、石田三成はじめ西軍首脳が再起を図る可能性を排除することを
優先して、未だに東軍は関ヶ原に留まっていた。
「すでに池田勢には水口城・細川勢には福知山城をそれぞれ落とすよう
命じてございます。多少の遅れがあったとしても、大勢にはさほど影響は
ございません」
「左様、直政の言う通りでございます。上様、今しばらくの御辛抱を…。
最早、我らの勝ちは決まってございます」
信を置く2人の重臣の言葉に、ようやく家康はドカリと床几に腰を落とす。
しかし、その表情はあくまでも不機嫌なままである。
「ふん、ならば早く奴らを見つけて参れ。生きている必要はない、見つけ
たらさっさと首だけ刎ねて持ってくれば良い」
それだけ言うと、シッシと右手を振って2人を下がらせた。
しかし、家康は元より東軍に属する者たちは気がついてはいなかった。
既に自分たちは神から見捨てられていたということ、そして自分たちの
知らないところで、とんでもないことが起こっていたことなど…
関ヶ原に留まって5日目、東軍の本陣にとんでもない凶報がもたらされた。
---宇都宮に在陣していた結城秀康が突如、義弟である豊臣秀頼を助ける旨を
宣言。徳川家から離反し、上杉・佐竹・小野寺らと和睦すると、徳川家の本拠地
である江戸城に向け進軍、僅か1日で陥落させた---
という知らせであった。
この知らせを受けた家康は、あまりの出来事に怒ることすらできず顔面を
蒼白にすると力なくその場に崩れ落ちたのだった。
その後はまさに雪崩のような東軍の崩壊が始まる。
東軍総大将の実子である結城秀康の寝返りが東軍に知れ渡るや否や、まず
東海道や甲信に領地を持つ大名たちが、関東方面からの結城秀康の侵攻に備
えることを口実に、兵を引いていった。
そして東北方面では、関東からの圧力が無くなった上杉景勝・直江兼続率
いる上杉軍が、最上義光の治める出羽に再び侵攻する。またそれに呼応する
形で小野寺義道の小野寺勢が北部から出羽に進出し、秋田実季も東軍より離
反すると小野寺勢と共に出羽に侵攻した。
また同じく東北・陸奥の伊達政宗は、結城秀康の裏切りを受け西軍への寝
返りを画策するも、上杉の白河城を攻め落としたことで許されず、南部から
佐竹義宣・北部から東軍から寝返った南部利直・西部から上杉景勝の3方向
から同時に侵攻を受け敗北。仙台城落城時に自害して果てた。
九州方面では、一時東軍に属していた加藤清正が、豊臣秀頼を守るという
結城秀康の宣言を受けて東軍を離反。また、大友勢に勝利していた黒田如水
もまた獲得した領地の返還を条件に西軍と和睦。両軍合わせて2万を超える
大軍で、西軍の関ヶ原敗戦を切っ掛けを作った戦犯・小早川秀秋の筑前を攻
め滅ぼした。
そして家康自身はと言うと、中山道を進んできた徳川秀忠勢と何とか合流
したまではよかったが、既に江戸は陥落していたため、まだ己の領地で無事
であった相模の小田原城へ早急に撤退することになった。
しかし、急ぎの行軍であったこと、東海道の諸大名は既に帰国し、その領
地を安全に通過するため抑えの兵を残してきたこと、東軍の敗北が濃厚になり
諸大名の軍勢や徳川勢本隊から脱走者が続出したこと、により当初7万を誇っ
ていた東軍は、徳川勢本隊と西軍からの寝返り組である小早川秀秋らの少数の
大名たちの軍勢併せて、1万程度にまで減少していた。
しかも箱根を通過する途中で小田原城陥落の報に直面し、ついに撤退をす
ることも叶わなくなってしまう。
やむなく、途中の箱根の関付近に陣を築くと関東・東海両面から進軍して
きた西軍と最後の決戦を敢行する。
関東からは結城・上杉・佐竹の連合軍5万が、東海からは豊臣家本軍と
それに付き従う毛利・長宗我部・前田などの連合軍7万が、箱根を東西よ
り挟撃する形で攻撃を開始。
当初は高地に陣を敷いた徳川勢も善戦したが、やがて弾薬が尽き、矢が
尽き、戦い疲れた兵も次々と討ち取られてしまう。
そして戦いが始まり3日目、徳川家康は実子である徳川秀忠・松平忠吉、
重臣である井伊直政・本多忠勝・榊原康政ら残り僅かな旗本衆と共に、
豊臣家本隊への突撃を敢行。前線の毛利勢を突破し指揮を執っていた吉川
広家や安国寺恵瓊を討ち取り、更には前田勢をも突破する勢いを見せるが、
背後を長宗我部盛親・宇喜多秀家らの関ヶ原を生き残った者たちに抑えら
れ、包囲されてしまう。
そして、僅かな供回りと共に近くの古寺に逃げ込んだ家康は、寺に火を
放つと自害。秀忠や忠吉もそれに続き、重臣たちは最後まで豊臣秀頼の首
を取らんと奮戦したが、多数の兵に囲まれ、玉砕して果てた。
最後に、僅かな兵と共に箱根の陣に残っていた小早川秀秋・脇坂安治・
赤座直保・小川祐忠・朽木元綱らの関ヶ原の寝返り組は、その場で捕えら
れると、所領没収の上、小早川秀秋以外は京都の五条河原で斬首され、
秀秋自身は豊臣家・毛利家に繋がる者として、自害を申しつけられた。
こうして豊臣家に敵対する勢力を一掃した結果、日の本は豊臣家を中心
とした政権により統治されることとなり、戦火を免れた佐和山城は三成の
実子である石田重家によって引き継がれることとなった。
天照大御神は、徳川家を滅亡させるという最も過激な方法により、三成
との約束を守ったのであった。
異世界へ赴く三成の願いを、天照大御神は
キッチリと守りました。
しかも、一番三成が望んでいたであろう形で。
あまりにも無慈悲な気もしますが、
余談と言うことで…。
次はいよいよ異世界の事を頑張って
書いていきます!
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どうぞご指摘いただきたく思います。