二章 お世話係はいりませんか?(1)
彼女は孤独だった。
通っていた高校に友達はいたけれど、それはあくまで表の世界。本当のことを隠し、嘘をつき、作り笑いを浮かべて優等生を演じていた。
おかげ様で他人とは上手く渡り合えていたと自負している。
その関係を偽物だと思ったことはない。偽りの自分が築いた関係も全て本物だ。
ただ、空っぽだった。
彼女は裏の世界の住人。殺伐としたその中で多くの闇を見てきた。己を抑え込み、心を偽り、視界に映る穢れは全て無視した。常人にはない力を持つ彼女は、ただ与えられた役割を徹底的にこなすだけの機械として生きた。……人を殺めたことも一度や二度ではない。
真実を話せばカタギの人間を巻き込んでしまう。それは彼女も望まないことだ。
オープンになることのできない自分が窮屈だった。
どれだけ友人たちとはっちゃけても、言い知れない虚無感にいつも囚われていた。
元の世界での複雑に絡み合ったしがらみから解放される日を願ってすらいた。
それが今、叶っている。
「異世界……いいじゃない」
勇者クラスのある本学舎――通称『勇者棟』の屋上テラスから景色を見下ろしつつ、龍泉寺夏音は楽しそうに呟いた。
魔王のいない異世界。
そこに勇者として召喚された自分。
こんな汚れた手をした自分が、『勇者』。
なんて滑稽で、無意味で、価値のないことだろう。
それでも人々は夏音を『勇者』と崇める。はっきり言って意味がわからない。魔王のいないこの世界で、彼らは夏音たちに一体なにを期待しているのか。
あるいは、特に期待や希望など意識せず、ただ単にノリで騒いでいるだけなのか。
「まあ、なんでもいいわ」
右手の人差し指と親指で環を作って右眼に持っていく。
「『勇者』としての明確な目的が存在しないなら、自分で定めろってことね」
望遠鏡みたいに覗き込んだ指の環の先に映るは、召喚されたばかりの新しい勇者。霧生稜真は大沢光と談笑しながら魔法学部の方へと歩いている。
距離にして勇者棟から五百メートルは先だが、夏音には彼らの姿がはっきりと視える。
龍泉寺家も霧生家と同じ〝超人〟を排出する家系である。
夏音は運動能力も高い方だが、霧生稜真や相楽浩平ほどではない。
その代わり、超視力、超聴力など常識外の五感を持っている。その気になれば三十キロメートル離れた場所に落ちた一円玉の音を聞き分け、視認することだって可能だ。もちろん普段からそんなに見聞きできてしまうと生活にならない。感覚の制御も幼い頃からの訓練で身に着けている。
「あたしは、もう向こうから切り離された」
後ろ暗さしか残らない空虚の世界に夏音はうんざりしていた。この世界でも『勇者』などと持て囃されて少々ウザったく感じてもいるが、向こうよりも明らかに自由だ。自分を抑える必要のない、似たような境遇の仲間たちもできた。
汚れた手を洗おうと考えているわけではない。異世界に飛んでも自分自身の過去が消えるわけじゃないのだ。
それでも、向こうでは得られない『なにか』が夏音を待っている。そう思うと心が弾んだ。
「霧生稜真くん、か」
新しい仲間の顔を思い浮かべる。もう一人いるけどそっちはあんまり覚えてない。
「なんだか面白くなってきたわね。――あら?」
霧生稜真と大沢光の後方に視線をやる。道の両脇に植えられた木と木を渡るように、こそこそと二人の後をつけている人影があった。
勇者クラスの人間じゃない。制服からしてこの学園の生徒だ。
「ああ、そういうこと。大沢くんに役目取られちゃったわけね」
夏音は一人納得すると、
「ふふっ、ちょっとお世話焼いてみようかしら」
愉快に笑いながら屋上テラスを後にした。