プロローグ
数ヶ月前。
東京都某所の超高層ビル――鮫乃木クラウドヒルズ五十六階。
ビルの最上階であるそこは、鮫乃木財閥の会長が趣味で開いている美術展の会場となっている。世界中から集められた一枚数億は下らない絵画などの美術品が煌びやかに並び、一歩足を踏み入れれば誰もが思わず溜息をついてしまいそうなほど輝いていた。
なにせ展示品だけではない。床に敷かれた深紅の絨毯や天井から吊るされたシャンデリアなど、フロア全体に贅を惜しみなく注ぎ込んだ絢爛豪華な装飾が施されているのだ。
美術品に興味のある者ならば誰もが一度は訪れてみたい場所だが……残念なことに一般には公開されていなかった。鮫乃木財閥会長――鮫乃木征玄の意向で、それらの価値がわかる上流階級の人間だけにしか入場が許可されていない。無理に侵入しようとすれば最新鋭のセキュリティが発動し、侵入者は成すすべもなく撃退されることとなるだろう。
そんな巷では『雲の上の宝物庫』とも揶揄される展示場に、一通の予告状が届いた。
【次の新月の日
草木も眠る零の刻に
鮮やかな紅の大輪を携え
至高の名画『アーシアの春』を頂きに参上する
怪盗ノーフェイス】
その日以降、来場客は更に限定され、警備の人数も普段の数倍にまで増やされた。
予告状に書かれていた新月の日にはセキュリティも大幅に強化され、もはや蟻一匹たりとも侵入できない厳戒態勢となっていた。
時は午前零時の数分前。
一種の要塞と化した宝物庫の中心に、厳つい顔つきをした和装の老人が立っていた。彼――鮫乃木征玄は警備の状況を見回して満足そうに鼻息を鳴らす。
「ふん、コソ泥め。儂の宝を狙うとは目のつけどころこそ誉めてやるが、身の程は知らぬ愚か者のようだな」
たっぷりと蓄えた白い髭を梳くように撫で、征玄は怪盗ノーフェイスとやらが狙っている絵画を見上げる。色鮮やかな花畑に、ギリシャ神話に出てくる女神のような純白の衣を纏った乙女が佇んでいる人物画だった。彼の著名な画家が描いたとされ、値段にすると数十数百億にまで上ることだろう。
盗ませるわけにはいかない。
「儂の宝に指一本、いや、この宝物庫に足の爪の先でも踏み込んでみろ。その瞬間に消し飛ばしてくれる」
征玄は懐から煙草を一本取り出し、ライターで火をつけて放り投げた。すると異常な熱源を感知したセンサーが即座に反応し、レーザー光線を射出して煙草を空中で塵に変えた。
セキュリティは万全。正常に稼動している。システムに登録されていない人間や、先程の煙草のように美術品に悪影響を及ぼし兼ねない物体はこのように抹消されるのだ。
と――
「なんだお前たちは!?」
「ここから先は会長の許可を得た者しか入れんぞ!?」
美術展の受付前で警備員が騒いでいた。まさか怪盗が正面から堂々と現れたわけではあるまい。それに零時にはまだ少し早い。情報は警察にすら漏洩していないはずだが、鼻の利くマスコミがどこからか嗅ぎつけたのかもしれないと思い征玄は受付へと足を向けた。
「何事だ?」
「か、会長!? 申し訳ありません! 部外者はすぐに追い返しますので!」
征玄を見るなり飛び跳ねるように背筋を伸ばした警備員たち。そんな彼らを押し退けて、一人の少女が征玄の前に歩み出た。
「あんたが責任者か?」
不遜な態度で少女は征玄の顔を見上げる。大きめのサングラスをかけていて目元は判然としないが、非常に整った顔立ちだということはわかる。長い髪はおさげに結って肩から垂らし、どこかの高校の制服と思われるセーラーブレザーを着ていた。
だが、手に持っているのは学生鞄ではない。
ずしりとした重みを感じさせる、横幅五センチメートル、縦幅百センチメートルほどもある金属の板。それを床に突き立てるようにして両手で支えている。
「誰だね?」
ただの子供ではないことは一目で理解した。少女の纏っている空気が幾千もの修羅場をくぐった戦士のように研ぎ澄まされ、周囲を威圧しているからだ。
少女は制服のポケットから黒色の手帳を取り出し、開いた。
「警視庁公安部特務零課異能犯罪捜査官――今枝來咲だ」
少女の肩書を聞いた瞬間、周囲の者たちが一様に息を飲んだ。
「……警察には通報していないはずだが?」
特務零課。
警察組織が征玄もどっぷり浸かっている『裏の世界』に干渉するために設立した特殊部隊のことだ。表には報道できない犯罪者を始末したり、裏で好き勝手やっている大物政治家なども取り締まったりしているらしい。
冷や汗を掻くが、悟らせてはならない。
秘密がバレれば、征玄も標的にされかねない。いや、今ここに捜査官が派遣されたということは、征玄を捕縛しにやってきた可能性がある。
「ウチの占星術師が今日ここで異能犯罪が発生することを予言したんだ。狙われてるのはあんたの宝だろ? だったら犯人逮捕に協力しろ」
捜査官の少女は面倒臭そうな顔で征玄に令状を突きつけた。心配が杞憂だったことに内心で安堵しつつ、征玄は全く動揺などしていない演技で出口を指差す。
「帰れ。警察など信用できるか。儂らは儂らで犯人を始末する。ここは美術の『美』の字もわからんような小娘が土足で踏み込んでいい場所ではないわ!」
「予言ではあんたらだけで対処しようとすれば百パーセント盗まれることになるけど?」
「笑わせる。警察が予言などを信じて動くとはな」
「そう言いつつ笑ってないのは、あんたも裏世界の怖さは知ってるってことだ」
少女の手から捜査協力を強制する令状がハラリと落ちる。すると代わりに、征玄が懐に仕舞っていた犯人からの予告状が彼女の手に収まっていた。
「き、貴様!? いつの間に!?」
征玄は数歩後じさる。この少女はただの人間ではない。
世の中には常人ではあり得ない力を持った者たちがいる。
〝超人〟〝異能者〟〝術士〟〝妖〟。
裏の世界を少しでも知る者であれば、彼ら『非常人』の恐ろしさは嫌というほど身に染みている。常人がいくら努力しようと対抗できず、理不尽に踏み躙ってくる超越者たち。
だから、常人である征玄は彼らのような『化け物』を吐き気がするほど嫌っていた。
†
「怪盗ノーフェイスだぁ? ……わかるか?」
予告状を読んだ捜査官の少女――今枝來咲は部下として連れてきた警官の一人に訊ねた。
「はっ! なんでも日本を中心に世界中で活動している大泥棒だそうです。神出鬼没で変装の名人。奪った宝は本来の持ち主に返しているとか」
「このご時世に義賊なんているとはねぇ。〝超人〟じゃねえだろうが、〝術士〟や〝妖〟の可能性はある。念のため対魔術結界を展開しておけ」
「はっ!」
警官たちが敬礼し、それぞれが術式の込められた機械仕掛けのペンタクルを手に持って散開する。ペンタクルをフロア内に設置することで結界が作動し、魔術や妖術といった『術式による力』を阻害する効果をもたらすのだ。
ハッと正気づいた鮫乃木征玄が慌てて止めに入った。
「ま、待て! 勝手をすることは許さん!」
「あんたの宝には触らないさ」
「そうではない! それ以上踏み込めばセキュリティが起動して蜂の巣になると言って――」
フッ、と。
鮫乃木征玄の言葉を遮るように、照明の光が消えた。
「停電か? 想定内だ。おい、予備電源に切り替えろ!」
「ダメです会長!? 予備電源も入りません!?」
「なんだと!?」
想定外らしい事態にマヌケにも慌てふためく鮫乃木征玄や警備員たち。すると一人の警官が今枝の下まで戻って来た。
彼は先程今枝が怪盗ノーフェイスについて訊ねた警官だった。
「なにをしてやがる! 早く結界を展開しろ!」
「対魔術結界を? ヤハハ、それは無意味ってもんデスヨ。だって怪盗ノーフェイスは――」
口調の変わった警官に「誰だ」と誰何する暇もなく。
彼は今枝に一本のボールペンを放り投げた。
「〝異能者〟ですから!」
ボールペンが空中で膨張する。パイナップルのようなゴツゴツとしたフォルムが浮き出て、材質がプラスチックから鋳鉄へと変化する。
ピンの抜かれた、手榴弾。
「はい、ドッカーン! たーまやー♪」
爆発は、鮮やかにも真っ赤だった。
爆弾というよりは花火に近いそれは、予告状通り紅の大輪を咲かせてフロア内の強化ガラスを叩き割り、巻き込まれた人々を熱波で焼き尽くす――ことはなかった。
「およ?」
爆発が不自然に収縮し、今枝來咲の顔の前で呆気なく消滅した。
「いきなり爆弾を投げるたぁ、やってくれやがる。ウチがいなかったら今ので吹き飛んでたぞ」
ポン! と実に間の抜けた音を立てるだけだった手榴弾の残骸を踏みつけ、今枝は人相の悪い笑みを貼りつけた。
「いやいや、ギリギリで死なない程度の火力にはしてたんだけどね」
「てめえがノーフェイスでいいんだな?」
鮫乃木の警備員ならともかく、今枝の部下に変装されていたとは迂闊だった。それはつまり、特務零課の情報が漏れていたということになる。
「刑事さんも〝異能者〟デスヨ? じゃあこういうのはどうかな?」
部下に変装したままのノーフェイスが右手を振るった。その右手が唐突に炎上し、灼熱の鞭となって今枝を襲う。
「炎? 発火能力者か?」
炎の鞭は今枝の正面で真横から衝撃でも加えられたように曲がり、近くに展示されていた絵画に打ちつけられる。
「ぎゃあああああっ!? 儂の、儂のコレクションが!?」
燃えゆく絵画に鮫乃木征玄が悲鳴を上げた。
「お、おい、貴様!? なんでもいいから早くなんとかしろ!?」
「あぁ? さっきまで警察なんざお断りじゃなかったのかよ?」
「五月蝿い!? 貴様は儂の宝を守りに来たのだろうがッ!?」
もはや体裁もへったくれもなくなった鮫乃木征玄が唾を飛ばす勢いで叫ぶ。今枝はかったるそうに頭の後ろを掻いた。
「まあいい。こっちも仕事だ」
今枝は床に突き立てていた鉄の板を持ち上げる。否、正確には持っていない。空中に浮遊した鉄の板が一枚、また一枚と、扇状に開いていく。
念動扇。
今枝來咲にしか使用できない、念を通しやすい特殊な金属で鍛えられた巨大な扇である。
「消えろ」
宙に浮かぶ念動扇が今枝の意思に従ってその場で一閃する。念力が拡散し、空気に混じり、局地的な暴風を生み出して絵画を蝕んでいた火炎を消し去った。もっとも、その暴風でズタズタに引き裂かれもしてしまったが。
「ほうほう。だったらば、ほいさ!」
感心したように様子を眺めていたノーフェイスが左手で指を鳴らす。すると、その手首から先が青白く発光し、のたうつようなプラズマが今枝に向かって奔った。
「なっ!?」
今枝は念動扇を操作して電撃を受け流す。やはりそうすると被害が出るのは鮫乃木征玄のコレクションたちだったが……そんなことはどうでもいい。
これには流石に目を見開く。
「電撃だと!? 馬鹿な!? 発電能力者でもあるってのか!?」
多重異能者は理論上ではあり得る話だが、歴史上では未だかつて存在したことはないのだ。それが目の前に実在しているとすれば驚かない方が無理な話である。
「戦うなら外でやれ化け物ども!?」
常人の悲鳴など二人にはどこ吹く風。敵の能力を警戒する今枝に、史上初の多重異能者となり得る可能性を秘めた怪盗はチッチッチとでも言うように顔の前で指を振った。
「ノンノン。アタシはただの変幻自在の大怪盗――ノーフェイスさんデスヨ」
意味がわからないが、とりあえず答える気はないらしい。それならそれで捕縛してから尋問するまでである。
「てめえが誰でどんな力を持ってようと関係ねえ。ウチの前に姿を見せた段階でてめえは詰んでんだよ」
念動力を怪盗本人にかける。ビクンと痙攣したノーフェイスは金縛りにでもあったかのようにピクリとも動かなくなった。
「オゥ……体が動かない。やっぱり念動系デスヨ」
「大人しくお縄についてもらおう。あぁ、その前に素顔を拝んでやろうか?」
勝ちを確信して歩み寄る今枝に、ノーフェイスは不敵な笑みを口元に刻んだ。
「ヤハハ、刑事さんや、お縄につくのはまずはそっちのお爺ちゃんからだと思うんだよねぇ」
「あん?」
眉を寄せ、今枝は首だけ捻って鮫乃木征玄に視線をやる。睨まれた彼は短い悲鳴を漏らしてたっぷりと冷や汗を掻いていた。
「ここに置いてある美術品のほとんどは、そこのお爺ちゃんが違法な手段で強奪したものばかりなんデスヨ。アタシはそれを元の持ち主に返してあげようってだけ」
「なっ!? ふざけるな!? なにを証拠に――」
言いかけた瞬間、フロアの壁の一部が爆発した。崩れた壁の向こうにある執務室には大量の書類や写真が散らばっている。明らかに何者かに荒らされた形跡だった。
鮫乃木征玄がさっと蒼褪めた。どうやらあの書類やら写真やらが動かぬ証拠になりそうだ。
「ねえ、知ってる? 人の物取ったら泥棒さんなんデスヨ?」
「怪盗のてめえが言えた口じゃねえだろ」
今枝はもう一度崩れた壁の向こうを一瞥し、改めて念動力で拘束しているノーフェイスを見やる。
「悪いが管轄が違えよ。ウチの仕事は異能犯罪者を逮捕することだ。まあ、知ったからには鮫乃木会長にも後日出頭してもらうことになるだろうがな。いろいろ黒いもんが出てきそうだ」
「くっ……こ、殺せ!!」
鮫乃木の指示で警備員たちが一斉に拳銃の銃口を今枝たちに向けた。発砲された弾丸はしかし、今枝に触れる前に空中で停止して力なく床に落ちていく。
「無駄だ。常人の弾なんてあたらねえよ。ハッ、金があんなら非常人の一人か二人くらいケチらず雇っておくんだったな」
「ヤハハ、まったくその通りデスヨ」
快活に笑ったノーフェイスの姿が、すーっと空気に溶けていく。
「消えた!? 透明化能力……いや、それならウチの念からは逃げられねえはずだ」
奴を捕らえていた念動力は急に空振ったような手応えを返してきた。消える様子から転移能力もあり得ない。
となると、考えにくいことだが…………足元を複数本のボールペンが転がっていた。
「!?」
戦慄する。ボールペンが手榴弾に変異する。
「しまっ――っ!?」
色とりどりの爆発が展示会場内をカラフルに染めた。念動力の防御も咄嗟では爆発の全てに対応できず、自分の身と他の人間だけを最低限守ることしか叶わなかった。
「はいはーい。予定通り、『アーシアの春』は頂戴しましたぁようっと。うぇへへ、この娘はなかなか素晴らしいオッパイさんデスヨ」
変態チックな笑い声が聞こえた。
「んじゃまあ、これにてバイバイキーン!」
しっかりと狙いの絵画を脇に抱え、ノーフェイスは爆弾で壁を破壊して外へと飛び降りた。
五十六階という高さから。
「チッ」
今枝は舌打ちして壁際まで走った。ビル風に髪が乱れる中、視線を下げると天使のような白い巨翼が彼方へと羽ばたいていた。
「ハン! ウチから、逃げられると思ってんじゃねえよ!」
サングラスを外す。これは今枝の強すぎる念を抑制するために組織から与えられた言わば枷である。こんなものなくても制御はできるのだが、周囲に余計な被害を出さないためと言われては渋々つけざるを得なかった。
枷が外れてしまえば、今枝は思う存分に力を振るえる。
たとえば、近くにあった十数階建て相当の廃ビルを引っこ抜いてぶん回すとか。
「ふぁっ!? ちょ!? これ真面目に冗談じゃないデスヨ!?」
一応街に被害を出さないよう気を遣いつつ、今枝は悲鳴を上げて飛び回る目標だけを的確に薙ぎ払うのだった。
とはいえ、結局のところノーフェイスには逃げられ、上司には雷を落とされるわけだが……。
そして数ヶ月後、捜査官と怪盗はこの世を去り――異世界で顔を合わせることになる。




