表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

聖痴愚

作者: 富澤痴呆

目標一、ドゥルーズリスペクトで分裂病のエクリチュールを目指す。

目標二、小説的技法を最大限使ってみる。

目標三、さやかを可愛く書く。


「二〇五四年」の半年くらい前の作品。


※Web編集だと反映されない部分がありました。遠野岬の手記の部分ですが、「さやか」の部分だけを四角で囲み、それ以外をすべて中線で連ねている感じです。本稿最終場面の岬の手記についても同様です。

 最初の頃は、彼女の虚ろな瞳が何に向けられているのかわからなかった。――ああ、彼女と呼んでしまったのはなんという過失だろう! 瑕疵無き水晶を透過する太陽光線がごとき鮮烈たる無垢さを持った、さやかの視線の話である。琥珀細工のさやかの瞳が捉えているのはその鏡のガラスの表面だったろうか銀色をした鏡面だったろうか、あるいはその鏡面に映されていた、フランス人形のように着飾ったさやか自身の像だったろうか? しかし僕、すなわち前田連が鏡の中のさやかの眼を見て「さやかはいま、さやかの真っ白い足の裏の土踏まずを見ているな」「おや、いまはもうさやかの喉元を締め付けている黒いカフスを見ているぞ」とその視線を辿ることができるようになるまで、実に二百七十分もの時間を無為に過ごした。しかしその考えが大いなる誤解であることに気付くまでに、今度は五年の歳月を要することになる――全てが終わったその日からちょうど五年後、習慣であった夜中の散歩の中途、不意に路傍にその姿を現した割れた鏡を見たときにようやく、突如として僕は全てを悟ったのだ。真実なんて、いつもそんなものなのだ。今ならわかる、さやかの視線はその実、何にも注がれていなかったのだと。あるいはさやかの視線は存在を透過して、その奥にある何かに注がれていたと言ってもいい。何も知らない人間――例えばさやかと出会って三日目までの前田連――は、あるさやかの様子を「さやかがその手首の裾のフリルを見ていた」と言うだろう。そしてその描写が誤りであることを五日目の田代直樹はこう糾弾するだろう、もしさやかの美しい視線を敢えて言葉で表そうとするなら、例えば次のように記さなくてはならない。「さやかは手首の裾のフリルの輪郭を懸命に辿ろうとするが、その輪郭を覆い隠すように広がっている空虚に邪魔立てされて、否応なくその空虚に目を向けざるをえなくなっている」と。そしてその表現にはまだ一つ大きな過失があることを、十日目の僕はすかさず見抜いて得意げにこういうのだ、「フリル」という言葉の存在こそが悪であると。さやかは、手首の辺りにある白布の襞の寄せられた部分のことを「フリル」と呼称することを知らない。故にさやかが見ているのは「フリル」ではなく「服の袖口にある白布の襞」であり、そのため先ほどの表現は「さやかは服の袖口にある白布の襞の一つ一つの周辺にある輪郭を懸命に辿ろうとするが、その輪郭を覆い隠すように広がっている空虚に邪魔立てされて、否応なくその空虚に目を向けざるをえなくなっている」と訂正されなくてはならないのだ。しかしそれを、全てが終わった後、欠如の深淵で呻く僕たちは苦しげな疑問を投げる。この表現の無謬性はあくまで「言葉で表すなら」という仮定条件によって担保されている。しかし、もしこの仮定条件そのものに大きな問題点が存在するとしたら? ――そして遠野岬と結婚した僕は、おずおずとそれに対して、いや、確かに存在するのであると囁く。そもそもさやかは言葉、あるいは単語を知らない。さやかが知ってるのは、ただの文章だ。例えばさやかは時に「クッキー」とだけ言うことがある。普通の人間にとってこの「クッキー」という言葉はあの焼き菓子を現す単語に過ぎず、さやかが皿の上に置かれたクッキーを見た後でこちらに向き直って「クッキー」という単語を口にしたならば、それは「クッキーをください」の「をください」の部分が省略されただけであると考えるだろう。しかし違う。さやかにとって「クッキー」という音節はあの焼き菓子のことを現すだけの貧相な単語ではなく、「目の前にいる人間が、皿の上に乗ったおやつを取ってさやかにくれる」という一連の世界の動きを表現している文章なのだ。「クッキー」という言葉はさやかの白い手によって切り取られ、さやかの秩序の中に再び置きなおされ、大切に発音されたその言葉、その音のなんと透き通って美しかったことか。さやかの発する言葉は、全てがそうだった。さやかの言葉は必ず、さやかがどこかで聞いたり読んだりした言葉である。(それはもちろん僕たちだってそうだ。僕たちの使う言葉はいつだって誰かの言葉なのだ。それを僕たちは恥ずかしげもなく「自分の言葉」と言う。しかしさやかの発するその言葉は、紛れもないさやかの言葉だった。お純真無垢なる言葉、その世界とその世界を生きるさやか……手垢にまみれた僕たちの言葉で彼女たちを描くことは、冒涜以外の何者でもあり得ない。そうして遠野岬との偽りの十年の中で、僕は葛藤するのだ。本当ならばこの自由なさやかの自由さを、可憐なさやかの可憐さを言い表しうるような完全なる表現を、最果ての無限遠点なる神の表現を、無限の思考と試行によって見つけ出さなくてはならないところである。この十年間にわたる前田連と遠野岬の躊躇いの理由は、全てここに集約される。あのさやかを一通りに描写することは、生ける可憐な蝶の羽をピンでコルク板に留め、純白の翼を持つ小鳥を獄中に繋ぐようなものである。だから僕たちがさやかについて語るとき、いつも僕たちは僕たち以外の存在として――つまり探偵または研修医として、あるいは精神科医または保護者としてさやかを語った。しかし一昨日の僕はついに悟ったのだ、今や決断を先送りすることはできないと。僕は前田連として、彼女は遠野岬として――語る術を持たぬ僕らが、しかしついにさやかについて語らなければならない。しかしいかにして? ――例えば岬が「さやかちゃんから初めてクッキーを貰った日の事をこのように書いてみたの」と僕に見せてくれた手記の一文は、このようになっている。「さやかはみさきにジッとその玲瓏な瞳を向ける。みさきが少したじろぐように体を揺らしたのを見ると、さやかはみさきにクッキーを渡した」――この表現に倣うなら、先ほどの文章は「さやかは服の袖口にある白布の襞の一つ一つの周辺にある輪郭を懸命に辿ろうとするが、その輪郭を覆い隠すように広がっている空虚に邪魔立てされて、否応なくその空虚に目を向けている」とでも表すことが出来るのだろう。しかし僕はこの表現が気に入ってはいない。さやかへの言葉による冒涜を、僕らの言葉への冒涜によって贖おうとするなんて、殺害に対して自殺で贖おうとするようなものであり、不毛である。しかし岬はこの表現が痛く気に入ったらしく、さやかについての手記を全てこのような方法で書き上げた一昨日、首を吊って死んだ。その手記はいま僕の手元にあり、既に一通り目を通してある。というか、実は六十七度にわたって読み返した。そのおかげで今や僕は今まで知らなかった様々な事柄――天野修平の倒錯的、悲劇的な愛欲と病死のこと、伊波卓郎の不憫な出自と両親との確執、それからさやかへの憧憬のこと、大野真弓の過去……いや、もはや僕はこれらについて語るまい。これらは全て遠野岬の世界の出来事であり、僕の世界、さやかがいた僕の世界には関わりのないことだ。僕はあくまで僕の世界で神々しく佇み続けるあの可哀そうな聖痴愚スメルジャチシャヤ、あの可愛い少女アリス、あの素敵な分裂者智恵子……すなわちあのあどけないさやかのことを描写する。そのために僕は全てを、僕自身を含めたすべてを犠牲にすることさえいとわない。それが、あのさやかを描写する良心的な最後の手段だからである。さやかのことを僕が僕として語るためには、きっとそれは小説でなくてはならない。それでこそ僕はあらゆる肩書から自由になり、初めてただの「僕」として何かを語ることが出来るようになるのだ。だから僕は以下の手記――小説を記すに際して、徹底的に今の僕のことを隠し、当時の僕、すなわち屈服すべき探偵前田連として、あるいは愚かな埋伏の毒たる実習生田代直樹として振舞うことにする。より正確に言えば、そうするつもりである。正直僕には自信がない。書いているうちにきっとどこかで、僕が耐え切れなくなることがあるかもしれない。しかし僕には、そうしたことを訂正するための時間がない。ここまで書くのに、僕は既に二度の喀血をしている(僕は医者から、既に病は膏肓に入り、もうとっくに死んでいておかしくない体であると告げられている)。ああ、しかしそれは僕がこの文章を書くうえで最高の条件である。もしこの小説を書き終えることさえ出来るなら、たとえ五百回の喀血で全身の血液が枯渇することになろうとも構わない。むしろそれこそ本望と言うものだ――僕の願いは死を告げる末期の喀血が、全てを書き終えた後の恍惚の時間に訪れることである。


 では、さようなら。


  

 精神医学界の重鎮清田清十郎から、遠野精神病理研究所への調査依頼を前田連が受けたのは今から十年前、すなわち二〇〇一年の四月三十日のことである。近年分裂病を巡る研究で目覚ましい成果を挙げている遠野岬という精神科医について、何か裏があるらしいので探ってくれというのだ。前田連は探偵稼業を本式に始めてから当時五年ほどになっていたが、清田清十郎は前田連の知る限り間違いなく次の三つの点においてもっとも優良な顧客であった。まず端的に払いが良かった。手付金として五十万、成功報酬で五十万、必要経費は別途支給という、貧困に喘ぐ場末の探偵には善も悪もなくならんばかりに魅力的な契約であった。次に清田清十郎から送られてきた前情報の資料が非常に豊富であり、実際その資料の裏付けを取っただけで十分調査を始められるほどであった。最後にこれが一番ありがたかったのだが、調査に際し研究所に潜入するにあたってこの上なく便利なものを向こうが用意してくれたことだ。すなわちそれは清田清十郎がその創立者に当たるJ医大の卒業生「田代直樹」というパーソナリティーと「研修医」の身分である。実際に探偵の懐具合や調査の前準備がいかに大変であるかを知っている人間にはこの条件がまさに垂涎物であることは言うまでも無いが、ただしその好条件をしてなおその案件は容易でないことも確かであった。

 その好条件の明確たるに同じく依頼内容は明確であった。すなわち「研修医として遠野精神病理研究所に潜り込み、そこに収容されている分裂病患者遠野清花と、一九九一年七月三十一日に発生した誘拐事件の被害者で、今なお行方不明となっている女児――役所に届け出られた名は野々垣小夜香――が同一人物であることを証明しうる証拠を掴め」とのことである。

 十年前の七月も末の頃に都市部の夜の病院で起きた、生後間もない女児が誘拐されるというその奇妙な誘拐事件を前田連は印象深く覚えていた。誘拐に気付いて追いすがった宿直当番の看護婦を殴り倒して逃走するという点において犯人はどこか確信犯めいているが、しかしその後誘拐事件にはつきものである犯行後の身代金要求をせず、かといって自首や赤子の返還もしない――dこか奇妙な歪みを感じさせるその事件を、メディアは奇異の視線でもって大きく取り上げた。そのこともあってか警察は看護婦の証言に基づいてかなり慎重に犯人の捜索を行ったのだが、いかんせんあまりに手がかりが少なく、捜査は難航した。何しろ誘拐犯からこちらへの働きかけが一切なかった上に用心深く証拠を残さないやり方で犯罪が遂行されていたので、結局警察は犯人を特定する事すら出来なかった。メディアはここぞとばかりに警察の無能さを攻撃したが、もちろんそれは世人の義憤に答えてというよりはむしろ退屈する大衆に向けた大仕掛けなアトラクションともいうべきものであり、一方で裁判所が病院の管理不行き届きであるとして病院に野々垣小夜香の両親に対する賠償金支払いを命じるともうその事件の決着はついたものとみなされて世間的な関心も薄まり、警察の方でもそれは迷宮入り事件として捜査は事実上打ち切られてしまっていた。もはや忘れ去られたその事件をなぜ前田連が印象深く覚えていたかと言うと、それは一連の顛末を知った当時高校生の前田連が、警察に愛想を尽かして将来の志望を警察の捜査課から探偵に代えたという記念的な事件であったからだ。

 しかし、あるいはだからこそ、前田連はその依頼を受けるかどうかに慎重になった。とりあえず前田連は遠野清花について調べてみたが、しかし遠野清花、あるいは野々垣小夜香という女児に関しては全く情報が手に入らなかったため、清田清十郎から送付された資料を全面的に信用する他になかった。次に前田連は遠野岬なる人物について調べてみたところこちらに関しては多くの情報が手に入ったが、今度はその情報の全てが清田清十郎から送付された資料に記されていたため、前田連は費やされた無駄な労力を惜しむことになる。

 分裂病に関する研究は、その病症の克服という点ならまだしもそのメカニズムの解明や理論的な説明という点においてはほとんど進んでいないという。しかし、とにかく自己同一性の危機にその本質が存在し、故にその自己同一性が獲得される二段階――つまり乳児が「自分」という存在を初めて認識する段階と、思春期に少年少女が「見られる自分」と「見る自分」の葛藤に苦しみ、傷つきながらもそれをなんとか克服していく段階における何らかの不具合がその原因なのでないかと考えられていた。しかしそれは一応の理屈づけに過ぎず臨床的な根拠にはまだ乏しかったため、その妥当性に疑問符がつけられていたのである。そんな中にあって遠野岬は「ある患者」の診療観察を通し、西洋の哲学や精神分析学、心理学の成果を援用しつつ、盤石な理論体系を築き上げつつあったのである。この「ある患者」について遠野岬は極力言表を避けていたのだが、それを怪しんだ清田清十郎が弟子たちに何となく探りを入れさせたところ、十歳にして重度の分裂病を患った、遠野岬の「里子」遠野清花の存在を知ったのだという。知り合いの娘で孤児になったのを引き取ったという以上の事は頑なに明かそうとしないそうであり、清田氏によればその頑なさが何か致命的な秘密の存在を示しているのだそうだ。

 確かに敢えて疑いの目で見てみれば怪しいと考えるのも理解できるが、やはり「忘れられかけた犯罪を今まさに暴くべしという義憤にかられ(前田連に送付された依頼状にはこのように記されていた)」たがゆえの依頼であるというよりは、むしろ清田氏の嫉妬や私欲の色を感じずにはいられない依頼であると前田連は思っていた。何しろ前田連を研修医として遠野岬に紹介するとき、清田清十郎は、紹介者を自身の弟子である「有田久司」とし、前田連にも口裏を合わせ、自分の名を出さないよう申し添えたのである。それが有事の際に自分が疑われることを警戒しての処置であり、どこか清田に後ろ暗いところがあるのは明らかであった。実際それは遠野岬と清田清十郎の対立関係を知っている者からすれば、清田氏のあらゆる意図も透けて見えるようであることは間違いなかったろう。

 要するに清田清十郎がそのような依頼を出した理由は古代から呪われた宿命として人類史に刻まれ続けてきた派閥闘争であり、清田は場末の探偵に金を積むことでその片棒を担がせようとしているのである。遠野岬は分裂病を心理分析的な側面から研究することでその成果を挙げていたが、それは清田清十郎の専門にして精神医の界隈においても主流であった投薬に基づく病症改善の手法に対立するものであった。実際遠野岬は投薬による治療を強い言葉で批判していたし、その言説が若手の研究医を中心にして徐々に支持を集め始めていたという事実もあった。対する、薬品系の企業と裏で手を結び保守派を中心に一大派閥を築いている老医にしてみれば、そのような若き才媛の大躍進は面白くないどころか、自らの権益を脅かすものであることは考を巡らすまでもなく明確である。そのような事情を踏まえれば、今回の依頼の主眼は未解決事件の解決などであはく、良心の皮で包んだ嫉妬の刃を何も知らない一探偵に金と共に握らせて、遠野岬を刺殺せしめんとする狡猾な意図であることもまた明確だろう。

 それは感心できる理由では断じて有り得ない。しかし前田連は探偵に相応しくドライな思考を持った人間として振舞った。才能ある女医のスキャンダルを暴いて失脚させる――結果として一つの犯罪が暴かれるなら、その裏に精神医学を変革しうるような才能を持つ女医への嫉妬が隠されていようと問題ではない。前田連は、その依頼を受けた。しかし前田連がその依頼を受けたのは、何も冷徹な考えだけに基づいたわけではなく、なんとなく事件そのものにも心惹かれるものがあったのだ。それはもちろん前田連の進路上の転機となった事件を自ら調査することに何か運命的な導きとでも言うべきものを感じたこともあったが、それ以上に前田連は、分裂病と言う病気そのものに興味があったのだ。もっともその時の前田連には、自分たちの立つ大地の裏側にいる部族の前文明的な世界観に興味を持つ文明人の心境以上のものはなかったのであるが。

 依頼受諾の旨を通達したとき、清田氏は既に「有田」の名で遠野精神病理研究所への研修依頼を通してあり、後は前田連が――否、研修志願者「田代直樹」が連絡して詳細を聞くだけになっていた。それを聞いて、しかし内心で前田連は不快感を禁じ得なかった。手際がいいのは有り難いのだが、そこまで先回りされるとなんだか向こうの都合のいい駒のように動かされているようで――つまり、探偵という存在は本来的にそういうものなのだという真実を突き付けられるようで、少し嫌な気がしたのである。真実と自分との関係で望ましいのは、自分が真実を隠蔽するか、自分が他人の真実を暴くかのどちらかだ。従って隠蔽していた真実を暴かれるのは一番気分が悪い、と前田連は嘯きながら捜査の準備を始めた。

 住所から身元が割れないよう事務所からそう遠くない場所にアパートの一室を借り、同じ理由で新しい携帯電話も手に入れた。もちろん潜入に際して負う肩書である「研修医」としての準備も同時進行だ。前田連は依頼を受けてから、医大卒というパーソナリティーに見合う精神病理学に関する知識を得るためいくつかの文献を読み込んでおいた。前々から興味があってぼちぼち齧っていた領域だったこともあってか予習は迅速に済ませることが出来、そのおかげで、遠野岬から送付されてきた、専門用語が満載された注意事項や研修に当たって前提とされる知識などが記された書類も難なく読みこなすことができた。しかし中にはいくつか知らない概念もあり、しかもそれがいかにも基本事項であるかのように書かれていたので前田連は面食らうことになる。丁寧なことに遠野岬は研修に当たっての参考書をいくつか挙げてくれていたのでそれも手に入れてはみたが、数冊のその書物はいずれも恐るべき分厚さを持つ大著であり、それを全て読破したい気もしたが、しかしそれも大学を出たばかりの人間がするにしては少し不自然な気がしたので、前田連はあえてざっと目を通すだけに留めることにした。

 さらにその片手間で前田連は野々垣小夜香の誘拐に関する情報を集めた。当面の方針は野々垣小夜香の両親に連絡を付ける一方でどうにかして遠野清花から鑑定試料に足る髪か爪でも採取して、DNA照合に持ち込むことだ。恐らくそれがほとんど唯一の確実な方法だったのだが、不幸なことに野々垣小夜香の両親は事件後スウェーデンに移住してしまっており、その行方の追跡は難航した。結局研修が始まる前に連絡を付けるつもりだったのが間に合わず、仕方ないので毎日研修後に野々垣小夜香の両親の跡を追いながら研修中に隙を見てどうにか遠野清花の毛根でも採取し、一方で可能性としては極端に低くなるが、何かしら両者の関係を決定づけるに有効な情報がないか探すことにした。見習い医と探偵の一人二役を平気で負えるほどのスペックは流石に持っていないため、前田連には前田連というパーソナリティーの領域を削って無理やり二役をねじ込む他になく、つまり前田連は寝食を惜しんで仕事に打ち込まねばならなかった。その余裕のなさは間違いなく前田連にとって不幸なことだったが、考えようによっては幸福だったと言えるだろう。その無邪気さの皺寄せが、致命的な形を取って十年後にやって来ることになるだろうなんて考えもしないで済んだのだから。

 かくして前田連がその内心でそれからの研修の毎日が地獄の日々になることを予感し、外面は新境地に胸を膨らませ新進気鋭たる医者の卵を装いつつもその胸ポケットには探偵の師からもらった、ボールペンの形を擬したナイフを忍ばせ遠野精神病理研究所の門戸の前に立ったのは二〇〇一年六月一日、午前八時三十分のことだった。

 同じ大きさの二つの白い正方形を渡り廊下で繋ぐようにして横並びにし、窓を並べただけのような極めて質素な建物がなにものであるかを知らせるのは、玄関口のすぐ横のところに掲げられた白い看板の上で朝日を受けてつんと澄ましている、黒いゴシック体の「遠野精神病理研究所」の文字だけである。その他には診療時間さえも記されてはおらず、その淡泊にすぎる整合性は何も知らない人にさぞ不気味な印象を与える事だろうし、実際前田連も初めてこの建物を見た時はなんとも名状しがたい嫌な違和感を覚えた。その違和感は既視感のようなものと言ってもいい。しかしそれは夢か何かで見た、決して現実では有り得ないものと確信していた景色が現実に立ち現われてきたときに抱くであろう、既視感の紛い物である。まるで映画などに出てくる「病院」が、「病院」という記号の内容を殊更に強調する部分だけを持ち、それ以外の建物を連想させるような要素は徹底的に排除された、典型的であるが故にほとんど現実にはありえない「病院」の形――それが現前していたのである。しかし一方でそれは考えすぎであるかのような感もある。良く考えればその病院の形はそれほど徹底的に、病院という記号内容を読み取るに相応しくない要素を排除してはいないように思える。なにしろ診療時間を記していないのだし、それにそもそもその建物は病院ではなく、研究所である。その既視感は、きっと何かの間違いだったのだ。

 前田連が黒桐の扉の脇についている黒いインターホンを少し緊張しながら――あるいは緊張した振りをしながら押しても、特に中で何か音がしただとか、それに反応した誰かの声や足音がするだとかいったことはない。その訝しみを逃さず捉えたかのようなタイミングで、インターホンについたカメラがジィイと前田連にその黒い瞳を向ける。

『はい』

 応答したのは、いつも遠野岬への電話を取り次いでくれていた女中の声だった。何処か無機質な透明性を持ってハキハキと発せられる遠野岬の声と比べ、この女中――名は確か、大野真弓――の声は幾分温かみを含んでゆったりと耳に浸透するような声だったのでそのギャップの印象が強く、声だけで判別することが出来たのだ。何度か遣り取りをした相手と改めて名乗り合うときに感じる独特の白々しさと気恥ずかしさが織り交ざった感慨を抱きながら、――いや、その時は何も感じていなかった。研究所の黒桐の扉の前にあったのは、そのような揺れ動く脆弱な存在ではなく、大野真弓の持つ温かみに毒が含まれていないかどうかを慎重に検分しながら黒いインターホンに一人対面している、用心深い探偵に埋没している前田連の姿であった。だから前田連は恥ずかしげもなく、他人から用意された仮面の名、田代直樹を名乗ったのである。

『今お迎えに上がりますので、少々お待ちください』

 その声をプツリと切断する音の後に流れる空虚の時間に、前田連はその建物を几帳面に塗り分ける白と黒が緑と灰色の混在している周囲の街並みを隔絶している様を見、それこそが病院として一番正しい形なのかもしれないなどと前田連はぼんやり考えていた。

 足音もしなければ、ノブを回す音もしなかった。無音と共に開かれたドアの向こうで端正な顔に慇懃な笑みを浮かべて立っていたのは、眼鏡を掛けた細身の女性である。これが遠野岬に違いない、と前田連は即座に確信した。

「おはようございます、遠野岬です」

 その口から発せられた声は、電話口で聞いた声よりもはるかに色艶のない、あるいは掴みどころのない――ともすれば聞き逃してしまいそうな、滑らかに過ぎる声であった。田代直樹はその日二度目の自己紹介をした後で、遠野岬に導かれて研究所の銀色の敷居を跨ぐことになる。真っ白な看板の真っ黒なゴシック体が前田連に最後の一瞥を投げてきたような気がしたが、その時田代直樹は振り返ることをしなかった。

 通されたのは白い壁紙の極めて清潔な玄関口である。真っ先に目を引くのは玄関の両脇に据えられた鉢植えのオリヅルランのやや生気に乏しい緑と、それをぼんやりと縁取る白。右側の壁には、一枚の絵が、額に入れて掛けられていた。

 その絵を初めて見た時の僕の印象は、単に「様々な色の散りばめられた抽象画」というだけである。勿論今の僕にしてみれば、こんな描写では全然駄目だ。それではまるで、投げ渡された小さな卵をそのまま地面に投げつけて粉々にすることで「処理した」と言うのと同じ乱暴な仕方である。ちゃんとその絵の様子を伝えようと少しでも考えるなら、いくらか丁寧に繊細に描写するだろう、例えば次のように。

『雑多な色彩が全面に強調されている。赤、橙、黄色、緑、青、紫、黒、白といったあらゆる色があちらこちらに散らばっている。その混然たる色彩に目が行きがちだが、良く見ると赤い輪郭の強調された七つの円環と、それを頼りなげに繋ぐ赤い直線が存在しているのが分かるだろう。それらの位置関係だが、まず七つの円環のうち三つの大きめの円環は三つ輪違いになって、左上の角に二つの輪、右下の方に一つの輪を向けるようにして左上に存在している。右下には四つの小さ目の円環が、ちょうど平行四辺形の四隅のような位置を取って存在し、二本の対角線で相対する円環が結ばれているよな感じである。その対角線はそれぞれカンバスの縦の辺と横の辺とほとんど平行になっている。そしてその対角線の交点と三つ輪の中心部を貫くように、カンバスの左上から右下までを大きな対角線が走るのである。…………忘れてはならないが、今しがた描写したこの幾何的な紋様は全てが無秩序な色彩に押しつぶされるように存在し、ともすれば気付きえないような微かな呻き声を上げているのである。左下には、恐らく絵筆でそのまま書いたのだろう「さやか」という歪んだ拙い署名がある。絵具ののり具合から恐らく最後に記されたのであろうが、それでも他の色彩にその存在を半ば侵食されているようであり、そうと知らなければ見過ごしてしまうだろう――いや、今の描写は間違いである。むしろ逆だ。幾何的な模様、そして歪んだ「さやか」の文字は、いっそ周りの喧騒から寂しいほど疎外され、嫌が応にもくっきりとそこにその姿を現し、自重に苦しみもがくのである。ああ、その絵をみてその孤立した円環と直線と署名を見過ごすなんて、どんな人間がありうるというのだろうか? それを見過ごした前田連は、きっとそのとき人間ではなかったか、あるいはその絵を見ていなかったか。恐らくは両方だろう。

 しかし、ここで一つ心に留めてほしいことがある。それは、あのナイフを舐めるアフロディーテーのような、あるいは憂いの瞳で一瞥を投げるローレライのような、その戦慄すべき鮮やかさをもった色彩を「雑多な」だとか「混然と」だとかいった言葉で表すことは本来許されないことであるということだ。何しろ、そこに何色の色が使われているのかを判断することは、誰にしたってどうしようもなく不可能である。もしその答えがどうしても知りたければ実際にこの絵を書くときに用いた絵具を探せば良いとでも思うかもしれないが、言うまでもなくそれは何ら意味を為さない。それは与えられた数式と導かれる解を、用いられた数字と記号から割り出そうとするがごとき不毛な、故に愚かな行為である。その色を語るために必要な情報はもはや失踪してしまっている中でしかしその色に付いて語るために、不本意ながら僕は「様々な」などという言葉にその色の多様性を代弁してもらったというわけだ。カンバスに「様々な」色のペンキを適当に打ち撒けたように散在する色彩のどよめき。そしてその色々は嬌声を上げながら互いに溶け合い、その境界を曖昧にしながらあたりを揺蕩っているのである。例えば右上の部分には青い絵具で着色がされているが、視線を横に滑らせていくと青を見ていたはずの目はいつの間にか紫色を見ている。そこに突然緑色が闖入し、時に黒がその姿を気紛れに現したかと思えば、結局全ては赤が支配していることに気付くのだ。今、僕は不用意にも「青」「紫」「緑」「黒」「赤」といった色を口にしてしまった。しかし実際のところ、例えばこの絵の中で青色の部分はどこかと言われると、僕は答えに窮してしまう。右上の部分を指さして、「これは何色か」と言われれば、僕は沈黙するだろう。もし強いて僕にその色彩について語らせようとするならば、――いや、僕について語る必要はない。つまりは円環と直線の輪郭もまた曖昧ながら、それを冒す色彩の輪郭もまた曖昧なのだ。戦慄すべきその混沌。しかし、前者、すなわち円環と直線の曖昧な輪郭と後者、すなわち互いに溶け合うあいまいな色彩の輪郭には決定的な違いがある。前者においては円環と直線の幾何模様の輪郭が暴力的な色彩によって一方的に冒されているのだが、しかし色彩に関してその輪郭を冒しているのは、同族にして他者たる他の色彩なのだ。色彩の世界で繰り広げられているのは、お互いにお互いを冒し冒され合う戦争である。そして可哀そうな幾何模様の「さやか」は、その暴力性の中で立ち竦み埋め立てられ、あるいは疎外されてしまっているのだ。…………

 ……完璧を求めるのは病気である、よしんば完璧を欲望するのは健全であるとしても。その絵について語るのはひとまずここまでとし、研究所内の様子の描写を続けることにする。

 玄関口の右側にはその絵、(……)が掛けられているだけであった。左側の壁には大きな緑の掲示板があり、A4サイズの保健の広告やさまざまな告知の紙が、等間隔に並べられている。さらにその掲示板の上には三種の針と穿たれた十二の点があるだけの丸時計が掛けられていて、音もなく進む三つの針は八時半を少し過ぎた時間を示していた。

 遠野岬に促されて、前田連は靴を脱ぎつつ左脇に据え置かれた、三段になっている靴棚を観察する。一段目には既に整然と八つの靴が並べたてられ、三段目には隙間なくスリッパが敷き詰められていたので、前田連はその靴を空っぽの二段目に置く他にない。それを見て前田連は他に来訪者がいないという当然の事実を用心深く認識し、流し目でざっと残りの七つの靴を観察する。品のいいベージュのヒールが一足、小さ目の革靴が一足、女児用と推測される、リボンのついた黒い細造りのブーツが一足、くたびれたビーチサンダルが一足。残り四つの白いスニーカーは全て同じもので、それも新品同様であるためその持ち主は当てがつかない。来訪者がいないことから、これらの靴は全てこの建物に寝起きする者――つまり遠野岬と大野真弓、それから患者たちのものであることが容易にわかる。その中でも特に目立つ黒いブーツに前田連はさらに注意を向けた。履き口のところや靴の側面に過剰なほどのフリルが設えられ、目を引く大きなリボンは、しかし良く見ると靴ひもを結んだものではなく、マジックテープのバンドを覆うようにくっついている、何ら用を為さぬ装飾であることに気付く。まさかこれが遠野岬や大野真弓のものとも考えられないし、それがきっとさやか――遠野清花のものであるだろうと推測をつけながら、田代直樹はいかにもフレッシュマンのものらしく新品同様にぴかぴかしている茶色の革靴を二段目に置きつつ、三段目からを緑色のスリッパを取った。患者に配慮してか玄関から屋内に入るところは緩やかな坂になっていて、タイル張りの地面と木目の床との境界がアルミの敷居で誇張されている。真向いには壁沿いに階段があるが、遠野岬はその前を横切っている廊下を左に曲がってくるよう促す。田代直樹は廊下から遠野岬に従って行きかけて、ふと階段の踊り場のところにある大きな振り子式の気時計に目を止めた。ところどころに禿げの見られる黒茶色の肌、微動だにせぬくすんだ金色の振り子、ローマ数字で記された十二の数字に乳白色の文字盤、十一時五十八分あたりを指している、良く見えないが細く複雑な形をしたバロック風の針。相当な年代物のように見え、今やもう動かぬその時計はどうしても「死骸」の二字を連想させる。かつて忙しく動いていた、時計特有のあの几帳面さはどこへやら、ついに時の重圧に耐え切れなくなり今や、無様にその骸を窓辺に晒すばかりとなった、哀れな廃墟――

「どうかしましたか、田代さん」

 特に訝るような色もない遠野岬の声に、前田連は注意深く、無頓着そうな田代直樹を演じて答えた。

「時計が止まっているみたいですが」

 ああ、と遠野岬はこちらに向き直って受け答える。

「止めてあるんです。鐘の音は患者を驚かせてしまいますからね」

「なら動きはするんですか」

「ええ、恐らくは」

「宝も持ち腐れたら、ただの置物ですね」

「……確かに腐って見えるかもしれませんね――田代さんには」

 気分を害してしまったろうかと田代直樹は遠野岬の顔を見るが、遠野岬はその顔に微笑さえ湛えながら、窓から差し込む初夏の優しい朝日に微睡んでいる振り子時計に目を向けていた。遠野岬の目は、静止した金色の振り子が世界とは別の時を――せわしく動くことによっては決して刻み得ない、掛け替えのない時間を見取っている。


 ○


 その後通された執務室で注意事項の確認をした後、すぐに田代直樹は遠野岬から所内の案内を受けた。所内は二階建てで西棟と東棟に分かれており、その二棟が二階の渡り廊下によって繋がれている。玄関口のある方が東棟であり、西棟は渡り廊下の先にあって主に患者の個室や遊戯場、患者用の図書室や食堂などがある。それらの場所を確認した後で、まず田代直樹は西棟で一人一人の患者に自己紹介をして回った。挨拶した患者の人数は、全部で五人であった。その内四人に関しては特に言葉を費やす必要もない。お喋りな佐藤美千代、上品な緑のスーツ姿をした作野泰造、いつも着物姿の物静かな岡野智子、快活な田村洋平。ただ五人の患者のうち最後に田代直樹がまみえた患者、伊波卓郎については多少の文字数を割かねばならないだろう。不愛想に見えるその少年は躁鬱病患者とのことである。痩せ細ったその体躯と頬のこけたその顔を見た後で彼の年齢が十九歳だと聞いて、驚かない人はいないだろう。脂肪がないために骨ばって見えるその顔に見て取れる、人生の辛酸をため込んだ深淵のような陰影は十九の人間が背負うにはあまりに濃いものであったし、全てを無差別に刺し穿ち切り刻むようなその眼光は、長年ストレスにさらされ続けた結果として最後に残った鋭い攻撃性だけが表出したかのようであった。田代直樹が自己紹介をしたとき伊波卓郎は個室のベッドに寝そべっていたのだが、それに対して伊波卓郎は何一つの音すら発することなく、ただ面倒くさそうにこちらに鋭い一瞥をくれただけであった。そのあまりに刺々しい眼光は、射すくめられれば何か弁解しないではいられないような気持ちをこちらに催すほどであったが、それでもその瞳を見返そうとすると、伊波卓郎はぷいと横を向いて一方的にコミュニケーションを遮断してしまうのである。

「卓郎君は、いつもあのような感じですからお気になさらないでください。あれでもかなり人当たりは良くなったんですよ。最初の頃は人を見ればすぐ罵倒するような、そういう子でしたから」

 伊波卓郎の部屋を出たあと、遠野岬は移動の途中に伊波卓郎を庇うように言った。

「そうなんですか。まあ、十九歳という若い肉体があのような狭いところでジッとしていては、ストレスも溜まるでしょうしね」

 ふふ、と遠野岬は笑いをこぼす。 

「それくらいジッとしていてくれたらどれだけ良かったでしょうか。卓郎君、ちょっと油断するとすぐいなくなっちゃうんです。それで二三日帰ってこないと思うと、いつの間にか部屋にいて本を読んでいる。いくら叱っても馬耳東風の暢気さで、次の日にはまた無断外出ですわ。最近はもう諦めて、せめて一声かけるようにお願いしているんですが、どうにも言うことを聞いてくれなくて」

 あのか細い体が動いている様子をなかなかうまく想像することが出来ず、田代直樹は「手が焼けますね」と引きとった後で、無難な質問で話題に合いの手を入れる。

「卓郎君はここに来てからどのくらいになるんですか」

「二年くらいかしら」

 ということは、ここに来たのは高校生の頃ということになる。

「それなら、学校は」

「卓郎君は中学までで、高校は行ってないんです。けど頭は良いんですよ。入院中でもかなり本を読んでいるので、立派な大学生に引けを取らないくらいの知識もあります」

 遠野岬は少し誇らしげに言う。きっと遠野岬が勉強の面倒でも見ているのだろう。

「なんか漫画とかに出てくる天才少年みたいですね。授業には出ず、ひたすら本を読んで勉強だなんて」

 さしたる意味もなかった適当な受け答えに、遠野岬は真面目に答える。

「違うのは、卓郎君には約束された未来がないことですわ。いいえ、それは誰しも同じなのですが……あの子はあまりに、過去を愛しすぎているんです。あるいは過去を愛さざるを得ないほどに、未来、ひいては未来から手繰り寄せられてくるものとしての現在を拒絶しているんです。あの子にとって現在は未来への懸け橋ではなく、過去に回収されるものに過ぎないのです。なんとか未来を、そして現在を愛せるようになってもらわないと……」

 言って、遠野岬はほうとため息をつく。眼鏡越しに見られるその目は、心底から息子の事を心配する母親の目であった。それを見て前田連は、遠野岬のいかにも慇懃な物腰と仕草は全て構成されたものであり、その本心をこれから暴くことを考えねばならないと考えた。そのような自明なことの確認はとりもなおさず前田連が遠野岬に好感を抱きかけたという事実を裏付けることに、前田連は気づいていない。

「これで患者は全員回ったんですか」

 前田連は多大な毒を含んだ問いを――その答えが否であることを知っているその問いを、田代直樹の無防備の装飾で覆って投げつけた。まだ遠野清花の元を訪れていない。もしこれで遠野岬が「ええ」とでも言おうものなら、それは「遠野清花の存在は隠蔽すべきものである」という遠野岬の考えを裏付けることになり、少なからず遠野清花に関してなにか後ろ暗いところが存在することをも同時に示すことになる。

 その時遠野岬はちらとこちらの眼を見、それからふっと笑った。「そちらの考えなど全て見通していますわ」とでも言いたげな笑みの後に出てきた言葉は事実に基づいた、しかし無難な答えであった。

「全員と言うわけではありません。もう一人患者がいるんですが、その人はデリケートな患者なので、今は……」

 曖昧な語尾に合点がいきかねるように、田代直樹は「はあ」と答えた。そのとき前田連は二つの決断の間で揺れ動いていた。つまりその問いのあとで、「それは遠野清花のことですか」と言うかどうかである。

 遠野清花の名を出せば、田代直樹が「遠野清花という存在を知っている」ということを遠野岬に知らせることが出来る。それに加えて、その後の話の運びの中で上手くやれば「田代直樹はさやかという存在を知ってはいるが小耳に挟んだ程度であり、遠野岬にとって致命的な事を知っているわけではない」という情報までもを遠野岬に植え付けることが出来る。こちらの方策は、遠野岬が田代直樹に対して強い警戒感を抱いている場合に有効だ。管理者の立ち位置にある人間はレッテルの貼られていない人間を極端に嫌うものだし、紹介状があるとはいえやはり遠野岬にとって田代直樹は得体のしれない青年であるし、やはり何かしらの情報を掴みたいと思っているに決まっている。とすればこちらから、遠野岬にとってみれば歓迎すべき田代直樹に関する情報を与えておくことで警戒心をある程度のレベルに安定させておくことが出来る。

 一方でもし遠野岬が田代直樹の事をさして警戒していない場合、「田代直樹が遠野清花を知っている」という情報は遠野岬に、本来なかったはずの警戒心を呼び起こす結果となるだろう。あくまで前田連がすべきことは遠野清花のDNA鑑定に必要な試料の獲得であり、隙を見て遠野清花の病室を探り当てこっそり爪か髪でも採取すればそれでいいのだから、むしろ田代直樹がさやかを知っているという情報は完全に隠蔽して秘密裏に全てを遂行するのがいいという考え方もありえたのである。問題はひとえに遠野岬の田代直樹に対する警戒のレベルに掛かっていた。しかし今までの様子を見る限り遠野岬がさほど田代直樹の事を警戒している様子はなかったので、ここは遠野清花の名を伏せたままにするのが良いだろう――そこまで考えたあとでようやく、田代直樹は「そうなんですか」とだけ答えたのである。

 その後、遠野岬は言葉少なに田代直樹に東棟を案内して回った。ここが研究室、ここが研究書庫、ここが給湯室、ここがトイレと回っていくうちに、遠野岬は東棟の一番奥まったところにある一枚の扉の前で立ち止まった。その扉は他の扉となんら変わらないものだったが、ただ一つ緑の金具による補助鍵が外から取りつけられ、小さな南京錠で扉が閉ざされているところだけが違っていた。

「ここがさきほどお話しした患者の部屋ですわ。非常にデリケートな患者なので、特別な用事がない限りこちらの方には来ないようにしてください」

 それだけ言うと遠野岬は踵を返して歩き出してしまったので、田代直樹もその後について行く。遠野清花の部屋が分かったのは有り難いようで、その実こちらに来ないようにと念を押されてしまったため、万一さやかの部屋に忍び込んだところを見られたりしたときの言い訳が出来なくなってしまったことを前田連は悔やんだ。遠野岬のこの発言はそこまで意図した、つまり体よく釘を刺すための発言だったのだろうか? ――しかしそんな入り乱れた考えとはおよそ無縁な明るい声で、遠野岬は「さて」と言うのである。

「そろそろお昼が出来る頃ですね。食堂に行きましょうか」

 遠野岬に連れられて行った食堂には、十人掛けくらいの大きな丸机が一つと八つの椅子が置いてあるだけであり、その上に大野真弓がせっせと八人分の昼食を並べていた。八人分――それで、遠野岬はなるべく患者とスキンシップを取るために、患者と同じ席で同じものを食べるようにしているのだと前に電話口で聞いたことを思い出した。食堂にはまだ患者はいないようだったが、遠野岬が食膳運びを手伝い出したので、田代直樹もそれを手伝うことにした。衣のたっぷりついた鮭のムニエルに茹で野菜やスパゲティの付け合せが上品に乗せられたメインディッシュ、切り分けられた食パンが一人に二枚ずつにバジルの振り掛けられたオニオンのコンソメスープという献立である。食膳を運ぶ際に嫌でも鼻に入ってくる香ばしい湯気に空腹を刺激され、ぐうと鳴った腹音に女医と給仕は屈託なく笑ったので、前田連も照れくささを装って作り笑いを浮かべる。

 次第に患者たちがぽつりぽつりと集まってくる。彼らは席に着くと随分仲が良さそうにお喋りをしていたようだったが、その実ただ佐藤美千代が喋りまくり、たまたまその水を向けられた人が嫌な顔をするでもなく応対するだけであった。そしてそこで、彼らが互いに「オバサン」「オジイサン」「オクサン」「オトウサン」「オニイサン」と呼び合っていることも知ったのである。ちなみに「オニイサン」とは伊波卓郎の事であるが、伊波卓郎はいつも食事の場に姿を現さないので食卓だけ用意して、食事が始まれば大野真弓が伊波卓郎の部屋に食膳を持っていくそうである。

 食事はとても美味しかった。病院で配給される食事と言えば没個性的で質素なものが思い出されるが、しかしここの食事には大野真弓の個性が前面に押し出されていたのである。ハーブの香りのする鮭のムニエルには卵が丁寧に潰されたタルタルソースが掛かっていて、付け合せのスパゲティもクリームソース仕立ての上品なもの。独特な甘みのあるオニオンスープに添えられたバジルはここの庭先で取れたものだというし、茹で野菜にもきちんと下味がついている。

「真弓さんは昔、JWホテルのメイド長をしていたんですよ」と「オバサン」が魚に無造作にフォークを突き刺し、口に運びながら言う。「看護婦じゃなかったか」と「オトウサン」が言う。「看護婦はその後。メイド長やってたのを辞めて看護婦になったけど、また辞めて今はまた場末の病院のメイドをやってるの」

 だったわよね、と「オバサン」は大野真弓に確認するように言う。大野真弓は生真面目に、「場末の病院、というのが違いますわ。都心の立派な研究所です」と答えた。それを受けて「全く良い子ちゃんなんだから」と「オバサン」は憎からぬ様子で言う。JWホテルと言えば、世界各地に存在する一流ホテルだ。今まで海外出張で宿を探す時に毎回候補に出て来てはその法外な値段に扼腕の思いをさせられたものだったが、そのようなところでメイド長を務めるというのは一つの頂点を極めたといってもいいだろう。

「お聞きしたかったのですが、何故真弓さんはホテルをお辞めになられたのですか?」

「オクサン」が綺麗に魚を切り分けながら言う。そうそう、と「オバサン」は口に魚の入っているのも気にせずに話そうとしたところを遠野岬にたしなめられ、不満気ながらも大人しく引き下がった。大野真弓は端的に「少し思うところがありまして」と答えるばかりであり、その答えに不満げな「オバサン」は再び口を開きかけたが、黙々とパンをちぎって食べていた「オトウサン」が「オバサン、バター取ってくれ」と言ったので、「オバサン」は腰を折られたと言わんばかり乱雑に目の前のバター皿を掴むと、それを「オトウサン」に渡す。その間に今度は「オジイサン」が言う。

「人との関わりが無いのが、我慢できなかったと言っておられましたな。だから看護婦に転身なさったと」

 ええ、と大野真弓はバターを塗るのに苦戦している「オトウサン」の手伝いに席を立ちながら言う。「その看護婦もすぐにやめてしまいましたけどね」

「でも、たんまり貰えたんでしょうに。何せ世界のJWのメイド長でしょ」

 ようやく発言できたことを喜んでいるのかそれとも下世話な話をするときのいつもの表情なのか、「オバサン」がにやにやしながらそう言う。「オトウサン」のパンにバターを塗ってやりながら、大野真弓は「それはそうなんですけどね」と嫌な顔をするでもなく答えた。

「お金を貰えば貰うほど、なんだかそれで存在を軽んじられているのが埋め合わされているような気がしてしまって」

 ふうん、と「オバサン」は仏頂面で言う。

「お金がもらえれば、それだけ評価されてるってことだとあたしは思うけどね」

「馬鹿だったんですよ、私」

 少し恥じるように笑う大野真弓の言葉を、「オジイサン」が引き取って言う。

「それも若さだ。今がいいならそれでいいさ」

「ええ」と頷く大野真弓に、彼らの話に耳を傾けていた遠野岬が口を開いた。

「本当に今のままでいいの? 真弓ももう少し休んでくれればいいのに。今無休じゃない、私も掃除や料理くらい出来るんだから一日二日くらい休んでくれていいのよ」

「駄目駄目、岬さんは掃除も味付けも雑すぎて。真弓さんの繊細さを見習わないと」

「そう?」と岬は意地悪そうな笑みを浮かべる。

「じゃあ今日から心を入れ替えて「オバサン」の体操も繊細にみっちり見ることにしようかしら?」

 あら嫌だ、と困った顔をして体操が嫌いな「オバサン」は言う。

「やっぱりあたしは大味な岬さんが好きよ」

 急に澄ましたふうに言う「オバサン」の様子が滑稽だったのだろう、「オジイサン」はカラカラと愉快そうに、「オクサン」はホホと上品に、遠野岬はふふと柔和に、大野真弓はくすくすと慎ましげに笑う。「オトウサン」は大野真弓から受け取ったパンを一生懸命齧っていた。

 そのような場にあって、もちろん田代直樹も笑った。しかしその作り笑いの下で、前田連は何か有益な情報を聞き逃したり見逃したりはすまいとつねに神経を尖らせ続けていた。その後の研修においても、所内に流れていた時間のあまりある平穏さに、前田連は拍子抜けたような感すら抱いていた。少なくともそこには、精神医学界のギスギスした雰囲気など微塵も感じられなかったのだ。しかしさすがに前田連も探偵稼業を始めてもう五年である、所内そのような平穏さを受けて「遠野岬は実は良い人なのではないか」などという愚かな考えに落ち込むはずもない。情に流されるなどということは探偵にとって一番あってはならないことであるし、この世界において真に「良い人」「悪い人」なんてものは存在せず、全ては役回りに過ぎないということはいくら年数が浅くとも探偵の道に足を踏み入れた者なら誰でもわかっていなくてはいけないことだ。そして前田連は、そのことを誰よりもよく心得ているつもりであった。

 目に映る全てを一つの目的のために収斂させるべく頭を働かせる探偵と、目に映る全てをその度ごとに周りの人々と共有する研修医。その二役を同時に兼ねることは想像以上に難しい。しかし前田連は、その二役を完璧に使い分けているつもりであった。研修医として遠野岬との会話に没頭しているときでも、常に探偵前田連はあたりに耳を澄ませ目を光らせていた。遠野岬は田代直樹を「どこか抜けているようだが、頭は良い前途有望の研修医」として信頼を置いているように見えたし、それは他の患者、大野真弓からもそのような人物として認められていると自分で思っていた。

 六月五日の夜、ようやく前田連はスウェーデンに移住した野々垣小夜香の両親と電話で直接連絡をつけることが出来た。事の顛末を話したときの彼らの反応は芳しくなかったが、それも当然のことである。もう半ば忘れかけていた――忘れようと努め、ようやく忘れかけることの出来た忌むべき事件。確かに事実として、その事件は「未解決」である。しかし当人たちにとってみればその事件は「解決されなかった、どうしようもない事件」として、既に解決――あるいは納得されていたのである。それを今さら解決するということは、今の彼らの安定した生活を敢えて揺るがすことになる。事件当時こそ世の終わりとばかり嘆き悲しんだものの、両親は今やスウェーデンで三人の子宝に恵まれ、幸福な毎日を送っているという。苦難から立ち上がって平和な時を過ごす彼らに、どうして「もし遠野清花があなた方の娘であったなら、親として愛情を持って面倒を見るのが道理だ」などと言えるだろうか? そしてかような世迷言を、前田連は厚かましくも言い放ったのである。世にも残酷な「正論」を受けて、両親はとりあえずDNA照合だけでもやってみて、仮に親子であることが確定したとして、そこから先のことはその時考えるとし、DNA鑑定に協力してくれることになった。

 あとは遠野清花と接触してその試料を得れば良いだけとなった。まだ研修期間は長いのだから何も焦ることはないし、そもそも直接遠野清花と接触する必要はない。あくまで必要なのは試料なのだ。気持ち良い考えではないが、例えば大野真弓が清掃のためにあの部屋に入った後、そのゴミを捨てるのを見逃さずそこから髪の毛の一本でも採取できればそれで十分なのである。とりあえず任務遂行の目途が立ったことは少なからず前田連の心を軽くした。そして六月六日の田代直樹に何かしらかの油断があったとすれば、まさにその安堵こそが隙を作ったのに違いない。

「真弓はどこにいるかしら」

 執務室で何かを紙に書きつけていた遠野岬がおもむろに言ったので、田代直樹は伊波卓郎のカルテから目をあげた。

「今さっき買い物に。何か用があったんですか?」

 そう、と遠野岬はいう。お茶はさっき淹れたばかりだったし、きっと研究所庫から文献をとって来るよう頼むつもりだったのだろうと見当をつけて、田代直樹は言う。

「本なら僕が取ってきましょうか」

「いいの」と言う遠野岬に、田代直樹は相手の遠慮するところを敢えて行う親切な強引さでもってその本の表題を聞きだし、研究所庫に向かった。そこまでは良かったのだが、しかし研究書庫は初日に少し案内されて以来一度も行っていなかったために田代直樹は所内に迷うことになる。当てずっぽうに廊下を歩いているうちに、やがて遠野清花の部屋を奥に臨むところに出た。

 そのとき前田連の頭に考えが浮かんだ。すなわちこのような状況――田代直樹の行動を監視しうる大野真弓は所内におらず、遠野岬も執務室にいることが分かっているこの状況は、道に迷った振りをして遠野清花の部屋の前に行き、中には入れずとも何か試料になりそうなものやその他手がかりがないかを捜す絶好の機会ではないかということである。実際、図らずも田代直樹はここまで迷って来てしまったのだ。あと数十歩進んだとて、何も怪しいことはない。そう考えて、前田連は故意の一歩を踏み出した――

「おい」

 突き刺すような敵意を隠そうともしない声に、前田連は振り返った。そこに立っていたのは、昨日の昼下がり頃に姿が見えなくなったその前までと同じ風に薄青色の患者服をだらしなく着崩しながらこちらを睥睨する伊波卓郎であった。予想だにせぬ状況に、しかし前田連は動じることなく余裕を持った田代直樹を装って答えることができた。

「伊波君じゃないか。昨日からいなかったようだけど、どこに行ってたの?」

「何をしているんだ」

 こちらの言葉を意にも介さず、伊波卓郎はそう言ってのけた。僕は困ったなと頭を掻きながら言った。

「それは僕の台詞だよ。患者はあまり辺りをふらつくべきでない、言われるまでもないと思うけどさ」

「そんならお前もそうじゃないか。その先はさやかの部屋だ。お前が立ち入っていい場所じゃない、言うまでもないと思うが」

 伊波卓郎のその言葉を、前田連は聞き逃さなかった。「さやかの部屋」――これで、そこにいるのがさやかであるということがいよいよ確証づいたわけだ。既にそのつもりで考えてはいたが、裏付けが取れたことはなんにせよ喜ぶべきである。田代直樹はさしたる風もなく、軽薄な笑みを顔に浮かべて言った。

「ああ、そうだったっけ、危なかった。研究所庫に用があったんだけど場所を忘れてしまってね。どこか知ってる?」

 しかし伊波卓郎は苛立ちを隠そうともせずに言う。

「『少し間抜けだがいい子な研修生』――茶番は慎ましくさっさと終わるから可愛げがあるんだ。いつまで続ける気だよ、鬱陶しい」

「……何を」

 声を遮るように、伊波卓郎はポケットから一本のペンを取り出した。それは前田連が五年前に師と仰いだ探偵からもらったペンナイフと酷似していた。前田連はほとんど反射的に胸ポケットに手を当てた。三本あるはずのペンは、しかし二本しかなかった。伊波卓郎はそのキャップを外す。露わになる凸凹のあるピカピカした刀身と鋭い先端を弄びながら伊波卓郎は続ける。

「こんな物騒なモン持ち歩くなんて、大した研修生もいたもんだな」

「……いつ取ったのか知らないけど、それは護身に持ち歩いていたものだ。返してくれ」

 ふん、と伊波卓郎は鼻で笑う。

「ちょっと借りるよ、なかなかいいもののようだからな。その代り岬さんには黙っといてやるよ、カンジャさん」

 自分勝手にそう言って、伊波卓郎は踵を返してしまう。

「おいこら、お前何勝手に……」

 僕が追いすがろうとすると、伊波卓郎は急に振り返り、ペンナイフの先をこちらに突きつけてくる。二人の距離は一、二メートルほど離れていたが、問題は距離ではなく、ナイフが僕に突きつけられたというその事実である。その事実に、前田連は酷く動揺した。

「何なら今ここで、お前を刺し殺したっていいんだ。それをしないのは、お前が唯一…………」

 いや、と伊波卓郎は自ら言葉を遮った。それからぼそりと、独り言のように付け加えて言った。

「とにかく、さやかに親は必要ない」

 そしてその突然失踪した文脈に何の説明もつけることなく、伊波卓郎はそのまま歩き去ってしまった。伊波卓郎のその言葉の意味しうる事実に前田連は半ば戦慄し、その背中を今度は追いかけることが出来なかった。


 ○


「これでいいんですよね」

 田代直樹は書庫から取ってきたフランス語で表題の書かれた薄い冊子を遠野岬に手渡した。「ありがとうございます」と遠野岬はそれを受け取り、ぱらぱらめくりながらさして気にしてもいないような風に言う。

「随分時間が掛かったみたいでしたね。見つけにくかったかしら」

 しかし今や、僕は気づいていた――薄笑いを浮かべた顔、眼鏡で覆いが掛けられたその眼窩の奥に用心深く仕舞い込まれ、まさに前田連へと狙いを定めている無数のナイフがごときその眼光に。そして田代直樹はそんなものに気付きもしていないかのようにしれっと言うのである。

「そんなに時間掛かってました?」

「……いえ、きっと待ち詫び人の時間間隔でしょう」

 すかさず言葉を退いた遠野岬は文献を横に放り、椅子に深くもたれかかるようにして大きく体を伸ばす。

「今書かれているのはなんですか?」

「これは今度の学会での発表原稿ですわ」

「明後日でしたっけ、学会」

 田代直樹はその事実を忘れこそしていないが、さりとて特別意識しているわけでもないような口調でそう言った。それは、前田連がその事実を何より当てにしているということに気付かれないようにするためであった。六月八日から三日間にわたって開催される学会で、遠野岬は研究の進捗状況を発表しなくてはならず、その期間研究所にいられないということは研修が始まる前から聞いていた。その期間は大野真弓に従って二人で所内を切り盛りするようにということだったが、その期間はかなり動きやすくなると踏んでいたのである。もっともさっきのような事があった今、遠野岬の不在はさしたる好機でもないようにも思えた。

「そのことで田代さんに一つお願いがあるのですが。……初日、一人だけ田代さんにお会いさせることの出来なかった患者がいたのを覚えていますね?」

 続いた遠野岬の言葉は、しかし予想だにしない物であった。その意図を掴みかね、田代直樹ははやや間をおいてから「ええ」と答えるばかりである。

「その患者は、名前を遠野清花といいます。……実子ではありませんが私の子ですわ」

 前田連は思わず遠野岬の顔を見、照れくさそうな笑いを浮かべるその顔の裏に存在するはずの意図を掴もうと懸命に頭を働かせた。もちろんその情報は、こちらの既に知るところとなっている。しかし遠野岬からすれば――十年前の誘拐事件に何らかの形で関わっている遠野岬からすれば、その情報は秘すべきもののはずである。それを何故この期に及んで、あちらから明かしたのか? ――しかし、続く遠野岬の言葉に、前田連はさらに追い詰められることになる。

「明後日から三日間、十四半時から十六時まで、さやかちゃんの面倒を田代さんに見ていただきたいんですの。もちろん患者として、ですわ」

「…………」

 それを天賦の好機と捉えるには、あまりに状況が切迫していた。持てる思考力の全てを、遠野岬の発現の意図を読み取るために費やすが、しかしそこから結論を導くにはあまりに言葉が唐突であった。思考は空転し、結局その中から引き出せる暫定的な結論は空無である。そのようにして解が無い時、疑うべきは前提である。結論の不在は、次に前田連をしてこう問わしめた――「遠野岬は、さやかに対してなんら負うところがないのではないか?」その問いは次にこう形を変える……「実はさやかは野々垣小夜香の誘拐とはなんら関係のない存在であり、全ては嫉妬に目のくらんだ清田清十郎の邪推なのではないか?」

 そこまで考えたところで我に返り、前田連は愕然とする。その問いは、依頼人を疑うような問いは、少なくとも職業探偵にあってはならない問いであるからだ。いくらなんでもそれが冷徹に過ぎるというなら、こういってもいい――遠野岬も清田清十郎も同様に疑いうるのなら、前田連は探偵として、せめて依頼人たる清田清十郎を信じ、遠野岬を疑わなくてはならない立場にあるはずである、と。しかし、自分は今その状況下にあって遠野岬を信じ、清田清十郎を疑いかけたのである。その事実を自覚すると、すぐに前田連は、徹底して田代直樹を演じる前田連に没入することに努めねばならないと反省した。勉学に埋没する優等生の臆病さでもって前田連は探偵であろうとし、田代直樹は研修医であろうとしたのである。

「田代さんにお願いしたいのはさやかにおやつのクッキーとミルクティーを運び、それから十六時になるまで一緒に遊ぶことですわ」

 本当に精神科医の仕事なのか訝りたくなりようなことを言って、遠野岬は続ける。

「いつもならその時間は私がさやかちゃんと一緒にいます。本当は真弓にお願いしようと思っていたんですが真弓も忙しい身ですし、せっかくなので田代さんにお願いしようと思ったんです。今日は十四時くらいにここを出て準備をした後で、私がさやかちゃんと一緒にいるのを見てもらいます。それを参考に明日は田代さんがさやかちゃんについてもらって、それを私が傍で見ています。それで明後日からは、田代さん一人でさやかちゃんのお世話をお願いすることになりますわ」

 なるほど、と言いながら僕はちらと時計を見た。時計は一時半を示していた。

「怖がりはしませんかね」

 率直に問うた田代直樹に、「怖がるでしょう」と遠野岬は言う。

「他者を怖がるのは分裂病者の特徴の一つと言えますが、さやかちゃんはとりわけ他者に敏感です。けれど驚かせることなく共に時間を過ごすことが出来さえすれば、そのうち馴染んでくれるはずです。これはさやかちゃんが他人というものに慣れるための訓練でもありますからね」

 それから田代直樹と遠野岬はおよそ三十分ほど、さしたる意味もない――あるいはさしたる意味がないよう互いに見せかけた会話を続けた。その中で遠野岬は精神科医としてやっていく上で、疫学的な研究に基づく投薬を中心としたやり方と、精神分析的、心理学的なやり方に基づくカウンセリングを中心としたやり方があるとしたうえで、田代直樹はそのどちらを選ぶつもりかと問うてきた。変に定まった答えをするのも良くないと考え、田代直樹は「まだどちらにも決めかねています」と研修生らしく煮え切らない返事をしたが、それに対し遠野岬はいつになく真剣な顔をして言った。

「大事なのは、貴方の気持ちなんですよ」

 遠野岬のその言葉がどの程度までの射程を持っているのか、僕は計りかねる。その言葉は迷える田代直樹に向けられているような気もしたし、動揺する前田連に向けられているような気もした。その判断を待つことなく、遠野岬は言葉を続けた。

「田代さんの後見人である有田氏は田代さんの卒業したJ医大の学長である清田氏のお弟子さんですから(それを聞いて、前田連は大いに動揺した。その動揺に田代直樹はなんとなくばつの悪そうな顰め面を被せた)、投薬を推進する派閥にあります。恐らくそう言った事情から田代さんは投薬派以外の道を取りづらく感じているのでしょう。しかしそのようなつまらない派閥闘争で一生に関わる思想を曲げるだなんて、それほど下らないことはありません。屈服とは従属であり、すなわち体制の支持です。言葉は悪いですが、屈服する者こそその派閥闘争の構造を支える最下層の生産者と言うべきだと私は思います。闘争に屈した挙句そのような体制維持に従事するだなんて、あまりにくだらないと思いませんか?」

 遠野岬の言葉は勝手だ、と前田連は考えた。それは最下層にいない人間が、自分の正当化のために最下層の人間によりそう振りをしているだけだ――前田連は意地悪く考えた。しかし一方で、遠野岬の言葉に共感する自分も、どこかに存在していた。

「……くだらないです」

 僕をそう言わせたのは何だったのか? 遠野岬は意想外の言葉を聞くような顔をした。それは落胆しているようにも見えたし、ホッとしているようにも見えた。そして遠野岬はその微妙な表情の変化を隠すように目を細めて「なら」言うが、僕はそれを制して「だから」と続けた。

「僕は、僕の一番やりたいようにやります。派閥なんて関係ないし、闘争なんて僕の知らないところで勝手にやっていてくれればいい。体制維持が一つの闘争への加担なのだとすれば、反体制もまた一つの闘争への加担です。そのような構造から脱して、僕は自分のやりたいようにやりたい」

 あなたはどうですか、と田代直樹は尋ねた。それを聞いて岬は少しく沈黙していたが、やがて「ふふ」と笑う。

「同感です。私も派閥――より本質的には立場ですが、そんなものどうでもいい。いや、どうでも良くありたいというべきでしょうね。私だって自分の信念にだけ基づいて生きていきたいし、そのようにやっている私に賛同してくれる人だけが私を訪ねてきてくれればそれでいい。それが出来ればどれほどいいかと、誰もがそう思っているはずなんです」

 岬は廊下の窓の外に目を向けた。そこには、どこにでもある町の日常が広がっていた。大地をアスファルトで塗り固め、空間をコンクリートで切り取って、身体を衣類で隔絶して、人々は素知らぬ顔で、その内に複雑な想念を撓め抑えながら生きている。

「多くの民族が、楽園を天上に想像します。私は、楽園とは立場の存在しない世界だと思います。人間は弱い。人間は、自分の存在の軽すぎる重さにとても堪えられない。力なく地面に座りこんでいることに堪えられないから、強いて人間はその足で引力に対抗して地に立とうとする。そしてなまじ立ててしまうが故に、それは悲劇なのです。人間は立って歩くことを自らに宿命づけ、また子にそれを宿命づけます。そのように宿命づけられた人間が生きていく上で、立場というものは免れようのないものです。立とうとすれば、そこに立つための場の存在が前提されるわけですから。そのために、生まれ落ちた瞬間からある人とある人は互いに闘争し合うことが宿命づけられていうこともあるし、いつの間にか戦わねばならないことになっていることもある。たとえ本人同士が好き合っていたとしても。……ままならないものです」

 それが岬の本音であることは、言葉の裏に垣間見られた毒が今や見られなくなっていることで何となくわかった。僕は言った。

「しかし、それでも人間は立たなければならない、立って戦わなくてはならない。立場から脱して一人で踊るだなんて、土台無理な話です。その闘争の渦の中をいかに生きるかを考えなくてはならない」

 僕たちは、戦わなくてはならない――その言葉を、前田連は口にすることをしなかった。そこまで前田連は厚かましくはなかった。故に、その言葉を受けて遠野岬が浮かべた寂しげな微笑の意味を前田連が解することはなかったのである。

 十四時になったので、二人は連れ立って部屋を出て、東棟の給湯室に向かうことになる。さっきお茶を淹れるために一度行ったので場所はわかっていた。執務室から少し離れているのが悩みの種だという。その途中西棟に行くための渡り廊下に至る階段を通りかかり、遠野岬はおもむろに立ち止まった。

「この振り子時計」

 予期せぬ言葉に、前田連は「は」と間抜けた声を出した。遠野岬は言葉を継ぐことなく、踊り場の窓辺で午睡を誘う陽光を浴び、荘厳なアウラを放ちながら静かに悠久の時を過ごす振り子時計を見上げるばかりであった。

「さやかちゃんは、この振り子時計の持ち主から預かった子です。さやかちゃんが五歳の時にその人が肺病で死に、彼の唯一の友人であった私がさやかちゃんを引き取ったんです」

 そこで岬が見せた憂い顔を、僕はどう形容したらいいのだろう。愛する人を埋葬したところに咲き誇る一輪の百合の花が無慈悲な風雨にさらされて根元から折られてしまったのを見下ろす聖女ヴァルバラの美しい横顔か、それとも輝ける日々を閉じ込めたロケットを秋の夕日にかざしながらその思い出に浸る老未亡人ケイトの愁眉不展たる皺顔か……しかしそれでも不十分である。そのような言葉で、岬のその憂い顔を表現するというおこがましい行為は当時の前田連にしかできないことである。その全てを知ってしまった今とあっては、僕がその顔を表現するためには岬のそれまでの経験と同程度の重みを持つ言葉によってしか――つまり、先ほどの軽々しい直喩表現ではなく、語り尽くされた波乱万丈の物語の結語を捧げるによってしか表現することが出来ないだろう。そう、岬のその憂い顔は、僕の血を捧げるべき相手の一つであるには違いない。しかし前田連はここで――この一文を記すに要した二度の喀血でもって、十分に岬に血を捧げたと判断する。それ以上は、さやかのために余分である。

 前田連は、その遠野岬の憂い顔を見てすらいなかった。ただ新たに得られた情報を慎重に検分しながら、その文脈に乗じてさらなる情報を引き出そうと、冷徹に質問を投げたのである。

「その父親の名は、なんていうんですか」

「……天野修平といいます」

 その名前が、スウェーデンに尋ねた野々垣小夜香の両親の名とは違うという事実を前田連は注意深く受け止めつつ、その後で二、三の些末な質問を投げる――さやかの父の名を問うたことは、他の質問と同じく些細な好奇心に過ぎないことをことさら誇示するように。それに答える遠野岬のわずかに歪んだ口の端は意地悪くも見えたし、無邪気にも見えた。

 その歪な時間を背負いながら、やがて二人は給湯室に至る。そこは四畳ほどのスペースに流し台と棚がついているだけの部屋だった。流し台の上には電子ポットと白い粉の入った瓶が赤蓋のものと白蓋のもので二種類が置かれている他はなにもなく、綺麗に整頓されているということ以上の事実を示しているかのように思えた。

「さやかちゃんに持っていくのは、チョコチップクッキー四枚と、ミルクティーです。クッキーはこのお皿、ミルクティーはこのカップに。それをお盆に載せて持って行ってください」

 言いながら遠野岬は棚から次々と、どこにでも売っているようなチョコチップクッキーのまだ封のされている箱、見たことのない銘柄の袋詰めティーバッグ、それから種々の食器に黒いお盆を出して台の上に几帳面そうに並べていく。

「まず紅茶はお湯をカップに入れ、そこにすぐにティーバッグを入れてからソーサーで二分間蓋をしてください。カップは温めないでください。さやかちゃんは熱いのが苦手なので」

 カップには蓋がされていた。

「蒸らしている間にクッキーを用意します。クッキーのお皿の上にはこの懐紙を敷いて、クッキーを四枚並べてください。クッキーは一包みに二枚入っていますので一回に都合二包みを消費することになりますから、ひと箱をちょうど五日間で使い切る計算です。今日と明日、それから田代さんにお願いする三日間でちょうど箱が無くなることになります。計算が合わなければ誰かが――まあ、そういうときは十中八九卓郎君なんですが――つまみ食いをしたということですから知らせてください。こういうことの白黒ははっきりさせておかないと、お互いのためになりませんからね。それからゴミはここに捨ててください」

 言いながら遠野岬は脚元のくずかごにクッキーの袋を捨てる。真っ白の皿の上に真っ白の懐紙が敷かれ、その上に一つも欠けていないクッキーを四個等間隔に並べた。そして四枚のクッキーの載った真っ白の懐紙の載った真っ白の皿を、遠野岬は黒い丸盆の上に乗せる。

「二分経ったらティーバッグを二三回上下に揺らしてから取り出してください。お砂糖は赤い蓋の瓶、粉ミルクは白い蓋の瓶に入っていますので、そこにお砂糖大匙一杯と粉ミルク大匙二杯を順番に入れて掻き混ぜます」

 白磁にアラベスクの意匠が施されたカップの中から二分間お湯に付けられに三回上下に揺らしてから取り出されたティーバッグはゴミ箱に捨てられ、柔らかに湯気立つ紅茶がそこに残った。その中に赤い蓋の瓶に入ったお砂糖大匙一杯と白い蓋の瓶に入った粉ミルク大匙二杯が順番に入れられ、さやかが飲むにちょうどいい温さのミルクティーが満たされ、四枚のクッキーの載った真っ白の懐紙の載った真っ白の皿が載った丸盆に置かれた。そして台の上に残され、一つに二枚のクッキーが入った包みが五つ入っていたが、今は包みが四つになり残りの四日間で全て使い切られる予定のクッキーの箱を遠野岬は棚に戻す――その姿に何とも言えぬ気味悪さを覚え、前田連は尋ねずにいられなかった。

「その手順は厳密に踏まないと何かいけないんですか」

「……これが一番合理的な手順です。別に田代さんまでこれにこだわる必要はありませんが、ただし計量に関してはきっちり守ってください。口に合わないと、さやかちゃんが怒るので」

「…………」

 前田連は、さやかが精神分裂病であるということを聞いてから何となくそういう――つまり自分というものを形作るものとしてのルールがあり、それを他人によって変更されたり踏みにじられたりすることを自己への侵食と捉え、それを極端に嫌がるような――人を想像していたので、それも意外ではなかった。むしろ遠野岬の変質的なまでに定められた動きが、変質的なまでに定められたルールを厳守するよう求める分裂病者のためになされたものだというふうに説明づけられたので、安堵さえ覚えていた。

「普段はものすごく控えめで大人しいいい子なんですけどね、妙にこだわりが強くて、さやかちゃんの中で決まっているルールが守られないことを極端に嫌がるんです。もちろんさやかちゃんの病症にも関係あるんですが、たぶん本来的にそういう性格の子なんだと思います」

 見透かしたようなその言葉を、田代直樹はそうでしょうね、と適当に答えた。遠野岬は田代直樹に盆を持つよう促し、先導して廊下に出た。

 田代直樹は従順に遠野岬の後をついて行く、それこそまるで親鳥の後を付いていく雛のように。雛、赤子。これは人に一番警戒感を与えぬ形態である。しかし聡い人間は、いかにも獰猛そうな親蛇の脇に佇む子蛇にこそ最大限の注意を払うものである。故に、僕は雛の役に徹してはならない。遠野岬が、親鳥の役に徹してはいないように――そんなことを自分に言い聞かせながら廊下を歩く。遠野岬は田代直樹の右前を二歩先を、わき目も振らず真っ直ぐに歩いている。スリッパのペタペタした足音と、コトコトと陶器の揺れる音は空虚に没することなく、前田連の心にまとわりついて煩くその響きを残す。その足音の一つごとに、踏み越えられる廊下の木目の一つごとに、僕は心に緊張の細糸が張り巡らされていくのを感じる。いや、その時は感じていなかったかもしれない、その緊張は、この文章を書きつつある今の僕のものかもしれない。なぜならこの時、遠野岬はこちらを振り向いて「緊張していますね」とは言わなかったからである。そう、その時の前田連は緊張してはいなかった。むしろそれは怪物の眠る巣に向かうヘラクレスの心境であった。……いや、それよりはむしろルーベンスの絵を見るため初めて教会に赴いたネロの心境と言うべきである。違う、それはいまの僕の心境であり、当時の前田連は咸陽に迫りつつある項羽か、ロリータの寝室の扉の前に立つハンバート、あるいはそのどちらもであった。

 遠野岬が立ち止まったのは、例の一枚の大きな鍵付きのドアの前である。補助錠に南京錠が掛けられただけの、本身でぶつかればすぐに壊れてしまうような簡単な錠前だったが、十歳ばかりの少女を閉じ込めるにはそれで十分というわけだ。遠野岬は右手でポケットから鍵を取り出した。そしてそのピカピカした銀色の鍵を、金色の鈍い輝きを発する南京錠の鍵穴に入れ、それを右に回した。ピキリ、という音がして南京錠が外れると、遠野岬はその南京錠をポケットにしまった。

「部屋を出るとき、忘れずに鍵を閉めてくださいね」

 それから少し錆びついた緑色の補助錠の丸いつまみを回して錠を完全に外すと、続いてドアノブに手を当て、それを右に回す。ギィ、と開けられることを拒むような唸り声を上げながら、分厚い木のドアが遠野岬によって開けられた。

 ○


 ついにさやかを描写する時が来てしまった。僕はそれを何よりも恐れていたが、しかしそれは言うなら断頭台を思い描くムルソーの抱く恐怖であり、その恐怖の裏側には贖罪と救済への期待もまた縫い込められているのである。ああ、期待、何より残酷で、何より美しいこの言葉は月の女神ヘレネーのようである。そのために人は生き、そのために人は死ぬ。故に僕はこの手稿のために今を生き、この手稿のために僕は死ぬのだ。この手稿は全てさやかのために存している。さやかのため、このさやかのために僕は現在と未来を捧げるのである。しかし僕は躊躇している。しかし、僕は書かなくてはならない。零に収束する漸近線が零に至るためには、無限遠点を想定しなくてはならない。その無限遠点のために、前田連は書かなくてはならないのだ。しかし僕は怖い。無限遠点の先に、もしも零が存在していなかったらと考えると――あるいは、零に収束すると信じていた漸近線は、その実見栄っ張りの偽物で、無限遠点の最果てで零に至ることなく果てる運命にあるとしたら――それは何よりも残酷な、世界の終わり方ではないか! しかし前田連は、書かなくてはならない。書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、……書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、……書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない、書かなくてはならない……書かなくては、ならない。


 さやかの人形のように飾り立てられた矮躯が広すぎる部屋の中心部で力なくぺたんと座り込んで虚空に向けられるそのダイヤの眼球が送る視線もまた虚ろである。春にほころぶ桜のようにうぶであいらしい色をしたさやかの唇の狭間に存在する空隙は度し難い深淵で顔の中心にかわいらしくちょこんといすわる鼻は退屈そうにあくびする小さなイチゴ、あどけなくまるい輪郭をたどったところにあるその耳は小ぶりで雲のようにやわらかくすべすべした耳朶は僕の小指の先ほどの大きさもないのだがそのくっきりとした凹凸は精巧な指人形を見るような印象を与えそれを懸命に覆うようにしながらシャンデリアの明かりに喜色を湛えてぺったりとつややかにさやかの頭を飾る髪をさらに飾りたてる白地に黒いラインのリボンが拗ねたように沈黙していても、それらにぼんやりとした視線を送るさやかの眼はやはり冬の泉のようにどこまでも透き通った深淵である。スキーのジャンプ台のようになめらかな首元にはフリルが付いた白い布に蝶々結びにされた黒いリボンを巻いたカフスがつけられていてさらにその下の少しでもさやかの真っ白な肌を覆わなくてはならないとばかりに咽喉元まで迫り来ているインナードレスの波打つ黒い布地、胸の辺りについた赤薔薇の意匠が良く映える白いジャケットの中でさやかは冬の枝のような脚を斜め平行に合わせるように崩しておりそっとその膝を隠す白地に黒いラインの入ったスカートには花弁がごとき無数のフリルがついていた。むき出しになった右足の踝には手の甲を少し大げさに包み込む黒いフリルから少しだけその顔を覗かせているみみずのようなさやかの薬指の先についている爪の白いところが触れているがその袖口のフリルの黒い布に覆い被さる袖は肩に近づくに従ってそのラインを徐々に細くしていきながらぴったりと体幹を覆っているさやかのための堅固な白い鎧に合流する。

 僕たちが部屋に入ると、さやかはおもむろに僕へと視線を向けた。あらゆる表層を透過するその視線でさやかは僕の中から「他者」を見て取り、それまで無色透明であったさやかの表情は見る見る白く、硬くなっていった。

「さやかちゃん」

 遠野岬が声を掛けると、さやかはびくりとその肩を震わせた。遠野岬は両手で僕を指し示して言った。

「直樹さん」

 するとさやかは遠野岬を見、それから再びさやかによって示されている僕に目を向けた。それから躊躇いがちにその小さく瑞々しい唇を開いて、小さなガラスの鈴の音のようにか細いながらもよく通る不思議な声で言った。

「まゆみ」

 遠野岬は腰を屈めて視線をさやかの顔の位置と同じところまで持ってくると、その首を横に二往復させて、もう一度、今度は一音ずつはっきりと発音した。

「な、お、き、さ、ん」

「な、お、き、さ、ん」

 そうそう、と遠野岬は頷いた。

「こちらが、直樹さんです」

「なおきさん」

「そう、なおきさん」

 さやかは不思議そうに眼を瞬かせた。まるで、なぜ僕が本名を名乗らないのか訝しんでいるかのように。

「よろしくおねがいしますを言いましょう」

「よろしくおねがいします」

 鸚鵡返しに繰り返してから、さやかは不安そうに遠野岬を見る。遠野岬は頷く。さやかは再び僕に強張った目線を向ける。

「なおきさん」

 そして、ぺこりとその頭を俯けたときにさらりと黒髪が零れる。良く出来たからくり人形を見るような思いで、僕はぎこちない動きで突き出された小さな太陽のようなさやかの白い脳天部分を数秒間見つめていたが、やがてその動作が挨拶であるという事実を思い出し、少し遅れてこちらも一層ぎこちない挨拶を返すことになった。

「よろしくおねがいします、さやかちゃん」

 言うと、さやかは軛から解かれたようにその頭を上げた。それから遠野岬はその腰を屈めたままさやかの側に寄り、さやかの眼を見ながら一音一音はっきりとその言葉を発音する。

「今日はなおきさんがいます。明日からはなおきさんがさやかちゃんと遊びます」

 それを聞くと、さやかはまたぱちぱちと瞬きをした。遠野岬の言葉が伝わっているのか不安になったが、やがてさやかは答えるように口を開いた。

「みさきは」

「みさきは、今日一緒に遊びます。明日はなおきさんが遊びます」

 さやかは再び僕の眼を見る。僕はさやかに微笑みかけたが、やはりさやかはその体を硬くしたまま、白い眼差しをこちらに向けるばかりである。

 それから岬は僕の眼を見て、続けて僕の手元に視線を向ける。それでつられるように手元を見て、僕はやっと手にしていたさやかのおやつの存在を思い出した。まだ少し湯気の立っている茶色のミルクティーに、四枚のチョコチップクッキー。僕は再び岬の眼を見た。岬は頷く。僕は一歩を踏み出した。途端にさやかはびくりとその肩を震わせる。僕は岬に不安の目線を送った。しかしさやかの手を握りながら、岬は大丈夫ですとばかりに再び頷いた。僕はさらに一歩、一歩とさやかに近づいて行った。そしてなるべく僕自身は近づかないよう及び腰に手だけを伸ばすようにして、さやかの前の床におやつの載ったお盆を置いた。さやかは最早僕の方を見てはおらず、目の前におかれたおやつに釘付けである。岬は、今度は微笑を湛えながら頷いたので、僕はそれで一安心して壁際まで下がり、あらかじめ言われていたようにそこでさやかの様子を見ることにする。

 さやかはとても優雅におやつを食べた。まるでさやか自身がその境界を措定するかのように、その目線をじっとクッキーの持つ輪郭の周縁に注ぐ。それからねっとりとした空気を押し分けるようにゆっくりとその手をクッキーへと差し伸べ、酔いつぶれた美しきグルーシェニカの安否を気遣う少年アリョーシャの手つきで以てその白い人差し指と中指の先っぽをちょんとクッキーに触れさせる。するとさやかの指は熱いやかんを触った時のような反射的な動きでその手をクッキーから離す。まだ少しだけ早かったのだ。それからさやかは七秒の時間を置いたあとで再び意を決したようにそろそろと、人差し指だけをクッキーに触れさせる。今度はやかんが熱いかどうかを疑う人の動きで、クッキーに触った人差し指をふっと離す。しかし、もう大丈夫だ。さやかは安心したようにクッキーに人差し指を触れさせ、次に、まるで人差し指では熱く感じないが中指ではまだわからないと疑っているかのような慎重さでクッキーに触れさせ、最後にすっかり意気揚々と親指をクッキーに触れさせるのである。それでもさやかは油断しない。さやかは三本の指に力を込めてクッキーを支えると、それをゆっくりと持ち上げていく。クッキーがすっかり持ち上げられてしまうが、しかしさやかの指の動きはそこでいったん止まる。クッキーはまだ、お皿の上から垂直方向に持ち上げられただけであり、そこはまだお皿の領域である。しかしその垂直方向に持ち上げたクッキーを口に運ぶためには、そのクッキーをお皿の領域から脱出させなくてはならない。それを勝手にやってしまうことへの恐れを保証してもらうために、さやかは岬を見る。岬が慈悲深い目で頷くと、さやかはそれで確信を得たような目つきになってそのクッキーを、完全な中立地帯である空中へと運び出した。ふとした拍子にさやかの力と周りの空気の力とのバランスが崩れてクッキーが粉々になってしまわないように気を付けているかのようなゆっくりとした美しい所作で、さやかはそのクッキーを口へと運んでいった。クッキーが口のところにまで来ると、さやかの口は主人への秘密の来客を確認した門番によって開かれる城門のようにひっそりと開かれる。それは口を開けた拍子に他の何かが割り込んで口の中に侵入してくることを恐れているようでもあったし、口を開けてクッキーを食べようとしていることをあまり知られたくないようでもあった。だからさやかはクッキーが口の中の半分ほどにまで進んだところですぐにその白く小さな歯をクッキーのざらりとした表面に当て、少しずつ力を加えていって歯をクッキーの中に侵入させていき、そうしてクッキーをすっかり噛み割ってしまうのである。その時のボリという音に一瞬さやかは戸惑ったように、クッキーを口に入れたまま目を左右に動かしたが、誰もそのことを責める様子がないので安心してさやかは一旦クッキーを口から離し、今度はまるで母犬に子犬を返すような決然さと躊躇いが混じった動きでクッキーを、今運んできた道筋を逆に辿るようにしたお皿の上方に持ってくると、クレーンが荷物を下ろすようにクッキーをお皿に戻していく。ただ一つだけ、さやかがクッキーをお皿の懐紙に触れさせる時だけはやや緊張した面持ちで慎重に事を運んだが、すっかりお皿にクッキーを預けることが出来てしまうとさやかはすぐにその手を離し、逃げるようにその手を自分の膝の上に置く。それからさやかは、クッキーを噛み割ったきりになっていたその口の動きを再開させ、もくもくとクッキーを咀嚼し始める。最初は躊躇いがちに、やがて調子を掴むように、最後には軽快にクッキーをかみ砕いていき、そうして二十回ちょうど口を動かしたところでさやかは僕にその白くて細い喉を見せるように少しその顔を仰向けるようにして、今しがたかみ砕いたクッキーの細かい一粒一粒が口から食道に移動していく感覚を愛おしむように、ゆっくりと丁寧に呑み込んでいくのである。それからしばらくさやかは作業達成の余韻に浸るようにぼうっと中空にその視線を漂わせていたが、やがてハッと気づいたようにその視線をお盆に向ける。ただし今度はクッキーのお皿にではなく、茶色いミルクティーが静かに揺蕩うティーカップにである。さやかは膝に乗せていた手を少し持ち上げて、手を開いた状態のまま、最初にクッキーを触ろうとしたときのあの動きとほとんど同じようにねっとりとした空気を掻き分けてその手を進ませ、ティーカップの取っ手に人差し指をなるべく触れさせないようにして通し、そのうち人差し指のお腹に取っ手が触れると、そこから接点を増やしていくようにして取っ手を掴むと、次に折り曲げられた中指の甲を取っ手の外側の部分に触れさせた。そうしてさやかはクッキーの時よりもさらに慎重に、少しずつ力を込めていきティーカップを持ち上げていく。だんだんティーカップが取っ手の向こう側に傾いていき、中に入ったミルクティーもその体を気怠そうに傾けていく。あわやミルクティーが零れてしまうというところでようやく取っ手の内側を掴む人差し指と外側から支える中指の間で均衡が保たれた。さやかは手首を少し返してミルクティーの表面を地面と平行にすると今度は垂直方向にそれを持ちあげていき、さやかの口の高さまでくると、それを今度は水平に動かして口元にまで運んでいく。そしてティーカップの縁がさやかの唇をトン、とノックすると、それに応じてさやかの口がわずかに開かれる。そしてさやかは親指を取っ手の上の部分に添えると、今までのどの動作よりも慎重にティーカップを傾けていく。それに伴って体を傾けていくミルクティーがさやかの唇に触れる。ミルクティーの表面に小さな波紋を立たせながら、さやかはミルクティーを口に大目に一口含むとカップを口から離し、上唇に付いたミルクティーを小さな舌の先っぽでぺろりと舐めとると、波を立てないように気を付けながらゆっくりとソーサーの上にまでカップを運び、音を立てないように気を付けながらゆっくりとカップの底をソーサーに触れさせ、カップの体重をまずは少しだけソーサーに預け、ソーサーが崩れないことを確認してから少しずつ力を抜いていき、ついにカップから手を離し、その手を膝の上に戻す。それからさやかはクッキーの時よりはいくらかすんなりと、口に含んだミルクティーを飲み下した。

 それからさやかは少し休憩したあとでまた半分になって少し欠片をお皿の上にこぼしているクッキーの輪郭に目を向ける。それから膝の上に乗った手を少し持ち上げ人差し指と中指と親指をくっつけ、そうして小指と薬指を少し外側に向けて膝の上に乗せるための手からクッキーを掴むための手にすると、今度は軽やかな動きで皿の上まで手を運び、それをクッキー目がけて垂直に下ろし、クッキーの少し上のところでいったん手を止めて、中指と人差し指と親指を広げてから下降を再開し、クッキーに人差し指が触れると、スムーズな動きで三本の指を閉じてしっかりクッキーを掴み、すっかり洗練された仕草でそれを口元にまで運び、ぽいとクッキーを口の中に放り、手を膝に戻し、咀嚼し、ゆっくりと嚥下する。最初の慎み深い所作も魅力的であるが、二枚目三枚目と回数を重ねていくうちにどんどん美しさと軽やかさを増していく所作もまた度し難いほどに魅力的であった。そうして次にミルクティーを手に取った時、もうさやかはマリー・アントワネットのような優雅さと素っ気なさでミルクティーを口に含み、飲むことが出来る。そこでようやく、さやかは美味しそうにその頬を緩めるのである。…………

 そうして、さやかはおよそ十五分を掛けておやつを食べてしまう。その様子を岬は何も言わず一切手を出すこともなく、ただその動作の一つ一つを――一つ一つの指の少しずつの曲がり具合、その喉の動き、唇の開きを食い入るように見つめていた。今や僕は確信している、岬は間違いなく、その動きに見とれていたのだと。それはキリストをみる聖ペテロの恍惚であり、孔子と議論を交わす顔淵の陶酔である。

 それから二人は、何かのごっこ遊びを始めた。といっても二人とも床に座ったまま、言葉だけで何かを演じているようである。僕はそのときのさやかの汚れの一つもない、故に自分の醜さを打ち抜くような残酷さを備えた笑顔を、それを構成するさやかの顔のパーツの一つ一つの微妙な変化を、そして世に生きるにはあまりに透明に過ぎるその声で発せられる清らかな言葉の一音一音と、それに伴って楽しそうに遊び回る手の動きと髪のうねりを見ることに夢中になっていたため、二人がどれだけの時間、どんな言葉を交わし合っていたのかはわからない。ハッと気づいた時には既に二人はごっこ遊びを止めてしまっていた。そしてさやかは僕に背中を向けるようにして、向かいの壁にはめ込まれている大きな一枚の鏡を前に、重苦しくも空虚な沈黙を守っていた。僕はさやかの後姿と鏡に映ったさやかの前姿とを舐めまわすように見入った。鏡の中のさやかの目線は決して僕の方に向けられることはないが、それで僕はなぜか安心した。先の比喩に重ねて言えば、それは弟子を従えて街道を行くキリストを二階の窓辺から見下ろしながら淫蕩に耽る、憧憬と快楽とに引き裂かれる娼婦の心情である。さやかの黒絹の髪の狭間に見える可愛らしいうなじ、こちらに向けられて驚くべき白さを誇る足の裏、耳の裏、無垢なる瞳に、僕は思う存分視線を注ぐことが出来たのである。

 突然、さやかは両手で自分の体を抱くようにして体を震わせた。すると岬は立ち上がり、部屋の一隅から真っ白なカンバスと絵具を持ってきて、カンバスをさやかの前に置く。さやかは鏡からカンバスの方に視線を移した。すると体の震えは止まる。さやかが食い入るようにカンバスを見つめている間に岬は絵具を使えるように準備して、さやかの前に置いた。歪んだ雲のような形のパレットに用意された色は、赤、青、黄色の三色だけである。それをさやかは岬から受け取り、おやつを食べていた時のあのたどたどしい所作とは打って変わり、見えない何者かに操られているような迷いない手つきで筆を操る。絵具を混ぜて適当な色を作り、絵具を付け、カンバスに色を走らせていく。最初に走った色は、赤色だった。絵具が混ざるのも気にせずに、さやかは続けて青の絵の具を絵筆に付けてカンバスに色を付けていく。最初は青色、次第に紫に、そしていつの間にか赤色に。適当なところで今度は赤を足しては筆を繰り、黄色を足しては筆を繰り、青を足しては筆を繰り――その動きは屈託なく筆で遊んでいるだけのようにも見えるし、筆を動かすその度ごとに様々な可能性の中からただ一つの正解を絶えず選びとり続けているような危うい作業の積み重ねのようにも見えた。

 ――四回繰り返された軽快な金属音。さやかの世界に没入していた僕たちには一瞬それが何なのか理解することが出来なかったが、遠野岬がふっとこちらを振り返ったのを見て、前田連はその音が現在時刻四時を告げる柱時計の鐘の音であることに気付いた。遠野岬はさやかの空間を破壊しないように気を付けてそろそろと立ち上がったので僕もそれに倣って立ち上がり、田代直樹もその後に続くように二人して部屋を後にした。

 その後遠野岬とどんな言葉を交わしたのかは覚えていない。部屋を出た僕の記憶が次につながるのは、またあの生まれ落ちたばかりの赤子のようなさやかのまっさらなその顔が僕にじっと視線を注いでいる映像である。そうだ、僕はその時、さやかに改めて自己紹介していた。遠野岬がそうしていたように、僕もまた自分を意味する仮面の名称を一音一音に分解し、それらをはっきり発音したのである。ま、え、だ、れ、ん。いいや違う、これはまださやかに名乗ったことのない名だ。さやかに名乗った名前はこれだ。な、お、き。しかしさやかにとって名の一貫性に価値はない。何しろさやかは、様々な名前を遍歴する存在なのだ。今やさやかはおやつを食べ終えていた。おやつを食べ終えたさやかは、ティーカップとソーサーを、お盆の上でカチカチと鳴らしながらあちこちに置いてみる。その時のさやかは一番良好な姿勢を模索して体を奇妙に揺すぶるゴルファーだ。そして次にさやかはこういうのである。

「ねえあなた、わたしね、らふーせるを食べると元気な子どもを生めるとおもうの。けれどらふーせるを食べなくては、きっとわたしはしんでしまうわ」

 もちろん僕は初めてそんなことを言われたとき、面食らって何を言えばいいのかわからなかった。それにその時の僕には、「らふーせる」が「ラプンツェル」のことであるという、少し考えればすぐにわかるだろうことすらもわからなかったのだ。しかし次第に僕はさやかのその発言には何の作為もなく、たださやかは様々な存在を遍歴しているのだということがわかってきた。その時さやかはゴルファーであることを止め、魔女ゴーテルの庭に生えたラプンツェルを食べたがる妊婦になったのだ。さやかの言葉への答えとして「さやかはラプンツェルが食べたいんだね」と言ってはならない。それなら沈黙を守った方が良い。また、「そうは言うけど、ゴーテルは恐ろしい魔女だからラプンツェルを盗んだことがわかったら途端に仕返しに来るに違いない」と言うことも、あまり望ましくない。なぜならさやかは妊婦の台詞を言い終わった次の瞬間にはもう桃太郎の翁になっているかもしれないし、舌を切られた可哀そうな雀になっているかもしれないからだ。だから一番望ましい答えは、例えばこのようなものだ。「ねえアリス、カラスと書き物机が似ているのはなんでか知ってるかい?」そうするとさやかはきっと嬉しそうに、例えばこんなことを言うだろう。「ええ、それはそれは素敵なところですわ、博士」。そうすれば僕はこう答える。「そうか、それならその竜宮城とやらに連れて行ってもらおうか」――お話のスクラップ。切り取られてもはや息絶えた断片はさやかの綺麗な手によって、今度はきらきらした命を授かるのである。その素晴らしい創生の神話に対し、その時の僕はなんとたどたどしい受け答えをしたことか! 僕はさやかの創世記に加わる資格も無く、ただ間近でその価値も知らぬままにぼうっと眺めていることしかできない愚かな野次馬であったのだ。そんな僕にも、さやかはその無垢な優しさを振りまいてくれた…………


 ○


 小説を続けなくてはならない。三日目にしてようやくさやかは僕のことを怖がらなくなり、四日目にはついにさやかはお皿に残ったクッキー一枚を、岬にしていたように、僕にくれようとしたのだ。僕はその優しさに――否、その優しさが僕に向けられたというその事実に感激しながらもそれを丁寧に辞退し、さやかがそのクッキーを少し躊躇いながらも口に運ぶ仕草をうっとりとして眺めていたのである。五日目にしてようやくさやかの遍歴するその度ごとの生を歓待することを僕は覚え、いよいよ僕はさやかの世界だった。

 学会自体は六月十日で終わったのだが、六月十一日以降も遠野岬は後処理が嵩んでいるとのことでしばらく僕がさやかの面倒を見ることになった。僕はさやかと共に過ごす時間に無上の喜びを覚えたが、それをさやかの虜になっていたということはできない。さっきもいったように、あくまで僕は、そして岬はさやかの世界であっただけだ。そしてそこに没入することに無上の喜びを感じた、ただそれだけのことなのである。

 その夢のような日々は、一本の電話で容赦なく破壊された。さやかと出会ってから十日が経った六月十五日の夜、清田清十郎から進展を尋ねる電話が掛かってきたのである。正直前田連はそれを聞いて、まるでさやかの生き生きとした魅力的な――唐突な言葉を初めて聞いたあのときのようにすっかり面食らってしまったので、とっさに前田連は誠実に時を過ごしてきた探偵を演じようとして言った言葉は、このようなものであった。

「さやかに肉親はいません」

 その言葉を、恐らく清田清十郎がは「遠野清花の肉親の行方が分からない」と解したのだろう。それを聞いて、清田清十郎は不満を隠そうともしなかった。

「前田連は有能な探偵と聞いていた。しかしそれがどうだ、人の行方もわからないのだ。前田連は自分の名声に甘えすぎではないのかね、謝礼は十分すぎるほど支払っているのだから、前田連の清田清十郎に対する奉仕もまた十分すぎるほどでなくてはならない。あと一週間だけ猶予を与える。六月二十二日までにどうにか両親の行方を捜し出せなければ、もう前田連との契約はなかったことにして他の有能な探偵に依頼する」

 有能な、に力点を置いて清田はこのようなことを一方的にまくしたてた。前田連は出来るなら即座に「ではそのようにお願いします」と言いたかったのだが、しかし前田連の口から衝いて出た言葉は、「必ず一週間以内に突き止めてみせます」という忠実なしもべを装った決定延期の言葉であった。前田連をしてそのような言葉を言わしめたのは、もはや前田連自身と一体化していた、そして今やすっかり無色透明に粉砕されていた探偵という仮面の名残か、人間としての意地か、それとも遠野精神病理研究所に、さやかの元にいる口実が無くなることへの恐れかはわからない。たぶんいずれも合っているといえば合っているのだろうし、違うといえば違うのだろう。言葉とは恐ろしいものだ。自分の心の中で全く思ってもいないことであろうと簡単に言うことが出来るが、一方でそれは自分という全存在を拘束する。その本来の軽さに対してあまりある重みではないか。

 とにかく、そうして前田連は一週間という刻限を定められてしまった。しかし、やるべきことは簡単だ。もう野々垣家との連絡は取れているのだから、後はさやかから髪の毛を分けてもらえさえすればいいだけだ。ここのところ遠野岬はいくらか田代直樹に気を許したようであったから上手くやればそう難しい話ではないと考えて前田連は心を探偵という鎧で塗り固めて遠野岬の隙を窺うことにした。

 しかしそうすると、翌日の遠野岬は敏感に前田連の心の変化を察し自らの心を、同じく鎧で塗り固めてしまったかのようにその態度を豹変させたのである。柔らかな物腰の裏には常に何かしらの意図が垣間見え、ふと気が付けばこちらの手元をじっと睨みつけていることもある。しかし、そうかと思えば遠野岬は屈託なく笑って見せたり、気を許したような和んだ視線を送ってきたりするのである。前田連と遠野岬の間には再び抜き差しならぬ緊張した空気が流れ出したが、しかしその感覚は最初の頃のあの感覚とは決定的に異なるものであった。今や僕たちは互いに言外の意を、時に的確に推測し、時に誤って想定し、時に見当違いの邪推をしてしまう。そして自らが邪推をしてしまうというその事実は、そのまま向こうもまた邪推をするかもしれないという邪推を導き、その不明瞭さに前田連、あるいは遠野岬は常に最悪を想定しながらさらなる邪推を続けるのである。遠野岬は妙に田代直樹を避けるようになった。それは間違いなく前田連が自分の心に何かを問うことを止めたからなのだろうが、律儀にも遠野岬は「次の学会で発表する論文の執筆のため」という建前を作り、立会いが必要な研修や難しい患者の診察、それから諸事務をするとき他は研究室にこもりがちになってしまった。そして前田連にとって致命的だったことは、さやかのことは真弓さんに任せ、前田連はもはやさやかと会う事が出来なくなってしまったことである。研修は症状のわかりやすい他の患者たちの立会い診察や体操、リハビリの補佐、本の読み聞かせなどを日中にこなし、後はカルテの整理や清掃(清掃は常に大野真弓と共に行うため、僕はゴミから試料を取ることもままならない)を行うというルーチンワークが形成されていた。もはやその時の前田連にとって、それは苦痛以外の何者でもなかった。

「さやかちゃんの描いた絵は、どこにしまってあるんですか」

 六月十九日、真弓さんの清掃の手伝いの最中、ただ間を持たせようと話題を繰る研修生を演じ、田代直樹は真弓さんにそんなことを聞いた。確かさやかとの触れ合いが始まって六日目、さやかがカンバスに絵を描いていたのを不意に止めてしまったことがあった。「もう書かないの」とさやかに言ってもさやかはぱちくりと僕の顔をみるばかりだったのでそれで僕はその絵が完成――否、さやかにとってもう手の付けようがなくなってしまったということを悟り真弓さんに連絡したところ、真弓さんは新しい真っ白なカンバスを持ってきてくれ、古いカンバスはどこかに持って行ってしまったことがあった。

 僕の唐突な質問に真弓さんは動じることなく、箒をてきぱきと動かしながら端的に答える。

「全て取ってあります」

 田代直樹は真弓さんに後れを取らないようにモップを繰りながら引き取って言う。

「どこにとってあるんですか?」

「あなたには関係のないことです。確かにあなたにはさやかさんのお世話をお願いしていますが、所内の管理に関することまでお話することは出来ません」

 突き放された言い方に、田代直樹は沈黙を余儀なくされる。それで少し言い過ぎたと思ったのか、真弓さんは補うように言う。

「もし気になるのでしたら所長に尋ねてみてください。私からはお話しすることが出来ない、ということです」

 真弓さんの冷たいような言い方は、単にその生真面目な性格ゆえである。そのことを田代直樹は前々から知っていたはずなのに、前田連は真弓さんの言葉から敵意を感じていた。また妙な邪推をしてしまったと自己嫌悪に陥りながら、田代直樹は真弓さんに「ありがとうございます」と言った。

 その日の夕食が終わるとすぐに研究室に戻ろうとする遠野岬の背中に、田代直樹は「すみません」と声を投げた。遠野岬はぴたりと体をとめ、くるりと体を回し、無機質な声で答えて言う。

「なんでしょうか」

 日課から外れて言葉を交わしたのはそれが久しぶりの事であったが、その零度の冷たさに前田連はさして驚くでもなく続けた。

「さやかちゃんが今までに描いた絵を見たいんです。見せてはくれませんか」

 それを聞いた遠野岬は、審査でもするようにじいと田代直樹の眼を見た。それは間違いなく、意外なことを言われて戸惑っているような振りをして、田代直樹の唐突な言葉の裏に込められた意図を探っている眼であった。やがて遠野岬は口を開いた。

「どうしてまた?」

 その言葉の裏に込められた意図を見つけることが出来ず、遠野岬はそう言った。それも当然である、僕自身、なぜ自分がさやかの絵を見たいと思っているのかわかっていなかったのだ。その言葉はとりあえず沈黙に代わる時間稼ぎとして発した言葉かもしれないし、あるいはその理由として僕が答えて妥当なことを言うかどうかを一つの判断材料として引き出すべく発した言葉かもしれないが、いずれにせよそんなところだろう。遠野岬が少し悔しそうに唇を噛んだように見えたが、田代直樹は気にせずに言った。

「好きだからです」

 僕の言葉の射程がどの程度にまで及ぶのかを図りかねるように、遠野岬はことさらにゆっくりと言った。

「そうです、か」

 それは迷っているようにも見えたし、迷っている振りをしてなにか考えているようにも見えたが、そのどちらなのかは判然とない。

「……別に構いませんが。案内します」

 遠野岬は研究室に向かった。そこで鍵を取ってくると、そのまま研究室の隣にある扉を示して、「この中に、さやかちゃんが今まで描いた絵が取ってあります」と言った。田代直樹はそれまでその部屋は資料室か何かのように勝手に思っていたので少し意外に思いながら、遠野岬が躊躇いがちにその鍵を開ける様子を眺めていた。

 ギギィ、と金属のすれ合う音を立てながら扉は開いた。その音が、長い間使われていないが故に不意の運動に蝶番の軋む音ではなく、頻繁に開け閉めされて摩耗した蝶番がこすれ合う音であるということが、まるでどこからか情報が流れ込んできたかのように了解された。

 中には宵闇に静まり返る深淵が広がっていた。ドアが開かれたことで差し込む一条の光によってその眠りを揺り起こされた暗闇は、寝起きの不機嫌さでもって中の様子をうっすらとしか明かさない。

「明かりは右手に」

 僕は暗闇に顔を向けたまま右手を壁に這わせる。壁から身を起こしているプラスチックの手ごたえを感じ、前田連は力を込めてそれを押した。パチリ、というスイッチの入る音だけが闇に消え、白々しい沈黙が数秒流れた後でようやく、ヴォォ、という音と共に玲瓏な蛍光灯がついた。それで、そこにあった無数の死骸の存在が露わになるいや、それらは死骸ではない。口も手も足も目も耳も皮膚も乳房も性器もない、生き生きとしたただの身体が無数にあった。壁掛けになっているカンバスもあればただ壁に立てかけられただけのカンバスもあるし、無造作に投げ置かれたカンバスもあった。僕の足はふらふらと導かれるように、床のカンバスを避けながらその部屋の中に入って行った。その中に書かれているのは全て、器官のない身体である。その無造作に置かれた可哀そうなカンバスの一つに、今日さやかが完成させた、あの鮮やかな色彩と幾何的な紋様で構成された絵があった。そこにある絵の中で、どれ一つとして同じものはない。ただしそのいずれにも、鮮やかな色彩の背景(と便宜上呼称しておく)が共通していた。そこから疎外されるように埋没し、隠蔽されるように隔絶されている存在の輪郭。あるいは殺人事件で死体の様子を縁取る線のような形で、あるいはただの一個だけの丸、丸と四角を合わせたもの、棒人間のようなもの、丸を五つ重ねたもの、はっきりとした顔の形、白い四角から五本の肌色が飛び出ているもの、誰もがそう認識するであろう明瞭な「身体」の形……前田連は悟った。目の前に存在しているカンバスの集合を、一枚一枚の絵としてみなしてはならない。この部屋そのものが一つの額縁であり、中に入っているカンバスはその集合で以て一つの偉大な作品をなしている。この部屋にある全てが、移ろいゆく自分の輪郭をその度ごとに捕らえようとするがその度ごとに違う輪郭が立ち現われてくる分裂の戦慄すべき表現なのだ。僕はほとんど気が狂いそうになった。同時に前田連は、それまでに感じてきたあらゆる快楽を遥かに凌駕する、凄まじきまでの快楽を感じた。あらゆる葛藤が、そこにはない。なぜならそこらでこちらに微笑みかけているさやかたちは、全能なのだから。

 ――ガタリ、という音がした。田代直樹はその音をつい数時間前に自ら立てたばかりであるから、それがこの部屋の前にある、清掃道具の入ったロッカーを開けた時の音であることにすぐ気付いた。脳裏をよぎった、金属のイメージ。前田連は即座に一つの可能性をぼんやりと了解した、すなわちモップの金属部で桃のようにやわらかい頭部を殴られ、柘榴の脳漿、トマト汁の血に伏せる自分の姿と、背後でモップを手に、泣きそうな目で前田連を見下ろす遠野岬の映像。

 背後に、そして後頭部の上のあたりに、田代直樹は濃厚な気配を感じた。振り向いてはいけないことを、前田連は知っていた。振り向けば、間違いなく殺されるという奇妙な確信があった。今思えばそれはつまり、多分、前田連も前に同じようなことを考えたことがあったからだろう。

 前田連はついに振り向かなかった。やがて背後の気配は遠ざかり、再びガタリという音がした。田代直樹はそこでようやくその物音に気付いたかのように振り返った。遠野岬がロッカーの前に立って、嫌悪を隠そうともしない、泣きそうな目で僕を見ていた。

「床でも、汚れていたんですか」

 ええ、と遠野岬は冷たい声で肯んじた。


 ○


 確かにあの場所では、結果的に前田連は殺されなかった。いや、そもそも遠野岬が前田連を殺そうとしたのかどうかを客観的に確かめる術すらないのだが、しかし問題はその事実関係ではなく、その可能性に前田連が思い至ったという事実である。前田連がその可能性に恐懼したことで、生存本能が「やられるくらいならいっそその前にやってしまえ」という考えに前田連を至らしめたというその事実こそ、真に恐懼すべき事実なのだ。前田連がそう考えたということは、遠野岬もまた、前田連がそう考えるかもしれないと考えていたとしても何ら不思議ではない、何しろ前田連には、遠野岬を殺すに足る客観的な理由、あるいは根拠がある。前田連が欲しいのは、ただ、遠野岬の右ポケットに入っているあの鍵である。そしてそれを僕が欲していることをもちろん遠野岬は知っているはずであるし、そのような状況にあって脅迫の二字を脳裏に思い浮かべないでいるには、あまりに人の歴史は野蛮である。そして遠野岬が最終的に前田連と同じ結論――やられるくらいなら、いっそその前にやってしまえという考えに思い至っていたらないことが、どうしてあるだろうか。そして、遠野岬がその考えを反省し、邪推でそのような野蛮な行為に及ぶことは出来ないと良心的な判断を下すか、それども思考をそこで止めて行動に移そうと暴力的な判断を下すかどうかはどうあっても前田連にはわからないのである。わからない以上、常に最悪を想定せずにいられないのが人間だ。このままでは、前田連か遠野岬か、耐え切れなくなったどちらかが、そのうちもう一方に恐るべき暴力を行使することになるだろうという漠然とした予感は、徐々に明確な殺意として互いの仕草に――あるいは自分の中に実感されつつあったのである。


 そして――ああ、出来るなら、僕はもうこれ以上書きたくはない。

 端的に記す。六月二十二日、さやかは失踪した。いつも部屋の真ん中でぺたんと座っていたさやかは、一度もその部屋から出たことがないというさやかは、その部屋から、忽然と姿を消していたのだ。、部屋の中心には一枚の絵があった。それは不思議な絵だった。絢爛な白い衣装を纏ったさやかの容姿をそのまま写したかのようなさやかの姿が小さ目に描かれていて、その周囲には無数の丸や四角、線が散らばっている。そして彼女たちは隙を伺っては相手の輪郭を奪おうとし、互いに侵食し合う色彩の混沌に押しつぶされそうになりながら、そこから疎外されているのである。

 そしてその傍で、大野真弓が天井の柱に縄を掛け、首を吊って死んでいた。蹴り倒された椅子(その部屋には椅子はなかった。違う部屋から持ち込まれたものだった)は、割れた鏡の前に転がっている。飛び散ったガラス。鏡面の銀メッキはひび割れて鏡の枠の中に残り、呆然と立ち尽くす僕と岬の姿が映し出されていた。鏡の右の傍の壁際には折れた絵筆と、前田連が持ち込み、伊波卓郎の手に渡ったペンナイフが、折られた切っ先を無様に晒しながら落ちていた。それを見て僕は、一昨日からいなくなっている伊波卓郎が、もう二度と帰ってくることはないだろうことを確信した。

 その悲惨な光景を前に、僕たちは一切を了解した。岬が、僕のすぐそばに寄ってきていた。僕たちは互いに顔を見合わせた。僕たちは笑い顔と泣き顔を掛け合わせたものに絶望の色を添え、希望の薄いフィルムを表面に張ったような、そんな表情をしていた。言うまでもないが、僕と岬は結婚することになる。そうしなければ、大野真弓のように真摯に生きるために死ぬしかない。もっともそれは、単なる決定延期の処置に過ぎなかった――それは今だから言えることだ。少なくともそれから十年間、僕と岬は全力で夫婦に埋没しようとすることに失敗し続けることになるのだから。

 僕は、もうこれ以上を語らない。なぜならこれから先はもう可愛いさやかには関係のないことだからである。代わりに、岬の手記を最後に引用しよう。ちなみに、卓郎は午前中にさやかに本を読み聞かせをしていたという。そしてその後、よく物をあげては岬に取り上げられていたようである。


『六月十九日、さやかが発作を起こした。前兆は何もなかった。夜中、カツン、カツンと音がするのに気づいて部屋に行ってみると、さやかは鏡に向かって、鏡に映ったさやか自身の像に向かって、ひたすらナイフを突き立てていた。そのナイフは卓郎が渡したのに違いない、よく叱らなくては。■■■■がいなくて良かった……』



【編集者注1】

 本稿は全て、二〇十一年六月十五日に末期癌で死亡した精神病患者前田連氏の遺したノートに拠る。一部に不適切な表現や明らかな書き間違いと見られる箇所が多々見受けられるが、出来る限りこのノートそのままを掲載してほしいという本人の遺志に従い、一切手を加えずに掲載する。

【編集者注2】

 本稿の冒頭に掲げた序文は前田氏のノートに挟まれていた紙片に記されていたものであるが、破り跡から同ノートの一ページ目に書かれていたものであると推察されるため冒頭に掲載することとしたが、それに関して異論もあったため特別に注を付すこととする。


感想をいただけると幸いです。批評をいただけるともっと幸いです。


さやか可愛かった?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 愛情に狂い、本来の目的を忘れてしまう人間の有様がこの小説のテーマだということがよくわかります。 一見投げっぱなしに思えるような最後の展開も、さやかという一人の少女を愛したがゆえに、精神を病…
2014/04/06 01:59 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ