オオカミさんは正直者
遅くなりました。
それではどうぞ。
――してはダメよ。いいわね、スラ。あなたは、スラ。そう、答えるのよ
――いで。泣かないで。可愛い可愛い、私のスラ
ふ、とスラの瞼が何の前置きもなく開いた。霞む視界をクリアにするために数回緩慢な瞬きをすると、目尻から温かな何かが零れる感覚があって、数秒遅れてそれが自分の涙だと気が付いた。
(何で、泣いてるの?)
自分の体のことなのに、スラにはその理由が分からなくて頭を捻る。
(……そういえば、何か懐かしいような悲しいような夢を見た気がするから、ひょっとしたらそれのせいかもしれないな)
スラはその夢を思い出そうとするが、残念ながら欠片も思い出せなかった。泣くような夢なのだからきっと良い夢ではなかったはず、とすぐに諦めたスラは、現在自分が置かれている状況把握に努めることにした。
(えーと、ここは……どこだろう?とりあえずベッドに寝かされているみたいだけど……そもそも、僕はいつ寝たんだ?確か、地下に連れて行ってもらって、宝物を選んで、それから……)
「スラよ、起きたのか?」
記憶を辿っていると、すぐ側でナイシュの声がした。
驚いてスラが声の方を向くと、ベッドに首を乗せたナイシュがいた。朝日に照らされたナイシュの白銀の毛は眩く輝いていて、スラは少しだけ目を細めた。
「ナイシュさん?」
「あぁ、おはよう、スラ」
「お、おはよう」
どこかほっとしたようなナイシュの顔に戸惑いつつも、スラは挨拶を口にして上半身を起こした。
「僕、いつの間に?」
陽はすっかり昇ってしまっているようで、部屋の中は昨日と違い随分と明るかった。そのお蔭で、昨日は気付かなかった部屋の敷物の模様や家具の装飾までしっかり見ることが出来て、陽の下で見れば幽霊屋敷のようなこの屋敷も、普通の古い屋敷のようだった。
「……覚えてないのか?」
「地下で『宝物』を見に行ったところまでは覚えているんだけど……」
「そうか……『金庫』を見ている時に、急に体調を崩したのだ。それで、ジャックと共にここへ運んだ。どこか、痛いところはないか?」
「ううん。ありがとう、運んでくれて。……ジャックさんは?」
こういう時に真っ先に飛んできそうな男の姿が見えないので不思議に思ってスラが聞くと、ナイシュは言葉を濁した。
「ジャックは、少し出ている。もうすぐ帰ってくると思うのだが……」
「そうなんだ」
何となく腑に落ちないものを感じながら、取り合えずスラは頷いておく。彼らのプライベートにまで口を挟むべきではないと思ったのだ。
(ちゃんとお礼を言ってから帰りたかったけど)
いないのであれば仕方がないとスラは諦めて、ベッドから降りた。そして、大事な物を思い出す。
はっと辺りを見回し始めるスラが何を探しているのか、気が付いたナイシュが声をかけた。
「ネックレスならば、そこのサイドボードの上だ」
見れば、そこには昨日3人で選んだネックレスがあった。「ありがとうございます」と言いながらスラはそれを手に取る。ずっしりとした重さがそのままこのネックレスの価値を表しているようでスラは少し気が引けてしまうけれど、これを持って帰らなければスラの命にかかわる。そっと、ネックレスをズボンのポケットに滑り込ませた。
「……本当に、ありがとうございました。このご恩は」
「スラよ、腹は減っていないか?」
スラの別れの挨拶をぶった切るようにナイシュの問いかけがやってきて、その意外な行動にスラは面くらって「え、あ、はい」と素直に答えてしまった。
「そうだろう、そうだろう。何せ今は昼近くなのでな。腹も減るだろう。少し待っていろ。何か食べれる物を持ってくる」
「え、あの」
結構です、と続けようとしたスラの制止の声を振り切るように、ナイシュは目にも留まらぬ速さで部屋を飛び出していった。
モシャモシャと、目の前の山のように積まれた果物を咀嚼しつつ、スラは「待て」の状態で待機しているナイシュに目を向ける。ピンとした背筋は凛々しげで、流石伝説と言われる生き物だと思うのだが、キョドキョドと落ち着かない彼の目がそれを台無しにしていた。
ナイシュはスラが自分を見ていることに気が付くと、慌てて立ちあがる。
「どうした?不味かったか?すぐに新しい物を――」
「いえ、大丈夫です」
これもすでに数回繰り返しているやり取りだった。
(一体、どうしちゃったんだろう?)
とにかく落ち着きがなくオドオドしていて、時たま外の様子を伺うように耳が窓の方を向いていた。
「……あの、ナイシュさん」
「なんだ?!何でも言うと良い!」
反応速度、0.1秒。
これは、スラでなくとも不審に思うだろう。
「何か、心配事でもあるんですか?」
「な、何を言う!私は別に、何も待ってなどいないぞ!」
(……待ってるんですね)
「そうですか……でも、何だか落ち着かないようですし」
「そんな事はない!私は、いたって冷静だ。いつも通りだ。疾しいこともないし、後ろめたいこともないし、時間を稼ごうなどとも、思っていないぞ!」
彼が『番犬』で大丈夫だろうか、と思ってしまったスラだった。
当然、そんなことを本人に向かって言うことも出来なくて……
「はい……」
弱弱しく返事をしておいた。
そんな返事でもナイシュをほっとさせるには十分だったようで、彼は疲れたようにうつ伏せの姿勢になり小さく息を吐いていた。
その隙に、スラは部屋の壁時計へと素早く目を向ける。
針は昼を少し過ぎた時刻を指し示していた。その時刻に、スラは少し焦りを覚えた。
(まずいな……もう出ないと、陽が暮れる前に森を抜けられない)
帰りは目的地がはっきり分かっている分行きよりは速いだろうが、それでもギリギリの時刻だった。
スラは果汁でベタベタになった手を拭った。その動作にナイシュが慌てて立ちあがり食後のお茶を勧めてきたが、スラは丁重にそれを断った。
「ありがとうございます。でも、もう行かないと……陽が落ちる前に森を抜けられなくなりますから」
「……もう一泊していってはどうだ?スラの主も、こんな処に送りこんだのだから、すぐに帰ってくるとは思っていないだろう」
とても魅力的な誘いに、しかしスラは拳を握って耐えた。スラにとって、それは甘い毒のようなものなのだ。
人は、良くも悪くも慣れてしまう生き物だ。辛い環境しか知らなければ、それが日常になり普通になり、耐えることができる。しかし、少しでも優しさや甘さを知ってしまえば、今まで耐えられたものに耐えられなくなってしまうのだ。
もう、スラは優しさを享受してしまった。甘さを知ってしまった。きっと、村での生活を苦痛に思うだろう。これ以上ここにいては、自分は生きていけなくなる――スラはゆっくりと首を横に振った。
「……帰らないと」
言葉が喉に引っかかって、その言葉は消えそうなほど小さかったけれど、ナイシュの耳にはきちんと届いてくれたらしい。
「……そうか」
低く、そう呟いて、ナイシュはスラを引きとめることを止めた。それを、少し残念に思う自分がいて、そんな自分を振り切るように、スラは一歩踏み出した。のだが――
「では、森の外れまで送ろう」
その言葉に、踏みだした形のままスラが止まった。
驚いた顔をするスラに、ナイシュはどこか怒ったように言う。
「何を驚いている?昼でも魔物が出るのだ、当然だろう」
「で、でも――」
「私はスラの主のように、幼子を一人危険な森に放り込むような非常識且つ非道なことはしない」
ピシャリと言われて、スラは遠慮しようとした言葉を飲み込むしかなかった。
それを確認して、ナイシュはスラに背を向ける。乗れ、といわれているのだと理解は出来たが、しかしここはまだ屋敷の中だ。いかにスラが軽いとはいえ、一応重さはあるのだ。なるべく背負う時間は短いほうがいいだろう、と思ったスラが「外に出てからでいいです」と言うと、ナイシュは眉間に皺を寄せた。
「それは、私の仕掛けた罠ごときに引っ掛かる訳がないと、そう言いたいのか?」
屋敷の罠にことをすっかり忘れていたスラは慌てて首を横に振り、ナイシュの背に跨った。
「落とさぬよう注意はするが、しっかり摑まっているのだぞ」
「はい!」
ぎゅっと首に回された腕に力が入ったことを確認して、ナイシュはそろりと動きだした。
読んでいただきありがとうございました。