僕は迷子じゃありません
かつて、この国にはデルサトという魔の賢者が居た。人間ではありえない程の魔力を持ち、それを自在に操るその人を人々は畏れ敬っていた。戦が起きれば彼の者に助力を求め、人々の真摯な態度に、デルサトは快く力を貸していた。しかし、人とは良くも悪くも慣れてしまう生き物だった。
いつしかこの国の人は、デルサトの力を自分たちの力だと勘違いしてしまう。それに怒りを覚えたデルサトは、魔物の巣くう西の森に屋敷を建て、強力な番犬に屋敷を守らせ暮らすようになった。そして、魔の森に足を踏み入れ、番犬と戦う程の意思と覚悟を持った人間にのみ、力と知恵を貸すようになったのだ。
それは、今から600年前の話。
すでにデルサトはこの世に居ない。
しかし、彼が作った屋敷と番犬は、今も生き続けていると言われている。
もし、魔の森を抜け、屋敷に辿り着き、番犬に認められれば、番犬はその者の大切な物を屋敷の中で守り抜いてくれると、言い伝えられている。
それは、一種の伝説。
それは、一種のお伽噺。
けれど、嘘ではない。
人々は口を揃えて言う。もし、誰にも取られたくない大切な物があるのなら、命を賭してでも守りたい宝物があるのなら西の魔の森にあるデルサトの屋敷へ行け、と。
そこは、世界で一番安全な『金庫』だから、と。
「ごめんください」
スラのアルトの声が、夕闇に染まる屋敷の中へと吸い込まれた。生き物の気配のない屋敷。奥に行くにつれ闇が濃くなっていく様は、まるで巨大な魔物の口のようで、無意識のうちにスラの喉が鳴った。
意識しなければ震えてしまいそうになる足を叱責し、スラは奥へと進む。一歩踏み出す度にギシギシと床板が悲鳴をあげ、その度にスラの細く頼りなげな肩が跳ねたが、それを気にしている余裕はスラにはなかった。
いつ番犬が出てくるかと、スラは気が気ではない。なにせスラはナイフの一本も持っていないのだ。出会った瞬間に喉を噛みきられでもしたら、それで終わりだ。
(どうか、番犬が僕の姿をしっかり確認してくれますように)
スラはただひたすらそう祈っていた。
永遠に続くかと思われた長い廊下を端まで歩ききり、スラは目の前のドアをノックする。それはほぼ無意識での行動で、いうなれば体が覚えていた習慣だった。無人の屋敷で、ノックに対する許可があるはずがない。だからスラ自身自分の行動に呆れて、苦笑を洩らしたのだが……
「はーい」
……ん?
スラの思考回路が停止した。
今、確かに男の声がしたような気がした。
だが、そんなことがあるはずがないと、スラは自分の耳が拾った声を否定する。ここには、番犬がいるだけのはずだ。人がいるはずがない。デルサトは既に死んでいる。
確認の為、スラはもう一度ドアをノックする。
「どーぞー」
……そんな馬鹿な。
トントン
「入っていいよー」
トントン
「入っていいってばー」
トントン
「おーい」
トントン
「……新手の嫌がらせ?」
トントン
「だーかーらー、入っていいってばっ!」
バタン!と勢いよくドアが開き、スラの目の前に男が現れた。
不機嫌そうに寄せられた形の良い眉。剣呑な光を宿しつつもどこか優しそうな碧の瞳。高く通った鼻筋に、少し尖らせられた唇。サラサラと音を立てそうな金髪は、まるで金糸のようで――
王子様ってきっとこんな姿をしている――そんな男だった。
「いつもは勝手に入って、く、る……」
男は視線を彷徨わせ、やがて自分より随分低い処にある顔を認識して、ようやくそれがどうやら初対面の子どもであることに気付いたらしい。怒鳴り声は尻すぼみになり、目は点になり……
「えーと……はじめまして?」
小首を傾げて何故か疑問形で挨拶をする様は、どこか子どもっぽくって、スラのカチコチに引き攣っていた顔が少しだけ緩んだ。
「はじめまして」
礼儀良く挨拶を返すスラに、男は笑みを向ける。
「えーと、お父さんかお母さんは?」
まるで迷子にするような対応だ、と思いつつもスラは答えた。
「いません」
「いない?違う階にいるってこと?」
「いいえ。一人で来ました」
「え……どうやって?」
「森を抜けて」
「……魔の森を、一人で抜けてきたの?」
スラが肯首すれば、男は「へぇ~」と興味深そうにスラの顔を覗き込む。キラキラ眩しい男の顔が近くまで来て、スラは視線を逸らせた。直視すると目の毒だ。
「この部屋へはどうやって来たの?」
(どうって、言われても……)
男の言葉が何を意味するのか分からず、スラは返事に困ってしまう。その様子に、男はどこか信じられない者を見るような目を向けた。
「……まさか、何もなかったの?普通に、何の罠にも引っ掛かることなく、この部屋に?」
罠なんてあったのか、と背筋の凍る思いをしつつスラは頷く。
途端、男が声をあげて笑いだした。それはもう、これ以上楽しい事はない、といわんばかりの笑い方で、今や蹲り床を叩いて笑い転げている。
折角の美形が台無しだ、と頭の隅で思いつつスラが唖然としていると、男はようやく起き上り目尻に浮かんだ涙を拭いながらスラに向き直った。
「あー、ごめんね。こんなに運の良い人初めて見たし、一生懸命罠を張ってたあいつが、可笑しくて……ふふふ……さて、まぁこんな処で立ち話も何だし、入って」
男は優雅な動作で半身を引き、スラを部屋へと招き入れる。
「ようこそ、『金庫』へ」
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