7 - Now, I have to start finding new hope.
心の休まる電車を出て歩き始める。右手にはいつか手に入れた木の棒。あの雨の日も電車の中まで持っていった結果何の被害もなかったそれは歩く助けになる。そして左手にはスーツケース。中身は前出発したときと同じく最低限の洋服と全ての食糧、そして容器のみ。汚れてしまった缶詰は布でふいたが泥は取れず、しっかりとした水場で洗う必要があるだろう。
水分はペットボトルに残った100ミリリットルほどのそれのみ。小川もなく、ずっと歩き続けているこの状況ではどこかで補給する手立てはない。命の水、どうにかして補給をしたい、今ならば泥が混ざり黒く濁ったそれであろうと気にせず飲むだろう。病気は確かに怖い、ただ不衛生なそれを飲むことの危険性よりも何も飲まない危険性のほうが遥かに高く、何より切迫している。
天には煌々と輝く恒星がいつもと変わらず存在していて、空にそれを隠すような雲は全く存在しない。あの土砂降りはなぜ発生したのか、できる事ならばあれが結構な頻度で来るものなのか、それとも異常気象であったのか知りたいものだが、恐らくは無理だろう。俺にできるのは、雨が降らないように天に祈る事と、もしも降った場合に備えて一刻も早く安住の地を探すことだけ。いや、別に安住の地でなくとも良い、ひとまずの間だけでも雨風凌げる場所であればいいのだ。
かれこれ数時間は歩いたと思うけれども、世界は褐色のまま。電車の周りとの違いもほぼ存在しない。唯一上げるとするならば、草がほぼ枯れているということだろう。ただでさえ黄土色に近かった草がもうほぼ黄土色に染まっている。引き抜くとほとんど抵抗もなく抜けるか、もしくは根っこから千切れてしまうか。葉はほぼ乾燥し、根は短い。そしてここらには雨が降ってないように見えるということだ。もしくは、もうほぼ乾いてしまったのかもしれない。乾き切り、固くなった地面、掘れる事には掘れるのだが、掌の中で土はボロボロと崩れていく。まるで乾いた粘土のように湿気がない。
風が時折吹いていて、それが俺を冷ます唯一のもの。歩きながら缶詰を開ける。焼き鳥のタレ、それを1つ1つゆっくりと噛みしめていく。口の中に甘みが広がるにつれて湧き出る唾液、水分もない今の状況ではそれで喉を潤すしかない。
首筋を伝う汗を手で拭い、口に含む。塩気があり、そして土の味がする、それでも無駄にできない塩分なのでこうするしかない。
この6日間、まともに歩いたのは今日を含めて4日間だけ。ただ、それでも今まで運動を全くしてこなかった俺にとってはかなりの疲労感を突き付けた。ただ、それを乗り越えたことで確実に体力はついた。今歩いていても、たしかに足は疲れてくるが、それでも2日目よりかは格段にマシなのだから。そうして目標に向かって歩みを止めずに進んでいく。
俺が向かう目標はあの東にあった何か。丘のような、永遠に続く褐色の平野にちょこんと突き出る何かは俺の心を強く刺激した。遥か遠くにあるだろうことは半ばぼやけているのだから簡単にわかる、ただそれだけ遠くにあってもなんとなくわかるというのは相当に大きな何かだということだ。山、ではないだろう。山はもっと天を衝くように生えているものだから、もっと凸凹としているものだから、例えば左右にある山脈のように。では丘だろうか、それにしては随分と大きな、そして高く細長い丘だろう。では何か、恐らく塔みたいなものではないだろうか。それの真偽は俺にもわからない、ただ1つ言えるのはアレは自然の者ではないだろうということ。きっと、いや絶対に人口の建造物だと本能が言っている。この限界状況に置かれた本能が今更正常な判断を下してくれるとは思えないが。
ただ、川を遡るという目標をなくし、褐色の山脈を登る意味を見いだせなかった俺にとってはとても大きな目標になる。はたしてどれほどの距離に存在するのか、そしてあれはどれだけ大きなものなのか。例えば東京タワーくらいの大きさだとしたら、この平野、遮るものも何もないこの大地の上であったら70キロ程度離れたところからでも見ることができるだろう。確か、この前そんな数値をどこかで見た記憶がある。それだけ高い塔を建てられるのだから、当然周りに文明があるだろう。それも高度な文明が。しかしそれがはたしてまだ生き残っているのかはわからない。もしかしたらその周りだけオアシスのように、いやオアシスの中にそれが立っているのかもしれない。そういう希望をもって進むことにしよう。ただ、あれが東京タワーほどの高さがあっては困る。70キロ、どんなに歩いても3日近くかかるだろう。この荒れ果てた死んだ大地で3日、水もなく遮るものもないこの大地で3日、どうやってあそこまでたどり着くというのか。
後ろを振り向くと1組の足跡が延々と続いていた。横には時折消える2本から4本の轍、偶に杖代わりの木の棒をついた跡が残っている。もう電車は遥か彼方にあることだろう。足跡は見えなくなるギリギリの距離まで真っ直ぐ続いていて、俺が道をずれて歩いていないことの証明になる。
正面に向き直り、塔らしきものに向かって歩いて行く。出発してからどれだけの時間が経ったのか、それを俺に知る術は無いけれども、半日程度だろうか。夕方になるまで進めるだけ進みたいと思いながら、一旦休憩をとる。
靴を脱ぎ、そして靴下を脱ぎ去る。垢と泥に塗れ真黒くなった靴下、元は純白だったはずだ。Tシャツの首筋は黒くなっているし、シャツの袖と首も同じく。ズボンも泥と汗と垢に塗れ、恐らく俺自身他の人からすれば酷く臭うのだろう。掌を擦り合わせるだけで垢はぼろぼろと地面に落ちていき、シャツの下に手を入れて胸板を掻けば爪の奥にまで垢がこびり付く。頭をぼりぼりと掻くだけでフケはでてくるし、髪の毛自体脂に塗れて整髪剤いらずというわけだ。ただ、それでもあまり着替えないようにしたい。もしも水場に、それも結構な水量のある水場に辿り着いたならば体をしっかりと洗いたい。石鹸もない状況なので布で擦る程度のことしかできないが、そのあと着る服は綺麗なものを着たい。変な我儘だと自嘲するけれども、結構重要なことだ。なのでこのまま歩いていく。どうせ汗をかけば汚れてしまう、だったらこのままでも問題はないだろう。
黄色くなってきた歯ブラシで歯垢を取り除いていたところ、尿意が限界になる。歩いている最中からずっと行きたかったのだが、限界まで我慢しようと思っていた。そして今限界になった。
立ち上がり、缶詰の中に放尿する。いっぱいになったら次のものを。そうして膀胱にたまったものの大部分を缶詰に溜め込んだ後、地面に放つ。一通り全て終わった後、缶詰を見る。4缶も溜まった、これだけあればしばらく喉が潤うことだろう。ゆっくりとその中の1つを手に持ち、口に近づける。手が震え、余りいうことを聞かない。ただ、それでも無理矢理缶詰に口をつける。忌避感が俺を支配する、それでも水分のないこの状況では、どうしてもこうしなければならない。あぁ、嫌だ、今までしたことがなかった行為、したくもなかった行為。でも生きるためには必要な行為、そう心に言い聞かせる。缶詰から流れ出る暖かい液体を口に含み、味わうこともせず喉に流し込んでいく。
全て無理矢理胃に流し込んだあと、咽る。げほっ、げほっ、と半ばえずきながら。ただ、それでも吐くわけにはいかない。脱水で死ぬ可能性が高い以上、生き延びる為には何でもしなければ。例えそれが人間の道を外れる様な結果になったとしても……