6 - Not only hope but also despair is there.
最悪な目覚め。この世界にきてから一番酷いもの。風邪に罹患した朝も酷く苦痛だったけれども、それは肉体的に苦痛であっただけだ。病み上がりのコンディションの良くない状態、治ったとはいえ咳や鼻水がなんとなく残っている状態に叩きつけられた豪雨という災害は俺の心に大きな傷を負わせるには十分すぎる破壊力を持っていた。それだけではない、水を求め、生物の痕跡を求め新たな旅路に足を踏み出した途端に出鼻を挫かれた。しかも振り出しに戻るという最悪なオチをお土産に。
電車を降りて状況を確認する。
「あぁ……」
溜息が漏れ出る。肉体的な消耗は確かに酷く苦痛であったけれども、まだ精神面では元気でいられた。今は違う、誰もいない荒野、狙い澄ましたかのような豪雨、数少ない食料、天は俺の門出を祝うつもりは毛頭ないらしい。昨日とは違い、睡眠をとって脳内を整理したあとになってみれば悲観的にならざるを得ない状況。
これがまだ小ぶりの雨であったならば、たとえ昨日とほぼ同じ行動をとらざるを得なくなったとしてもそこまで精神を摩耗させなかったであろう。然しながら、昨日は暴風と豪雨、落雷ときた。それが俺の周りの状況にどれだけの影響を与えたのか、そしてそれが俺にどれだけの影響を与えるのか。
非常に残念なことだが、それを一目で見て理解できないほど俺は馬鹿ではなかったし、それを笑って受け流せるほど俺は度胸のある人間でもなかった。それに対する改善策を瞬時に思い付けるほど俺は聡明な人間ではなかったし、それに対して瞬時に冷静になれるほど俺は鷹揚自若な人間でもなかった。ただ然し、俺はそれに発狂し我を見失うほど情緒不安定な人間ではなく、それに対し怯え混乱してしまうほど狼狽しやすい人間ではないと思っている。
だから、それだから、俺は電車の中に戻った。
赤褐色の大地に残る金属製の人工物。この世界のものではない、地球からの異物。人どころか生物にも会えず、食料は日増しに減っていく一方、そんな状況の中でこの金属の固まりは俺にとって唯一の心の拠り所。決して喋ることはない、それどころか意思すら持たない、永久に動くことのない無機物が今の俺にとって最後の希望であって、最高の友でもある。それの中に逃げこむことで俺は異世界という凶悪な外敵から守られ、そして暖かく抱きしめられるような感覚を覚える。
太陽は母性の象徴かつ魔性の象徴、先日そんな風に感じた記憶がある。今、それに関してはっきりと言えることがある。今俺を囲むこの世界において、この電車以外のものは全て敵。この電車こそ、慈愛に満ちた母性の象徴であり、外の世界を認識する手助けをしてくれる父性の象徴である。
当然子供はいつまでも両親の庇護の下甘やかされて育てられていたのでは、自立したまともな大人になることはできない。逆を返せば、両親の保護を甘受し満足しているようでは子供のままだろう。しかし、今だけは、今日だけは甘えさせてほしい。そう思いながら座席に横たわり、目を閉じる。
1時間かそこら、もしかしたらもう少しかもしれない。仮眠から目覚め、座席から体を起こす。スーツケースから缶詰を2つ取り出す。缶詰は残り10缶、もう両手で数えられるとうことが不安を煽る。
電車を降りて地面に立つ。電車に寄りかかり缶詰を1つ開ける。1つ1つ、欠片をゆっくりと口に運び、そしてそれが口の中で液体と言っても過言ではないほどの固さになるまで噛み続ける。塩気が舌を刺激し、唾液が滝のように流れ出る。それで喉を潤しつつも、ただただ無心に食べ続ける。太陽の下、電車に体重を預けつつ、何も思考せずに鶏肉と胃の中に入れていく。
5分か10分、そのくらいの長い時間をかけて食事を終わらせる。缶詰を地面に放り投げ、溜息を1つ。そろそろ逃げ続けるわけにはいかない、現実を直視しなければならない。そろそろ想像上の希望から目を逸らす時、突き付けられた絶望に向き合う勇気を振り絞る時。
歩くということを拒否する足と心に蓋をして、電車の周りを歩いて回る。見えるのは昨日とほとんど変わらないような電車の姿。泥に塗れ、水垢がこびり付いて、所々黒くくすんでいる箇所も見受けられる姿。ただ、電車を見ているだけで昨日自分が犯した重大な間違いをむざむざと見せつけられる。プラスチックの容器をはめ込み、水を貯めようとしていた場所には溶けた半透明の塊がこびり付いている。缶詰の空き缶をはめ込んでいた箇所には何も見当たらない。かなり離れたところに泥に塗れた缶詰の亡骸が転がっている。落雷の威力を見せ付ける様な、お陰で水は1滴たりとて回収できていない。それに加え、泥がこびり付き少し変形した缶詰、綺麗にするのは簡単ではないだろう。ただ、これはまだマシなほうだ。6つあったうち5つは見つけることができたのだから。
プラスチックの容器が溶けたとか、缶詰の缶が汚れたとか、確かに災難ではあるし、悲しみを背負う結果に繋がる事ではある。ただし、それは今の俺にとっては些細な問題だ。例えば、電線が断線し停電し復旧の目途が付かないというときに、髭剃りの電池が切れて充電ができないというだけで発狂するだろうか?もしかしたらそれで気が狂ったように騒ぐ人も中にはいるかもしれないが、大多数の意見は否だろう。今の状況はそれと同じ、重大な問題が発生した状態ではその程度のこと笑って済ませられることだということだ。
電車から目を離し大地に視線を移す。自分は相も変わらず山脈にサンドイッチされていて、遠く東のほうに何かがあるのが見える。周りは褐色の大地、まだ少しぬかるんでいるようだ。いや、そろそろ真面目に考えようか。
電車から少し東に向かったところには小川があった。生命維持に必要な水分の確保という意味で重要な意味を持つ小川。生命の兆しは見えなく褐色に濁っているものの、浄水するなり蒸留するなりすればなんとか飲むことができた命の水の源たる小川。昨日の豪雨が明けて周囲を確認した俺に待っていたのは非情な事実。
小川が消え去っていた。
もう一度確認をする。自分が立っているのはおそらく昨日まで小川が流れていたであろう場所。小さな、小さな川だった、そのまま下流にいけば消えてなくなってしまいそうなほどのものだった。しかしながら、俺にとって電車の次に大切なものであった。それが今は跡形もない。褐色の大地が無限に広がっていて、周りには何もない、白く枯れ果てた木の亡骸だけしか。
昨日の豪雨はこの地一帯を飲み込むような量の雨を降らせたのだろう。そう考えてもおかしくはなく、大洪水でも起きても何の不思議でもないような量の雨が降ったのだ。そしてそれによりこの大地はぬかるみ、沼となったのだろう。結果今になっても地表は完全に乾かず、少しばかりぬかるんでいる箇所も多い。もともとこの大地は柔らかめであった。そしてそこを襲ったバケツをひっくり返したような雨。大地を穿ち、瞬く間に地表を覆いつくすような土砂降りの雨によって地表は攪拌されてしまったのだろう。そしてその雨が過ぎ去ったとき、当然ながら地表には水分が残る。その水分はどこにいくか、当然地下に染み入るものもあるだろうし、蒸発していくものもあるだろう、しかしながらその大部分が流れて行ったのだろう。小川が流れているということは地表が少しばかり傾いているということと同義だろう、そして地表に留まった水も同じように流れていく。当然褐色の土を多く含んだ水分が流れるに従い、低いところに土は運搬され溜まっていく。そしてそれは小川という地表より少しばかり低くなったところにも流れ込んで、それにより小川には多量の土が運搬される結果になったわけだ。そうした結果がこの平らにならされた大地。おかしな部分は全くないが、考えられうるほぼ最悪の状況。
絶望が俺を地の底まで叩きつける。少しでも希望があったからこそこの世界でなんとか今までやってこれたというのに、いきなり梯子を外されたような。
「はは……はははははははははは……」
乾いたような、狂ったような笑いが口から漏れる。否、今まではいつの間にか笑っていた、そんな状態であったが今は違う。自分から、大声を上げて笑っている。笑っていなければ、可哀想な道化を演じていなければ、本当に心が折れてしまうような気がして。
しばらくして、俺は電車に戻る。そしてスーツケースを運びだし、電車の戸を閉める。あぁ、この状況は最悪だ。動くための水がない、そして目標もない。ただ電車の中で死を待つよりかは、どこかに動いた暁に死んだほうがマシだろう、そう考えて歩き出す。1歩、また1歩、大地には1組の足跡とスーツケースの轍が残されていく……