14 - Now, I suffer from this world.
鯖の水煮、酒のつまみにと買ったそれはこの世界に囚われた俺の数少ない生命線へと変貌した。缶詰の蓋をあけ、中身を口に入れる。とろとろにまで煮込まれた鯖は舌の上に置かれただけでとろけ、魚の風味を口中に広げる。残念なのは、舌がおかしくなってしまっている点だ。恐らくはもっと深みのある、苦みやエグみさえも感じれたであろう鯖の水煮からは、ただただ塩味と魚臭さしか感じ取れない。
俺の舌がおかしくなってしまったのは何故だろうか。歯をほとんど磨いていないことが原因だろうか、それとも栄養が偏り過ぎているのだろうか。どちらにしても、今の俺にはどうしようもない。歯は磨きたいと言えば磨きたいが、電車の中においてきてしまっている。これでは爪で少し歯垢をとったり、舌苔をとったりするくらいがいいところ。それにそれをすると爪の間に嫌な臭いのするものがたまってしまう。ただでさえ土まみれで黒くなっているのに、嫌な臭いも追加されたらたまらない。まず口に指を入れること自体が不衛生だろう。栄養も俺には改善のしようがない。残りの缶詰は鯖の水煮に、ごはんのパックとチョコレート、あとはポテトチップス。どう考えても栄養価は最悪だろう。エネルギーと塩分はしっかりと取れるだろうが、他の栄養素はどれだけ偏るのか。計算でもできれば面白く暇も潰れるのだろうが。
今日も昨日と同じく木々を集める。昨日折った木の奥にもう1本あったのを確認していた。それにしてもそこそこ離れているし、随分と低い木だったのを覚えている。あとは塔の裏手にある枯れ木、昨日折ったそれよりかは少し遠い位置にあるそれは逆に結構な大きさがあるように見えた。どちらを先に切ってしまおうか。昨日は慣れていない作業であったので結構な時間がかかってしまったが、今日は2本できれば折りたいところだ。
あと木を3本か4本折り、うまく積み重ねれば屋根のような覆いが完成するだろう。隙間だらけ、うまく固定もできていないものになりそうだが。そして床用の枯れ木、これは切ったあとの余りで誤魔化せるだろう。そうしたならば、必要なものはあと1つ。枯草、できれば大きな葉の青々としたものが良かったのだが、この際文句は言っていられない。枯草を探し、結構な量集めて屋根の隙間をうめなければならない。もしかしたら、その上から木でサンドイッチにしたらどうだろうか。
頭の中で組み立てられていく拠点の屋根は、まるで東南アジアの伝統的な家のそれを平らにしたようなもの。ああ、排水的な面から考えたら三角形のほうがいいのだろうか。紐には服を裂いて使って、それでうまくやれば上等な屋根ができるだろう。床はただただ敷き詰めればいい、臥薪、そんな言葉がぴったりくるようなものが出来上がりそうな気しかしてこないが。
褐色の大地を歩いていく。太陽は既に頭の上のほうにある。昨日、いやこの1週間、毎日日没後すぐに寝ていた。火や電球など存在していないし、いくら月が明るいと言えども日中に比べるとその差は歴然だから。だから日没後はほぼ何の作業もせずに睡眠をとっていて、そして朝方起きだす、10時間以上は毎日寝ている計算だった。日本にいたころと比べると圧倒的に長い睡眠時間、それでも不思議と寝過ぎた、頭が痛い、なんてことはなかった。やはりそれだけ体力が章もしていて、それの回復も遅いことが影響しているのだろう。そして今日、朝起きると太陽が大分東の空に昇っていた。それまでの日々はもっと早くに起きれていたというのに、今日に限ってここまで遅くに起きだすとは。そして体は相も変わらず重い、寝過ぎた分体力が回復したなんてことはなく、体調が悪化の一途を辿っていることの裏返しなのかもしれない。
栄養が取れていないので疲労はなくならず、体の調子はどんどん悪化していく。死刑台への階段を1歩ずつ登っていく、そういう例えがしっくりとくる。それでも前に進まなければ。
塔の裏にある木に向かって歩いていく。ただ、こうやって歩けるのもあと数日かもしれない。それほどまでに足は弱り、まともに歩くことが非常に疲れるのだ。もしも歩けなくなってしまったらどうしようか。枯れ木を運ぶなんてことはできないだろうし、4足歩行で進むことも中々大変だろう。そうなる前に拠点は作成したい、そして来るべきその状況への対処法を考えておきたい。
高く長い枯れ木の根元に座り込み、石斧を幹に叩きつける。何度も、何度も、何度も、その音だけが延々と世界に響いていく。そんな中考える、弱りきる前に状況を好転させる方法を。食料、それさえ沢山あればこの状況は打開できるだろう。ただ、残念ながらそれはあり得ない。見渡す限り、肉となりえそうな家畜は見当たらないし、野生動物さえも見当たらない。居たとしてもそれを狩れるかどうかは別だが。見渡す限り、畑は見えないし食べれそうな草木も見当たらない。井戸の横に生える草を除けばの話だが。ああ、もうそれしかないか。あの青々とした雑草、あれを食べなければならない時が来たのか。本当ならば、他の食料がなくなったときの為にとっておきたかった。しかし、ケチるのはよくないとこの前考えたばかりではなかったか?体力、体調こそが1番重要だと。だから、仕方ない。塔に帰り、食事の時に、それを食もう。味は最悪だろうし、どんな栄養があるのか、毒か薬かもわからないが動かなければ状況は好転しない。
こーん、こーん、そういった無機質な音が褐色の大地に響き渡る。こーん、こーん、そういった音に紛れて、視界の奥に人の姿。こちらを見て、手招きをしている。塔とは真逆の方向、人は1人、2人、その奥にはオアシスが見える。椰子の木だろうか、そういったものが生えていて、奥には湖も見える。褐色の肌の人間、体つきから見ても飢えているようには見えない。早くおいで、ここなら安全だよ、そういっているのだろうか、口が動いているのが確認できる。こーん、こーん、ああ、惑わされまいよ。頭を振り払いもう一度視線を向ければ、遠くそこに残るのは褐色の大地と1本の枯れ木。後ろには黒い塔が日差しの中に立っていて、あれは現実のものだ。
木を引き摺って歩く。重く、腕が痛い。それでも歩かなければ先へと進めない。意外と大きな木は、地面に1本の跡を残しながら引き摺られていく。これでも全体の半分、もう半分は地面に置き去りだ。それでも今の俺には重労働だ。1歩進むたびに命が1ミリずつ削られていくような感覚。何かを得るためにその何かを犠牲にする、何の意味もない盤上のお遊戯、そういった例えが正しいのかもしれない。嗚呼、なんとも嫌な気分だ、嫌な考えだ。頭の中に浮かんでくるのは、結局は何の意味もないお遊び、何の意味もない悪あがきだという事実。確かに事実かもしれないが……
頭の中がぼうっとしてきた。只々無心に塔まで運ぶ機械になることができればいいのに。そうしたならばこんなマイナスな事柄は考えずに済む、ポジティブな想像をすることができない追い詰められた精神に苛々としなくて済む。
そこからもう1本運ぶ、それだけで結局1日がつぶれてしまう。ただ唯一の救いだったのは、あまりに消耗しすぎて思考することすら倦んでしまったことだ。20メートルごとに1文程しか考えられなくなった頭では、ネガティブな想像さえも浮かんでこなかった。浮かんでくるのは日本で食べた食事の光景。今となっては期待ができないそれを思い浮かべながら、水でふやかしたご飯の上にふりかけをかけ、毟った草をかけたそれを嚥下していく。味なんてない、ただただ苦々しいような、喉に引っ掛かるような、そんな美味でもなんでもない苦痛。
地面に寝転がり、世界を見上げる。地面を風が撫でるような音、それと自身の鼓動、身じろぎの音だけが聞こえてくる。
「まだ生きてるんだ、頑張るね?」
すでに遥か昔の頃の記憶と同化してしまった、温かみのある母親の声が耳に響いたような気がした……




