ジェンダーチェンジ
スチール机の上で、青い封筒が口を開けて待っていた。 明日、私は二十歳になる。
この国では、肉体の性別が狂ったように書き換えられていく。 生後間もなくの無作為な割り振りに始まり、五歳、十歳、十五歳と、人生の節目を迎えるたびに私の肉体は強制的に組み替えられてきた。そして二十歳。人生の最後に突きつけられるのが、この「性別固定届」だ。明日を境に、私たちは「男」か「女」、どちらか一つの肉体に一生を縛り上げられなければならない。二者択一の網の目から漏れた者は「未分化の異端」と呼ばれ、戸籍を剥奪され、人間の尊厳すら認められない底辺へと放り出される。
指先が、その薄っぺらな紙の端に触れただけで、胃の腑が嫌な音を立てて収縮した。
――ガチャン、と。 静まり返った部屋の中で、冷たいスプーンが食器を叩く音が蘇る。 十歳の夏だった。家族で囲む夕食の皿は、すでに厳格に性別で区切られていた。男子の席には骨付きの肉のスタミナ飯が転がり、女子に反転していた妹ナギの皿には、柔らかい煮物や魚が乗せられている健康食。あの頃の私はまだ自分の肉体の境界線に慣れず、うっかりナギの皿に伸びたその手に、母の冷徹な声が落ちてきた。「お前はもう男の身体なんだから、そっちは食べるな」。 その瞬間だった。川原で泥を塗り合って笑い合った私たちの間に、不可視の境界線がバリバリと音を立てて引き裂かれ、昨日までの親密さはあっけなく毒殺された。私の中の少年と少女は、その日からずっと他人のまま引き離された。
さらに十五歳の冬の朝の事、冷たさが背筋を這い上がる。 あれは冬の終わりだった。目覚めた瞬間、布団の中で硬い違和感を胸元に覚えた。昨日まで平らだったはずの皮膚の下に、不気味で柔らかい膨らみが居座っている。自分のものとは思えないその異物をこの手で押さえつけたとき、あまりの気味の悪さに私は洗面所のタイルの上で一日中泣き叫んだ。 肉体が変異するたびに、過去の私は赤の他人の皮のように剥ぎ取られ、世界から輪切りにされてきた。国家の超技術によって強要されるこの変異の果てに、私たちの肉体は、まるで継ぎ接ぎだらけのパッチワークのように引き裂かれていた。
コン、と部屋のドアが叩かれた。 予告なしに、父親がリビングの重い空気を纏ったまま顔を覗かせる。
「なぎさ。明日だな」
疲労の色が濃くにじんだ、父親の丸まった背中がそこにあった。男だった時期も女だった時期も経て、今はすっかり丸くなったその初老の男は、息子の――いや、娘の肩に手も置かず、ただため息をつくように言った。
「お前は絶対『女』を選べ。会社だって男より上司受けいいし、これからの人生を考えたらそのほうが安全だろ。……男に戻りなさいなんて、もう昔のガサツな感覚を思い出そうたって無理な話だ。無難に生きろ」
それは命令というよりも、傷だらけになって生きてきた男が我が子に差し出す、あまりに現実的で、泥くさい処世術だった。そこには打算と同時に、狂った世界を生き抜いてきた親なりの歪んだ温もりが含まれていた。だからこそ、余計にたちが悪かった。
スマートフォンが、ポケットの中で鈍く震えた。 画面を開けば、15歳で女になったハルからのメッセージが光っている。
――『明日、どっちにする? 結局どの性別でも生きづらさは同じだ。うちの親父も「男に戻れ」ってうるさいし、俺は世間が安全に勧めるほうに合わせておけと思う。お前も波風立てるなよ』
ぞっとするような、甘い誘惑だった。 どちらか一方の「無難な型」に収まりさえすれば、父親が言うように、ハルが選ぼうとしているように、私たちは社会から安全に愛され、トラブルなく生きていける。思考を放棄し、この理不尽なシステムに迎合さえすれば、飢えることも、追われることもない。みんながそうしているように、私も「どちらか」の服を着てしまえばいい。 それに比べて、反逆の代償はあまりにも重い。戸籍を失い、名前を奪われ、文字通り「存在しない人間」として、明日から警察の目を盗んで闇を這いずり回るサバイバルが始まるのだ。恐怖で胃の腑が痙攣する。いっそ、父親の言う通り「女」を選んで、すべてを忘れたフリをして生き延びたほうが、どれほど楽だろうか。
――だが、私は、どちらの型にも殺されない。
私は引き出しの奥へと手を伸ばし、ボロボロになった日記帳を引きずり出した。 ページをめくれば、荒々しく鉛筆を走らせた男だった頃の荒削りな筆跡と、怯えながら滲ませた女だった頃のインクの匂いが、鼻の奥をツンと突く。その古びた紙の手触りこそが、矛盾に満ち、バラバラに引き裂かれながらも私が縫い合わせてきた、生きてきたすべてのパッチワークだった。 どちらか一方を「正解」として切り捨て、もう一方を「なかったこと」にするなんて、そんな生き方は肉体を持ったまま死ぬことと同義だ。
私は万年筆を強く握りしめ、届出用紙を引き寄せた。 「男・女」という二つの選択肢。そのどちらの丸印も無視し、私は定型欄を大きく跨ぐように、余白へ向けて太く、叩きつけるような文字を書き殴った。
――『該当なし』
紙の上に刻まれたその4文字は、国家の理に対する反逆であり、明日からの生存をすべて捨てるという宣戦布告だった。 その瞬間、自分のなしたことの重さに、足の先から血の気が引いていくのがわかった。 青い封筒にしまうことすらない。そんな紙切れなど国家にくれてやる。私を縛り上げるすべてのシステムをこの部屋に置き去りにし、私は震える足で椅子から立ち上がった。
持っていく荷物などない。身の丈に合わない古いリュックに、すり減ったスニーカー。 窓の外、夜の闇を切り裂くように、二十歳の新しい朝の光が容赦なく差し込んでいた。
私は二度と戻らない部屋に背を向け、名前を剥奪された肉体を抱いたまま、凍てつく夜明けの扉へと踏み出した。 外の空気が、剥き出しの頬を刃物のように鋭く舐める。アスファルトの冷たさが足の裏から這い上がり、胃の腑の底で冷たい塊となって沈んだ。行く手には名前のない闇がどこまでも広がっている。 その途方もない孤独と心細さこそが、私が国家の手を離れ、はじめて自分の足で生きてここにいるという、紛うことなき最初の証明だった。




